第八章 密室の魔術師
〇
全身が黒のローブに包まれた魔術結社の魔術師。
頭髪は無数の蛇。青銅のようなくすんだ緑色の肌。
そして、見た者の心臓を恐怖で凍てつかせる、魔術。
ベルサーチ。
未だかつてベルサーチの顔を見た者は皆、心臓が石のように固まって、死んでしまった。
魔術結社の幹部、ゴルゴ―マの強力な側近。
ベルサーチは三階へ避難した俺たちを追って、同じく三階に降りてきた。
作戦通り、「少年の日の思い出の魔術」のために用意された、スケールの大きな一軒家の内装に、上手く誘導することができた。俺はベルサーチが侵入してきたのを足音で確認してから、合図を送る。直接奴を見ないよう、細心の注意を払わねばなるまい。
俺の合図が送られたのと同時に宮之城が点火、三階のフロア全体が燃え始める。
それから、どこからともなく子供の泣き声が聞こえてきた。OKだ。これで状況は完璧に整った。後は上手くハマるのを祈るのみ。
いや、絶対に上手くいくはず。そう確信があるのだ。
ほら。
ベルサーチが猛然と走り出した。
子どもの泣き声に反応している。
明らかに、今までの無機質な挙動とは違う、魔人や魔獣からは一切感じられない、感情的な動きだ。
過去の記憶が、想起されているのだろうか。
やはりそうなのだ。ベルサーチは……。
俺はトイレから飛び出して、彼女の後を追った。
やがて、ベルサーチは燃え上がるリビングへ駆け込む。
それから、テーブルの足元にうつぶせに倒れ込んでいる少女を、慌てて抱え込んだ。それから、少女を抱きかかえて仰向けにする。
善意の元救命しようとしている、ように、少なくとも俺はそう見える。
しかし、すまん。それは罠。
少女の顔面は、舞城の「鏡の魔術」によってコーティングされており、仰向けにして顔を覗き込むと、少女ではなく鏡に映った自身の顔を覗き見ることになるのだ。
ベルサーチは、自分の顔を見ることになるのだ。
「……」
ベルサーチが、ぴたりと動きを止めた。まるで全身が石になってしまったかのように。
それから、
ぼとり、と地面に蛇の頭が落ちた。
……
作戦成功だ。
魔人の変身が解けたのだ。
自身に掛けられた魔術が解けて、ベルサーチは本当の自分を取り戻した。
宮之城の母親は、そうして、過去の記憶と正気を取り戻したのだった。
〇
J一郎の「変装の魔術」によって、一時的に元の顔を取り戻した母親を、宮之城はじっと見つめていた。ただぼんやりと。
周囲の炎はすっかり鎮火した。
宮之城は突っ立っている。どうやら、感動の再会とはいかないみたいだ。事情が事情なだけに仕方がないのかもしれないが。
「本当に成功しちまったな」
J一郎は宮之城の母親と宮之城ははたから見守りつつ、後頭部を擦りながら俺に話しかけてきた。手には、俺から宮之城に渡すよう言っておいた、宮之城と母親の写真が持たれている。
「お前、どうしてベルサーチが失踪した宮之城の母親だってわかったんだ?」
「ネックレスですよ。
宮之城のトークン、ネックレスの情報を敵は把握していた。でも魔術師は普通、トークンの情報を外部には漏らさない、ですよね?だったら、情報の出どころは限られます」
「だから身内だってか?しかしな、それだとベルサーチが母親だっていう確証にはなりえねぇだろ」
「いや、実は最初にベルサーチに会った時に、彼女が宮之城のネックレスと同じようなネックレスをつけていたのを思い出したんです。それで、もしかしたらって。もちろん、俺にだって確証はなかったですけど、もうこの思い付きに賭けるしかない状況でしたし」
「ほーん」
J一郎はまだ疑り深いまなざしを向けてきた。
彼の疑念は当たっている。確かに俺は、これだけを根拠にベルサーチが宮之城の母親だと思ったわけではない。
「つーか、エリンが母親の写真を持ってるってなんで知ってたんだよ」
J一郎が手持ちの写真をひらひらさせながら、続けざまにそう問い詰めてくる。
