浜美のイルカ(KAC20232)

つとむュー

浜美のイルカ

 母が死んだ。

 私はローカル路線バスに揺られて故郷の町へ向かっている。

 高校の卒業式の日に飛び出して以来、五年ぶりとなるあの海沿いの町へ。


 私は母と仲が悪かった。

 目を合わせたとたん言い争いが始まってしまう。

 罵詈雑言は日常茶飯事、叩かれること三日に一回、ネグレクトは当たり前、だから自分の身は自分で守るしかなかった。

 私は悪くない。父と離婚して経済的に窮地に立たされたあの人が悪いのだ。

 子供を育てる余裕がないのなら親権を手放せば良かったのに。あえて私をそばに置きながら虐待するなんて意味が分からない。

 だから私はこの町を出た。高校の卒業式が終わるとすぐにその足で。


 バスがトンネルを抜けると海が見えてきた。

 その瞬間、今まで忘れていた心の錘がずしりと蘇る。

 十八年間、見続けてきた青の海原。それはどこにでも行ける自由ではなく、私をどこにも行かせない母からの束縛の象徴でもあった。

 だから必死に忘れようとしていたのに。せっかく海のない都市で自立できたというのに。

 母さえ死ななければ、この町には帰って来なかったかもしれない。


『次は終点、浜美町営業所です』


 あの家がどんどんと近づいてくる。

 本当はこのままバスから降りずに戻ってしまいたい。

 でも最後くらいは母の顔を見てやろうと、そして燃やされる前にざまあみろと言いたかった。そう決意してこのバスに乗ったのだ。ブレーキをかけるバスの慣性力を利用して、私は重い腰を持ち上げる。

 ビルなんてものは一つもない街並み。バスを降りると潮の香りが漂ってくる。

 ああ、私は帰ってきた。忌々しいこの町に。そう思いながらもどこか落ち着く感じに包まれるのも事実だった。


「優子ちゃん、久しぶりね」


 家に着くと母の妹つまり叔母さんがせっせと働いていた。明日の葬式に備えてやることが山ほどあるらしい。


「ほら、突っ立ってないで、顔でも拝んであげてね」


 母は寝室に寝かされていた。簡易的な仏壇や花が飾られているから、お通夜や葬式はここでやるのだろう。

 棺桶の窓をあけると、まるで眠っているかのような母がいた。

 涙なんて出てこないけど、不思議と怒りも湧いて来なかった。ああ、死んじゃったんだなという思いが通り過ぎる。

 この人にとって私は何だったのだろう。病気になった時も何も連絡はなかった。


「長旅で疲れたでしょ。部屋でゆっくり休んだら? 今夜から忙しいわよ」


 どうやら私も戦力の一人らしい。まあ、実の娘なんだから当たり前か。

 私は二階に上がり、自分の部屋のドアを開けて驚いた。というのも、ほぼすべてがあの日のままだったから。

 変わっているのは整えられたベッドと綺麗にたたまれた洗濯ものくらいだろうか。それもたっぷりと埃を被っていた。

 五年前のカレンダー、散らかったままの学習机。そこに置かれていた物に私は目を奪われる。


 ――水色のイルカのぬいぐるみと水が入ったペットボトル。


 そうだ、これだ。

 今まですっかり忘れていた。

 このぬいぐるみと水は、唯一私が母に対抗できる武器だった。


 ぬいぐるみをもらったのは小学生の時。担任の先生からクラス全員に配られた。

 なんでも当時の町長が私財をはたいて、町内の小学生全員分を揃えたらしい。

 と言っても百人はいなかったんだけどね。小さな町だから。


『これをランドセルに付けて、いつも持っていて下さい』


 何故か――は教えてもらえなかった。

 理由を知ると子供たちが恐がったり悪戯をするからとのこと。

 意外なことに、母もそのぬいぐるみを恐がっていた。保護者はぬいぐるみの機能について聞かされていたらしい。


『このぬいぐるみは絶対、水の中に入れたらダメだからね!』


 何かあるたびに私に指示する母。

 わけがわからない。

 まあ、ぬいぐるみを好んで水没させることなんてないから構わないんだけど。

 でもある日、私は閃いたのだ。これを使えば母を脅すことができるんじゃないかと。

 案の定、その作戦はなかなか有効だった。


『優子、こっちに来なさい! 』

『なんだよ。今忙しいんだよ。痛ッ!』

『口答えすんじゃないよ。さっさとやりな』

『いきなり叩くことはねえだろ? 忙しいって言ってんだ。イルカに水掛けるぞ!』

『それだけはやめて。用事が終わったらやっとくんだよ』


 叩かれるのを防ぐことはできなかったが、それ以上の要求を突っぱねることができた。

 だから、このイルカのぬいぐるみは絶えず、水と一緒に机の上に置いてたんだっけ……。



 お通夜と葬式はつつがなく終了した。

 弔問客は親戚と母のお客さんだけだったから。

 若くして私を産んだ母はまだ四十代半ばで、町に数件しかない飲み屋で働いていた。

 お線香をあげにきたお客のほとんどは漁師で、私の顔を見るたびに勧誘してくる。


「あんた、ママの娘さん? あの店を継いでくれんかね?」


 やだよ、この町とは永遠におさらばなんだから。

 それにあの店は叔母さんに処分してもらうんだ。

 なんてことを口にするわけにもいかず、すべて愛想笑いで誤魔化した。



 葬式の翌日、叔母さんに車を借りて、後部座席と荷室に自分の部屋のものをすべてぶち込んだ。

 となり町に行って、リサイクルショップに売るために。

 ほとんど金にはならないと思うけど、そのまま捨てるよりかはマシだろう。

 すると驚くことが起きた。イルカのぬいぐるみを見た店員が表情を一変させたのだ。


「これ、浜美のイルカか?」

「そうだけど?」

「これはダメだ。すぐ持って帰れ」

「査定くらいしてよ?」

「そんなことしない。これは危険だ」


 一体何なんだよ、このイルカは。

 どんな理由があるっていうんだよ。

 仕方がないので私はイルカだけを持って帰る。そして夕陽が沈もうとする海辺の公園に車を停め、イルカを握りしめて車を降りた。


「じゃあな、あばよ」


 イルカなんだから海に帰せばいい。

 それに水に濡れたところも見てみたい。長年の謎も解けるかもしれないし。

 私の予感は大当たり。海に沈んだイルカはボンっと音を立てて意外なものに変身した。


「えっ? これって……」


 それは浮き輪だった。

 小学生なら浮き続けていられるくらいの大きさの。

 そうか、そういうことだったのか……。

 私はやっと理解する。町長がすべての小学生に配ったことも、母が極度に恐れていたことも。

 そういえばイルカを受け取ったのは、遥か遠くの町で深刻な津波被害があった後だった。

 リサイクルショップの店員もひどい目に遭ったのだろう。綺麗にしようと洗濯すれば大変なことになる。


 プカプカと波に揺れるイルカのなれ果てを見ながら私は思い出す。

 あんなにイルカを恐れていた母だったが、決して捨てろとは言わなかった。

 最低の母親だったが娘の命だけは心配してくれていたらしい。

 可笑しくなった私は大声で笑った後、夕陽が見えなくなるまで泣き続けた。





 終わり

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浜美のイルカ(KAC20232) つとむュー @tsutomyu

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