Ⅸ.冥王と母の怒り

*****


「いえ、自分は知りません!全く!何も!なのでお帰りください!」


デメテルとヘカテーが神殿を尋ねるなり、ヘリオスはそう言って二人を追い返そうとした。それでもデメテルは必死に食い下がる。


「お願いよ、ヘリオス。貴方なら知っているはずでしょう?ハデスは本当に娘を連れ去ったの?真実を教えて頂戴」


「だから、自分は何も見ていないし聞いていないんですよ!お力にはなれません!お引き取りください」


すると今度はヘカテーが懇願した。


「お願いします、ヘリオス様。デメテル様をご覧ください。美しいお姿がこんなにもおやつれになられて…。それほどコレー様のことを心配なさっているのです。何かご存知なら教えてください。」


ヘリオスはそう言われてぐぐ…と言葉につまりながらデメテルの姿を一瞥する。窶れた顔、ぼさぼさに乱れた髪…上等な服と履き物はボロボロでとても女神とは思えない、酷い姿だ。くまのできた瞳は潤み、邪険にされてもなお、一歩も引こうとしない。それが娘を探す親の姿とあっては、子供を持つヘリオスもその気持ちが痛いほど理解でき、ついに…折れざるを得なかった。


「ああもう…分かりましたよ…。コレー様を連れ去ったのはハデス様です。実をいうと自分も、それを目撃しました。」


「やっぱり…!ではハデスと交渉しなくては…!どういう意図があって娘を連れていったのかわからないけれど、きっとハデスならコレーに何もせず返してくれるはずよ…!」


「…それは、残念ながら少し難しいかと思いますよ」


ヘリオスの言葉にデメテルは固まった。少しの間のあと震える声でおずおずと聞き返す。


「どういう事なの…?」


一度秘密を打ち明けたヘリオスは、もうどうにでもなれと言わんばかりに全てを話した。


「ハデス様は、コレー様を見初めて妃にするために冥界へ連れ去ったと聞きました。そしてそれをゼウス様が容認、許可した上で他の神には箝口令を敷いています。…まあ、地上を放浪していて召集のかからなかったヘカテーはその対象外だったみたいですが。ですが当然、ハデス様もゼウス様もデメテル様がコレー様を連れ戻したいと願い、抗議することは想定内だったはず。と、なれば…」


「二人とも、私の意見はまともに取り合う気がないということね…」


デメテルは屈辱に唇を噛み締めた。女神を…母親おんなをバカにするにも程がある…!どうせろくすっぽ恋愛経験のないハデスにゼウスが入れ知恵したのだろうが、真に受けるハデスもハデスである。


しかし相手がハデスとなればまだやりようもあるだろう…。ハデスにコレーを孕ませる事はできない。そこはまだせめてもの救いだ。だがそれよりむしろ、恐ろしいのは冥界の食べ物をコレーが口にしてしまう事だ。冥界の食べ物を口にした者は冥界へ…その絶対のルールだけは何びとたりとも覆すことができない。ハデスの性格からしてコレーを騙すということはないだろうが、何か事故が起きないとも限らない。


早急に手を打たねば…と考えたデメテルは一つ妙案を思い付いた。そうだ、これならば私をたばかったゼウスにも娘を連れ去ったハデスにも私の意志メッセージを伝えられる。天界及び地上、そして冥界…ふたりの支配領域に多大な影響を与えれば二人はそれに対応せざるを得ないだろう。


「娘を連れ去り、私をないがしろにしたこと…絶対に許さないわ…!!」


女の怒りとはいつの世も恐ろしいものである…。


*****


デメテルの秘策とは、豊穣の女神たる彼女がその“役割しごと”を放棄ボイコットすることだった。統治権こそ持たないが、豊穣の神は大地の主といっても過言ではない。その最たる彼女が己の“役割"を果たさなくなったのだから、地上は荒れに荒れた。


穀物は実るのをやめ、草木は枯れ果てた。その荒れ果てた大地を北風ボレアースを中心とする風の神 アネモイたちが縦横無尽に駆け回り、デメテルに賛同したヘリオスがその身を地表から遠いところに置いたままにしたので、地上はかつてないほどの寒冷に見舞われた。常世の春にうつつをぬかしていた人間や動物たちにそれに対する備えはなく、多くの者が屍となり、冥界に下ることを余儀なくされた…