「ああ、それは本人に聞いたんです」
正確には、向こうの世界の方で知ったんだけどな。
俺とJ一郎が雑談している間にも、仲間がわらわらと周囲に寄ってきた。気絶していたシスターズを監視していた迦十先生と舞城、それから、今回、子供時代の宮之城の役割を果たしていた、アリス(J一郎の魔術で軽い変装をしていた)。モルグも、スッと俺の後ろに立った。
「こいつがベルサーチか」
力なく地面に倒れ伏している宮之城の母親を、迦十先生は覗き見た。それから宮之城に向かって、
「おい、エリン。母親との奇跡の再会だろ。せっかくだからなんか話しとけよ」
「……話すことなんてないわよ」
「そうか?でも、もうくたばっちまうぞコイツ。変身が解けて、副作用が効き始めてる。こいつの魔術は即死系だったから、副作用も強烈だぜ」
石化の魔術の副作用が、本人に現れ始めているのだ。魔人の時は平気でも、人間に戻ってしまった今。
「宮之城」
俺は、お節介かもしれないと思ったが、いってやった。
「お前は覚えてるのか知らんが、この人はお前を助けるために燃え盛る家に飛び込んで、その結果として大やけどを負ったんだぜ」
俺の言葉に、宮之城がとっさに睨んでくる。
「適当言わないで。なんでそんなこと、あなたにわかるのよ」
「そうじゃないかもしれないけど、でも人の気持ちなんてどうあがいてもわからないんだし、だったらもそう思った方が都合がいいんじゃないのか」
俺はこの話を、向こうの世界の母親から聞きかじったんだ。しかし、それを今説明しても何の意味もないだろう。
「信憑性は高いと思うけどな。現に、この人は子どもの頃のお前を助けようと燃える火の中を飛び込んでいったぜ」
先ほどの彼女の行動は、火事で家が燃えたあの日の再現、追憶。 先ほどの母親の行動が、娘を大切に思っていた何よりの証拠なのだ。
「……」
宮之城は狼狽えたような表情で、しかしピクリとも動こうとはしない。
もういい加減認めたらどうなんだ。
お前を虐待した人は、本当の母親じゃない。顔にやけどを負った日から、母親は二人の人間に分裂したのだ。顔に大やけどを負った、醜く残忍なベルサーチと、お前を育ててくれた母親の二人に。
顔が変わってしまって、徐々に本来の人格を思い出せなくなってしまっていたらしいが、今はJ一郎の魔術のおかげで、本当の自分を取り戻すことが出来たのだ。だから、もう戸惑うことはない。
なんて偉そうに考えていた時だった。母親が芋虫みたいに動いて、宮之城の脚に縋りついた。宮之城はギョッとして、その場に立ち尽くした。
母親は宮之城の身体を伝って、立ち上がろうとした、が、すぐに体勢を崩す。宮之城はそれを見て、咄嗟に母親の身体を支えて、地面にそっと下ろした。反射的に動いてしまった、といった風であった。
母親は、宮之城に近づいて何やら話している。声が小さすぎてこちらからは何を話しているのか、聞こえない。
それにしても、こうしてみると二人は、火傷が無ければ本当にそっくりなんだなと思った。やはり二人は親子なのだ。
不意に、家族の顔が脳裏に思い浮かんできた。
妹、母、父。
退屈だが、家族思いの家族だった。
彼らは、俺の―――
一瞬思考の渦に飲まれそうになったが、宮之城の母親が糸の切れた人形みたいに力なく地面に沈み込んだのを見て、ハッと我に返る。
「どけ」
始終狼狽えた様子の宮之城を腕で払いのけて、駆け寄った迦十先生は母親の脈をとる。
「――死んだな」
死んだ。
副作用で、心臓がついに止まった。
そうか。残念だな。
でも、まあ、最後に娘と何か話せたみたいだし。
「ベルサーチの辞世の句は何だった?」
ふざけた調子で迦十先生が宮之城にそう尋ねる。先生、さすがに不謹慎っす。
「……にげろ、って」
「は?」
「ちかくにいる、って言われた。何のことだったの」
「……」
にげろ?敵なんてどこにもいないぞ?
