第二章 魔犬




 夏の暑い日のアスファルトで舗装された道路なんかは、陽炎がメラメラと立ち昇っていてそれがより一層暑苦しさを加速させるものなのだが、そんな焼きそばを焼いている真っ最中の鉄板みたいに熱いアスファルトの上に、ふと干からびた昆虫が、車に轢かれて押し花みたいにぺしゃんこで地面に張り付いているのを見かけると、暑いのも忘れてハッとさせられる。


 残酷なものを見てしまったので人が失いつつある生存本能を刺激されたのだがどうかは知らないが、冷や水をぶっかけられたかのように唐突に「生きねば……」などというジブリのキャッチコピーみたいな感想が脳裏をよぎったりもしたものだ。


 生きなきゃいけない、なんてことは厳しい自然界で生き延びている生き物なら当たり前のように抱いている気持ちのはずなのだが、きっかけがなければその気持ちを忘れてしまう現代の日本人と言うのはある意味異常な心理状態を形成してしまっているのかもしれない。だから何だってんだって話だけど。


 そんなこんなでいつか見た昆虫の死体の如く、つい先ほどトラックと地面の間に挟まれてぺしゃんこになったはずの俺ではあるのだが、気が付くと全く見知らぬ街の見知らぬ道路をひた走る車の助手席に、まるでそこにいるのが当たり前化のような顔をしながらどっしりと腰を落ち着かせているところでハッと意識が戻ったのである。


 怖いものを知らない子供のように気持ちよさそうに走る車と、わけもわからず茫然としながら、水のようにスルスルと後方へ流れていくフロントガラスの景色を眺めるだけの俺。


 全く状況が理解できない。


 記憶の前後が全くつながらないというのは、思っている以上に気味が悪い感覚だった。


 俺は先ほどまで学校の帰り道であり、トラックに押しつぶされたはずであったのが、今は見知らぬ土地、見知らぬ車の助手席を我が物顔で座っているのだ。


 

 こんなことってあり得るのだろうか。


 夢だろ?


 そう思った。



 だが、状況はどうやら俺の予想以上に混沌を極めていたようで、時間は俺に考える余地など与えちゃくれなかったのである。


「おい」


 聞き覚えのある声がして、まさかとは思ったが、俺は声の主を確かめるため、腰を筋肉の限り浮かせながら後部座席の方、斜め右後ろへ振り返ると、舞城が腕を組みながらこちらを睨みつけていた。


「いつになったら説明してくれるんだ?もう一時間も走り通しじゃないか」


 舞城はいら立ちを隠そうともせずに、脚をせわしなく組み直しては解いてを繰り返していた。


 何やら舞城は俺に何らかの説明を求めているようだが、むしろ状況を説明してほしいのは俺の方だ。


 まずなんで俺とお前がこの車に乗っているのだろうか。お前も俺もさっきまで学校にいたはずだよな?


「あぁ? なにいってんだ、お前」


 俺の言動で舞城のイライラは倍加したらしく、眉間のしわが更に掘削されていった。


「お前らが俺たちをこの車に乗せたんだろうが」


「……お前ら?」


 俺が乗せたという話は全く記憶に御座いませんなのだから聞こえなかったことにしておくとして、俺は隣を、運転席でハンドルを握りしめている奴を見やった。


 運転席にはメイド服に身を包まれている黒髪ロングの少女が、どう見ても未成年のくせに、まるでそれが当たり前であるかのような顔で、まっすぐ前を見すえながらアクセル踏みしめていた。


 俺がぽかんと顎を落としながら見つめているのに気が付いたらしい少女は、生気の抜けた、囲碁の黒石のような濡れた黒の瞳をちらりと俺に向けた後、すぐさま正面に目を向け直す。


 当然だけど俺の知り合いにこんな奇天烈無免メイドコスプレ少女などいるはずがない。


「お前の連れだろ、そいつも」


 いや、どうなんだろう。


 わからん……。


 マジで。


「俺たちが何を言っても一言もしゃべらないんで、そいつから話を聞くのは諦めたんだけどな。お前もそいつと同じで、何も事情をしゃべらないつもりの木偶の坊なのか?」


 木偶の坊て。


 まあそれはいいとして、それよりも今更だけど「俺たち」ってことは、お前以外にも誰かお仲間が近くにいるのかね?


