Ⅹ.冥王と来訪者
*****
「…ハデス様」
「…ヘルメスか」
声で自分の存在に気付き、顔を真っ赤にし慌てた様子でハデスの肩から離れるコレーの様子を見ながら、ヘルメスは内心この任務が面倒くさいものになったことを嘆いた。
正直に言うとヘルメスとしては、コレーとハデスに進展がなく、コレーがハデスを拒み続けてくれている方が都合がよかった。ハデスに好意のないコレーを連れ戻す方がハデスを言い含めるだけでよいので簡単だからだ(もっとも、ハデスを言い含めること事態がかなりの高難易度であることに変わりはないが)。
しかし、コレーの方にハデスに気があるとなれば、全く状況が違ってくる。愛し合う男と女を引き剥がし、片方を連れて帰らねばならないのだから…。
「ハデス様、薄々お気付きの頃かとは思いますが…、今地上はかつてないほどの…大変な危機に見舞われています」
「…デメテルだな」
「やはり、ご存知でしたか…」
ふたりのやり取りに目を丸くしたのはコレーである。
「お母様が?一体どういうこと?」
ヘルメスが説明をしようと口を開きかけたが、それをハデスが手を上げて制止した。
「私から言おう。コレー…実をいうと
「強引な…手…?」
「デメテルは豊穣神としての責務を放棄し、ゼウスと私に対して其方を地上へ返すまでその役割を果たさぬと抗議し続けている。…そうだな?ヘルメス」
「仰る通りでございます」
ハデスはコレーに向き直り、その若緑の瞳を覗き込みながら言った。
「デメテルの怒りは
「えっ…と…?それは……つまり…?」
「…私の、妻になってほしい」
「…!!」
コレーは大きく瞳を見開き、頬を薔薇色に染めた。その満更でもないであろう反応に、ヘルメスは無粋であるということは百も承知ながらも慌てて割って入る。
「ハデス様!主神よりコレー様を連れ戻す命を受けた私めの目の前で、そのような事を
「え、あ……」
先程まで輝いていたコレーの表情が、一気に曇り
「お母様のデメテル様は、こうなればもはや貴女が無事で地上に戻ることでしかその怒りを収めないでしょう。そしてその怒りが続く限り、地上に生きる全ての者…人間も、動物も、そして草木も…貴女がかつて愛でたものたちが全て死ぬことになるのです。それとも、貴女は冥界の女王として地上の者たち全てに死ねと仰有るおつもりですか?」
「…無礼だぞ!ヘルメス!」
冥界の長としてハデスが怒りを滲ませた声で抗議する。だが、ヘルメスは意に返さず、先程とは打って変わって真っ青になったコレーを見つめていた。
「わ、わたしは……」
コレーは震える声で言葉を紡いだ。その絞り出すようなか細い声がその場にいた男神ふたりの胸を打つ。しかし、立場上ハデスもヘルメスも傍観するしかできない。残酷なことであるが、事実、今や地上の生命の運命は彼女の選択に懸かっているのだ。
「っ……」
コレーは俯き、目を伏せた。彼女はそのふんわりとした雰囲気とデメテルの溺愛する箱入り娘であることから、しばしば無知で愚鈍な娘だと
「ち、地上へ……帰ります…。」
その言葉を聞いて、ヘルメスはほっと胸を撫で下ろした。ハデスは俯いたが、彼女がその選択をすることはわかっていたので、特に追及はせず、そっと彼女から身を引いた。
そんな悲しげなハデスの横顔を見て、自身も泣きたくなるのを
「でもお願い!ヘルメスお兄様!少しだけ!あと少しだけ、ハデス様とふたりだけで話をする時間がほしいの!」
*****
ハデスとコレーは冥王の神殿から場所を移し、いつか二人が食事をした高台が近くにあるコキュートス川の辺りへと来ていた。
「……こんなことになってしまって…ごめんなさい。」
謝りながら俯く傍らのコレーを優しい目で見つめながら、ハデスは
「…其方が謝ることではない。私の方こそ、こうなると最初から分かっていながら…、それでも其方を
その悲しげな物言いに首を振ると、コレーはぎゅっと唇を噛みしめ、そして口を開いた。
「ハデス様…いいえ、ハデス!私は…っ!」
だが、コレーがその言葉を言う前に、ハデスはそれを遮る。
「…よせ。もういいのだ、コレー。其方はなにも間違ってない。其方はやはり、地上で
ハデスにそう言われ、コレーは黙って俯いた。コレーの脳裏に幼い頃に見た母・デメテルの姿が甦る。
「…貴方は優しすぎるわ、ハデス」
「…其方ほどではない」
顔を上げればぎこちない笑顔を浮かべた彼がいた。その笑顔がひどく悲しそうで、コレーの胸は張り裂けそうになる。
きっと地上に戻ったら、
そしてハデスもまた、それをよくわかっていた。
「…コレー。もしも其方が私を少しでも憎からず思っていてくれるならこれを……どうか地上に持っていってくれないか」
そういってハデスが差し出した手には真紅の柘榴がひとつ、載せられていた。
「…
ハデスはそう言って自らの
「…この外套は地上の光を受けると見えなくなる。これならば冥界から持ち帰ったとはわかるまい。そして願わくば……」
ハデスはコレーの手を優しく取ると、その手の平に外套でくるんだ柘榴を置きながら、コレーの瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「願わくば…この実からできた果実を一口食べたその一回だけでいい。私のことを、思い出して欲しいのだ…。其方は…この
そう一方的に告げ、少し震えている彼女の手を覆うようにそっと握り、瞳を潤ませる彼女の髪を優しく撫で、そのまま軽く額へ口付けた。そのあとは彼女の顔を見ることもなく、そっと
「ハデス…!」
背中越しに掛けられる声から彼女が泣いているのを察する。しかしハデスは振り返らなかった。振り向いてしまえば、もう一度彼女の顔を見てしまえば、もう二度と離れられなくなるとわかっていたからだ。
感情を押し殺し、ハデスは極めて淡々と告げる。
「…さぁ、もう地上に戻るといい。私は死者の受け入れをせねばならん。代わりにアスカラポスに地上まで送らせよう。ヘルメスもいるから心配は要らん。其方は無事に地上に戻れるだろう。早く戻って…其方の母や皆を…安心させてやるといい…」
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