そんなことが母親の遺言だったのか?
迦十先生もこのわけのわからない遺言に頭を悩ませたようだ。何か真剣な表情で虚空を睨んでから、不意に、
「―――あ?」
不意に、横を見た。
俺も先生の視線の先を追った。
は?
宮之城も、
J一郎も、
舞城も、
アリスも、
こういうのに唯一反応しなさそうなモルグですら。
そこに、顔を向けた。
そいつは、当たり前のように、そこにいた。
木目の荒い、ボロの椅子に座りながら、悠長に足を組んでいる。
ゴルゴ―マ。
最後の敵、魔術結社の幹部が、敵地のど真ん中に堂々姿を現したのだ。
いや、姿を現したというよりも、いきなり虚空から出現したといった方が正しい。瞬間移動でもしなけらば、こんな目と鼻の先にこいつがいるわけがないのだ。
俺たちが驚きの声を上げるより先に、ゴルゴ―マが
「『チェックメイト』」
手をスッと上げた。
たったそれだけで。
ストンと、腰が落ちて、椅子に座らされた。
ますます訳が分からない。間違いなく、先ほどまで存在しなかったはずの椅子が、いつも何か出現していた。ボロの木製。
俺だけじゃない、ここにいる全員が同じように、椅子に座らされている。
それで悟った。
ゴルゴ―マの射程距離内に、全員が入ってしまったのだ。今俺たちは、完全に敵の術中である、ということだ。
「どうやって近づいた?」
珍しく焦ったような声で、J一郎がゴルゴ―マに尋ねる。
「『隠密魔術』」
ゴルゴ―マはあっさりと質問に応える。
「なんだと!」
隠密って。魔術でそんなことができるのか。
「出来るわけねぇだろ。それができるなら、変装して潜入なんざしねえよ」
まあ確かに、副作用とか全然想像つかないしなぁ。
なんて言ってる場合じゃない。俺は迦十先生を見た。どういう訳だか椅子から立ち上がれない現状で、頼りになりそうなのはもはや先生だけだ。
しかし、焦ったような先生の表情が目に入った。 ダメだこりゃ。
「これは……反トークン!?
信じられん、まさか……本当に発動できるのか?」
「『知りたいか?』」
独り言のように漏れ出した迦十先生の問いに、ゴルゴ―マが反応した。
「『見せてやる。完全なる密室魔術を』」
ゴルゴ―マが再び、手を上げようとした、その時だ。背後から迫る小さな影があった。
モルグだ。
ただ独り、この状況で自由に動き回れるのだ。
信じられない怪力を有する細腕が、ゴルゴ―マに迫る。
しかし。
またまた信じられない。ゴルゴ―マは、モルグの腕をあっさりと手で受け止めたのだ。しかも、椅子に座った状態で。
「『隠密魔術の効かないお前のせいで、こいつらを殺す計画が異常に長引いた。しかし、魔獣だと分かればどうってことはない』 」
モルグを、まるで力の弱い少女のように無理やり正面まで引きずると、ゴルゴ―マはモルグのみぞおちに鋭い蹴りを放った。
モルグは紙のように吹っ飛ばされた。
それから腹を抑えて嘔吐した後、ばったりとその場に倒れ込んだのだった。嘘だろ、おい。
「『ベルサーチを
モルグが起き上がってこないのを確認してから、
「『さて』」
まるで何もなかったかのように、ゴルゴ―マは話を続ける。
「『お前らはこれから私の密室魔術で死ぬわけだが……一つだけ懸念点がある』 」
ゴルゴ―マの蛇の仮面が、俺の方へ向けられた。
「『お前だけだ。私の密室魔術を受けて無事だったものは。知りたい。どうやって防いだ?』」