「マジで頭イカれてるみたいだな。お前がさっき乗せた奴がお前の直ぐ後ろにいるだろ」


 そう言われてしまった俺は更に身体を浮かせて身を捩って、よっこらせと舞城の隣に座っている人物を見てやった。


 これは驚いた。


 不機嫌なオーラを醸しながらそこに座っていたのは、あの宮之城その人だったのだ。


 一瞬他人の空似かとも思ったが、美人な顔立ちはともかくあの火傷の痕まで見間違えようはずがない。どこからどこまで見ても宮之城本人だ。


 完璧にあの宮之城である。声を聞くまでもなく俺は確信した。


 そして、舞城に引き続き意味不明な人選だ。一体どんな監督の迷采配か知らないが、こんな滅茶苦茶なキャスティングがあるかよ。宮之城なんてついさっき俺が会っていて……。


 つーか、マジで二人は何をしているんだ。


「……」


 俺とばっちり目が合っているにも関わらず、宮之城は眉一つ動かさない。彼女、本当に宮之城だよな?似すぎている全くの別人、とかではないよな。


 まさか、……ドッペルゲンガー!!?


 なわけないって。


「……あなた、舞城くんだけじゃなくて、私の名前も知ってるのね」


 色々悩み考えあぐねていた俺の百面相をじっと眺めていたらしい宮之城が、ようやく硬く結んでいた口の紐を解いたらしい。それから俺に向かってこんなことを話したのだった。


「私たちを助けたってことは、魔術結社の連中ってわけじゃないのよね?でも組合には所属しているのかしら」


「……」



 ……んっ?


 今なんかすごい単語が聞こえてきた気がする。


 魔術結社とか言ったか?



「どうなの?」


 どう……って言われてもなぁ。何のことだか。


「だから、魔術師組合に所属している魔術師なのかどうか、聞いているの。わかる?」


 宮之城はいたって真面目な顔でそう言ってのけたのだ。


 もし仮に今俺の口の中に白飯が詰まっていたら、今頃は思いっきり噴き出して車内は米粒塗れになっていたところだ。


 魔術?組合?おいおい、正気か?魔術師っつーか、まず魔術が使えねぇっての。


「は?そんなわけないでしょ。だって、あなたあの時……」


 宮之城が何かを言いかけた、その時だった。これまで終始仏頂面だった舞城が突然叫んだ。


「エリンっ!!」


「…っ!!?」


 続いて宮之城も何かを察知したらしい、驚いたような、それでいて何かを悟ったかのような顔で舞城と同じ右に目を向けている。


 相変わらず俺は置いてけぼりだ。


 やれやれ一体何があるってんだと、俺も渋々二人に倣って右に目を向けた。



 そして、ようやく俺もそれを見た。



 メイドコス少女の向こう側のサイドガラス、そのさらに向こう側の、流れる景色をかき分けるようにしてそれは徐々にこちらへと近づいているようだった。



 なんだあれ。



 いや、何かはわかるのだ。



 馬だ。



 馬が車と並走している。



 馬が道路を走っているのだ。



 いやまあ、馬は確か法律上軽車両扱いだったはずだし、公道を走るのも別に問題ではない……のか?



 でも馬に跨ってる奴は黒い甲冑を着込んだコスプレ野郎だし、こちらに向かって今まさに槍を振りかぶって突っ込んできている真っ最中だし、やはり色々と俺が目にしている光景には問題があるのではなかろうか。



 なんて悠長にしている暇はない。


 どう考えてもヤバい奴だし、「煽り運転」なんてレベルの奇行じゃない。


 マジに殺しに来てるってくらいの迫力で槍を振り回しているのだ。こんな奴にドラレコなんてなんの意味もないわ。


 しかもそうこうしている内にも馬とコスプレ騎士は目と鼻の先まで接近しているし、そんな状況にも関わらず運転席のメイドコスプレ少女は無関心に運転しているしでてんやわんやの車内外の中、俺は叫んだ。



