迷宮とぬいぐるみ

永庵呂季

迷宮とぬいぐるみ

 確かに歯車は噛み合った。

 ずれていた視軸が重なりあい、やがて同一線上に位置するように、意識と魂の合一は成し遂げられた。


 自分ではない自分、不自然なほど自然に在る世界、まるで役者のように決められた役割を演じている人々。


 それらすべてが消え失せて、真っ白になった世界。

 現実だと言い聞かせきた寒々しい現実世界が、唯一無二の絶対的空間ではないことを、この虚白の世界は教えてくれている。


 心地が良い。


 自分が目をつむっているのか、開いているのか、それすらも分からなくなるほどの圧倒的な無の世界。浮いているのか、地面に立っているのかすら判然としない世界。


 ……母親の胎内って、もしかしたらこんな感じなのかもしれないわね。


 本能で理解できる原初の安らぎが、間違いなくそこにはあった。


「いつまで寝てるんですか?」


 とつぜん、はっきりとした声が脳内に響き渡る。


 そう思った瞬間には、私はもうしっかりと目を見開いていた。


 真っ白な安らぎの空間はない。


 夢? それにしては妙にリアルな記憶が残っている。


「――さむっ!」

 私は思わず声に出し、両手で自分を抱きしめるように腕をさすった。


 暖かな、ぬるま湯の中を漂うような浮遊感から一転して、視界に映るのは薄暗いトンネルのじめじめした空間。


 ……いや、トンネルじゃない。


 壁には崩れかけたレンガが敷き詰められている。電灯も松明も見当たらないが、最低限の視界は確保できる程度に明るい。


「……なに? なんなの?」


 私は、たしか奇妙な本屋で奇妙な店主と会話をしたあとに、本屋に突進してきたトラックに轢かれたはずだ。


 私は自分の状態を確認する。制服は、とくに破れている箇所はない。身体のどこにも怪我らしきものもない。


 ……つまりこれは、あの胡散臭い中年男、佐藤の『予言』通り……。


「しちゃったの? 異世界転生……」


「なんですか? そのイセカイテンセイって?」


「え? ああ、えーとね……ちょっと自分で説明するのはかなり恥ずいんだけど――」


 声のする方へ振り向く。だが、自分が本当に何を見ているのか、理解するのに数秒を要した。


「――なに? え? しろくま?」


 今話しかけてきたのは、間違いなくこの、白い熊のぬいぐるみだろう。なぜなら、他に言葉を発するようなモノは何もないからだ。

 不思議なことに、目の前で起きている現実離れしたこの状況に対して、大した驚きもなければ、恐怖もなかった。


 むしろ、どちらかと言えば拍子抜けだ。


 なんで、可愛らしい真っ白なクマのぬいぐるみが喋っているの? 異世界ファンタジーのお約束の可愛らしい妖精や、おどろおどろしい悪魔の使いとかではなく、どうしてぬいぐるみ?


「しろくまではありません」とそのぬいぐるみは言った。「私の名前は――って! ちょ、ちょっとぉ!」


 ぬいぐるみが話し終える前に私はぬいぐるみを両手で持ち上げて、よく観察しようと顔を近づけた。

「どうやって動いてるの? それに、ここはどこ?」


 ふわふわな毛糸で編まれた、正真正銘のぬいぐるみだった。重量はほとんどない。現実世界で持っているぬいぐるみと同じ質感。背中にはチャックもなければ、遠隔操作をするためのアンテナもついていない。


「本当に生きているの?」と私はジタバタと抵抗するしろくまを転ばないように地面に下ろした。


「当たり前じゃないか。失敬な人だなあ」しろくまは、べつに汚れているわけでもないのに腕や足を払う仕草をした。「ここは『意識の迷宮』と呼ばれている場所です。あなたこそ、こんな所で寝ていると闇鬼やみおにに食べられてしまいますよ」


「寝てた? 私が?」


「そりゃもう、爆睡でしたよ」としろくまは偉そうに胸を張る。「たまたま通りかかった僕としましては、そのまま素通りしても良かったのですが、さすがに良心が痛みまして。声をかけようと思って近寄ったら、いきなり起きられたのです」


「……そうなんだ」


 私は改めて周囲をじっくりと観察する。このぬいぐるみはさっき『意識の迷宮』とか言っていたけど……。


「ねえ、しろくまさん」

「そんな名前じゃありません。僕の名前は――」

「出口はどこ?」

「まったく……人の話を聞かないお人だ」とぬいぐるみは首を振る。「この迷宮は広大にして複雑。目的の場所まで辿り着ける旅人なんてほんの一握りです」


「目的……」

 そう言われると、自分には別に目的なんてない。トラックに轢かれて、気がついたらここにいたのだ。

 その経緯を簡単にぬいぐるみへ説明すると、ぬいぐるみは「やれやれ」と肩をすくめてから腕を組んでみせた。


「君の名前は?」とぬいぐるみが訊いてきた。


「ユカ」と私は短く答える。


「いいかいユカ。『意識の迷宮』を抜けるには、君が辿り着くべき場所をイメージする必要がある。誰にでもできることじゃない。だから、大半の旅人はこの迷宮で自分を見失って、そのまま損なわれていってしまう。そうなったらもう、どこにも辿り着くことはできないんだ」