全然無事じゃねーけどな。記憶が大混乱してるんだから。あと、並行世界を行ったり来たりしてる。これで平常だとか抜かす奴はどうかしてるぞ。
「『減らず口を叩きやがって。
……暴いてやる』」
どうぞ。
寧ろ俺が知りたいわ。
いいから、早くしてくれ。こっちはもうとっくのとうに心の準備ができているんだ。
「『――』 」
どうやら、短気な奴らしい。俺のしょうもない挑発に、即座に手を上げてた。
アレが、魔術発動の合図なのだろう。
俺は、少しだけ周囲を見渡した。全員が俺を見ている。最早成り行きを見守ることに徹しているのだろう。いや、舞城だけは「お前こそすべての元凶」とばかりに睨みつけている。挑発したのがいけなかったのかもしれない。 ゴメンって。
なんて、考えていると、
刹那。
『――死ね』
手が降り降ろされた。
ゴルゴ―マが―――密室魔術を発動する。
その直後、椅子に座らされていた俺の身体が、椅子ごと遥か彼方の後方へと吹っ飛んだ。
かと思えば、今しがた身体中をひしめき合っていたありとあらゆる慣性がいっぺんに消失し、気が付くと、俺は、四方がコンクリートで塗り固められたかのような重苦しい壁に囲まれた、小さな部屋、窓一つない薄暗い独房のような部屋に独り閉じ込められていたのだった。
そして、
再び意識が消失する――。
〇
俺は目を開けた。白い便器が、じっと手前に横たわっている。
スマホを取り出して、時刻を確認する。よし、もう少しで約束の時間だ。すぐさま個室を出て、手も洗わずにトイレを後にし、俺はひとり教室へと向かった。
人一人いない廊下を歩きながら、俺は独り考えた。
全ては、俺が宮之城を追って教室を飛び出してから始まったことだ。もしかしたらではあるが、もし宮之城を追いかけなければ、あのトラックは出現しなかったのかもしれない。
あのまま、ずっとぬるま湯のような教室の中に溶けていればよかった。
本当にそうだろうか。俺は、本当は知りたかった。例えそれがどんなに下らない真相だろうが、俺は宮之城がどんな人間なのか知りたいと思っていたんじゃないだろうか。だから俺は教室を飛び出したんだ。
宮之城が必死に覆い隠している秘密を、余さず解き明かしてやりたい、だなんていう愚劣な欲求によって。
そうだ。
俺は好奇心の怪物だ。
宮之城の火傷の痕を見てから、今の今までずっと疼いていた。
子どものころからそうだったんだ。本当は。どんな下卑た大人よりも雑誌の袋とじをかっぴらいてやりたかったし、世の中のあらゆる秘密を何でも知り尽くしてやりたかった。そのためなら、いかなる努力も惜しまない。そんな下らない、野次馬根性100%の人間だったはずだ。
いつから、自分の欲求をごまかすようになったのだろう。周囲の雰囲気に迎合し、そこに公然と立ちすくむ謎を、ただ傍らから見ているだけの日々に不満を抱かなくなったのはいつからだったろう。
俺は常日頃から思っていた。
全ての謎は――解き明かされるべきなのだ。
と。
たとえ秘密を暴いた結果どうなろうと。
それが、この世の真実なのだから。
教室の前にたどり着いた俺は、意を決して扉を開いた。
「――わざわざ呼び出して、悪かったな、芭芭」
教室には、呼び出しに応じて待機していた、芭芭あり香がいた。
「ううん、別に」
「俺がどうして呼び出したか、わかるのか?」
何でもない、といった風を装って、俺は棒読みでそう言った。
「う、うん」
芭芭は酷く申し訳なさそうな顔をして、
