薫と春
ひょんなことから、恋敵と会食をすることになってしまった。
いや、恋敵にすらなっていないかもしれない。
俺は撫子さんに恋愛的アプローチをしたことなんて、ないのだから。
神田神保町のブックカフェ。
北海道に住む俺と大阪に住む逢坂夫妻の中継地点として東京が選ばれた。
「二人とも文学が好きで教師なのよね。絶対、合うって思ってたの!」
撫子さんは、隣に座る夫を紹介した。
「逢坂薫や。大阪で小学校の教師をしてるで。よろしゅう」
「はい、よろしくお願いします。薄桜春です。北海道で国語教師をしています」
向こうの方が一つ上なので敬語で話す。
「一つしか変わらんし、敬語じゃなくてもええんやけどなあ」
「ええと、俺の方が気にするので」
「さよか」
何を話したらいいのか迷う。
「さて、何から話そかな」
薫さんは少し考えてから、こう切り出した。
「好きな文豪は?」
「難しい質問ですね」
「そうやろ。わいも、じっくり考えるもん」
「はいは~い。私は太宰の『斜陽』が好き!」
「え?」
撫子さんが太宰治の『斜陽』を?
学生時代は読書とか全然しなかったのに?
「撫子さん、そりゃ最近読んだ本やん。太宰といえばの『人間失格』とかも読まんとあかんで」
「え~、何か暗そうなんだもん」
「暗いのも読んでこそやで」
「う~ん、また今度~」
薫さんの趣味に撫子さんも合わせたってことか。
逢坂夫妻が二人で仲良く本を読んでいる絵が浮かぶ。
正直、羨ましい。
俺には決して出来なかったことだから。
「そうや。春君の好きな文豪が知りたいねん」
「俺は、ええと、漱石とか好きですけど」
「ああ、漱石か、ええな」
「『こころ』とか『夢十夜』とか『草枕』とかが好きです」
「ええね。そういえば春君は高校教師やったな。もう授業でやったん?」
「はい、やりました。生徒達に物語の良さが伝わってくれてると良いのですが」
「大丈夫やで。そこから新時代の文学少年少女が誕生してはると思うで」
「そうだと良いのですが」
吉野には、あまり刺さらなかったみたいだけど。
「漱石といえば、漱石山房には行ったか?」
「ああ、はい。東京には幼馴染がいて、彼と飲む時とかに東京に来るので」
「書斎の再現とか良かったやろ」
「はい! 感動しました!」
「わいも東京に友達がいてな、たまに来るねん、東京。来る度に文学的な所には寄るねん」
「バーのルパンに行った時も感動しました」
「太宰とか安吾が通ったバーやね。わいも行ったことあるで」
薫さんとの文学談義は数時間にも及んだ。
所々、撫子さんを置いてけぼりにしながら。
「今度は、わいらが北海道に行くで。撫子さんの実家にも、そろそろ寄らなあかんし」
「はい。こちらこそ今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「春、ありがとうね。お仕事も頑張って」
「はい!」
「ほな、さいなら~」
その夜、居酒屋へ秋人と飲みに行った。
「薫さん、めっちゃ良い人だった!」
俺はビールを飲みながら開口一番そう言った。
「薫さん? ああ、撫子さんの旦那か」
「ちゃんと話したのは今日が初めてだったんだけど」
「まあ何回かニアミスはしたよね」
「薫さんも文学好きで話が合ってさあ」
「そりゃ良かったね」
「今までモヤモヤしてたんだけど、何か吹っ切れたよ」
「へえ、それは撫子さんの旦那だと認めたってこと?」
「うん。そもそも認めるとか、そんな上から目線じゃなかったけどさ」
「何はともあれ、春にとって良い結果になったみたいだね」
「うん。それでさ……」
「何?」
「髪を切ろうと思うんだ」
「ついに決心したか」
「うん」
「なら、東京のおススメの美容院を紹介するよ」
「ありがとう」
次の日。
秋人に渡されたメモの住所に向かってみると、至って普通の美容院だった。
社長になったといえども、リーズナブルな値段の店を紹介してくれる辺り、やっぱり秋人は秋人だ。助かる。
「いらっしゃいませ~」
感じの良い美容師が出迎えてくれる。
「こちらへどうぞ」
案内された椅子に座る。
「どうされますか?」
「ええっと、もうバッサリいっちゃって下さい!」
「いいんですか? 手入れもしっかりなさっているのに」
俺は平安時代の美髪を目指していると言ってきたのだから、髪を褒められて嬉しい気持ちになった。
「いいんです。よろしくお願いします」
腰付近まで伸びた髪を、肩にかからないくらいまでにバッサリと切った。
心機一転、これからも頑張ろう。
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