「おいやばいって、避けろっ!!!」



 って感じに叫んでいたはずだ。


 迫真の絶叫だったと思う。


 実のところ、俺はこの時点でもまだ夢を見ているんじゃないかと頭の隅では高を括っていたのだが、いざ目の前で尋常じゃない光景を目にして、刺さったら確実に死ぬだろうって太さの槍を窓ガラス目掛けて振りかぶっている奴がいたとしたら、俺はそれでもなお助手席でふんぞり返っているだけの肝っ玉ではなかったのだ。


 このとっさに喉から飛び出してきた俺の絶叫が誰に向けてのものだったのか、誰よりも俺自身が分からない最中、誰よりも迅速に俺の叫び声に反応したのは、意外なことに、これまで誰にもほぼ反応を示さなかったあのメイドコスプレ少女だった。


 メイドは俺の声に反応して、ハンドルを思いっきり左右に切った。


 あれだけ腕が大きく動いていたにもかかわらず頭が接着剤で張り付けられたみたいにピクリとも動かなかったのはどういう理屈だったのだろうなどと考えている間もなく、車体が大きく揺れて俺の頭は振り子みたいにグワグワと吹き飛ばされた。


 そして、或いは当然の結果として、車は慣性の法則に従い、サスペンションで支え切れないほどの横揺れによって車体をふわりと浮かせたのち、



 限界を迎えた車は、物の見事に横転した。 



 天と地が、文字通りひっくり返った。



 途轍もない衝撃が体中を走る。


 体中の血液がミキサーで攪拌されたみたいな気分の悪さだった。


 それにしても、髪の毛が遠心力で天井に引っ張られる感覚というのは、中々興味深い体験だった。今思い返してみれば、だけどな。


 当たり前だが当時の俺にそのような珍体験を楽しむ余裕など皆無なわけで、俺の身体を支えていた命綱ともいえるシートベルトを必死こいて剥がそうとするのに夢中だった。


 なんとかシートベルトを外して、座席から背中を引き剥がした俺はその勢いのまま、ほとんど転がるようにして、横転した車から脱出した。


 車からはガソリン臭い煙が立ち上っていたし、なにか妙なことに巻き込まれる前に早いとこ脱出するというのはまあまあ懸命な判断だったと言えるだろう。


 だからと言って、命が助かったというわけじゃない。


 さっきのコスプレ騎士も近くにいるはずだからな。


 だけど車からゴキブリみたいに這い出てきた俺を追いかけてきたのは、馬に乗った騎士なんかではなかった。


 そいつも見るからにヤバい奴だった。


 コスプレ騎士は、まだ行動があれでも万が一億が一、正常な思考能力と倫理観を持っているとわずかに希望を抱けるくらいには、まともな姿をしていた、というワケだ。


 でも今度のやつは一味違うぞ。



 なんせ遠目に見たって、見るからに人間じゃないんだからな。



 二足歩行だったから一瞬でも人間かと思った自分を𠮟りつけてやりたい。



 そいつは大きな車輪が二つ付いている、おそらくは鉄製の、装飾の一切ない無骨なリアカーを前脚で押していた。


 そこまでなら、街中でリアカーを押しているという不自然さを飲み込めば、まあちょっと変だなと感じつつも、まあ尋常ではあるかな、などと思えなくもない。


 しかし、リアカーを押しているそいつはもうどこをどう見ようが犬そのものだった。


 リアカーを押している前脚も、身体全体を支えている後ろ脚も、こちらをまっすぐ見つめている顔も、犬丸出しである。


 うすら寒さを覚えるほど奇妙なほど胴体と首が長いことに目を瞑れば、ごく一般的なドーベルマンに似ている気がする。


 でも明らかに普通の犬と違う点は、目だった。


 あれは犬の目じゃない。


 どちらかと言えば、むしろ人間のそれに近いような……。


 いっそわかりやすく化け物の見た目をしてくれていた方が百倍マシだったろうに、中途半端に身近でリアルな造形なもんだから余計に不気味さを加速させている。



 何てのは後から考えた感想だ。



 当時の俺は考えるより先に、そいつから少しでも離れようと逆方向に走り出した。どう見たってアレが危険なものだってのは、現代社会でほとんど機能していない人間の生存本能ですら察するに有り余るほどだったからな。


 俺は全力疾走で逃げた。少し脇腹辺りが痛んだが構わなかった。



 その2、3秒後くらいかな。



 俺はあまりにもあっさりと捕まった。



 背中に衝撃を感じて、俺は振り返ってそれを見た。


 リアカーを押している不気味な犬から俺まで、距離は目算にして二十メートル程度と言ったところだろうが、そこから俺の背中まで奴の前脚がまっすぐ伸びて、俺の服、正確には襟元に奴の鉤爪ががっしりと引っかかっていた。


 どうやら逃げる俺の背中を捕まえるために、犬の前脚が射出されたらしい。


 

 あり得ないだろ?