「宮之城さんとの、事だよね」
「……」
「引いたよね、あんなことしちゃったところ、見られてさぁ。でも、違うんだよ?内藤多分誤解してる。私、あの日は体調が悪くてさ。それで吐いちゃって。もちろん、宮之城さんのカバンを汚すつもりなんて微塵もなかったんだよ?」
俺は、芭芭の顔をまじまじとみた。芭芭は眼鏡の奥の瞳に、少しだけ怯えているような色を見せつつも、笑顔を浮かべている。
こうやって、芭芭は嘘をついて生きてきたのだろうか。或いは、嘘をついているという自覚すらないのか。嘘を本当だと信じ込んでいるのか。
思えば、俺もそうだった。
本当は、この教室が大嫌いでしょうがなかった。
教室の窓全部、バッドで粉砕したら少しは気が晴れたかもしれない。
何も刺激のない毎日。そのくせ妙に忙しい。テストやら、行事やら、人付き合いやら。
やってられねぇぜ。
でも、そんなことは臆面にも出さなかった。
何故だろう。
芭芭を見て、思った。
こいつは、教室の中では優等生の仮面をかぶっていたし、その仮面は少なくとも俺には見破れなかったほど強固に完成されていた。本当は気に食わないクラスメイトのカバンにゲロぶちまけるような品性のかけらもない女だったとしても、あれほど親しみの或る優等生を果たして演じられるものなのだろうか。
他人に好印象を与えようとしたり、逆に陥れようとしたり。
自己呈示。
印象操作。
何もかもを自分の思い通りに見せたい、操りたいという欲求だけじゃない。きっと、社会の秩序を保つためにも、演技、嘘が必要なのだ。
きっと、芭芭も、誰かに必要とされて、或いは自分のためにも、あの優等生の仮面をつけ続けていたのだ。
誰のために?
分かっている。
俺だ。
「なんで俺なんだ?」
「えっ、何が?」
「小学校の頃は、仲が良かったよな」
俺は霞む思い出を手繰り寄せた。子供の頃の思い出。
遠出して、田んぼのオタマジャクシを取りに行った。俺はすぐに飽きて、捕ったオタマジャクシを全員逃がしてしまったけれど、芭芭はちゃんとカエルになるまで世話した。なんて事のない、幼馴染との思いで。確かに、そこに在る思い出。
でも違う。本当は 、ただ脳の記憶領域に残っているというだけなのだ。実態のない、あやふやなニューロン同士の結合によって。
「でも、滅茶苦茶仲が良かったってわけじゃない。中学は別々だったしな」
芭芭は、何か悪いものでも食べたのかと、本気で心配しているような目で俺を見つめていた。
「なあ。はっきり聞くけどさ
お前って、もしかして俺のことが好きなのか?」
「……」
「だから宮之城と親しくなったのが気に食わなかった、とか?見当違いだ、俺のイタイ妄想だっていうなら、すまん、今言ったことは忘れてくれ」
芭芭の顔が、わかりやすいくらいに朱に染まる。何も答えられないようで、口がパクパクと開閉した。仮に恋心がバレたとして、こんなふうになるもんなのかね。俺は恋したことがないから、わからんな。
「どうなんだ」
「……」
俺は芭芭が再び口を開くのを、じっと待った。やがて、
「……うん。そう、なのかも」
頷いた。
「ほんとは自分でも、よくわかんない。だけど、内藤が他の娘と仲良くしてるの見ると、すごく怖くなる。そうしたら、全然別の私が出てきちゃう。自分でもおかしいって思うけど、でも、抑えられない」
「へぇ」
もっと他にいうべきことがあるのかもしれないが、俺の口から出てきたのはこれだけだった。今は別のことに脳みそを使っているのだ。