「どうすればいいの?」


「まずは歩きだすことだね」


 そう言うと、しろくまのぬいぐるみは弾むように歩きはじめた。

 まるで重力が弱まっているかのように、ゆっくりと放物線を描いて跳ねていく。


 自分も立ち上がって歩きはじめるが、ぬいぐるみのように弾んだりはしなかった。どうやら、あのぬいぐるみが特別なのだろう。


 ぬいぐるみは率先して先頭を歩く。途中、何度か分かれ道になっていたが、その度にぬいぐるみは迷うことなく、見知った道を歩くように右へ左へ進んでいった。


「おや? おかしいな……」


 何度目かの分岐を越え、さらに曲がりくねった道を進んできたが、どうやら行き止まりのようだった。


 この世界へ転生したときに、カバンが消失していた。スマホがないと時間も分からない。たっぷり一時間は歩いたような気がするが、正確なところはわからない。喉も乾いてきたし、足も疲れてきた。


「行き止まり?」と私は壁にもたれかかり、そのままズルズルと座り込んだ。「なんにしても、ちょっと休憩しない? 私疲れちゃったよ」


「なに悠長なことを言ってるんだ」とぬいぐるみは行き止まりの壁を調べながら言った。「いいかい、ユカ。この『意識の迷宮』は君の可能性と直結した世界なんだよ」


「へえー、そうなんだ」

 疲れた。まったく興味の湧かない話だ。この先にコンビニがあると言われた方がよっぽどやる気になる。


「ユカがこの世界で出口を探す意義を失えば、その時点でこの迷宮は扉を閉ざすんだ。その先に待っているのは絶望と喪失と、闇鬼による意識の侵食だ」


「なんだか大変そうだね。いますぐダイエット・コークを飲ましてくれるなら、まだ絶望はしないかも」


「ここは過去と未来が重なり合う場所。君の意識と魂が重なり合う場所。ねえユカ……。君は?」


 しろくまのぬいぐるみは、その指のないふかふかの手を私の膝小僧に当てた。


「どうしたい?」と私は繰り返す。


 自分の感覚とずれていた日常。

 そして、いま自分が置かれている非日常的な世界。

 これが夢ではない保証など、どこにもない。


 私はどちらに行こうとしているんだろう?


 過去としての日常。未来としての非日常。


 それとも、この『意識の迷宮』で朽ち果てるまで彷徨さまよい歩き、やがて忘却の彼方へ消えていくのか……。


 ……いや、消えたくはない。


 疲れているし、喉も乾いている。シャワーを浴びて、寝心地の良いベッドで心ゆくまで惰眠を貪りたい。このまま目を閉じて、意識を閉ざしてしまえば、あるいはそんな素敵な妄想の中で幸せに朽ち果てることもできるのではないだろうか。


「考えるんだユカ」としろくまは言った。「我思う故に我ありコギト・エルゴ・スム


 私は……。


 上城ユカという人間は……。


 あの日常に戻ることはしない。そうだ、日常に戻るために、この場所へ来たわけじゃないはずだ。


 だから、私は――。


「英雄になる」と私の口が無意識に動いた。


 それは予言。あの佐藤という胡散臭い中年男が私に掛けた、予言という名の呪いだ。


 私の言葉に呼応するかのように、行き止まりだったレンガの壁が振動する。地響きとともに崩れていくレンガの奥に、鉄枠で補強された頑丈そうな木製の扉が現れた。


「これが、ユカが進むべき本当の道というわけだね」としろくまが言った。「さて、僕の案内はここまでだ」


「一緒にきてくれないの?」と私は立ち上がる。


「残念だけど、僕はこの世界の住人なんだ。他の世界へ行ける身体を持っていない」


 ぬいぐるみには表情がない。だから、しろくまが本当に残念がっているのか、それともわがままな女子高生と離れることができて、嬉しがっているのかは分からなかった。


「そうなんだ。残念だわ」と私はしろくまを抱き上げて、その頬にキスをした。「ありがとう。あなたのおかげよ」


「これも何かの縁だ。気にすることはない」としろくまは嬉しそうに言った。

 表情はないが、少なくとも私には嬉しそうにしている気がした。


「そういえば、けっきょく僕の名前を言っていなかったね」


「ううん。言わなくてもいいわ」と私はドアの取手に手をかけて言った。「私はあなたを知っているもの」


「え?」としろくまは小首を傾げる。


「あなたの名前はネロ。私が小学生の頃に買ってもらって、ずっと大事にしていたぬいぐるみ。だから、あなたは私の『意識の迷宮』の中に現れて助けてくれたんでしょ。あなたが言ったのよ、ネロ。ここは過去と未来が重なり合う場所だって」


「そうか、そういうことだったんだ」とネロは肯いた。「僕が存在した意義は、まさにそういうことなんだね。ここはまだ世界にすらなっていない場所。ここから先が、君の本当の行き先。そして『迷宮』はこの先もまだ、君の前に現れる試練となる、そういうことなんだ」


「あるいはね」と私は分かったような、分からないような、曖昧な返事をする。


「さようならユカ。君の旅に幸運があらんことを」


「ありがとうネロ。またいつでも私の夢の中に出てきてね」


 ネロの柔らかい、触り心地満点の頭頂部を撫でる。


 私は扉を開けた。


『迷宮』の出口は、そのまま入口となる。


 たしかそんなことを前にも思ったな。


 背後にはもう、ネロの姿はなかった。

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迷宮とぬいぐるみ 永庵呂季 @eian_roki

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