 もっとあり得ないことが起きた。



「うおぉぁっ!!?」



 伸びきった前脚が超速で波打ったような気がした、その次の瞬間、俺の身体は前脚に引っ張られて、空の彼方、遥か上空へと放り投げられたのだ。


 俺の身体がビニール袋みたいに軽々と飛び上がって、犬を中心に円を描くようにして、グルりと空高く持ち上げられてゆく。


そして、再び天と地がひっくり返った。


 俺の足元には冗談みたいな景色が広がっている。


 上にあるはずの空が、ぽっかりと落ちていて、頭の上にはアスファルトに覆われた大地とそれに付随して乱立する湿った街並みがべったりと張り付いていた。


 地面にくっついている建物や舗装された道路が落ちてこないかなどという杞憂を覚えるくらい、完璧な天地逆転が起きているのだ。



 嘘だろ、おい。



 犬の前脚は未だに俺の首元の襟に張り付いたままだ。


 とんでもないパワーで襟が引っ張られているので首が締まって苦しい、なんて程度で済んでいいのだろうか。


 首くらいへし折れたって不思議ではないが……などと考えているところ、更に首の締め付けが強くなって、今度はどうやら地面に向かって高速で引き戻されているらしいことがようやく俺にも理解できた。


 このまま地面にたたきつけられたらたまったものじゃない、などと言うまでもなく死んでしまう。しかし精一杯の抵抗として手足をばたつかせても梨の礫で、もう如何ともし難い。


 俺の身体は一切の抵抗を許さず、やがて、などと表現するにはあまりにもあっけなく俺は叩きつけられた。ただし、地面に、ではなかった。


 俺が叩きつけられたのは地面ではなく、犬が押していたリアカーの荷台だった。


 俺の身体はダンクシュートを食らわせられたバスケットボールみたいに、ものの見事にリアカーの荷台へすっぽりぶち込まれたのだ。


 だから何だって話だ。地面だろうが何だろうが俺はもうおしまいだと。俺だってそう思っていた。


 でもそうはならなかった。


 リアカーと接触する間際、てっきり途轍もない衝撃と共に頭がひしゃげでもするだろうと、せめてもの抵抗として目をしっかりと閉じていたのだが、これが何時まで経ってもその衝撃がやってこない。


 いや、それどころか、俺の身体は今なお落ち続けている。


 真っ暗なリアカーの中を、重力に従ってぐんぐんと加速するように俺は落下し続けていた。


 まただ、またあり得ない。


 あり得ないことが立て続けに起こってしまっている。こういう状況になってくると、もう常識の方を疑った方が賢明なのかもしれないな。


 どうすればいいのか。


 いや。


 どうにもこうにもならない。


 真っ暗な視界のずっと先に、四角に切り取られたかのような光がポツンと浮かんでいる。


 たぶんあそこから俺はこの暗闇に落とされたのだ。


 どんどん小さくなって光も弱弱しくなっていくのが見える。



 俺はどこに落ちていくんだろう。



 落下先を、振り返って見た。





 誘導灯だ。







 緑色の誘導灯が、非常口を示すピクトグラムが、暗闇にぽっかりと浮かんでいる。






 前にも同じものを見た記憶がある。






 どこでみたんだったか。








 あれは確か


 











【第二体育館】






「おい、どこ見てんだ」


 あらぬ方をぼんやりと眺めていると、あたりを包み込む喧騒の中から舞城の声が聞こえてきて、はっと意識が急速に回復し始めた。


 思い出した。


 今日は体育祭である。


 正確には、体育祭という名のバスケ部イキり散らし大会である。


 帰宅部筆頭の俺たち三人組を含めたウチのクラスの弱小ぶりは、クラスにバスケ部が一人もいないことも相まって、初戦から途方もない負けっぷりをキメていた。


 相手が優勝候補のクラスだったのもあり、もうクラスの誰一人として敵エースのドリブルを止められず、気持ちいいくらいのダンクシュートをこれでもかと撃ち込まれた(日本人のクセに身長が二メートルはあった)。