「あの……さ」
「なんだ?」
「嫌いになった、よね。宮之城さんにあんなことしたところ、見られちゃって」
いや?別に。
「ほ、ほんと?」
確かに、吐いたのを見た直後はちょっと引いたけど、今は見慣れたせいかもわからんがそんなに忌避感はない。
宮之城を特別に贔屓しているわけでもないし、芭芭のことを嫌いになったわけでもない。
こうして問い詰めているのだって、俺はただ、確認がしたかっただけだしな。
芭芭が、俺にどのような感情を抱いているのかということを。
芭芭は、彼女は俺に好意、かそれに似た感情、とにかく、それらに準ずる、少なくとも俺を憎からず思うだけのものを抱いている。
そのせいで、俺に関わる事象、とくに女性関係だと普段の優等生がはがれてしまう程ぶっ飛んだ行為に及んでしまうわけだ。
OK。それだけ分かれば、もう十分だ。
「なんで俺のことが好きなんだ?」
「な、なんでって……理屈じゃないよ。他人をそういう風に思うのは」
そうかな?俺の考えは違う。
俺は、明確に理由があると睨んでいる。
つまり、芭芭が俺に好意を持っているのには、何か特別な意図があるのだと思う。だれかが、お前にその感情を植え付けたんだよ。
なんてことを言うと、芭芭はいよいよ漢方を一気飲みしたみたいな顔になった。そらそうだ。俺だって舞城か都筑あたりが似たようなことを言い出したら、正気を疑う。妙な宗教にでも手を出したのかと。
「俺だって、魔術なんてものの存在を知らなかったら、まず疑いすらしなかったさ」
魔術ってのは高度に進歩した催眠術なのだ。他人に偽物の感情を植え付けることくらい、わけないだろう。
そして、並行世界の存在。
俺は二つの世界を行き来している。この事実。
魔術。
並行世界。
魔術結社と、魔術師組合の対立。
記憶の混乱。
二つの世界の妙な共通点。
トラックによる強制送還。
思い出す。
なんて言っていた?
迦十先生は「並行世界など、存在しない」といった。
俺は、魔術なんてものがあるなら、並行世界くらいあってもいいだろうと、そう思っていたが、魔術について詳しく知れば知るほどその考えが間違っていることに気が付く。
もし、並行世界なんてものが、存在しないとしたら。
「俺の考えは、こうだ。
この世界は現実じゃない。
記憶を失う前の俺が魔術によって作り出した、幻の世界なんだってことだ」
この世界は俺に掛けられた魔術の作用を無効化する役割と、俺に進むべき道を示す役割がある。
まあ、おそらく「対象を無力化する」ことが主な作用なのだろうけど。
俺は、徐に携帯を取り出して、それを手に持った。
宮之城や舞城がクラスメイトなのは、魔術の副作用で記憶が混濁した状態の俺でも魔術師組合の人間である彼らに友好的であるため。
芭芭が幼馴染で、俺に対して非常に好意的であるのは、仮に記憶と立場を取り戻したとしても、俺に敵対できないようにするため。
「そうだろ?ゴルゴ―マ」
芭芭はありえないくらい汗を掻いていた。震えながら虚空を見つめていて、眼鏡が若干ずれているのにも気が付かない。
「ゴルゴ―マは密室魔術の使い手だった。密室魔術は、一度食らったら二度と解錠できない、所謂ところの禁術って奴らしい」
おそらく、俺は一度ゴルゴ―マの密室魔術を食らった。
この並行世界を作り上げた俺の魔術は、ゴルゴ―マの密室魔術を無効化するために構築されたのか?