*****


「ゼウス!この事態、一体どうするつもりなの!?」


ヘラに詰問され、ゼウスはポリポリ頬を搔きながら口ごもった。


「いやー…どうするって言われてもなぁ…。正直、デメテルがここまでするとは予想外だったっていうか…」


「どう考えてもハデスのこともデメテルのことも蔑ろにしてテキトーに流した貴方の責任でしょ!?」


「テキトー…って…心外だなぁ。…一応、奥手なハデスには度胸をつける、デメテルには子離れさせるいい機会だと思ったんだよ~…」


とはいえこれは由々しき事態だ。今や地上のすべての生命は絶滅の危機に瀕し、神々からは口々に「寒い」だの「仕事に行きたくない」だの苦情がでている。人間を見捨てるのは簡単だが、神々と人間は切っても切り離せない関係にある。人間の神々に対する畏敬の念…つまり信仰こそが神を神たらしめる神力に繋がるのだ。神がおのが務めを果たし、人間がそれに感謝し、時に恐れることで、信仰が生まれる。そうやってこの世界は形作られている。


「うーん…」


何かいい手はないか…と思案するゼウスの頭上から突如、鈴を転がすような声が響いた。


「ゼウス…」


ゼウスが弾かれたように顔をあげると、ふわりとした薄桃色の衣が一瞬視界を遮り、次の瞬間にはひとりの美しい女神が目の前に立っていた。


「ヘスティア姉さん…!」


彼女こそがヘスティア。炉と竈を守護し、すべての家を見守る女神にしてゼウスら6姉弟の一番上の長女である。


このヘスティアは少々特殊な役割をもった女神であり、常にオリュンポスの中心に座し、下界に降りることがない。しかしながら、どの家庭の炉にも現れ、そこに灯る火を通して家や家族を見守るとされていて、ある意味一番信仰の厚い女神である。そのため、いくら神々の王たるゼウスであっても彼女には全く頭が上がらなかった。


「…今、地上の人間たちの家では竈の火がどんどん消えてる…。みんな食べる物がない…。暖をとろうにも薪を拾いに行く体力も…気力もない…。それに、弟妹きょうだいがケンカしたままなのは…悲しい。なんとかして…」


ヘスティアに直接乞われてはさすがのゼウスも対策を講じるほかなかった。


「わかったよ、姉さん」


「いい子…」


ヘスティアは微笑み、母親がそうするようにゼウスの頭を優しい手付きで撫でた。その優しい笑顔を見ながらゼウスは、ヘスティアと今回の事の発端となったコレーは何となく雰囲気が似ているなと思った。


*****


さて、所変わってここは冥界。

あのエリュシオンでの一件以来、ハデスとコレーの距離は急速に縮まっていた。


今はもう見慣れたが、二人が腕を組んで仲睦まじく歩いているのを見た当初、冥界神たちは随分と驚いたものである。…ただひとり、ヒュプノスを除いては。


「はっア~、あのハデス様にまさか春がくるとはねェ~」 


「ラブラブ?ラブラブなのかな~~?ラブラブかもしれないねえ~~…zzzz」


ハデスの肩にしなだれかかるコレーと、彼女を優しくみつめるハデスの甘ったるい雰囲気を遠目に見ながら好き勝手言うカロンとオネイロスを横目に見ながらヒュプノスは呆れた。


主もニブいが、兄弟たちも相当である…

先日、エリュシオンに行って戻ったふたりが顔を真っ赤にして妙によそよそしく別れたの見て、ふたりの距離間を額面通りに受け取ったのだろうが、ヒュプノスにいわせればあんなに分かりやすい進展の証はない。体の繋がりこそまだだろうが、主の恋が成就するのも時間の問題だろう…あとはその時間がどれほど残されているのかが問題だが。


実際、冥界には既に兆しがあった。

ここ最近、タナトスの仕事が一気に増え、彼は地上と冥界を何度も往復せねばならなかった。無論、“死”を司る彼の仕事とは死者の魂を体から離し、冥界まで連れてくることである。つまり、今地上は死者で溢れかえっているということだ。神々はしばしば人間の数の調整と称して戦争の原因を作るが、今回の人間たちの死因はほとんどが餓死や凍死である。単体でそんな真似ができるのは豊穣を司るデメテルしかいない。


そしてその心配を裏付けるように、ハデスとコレーの甘い恋人の時間はある人物の来訪で中断されることになった。ゼウスの使者・ヘルメスである。

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