 そういうわけであるからして、開始五分でやる気を根こそぎ奪われていた仲間たちとは違い、舞城は一矢報いようと馬鹿みたいに始終懸命であり(そういうところも若干モテる要因なのか?)、それにズルズルと引っ張られるような形で、俺と都筑も結果的に汗まみれになる羽目となってしまった。


 で、俺たちの抵抗もむなしく初戦からあっさり負けてしまったので、現在は試合の予定もなく死ぬほど暇である、といったわけである。


 クラスの男子チームがこうして憂き目を晒しているのとは対照的に、女子の方はどうやらこの調子じゃ優勝まで行ってしまわれるのではないかというくらいの快勝続きであり、応援相手に困らないというのは不幸中の幸いと言うやつなのかもしれない。

 つっても、やっぱり座って応援してるだけじゃ、やはり暇なんだよな。


「そうだね。僕たち以外の男子、半数以上、どっか行っちゃってるし」


 俺と同じくらいボケッとしている都筑が同意の意を示してくる。というか、俺たちのクラスの男子、いくらなんでも薄情が過ぎるだろ。


「全くだ……あ、おい見ろ、またスリーポイント決めやがったぞアイツ」


 舞城に言われてハッと目線を目の前のコート上へと戻すと、芭芭のやつがチームメイトに囲まれているのが目に入った。


 アイツ、バスケ部でもないクセに、本当に何でもこなせる器用なやつだな。


 素人なりに試合を眺めていた自分の雑な見立てによると、ウチのチームの柱は主に三人。


 一人はバリバリのバスケ部女子であり、バスケ部の中でもかなり上手いのだろう。とんでもない動きでコート上を縦横無尽、呆れんばかりも無双っぷりである。


 そしてもう一人は芭芭。


 先のバスケ部女子ほどではないにしても、かなり派手な活躍を見せている。


 運動神経が抜群なのは昔から知ってはいたけど、バスケ部共と比べても遜色ない動きである。一体どういう理屈なのか。


 風のうわさによると、色んな運動部から熱心な勧誘を受けるほど優れた能力を持っている、とのことだ。


 本人は成績が落ちると親に怒られるからって断っているらしいが、こんだけ運動ができてさらに勉強も学年首位を維持し続けているのだから、幼馴染ながらトンデモない奴だと素直に感心させられる。しかも性格も屈託がなくて気持ちがいいんだから、当然異性同性を問わず人気を博している。


 そういえば、このコートを取り囲む野次馬がやけに多い気がしていたが、もしかしなくとも目当ては彼女か。


 で、最後の一人なのだが、コイツはちょっとイレギュラーと言うか想定外と言うか、大多数の男子が居たたまれなくなって他所へ移ってしまった原因の大部分を担っている人物でもある奴、宮之城である。


 基本的にサポートのみで点を取りにいかないのでそれほど目立たず、かといって幻のシックスマンと呼ぶには存在感のある宮之城のプレーは、堅実かつクリティカルであり、確実にチームの点数稼ぎに貢献している。特にディフェンスが優れているように思える。


 しかし、彼女が活躍するたびにチームに微妙な緊張感と言うか、軋轢のようなものが生じるので、もちろん事情を知らない他の生徒らは物珍し気に観戦しているのとは違って、ウチのクラスの男子共はそれを鋭敏に受信した結果、勘の良い奴を筆頭にさっさと退散してしまった、というワケである。


「意外だよね、宮之城さん」


 都筑が爪で床の体育館ラインの塗装を削りながら、ポツリとそんなことを言った。バカ、やめとけって。


「確かに、まさかあそこまで動けるとはな」


「いや、そのことじゃなくてさ」


 都筑が床から目を離して、舞城の方を見やった。それからコートの上でボールを追いかけている女子たちに目を向ける。


「今までの彼女だったら絶対に目立とうとしなかったはずだよね」


「いや、別に目立とうとはしてないだろ」


 徹頭徹尾サポートに回って、ほとんどシュートを打ちに行ってないぞ。アイツ。


「でもすっごい頑張ってるよね。そういうことしないタイプだと思ってた」


 ふむ。


 確かに言われてみればそうかもしれない。


 今までの宮之城ならば、たとえクラスメイトに嫌われるとしてでも、積極的に目立ちに行こうとは絶対にしなかったはずだ。もちろん今だってそのスタンスは変わっていないはずなのだが、彼女はいま、できる限りでチームに、ウチのクラスにバスケで貢献しようと頑張っているように思える。きっとウチのクラスの大多数の男子同様、体育祭などどうでもいいと思っているはずなのに。