「でも、だとしたら、なんでこんな面倒なことになってるんだろうな?一回目の魔術は不完全だったのか?だから、こんなにややこしい事態になっちまったのかな」
「ありえない」
芭芭がようやく口を開いた。
「そんなわけない。こんなの……違う。あり得ないよ」
どうやら、記憶が混ざり始めているようだ。ちょっと前までの俺の同じ現象が、芭芭にも起きているのだろう。
「ずっと、狭い……小部屋の中にいた。絶対に出ることのできない小部屋に」
「ああ、あれね」
「私も、あの部屋にずっと閉じ込められてた。いつ自殺するか、それだけが問題だった。内藤が、あの部屋をこの世界に作り替えたの……?」
なるほど
この世界は、お前の密室魔術で作り上げたあの小部屋がベースになっているのか。てことは、俺はゴルゴ―マの密室魔術を再構築したってことなのか?いずれにせよ、記憶が戻らない以上真偽は不明だろうな。
「嘘……そんなわけない、こんなの絶対に」
芭芭はついに頭を抱えて、机の上に突っ伏した。
気持ちはわかる。
お前にとっては、この世界はある種の救済だったのかもしれない。何もかも嘘ではあったけれど、優等生でいられて、友達もたくさんいて、幼馴染との恋愛もそれなりに楽しんで、充実した日々を遅れていたのかもな。 少なくとも、現実の魔術結社幹部としての生活よりは。
俺だって、別にこの生活に不満があったわけじゃない。舞城や都筑らと馬鹿な話をしながら、お前や宮之城を眺めていればそれなりに退屈を紛らせることも出来た。
だけど、あの生活に満足もなかった。
真実の世界に生きていないと、心の片隅では分かっていたからなのかもしれない。
俺は、ちゃんと真実の道を歩みたい。
どれだけクソみたいな現実がそこに在ったとしても、目をそらさずにいたい。真実から目を背けて得た日常に、満足などあるはずもないのだから。
自分の心に嘘をついちゃいけないってことだ。
だから、どれだけお前にとって辛い現実だとしても、俺は暴く。お前に気は使わない。
「内藤。
まって、いやだ。
私、あの部屋には、戻りたくない」
いや、あの部屋には、この世界には二度と戻らないさ。密室魔術は解錠できないんだから。
だけど、ゴルゴ―マの密室魔術の作用は、記憶を失う前の俺が再構築した魔術の作用が抑え込んでいるはず。
だから、俺たちはただ現実に戻るだけだ。
魔術の存在しない、都合のいい嘘の世界から、
あの魔術の存在する、元の世界に。
俺は、スマートフォンを掴んで、宙に掲げた。
芭芭。
今度はお前がなりたい自分になるんだ。俺が作った虚飾のお前じゃなく、現実のお前をちゃんと見れば、きっとその内、お前の思い描く自分になれるはずさ。
スマートフォンの画面に、曼荼羅が出現する。
俺は教室の窓の外を見る。
大きなトラックがやってきた。この幻の世界を吹っ飛ばしてくれる、送還装置が。
――今、「並行現実の密室魔術」が発動したのだ。
直後。
芭芭と俺は、トラックによって粉々に吹き飛んだ窓ガラスの破片に包まれる。
それから、途轍もない衝撃と共に、俺たちはトラックに吹っ飛ばされて、刹那に無重力状態ん襲われ、反転。
気が付くと、元の世界に意識が戻っていた。
目の前で項垂れていたゴルゴ―マの仮面が剥がれ落ちて、芭芭の顔が現れた。しかし、向こうの世界とは違って、眼鏡をつけていない。
「芭芭、大丈夫か?」
声をかけた。芭芭は茫然とこちらを見やった。
「……内藤」
茫然としつつも、なんとなく状況を理解しているようだった。すぐに俺から目をそらし、項垂れる。
仮面の変声機を通さないで声を聴くと、やはり芭芭本人なのだと痛感させられるな。
どうやら記憶は地続きになっているようだ。しかし、こちらを攻撃してこない以上は向こうでの感情が優先されているのだろう。
あの様子では俺と同様、まともに魔術も扱えないだろう。
もはや完全にゴルゴ―マは無力化された。
無抵抗と化したゴルゴ―マ、芭芭の身体が、不意に、ひょいと持ち上がって、それから軽々と担がれた。
迦十先生だ。
「どうやら、全員お前に一杯食わされたみたいだな?」
「そうらしいですね」
どころか、俺も一杯食わされた側なのだけどな。記憶を失う以前の俺は末恐ろしい奴だぜ。
「よくわからんが、とにかくゴルゴ―マは倒した」
先生に担がれた芭芭は、目を閉じてぐったりとしている。死んでいるわけではなさそうだが、先生に眠らされでもしたか。
「ともかく、全員無事だし」
迦十先生が俺の頭をはたく、先生、痛いです。
「お前のおかげで、一件落着だ」
迦十先生は笑ってそう言った。
先生の笑顔は、結構珍しい。向こうの世界ではそうだった。
やはり、こっちでもそうなのだろうか。
そうだと、いいな。
何もかもが嘘だってのは、少し寂しいから。
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