 そんな彼女ですらこうして懸命にプレーしているという事実が一層、ウチの男子共には毒だったのかもしれないな。


「あ、マークされた」  


 熟考に耽っていると、都筑がポツリとそう言った。  


 都筑に言われて、俺も気が付いた。宮之城がボールを持った瞬間、敵チームが味方の女子を徹底マークしてパスコースを遮断している。


 このままでは、パスコースを遮断された状態からの強烈なプレスでボールを奪取されてしまうだろう。


 なかなかの連携だ。敵チームの背中に龍が見えるぜ。


 宮之城が状況を察知し素早く周囲を見渡して――一瞬俺と目が合った気がしたが、まあ試合中にこちらを気にするわけがないので、今のは俺の気のせいだろう。


「さぁ、どうする」


 舞城が興味深そうに呟いた。


 それとほぼ同時に、宮之城はボールを構えた。パスを繰り出す姿勢ではない。


 左手をボールに添えている。


「おっ」


 宮之城が、今日初めてシュートを打った。



 ボールは吸い込まれるようにリングの中央をストンと落ちた。









 体育祭から数日が経過した。


 こちとら未だに筋肉痛が治っていないというのに、我らが担任の迦十かじゅう先生の授業は相変わらず気が抜けなかった。


 疲れからか、普段なら耐えられたはずの睡魔にも気を張らなければあっさりと陥落してしまいそうだ。


「―――このような結果から、短期記憶で一度に覚えられるのはせいぜい六つか七つ程度……人間の脳みそじゃこれが限界だ」


 今回の授業はまだ面白い方だから起きていられる。


 へぇ、六つか七つが限界ねぇ。俺の脳みそは平均以下だから、多分5つくらいだろうな。逆に芭芭なんかは一度に十個でも二十個でも覚えられそうだけどな。英単語の小テストの結果から鑑みるに。


「人間が一時的に記憶できる情報量は限りがあるんだな。……おい、内藤」


 いい加減首がカックンカックンし始めたころ合いで、迦十先生が唐突に俺を指名してきた。やべぇ。


「人間が一時的に記憶できる情報量を7±2個とする説のことを、なんというかちゃんと覚えているよな?」


 モチのロンです!


「よし、じゃあいってみろ」


 ……と言いたいところなんですが、全然覚えてないです。7±2どころかたった一つの事柄すらまともに記憶できない貧弱な海馬なんです、なんて言ってみたところで許されるほど迦十先生の授業は甘くない。


 ここは何とか勘で当てるしかないか……。


 何て悪あがきに邁進していると、ズボンのポケットにしまい込んでいたスマホがブルッと震えるのを感じた。


 先生にばれないよう取り出して見てみると、芭芭からのメッセージである。顔を上げて芭芭の方を見やると、奴は軽く振り返って器用にウインクを返してきた。


 メッセージを確認すると、なるほど、先ほどの回答は「マジカルナンバー7」と言うらしい。ニチアサアニメに出てくる必殺技みたいなネーミングだな。


「正解。だが、「らしい」ってなんだよ。もしかしてスマホでカンニングでもしたのか?」


 俺が余計なことを口走ったからだけど、カンニングが一瞬でばれてしまった。


「次授業中にスマホ使ったら叩き折るからな」


 迦十先生がトンデモなく物騒なことを言いやがる。


 高校生にとってのスマホはな、命と家族の次に大切なんだぞ!


「そう思うんだったら、カバンの中に大事にしまっとけ」


 そもそも、ガラケーとかならともかく、スマホを叩き折ることなんてできないでしょ。あ、でも先生は筋力が人間じゃなくてオラウータンのそれだから、もしかしたら可能かもわかないな。


「誰がオラウータンだ。ぶち殺すぞこら」


 すんません……。


「謝れてえらいぞ。宿題十倍な。


 さて、内藤のバカは置いておいて授業を続けるぞ。このマジカルナンバーは研究が進むごとに数値が変動しているのだ」


 いや十倍て……。マンガじゃないんだからそんな極端な数字出しちゃ駄目っすよはははなんて言う暇もなく授業がつつがなく進行されてゆく。別にいいけど十倍は流石に冗談だよね?


「近年では4±1をマジカルナンバーとする説が有力だ。ちなみにだが、この7だとか4だとかの個数ってのは人間が情報のまとまりとして記憶できる数のことを差している。これは心理学的な用語として「チャンク」とも呼ばれているぞ。例えば「リンゴ」という文字を「リ・ン・ゴ」という三文字として知覚すると3チャンク、「リンゴ」という一つのまとまりとして認識すれば1チャンクだ。人間は7チャンクだか4チャンクだかしか短期記憶できないが、このチャンクの概念を理解し上手く利用すれば効率よく短期記憶の記憶量を増やしていくことができるはずだ。お前らにそんな器用な真似ができるかしらんがな。でも安心しろ、どんなに短期記憶がお粗末な奴でも、長期記憶の容量は膨大だ。どんなに効率が悪くたって長期記憶に英単語をぶち込めさえすれば、誰でも努力次第で英単語マイスターになれる。なんせ長期記憶の容量は無限とも言われているんだからな。ちなみに長期記憶に記憶された情報は脳みその中で更に手続き的記憶と宣言的記憶に分類されて整理されるんだが―――」


 この後の迦十先生の講義の内容は、真に残念ながら全く記憶に残っていない。どうやら俺は長期記憶に入れておく努力を怠ってしまったようだ。







 人間、忘れてしまっている大切な記憶がたくさんあるんだろう。そのくせ覚えていなくていい下らないことはいつまでも覚えてしまっているものだ。なんてのはこの手の話のテンプレートな語り口ではある。


 しかし記憶が曖昧だなんだってのは、本当にその通りだと思う。


 特に最近はそれを実感する機会が多い気がする。


「なにそれ?最近物忘れが激しいとか、そういう話?」


「まあ、そんな感じだな。あと直近の授業内容が何一つ記憶にない」


 目の前にいるはずの芭芭の声すら遠くに感じてしまう程、最近は異様に眠たい。町全域に妙な怪電波でもばらまかれているんじゃなかろうか、なんてアホな陰謀論を疑いたくなってしまう。


「ちょっと、ねむんないでよ。マジで宿題終わんなくなっちゃうよ?」


 机の上に広げられたノートの上に突っ伏すと、すかさず芭芭がシャーペンの先で俺の頭頂部を追撃してくる。


 くそ、あの先生マジで宿題十倍にするんだもんなぁ。そのかわり携帯没収は免れたんだけれどもさ。でもこの分量の宿題は、流石に芭芭に手伝ってもらわねば終わりが見えない。


 ちなみに舞城と都筑は俺に捕まる前にそさくさと帰宅していった。薄情な友人どもだ。


「パメラ先生、今日は機嫌良い日でよかったねー。機嫌悪かったらさ、たぶん授業終わった後できっちりスマホも叩き割られてたよ」


 芭芭の推測は大げさでも何でなく、迦十先生ならマジでやりかねない。あの先生は教職を半ば趣味で勤めていると公言しているため恥も醜聞もPTAも全くと言っていいほど恐れない悲しき無敵のモンスターなのだ。しかも筋トレが趣味のせいで、暴力に腕力が伴ってフィジカルも最恐なのである。


 ちなみに「パメラ」というのは迦十先生の別の名前だ。


 女子は迦十先生のことをパメラ先生と呼ぶ。男子共は迦十先生に調教されきっているので、間違ってもそんな親し気な呼び方はしない。先生の女子に対する優しさを一ミリでいいから俺たち男子にも分けて欲しい。


「いいから手を動かしなって。私そろそろ帰んないとだし」


 ああ、そういえばお前は、この頃になると家にさっさと帰ってしまうんだったな。


 今までなんとなく聞いたことがなかったけど、何かの習い事でもあるのだろうか。


「んー、まあそんなとこ」


 お前のことだ。


 塾だの空手だの茶道だの言いだしたって、別に特段驚きはしないさ。お前は優等生だからな。


「そうかな?そうかも」


 自分で言うな。日本人なら謙遜しろ。


「あはは。……ああ、もうこんな時間か」


 芭芭は教室の隅に掛けられている時計をさっと確認してから


「じゃあね。また明日」


 と口早にそう言って、それから駆けだすように教室を出て行ってしまった。


 あいつ全く顔に出さないから気が付かなかったけど、もしかして予定まで結構時間が押してたんじゃなかろうか。


 俺のために予定ぎりぎりまで居残ってくれたのだとすると、彼女にはかなり申し訳ないことをしてしまったかもしれない。


 明日機会があれば謝っておこう。


 それはそれとして、だ。


 迦十先生に課された課題が問題だ。


 既に半分以上終わってはいるがそれは八割方が芭芭の功績であり、残り半分を独力で終わらせなければならないとなると、俺の処理能力をして果たしてあとどれだけの時間がかかることやら見当もつかない。


 嘘だ。


 見当がつくからこそそれは絶望的な未来の展望であり、課題を進めようとする俺の手の動きを止めるには十分すぎるほどの抑止力をそれは放っていたのである。


 誰か手伝ってくれる者はおらんのかねぇ。


「それ、わざと口に出して言っているのかしら」


 声がした。


 ぎょっとして振り返ると、そこには宮之城の仁王立ちがあった。


「それとも、考えてることが全部口に出てしまうだけ?迦十先生の時もそうだったけど、あなたのそれって癖なの?」


 なぜ彼女がここにいるのだろうか。というか、いつの間に教室に入ってきていたのだろうか。全く気が付かなかった。


「後ろでずっと勉強してたのだけれど。……気づかなかった?」


 そうなのか。


 いや、でも、だって。 放課後はいつもいないし。俺は他人気にしている余裕なかったし。


 宮之城は今日に限って、どうして居残って勉強なんかしているのだろう。教室の方が勉強がはかどるぜ、ってなわけでもなかろうに。


「内藤くんが帰るのを待ってたの。でも、あなた、全然帰れそうにないもの。だから仕方なく机にノート広げて座ってた」


 ほう。


 ……?


 えーっと、なんでって聞いてもいいのかね。これ。


 宮之城が急に話しかけてきたのも謎だが、全くと言っていいほど接点のない俺を「待ってた」だなんて、奇妙にもほどがあるぞ。


「はぁ……。これ、あなたに渡したかっただけ。あんまり目立ちたくはなかったから、二人になれるタイミングを計ってただけよ」


 そう言って、宮之城はカバンから何やらそれなりの大きさの箱を引っ張り出すと、それを俺に放り投げるように手渡してきた。

 

 とっさに受け取ると、腕からずっしりとした感覚が伝わってくる。見たところそんなに厚さはないが、中身が結構詰まっているのだろうか。つーか、なんだこれ。見た目お菓子っぽいけど。


「菓子折りよ」


 お土産か。どっか旅行でもしてきたのだろうか。


「そんなわけないでしょ!昨日もちゃんと学校で会っていたじゃない。それは近所のお菓子屋さんで買ったの」


 じゃあ一体なんの菓子折りなんだこれは。なんか、見た感じでひしひしと伝わってくる高級さが殊更に恐怖を重増しさせているのだけども。


「それは、この前のお礼。そのままにしておくの、なんだか嫌だったから」


 お礼?


 さて、お礼を言われるようなことを何かしただろうか。


「トラックに轢かれそうになったところを、庇ってくれたじゃない」


 トラック?


 ……。


 あー。


 そういえば、そんなこともあったような……?


「ついこの間のことでしょ」


 いや、でもなんていうか。


 轢かれそうになったとか庇ったとか、そんなレベルの状況ではなかった気がするのだが。


「なに、それ。……もしかして、あの時本当は車と接触していたの?頭をぶつけた、とか」


 ぶつけたっていうか、押しつぶされたっていうか。


「あなた大丈夫?本当に頭、打ったんじゃないでしょうね」


 あれ?というか、さっきまで一緒に車に乗ってたはずだよな?俺たち。


「……病院、行く?あれだったら、私も一緒に行くけど。一応責任、ないこともないわけだし」


 ……違うか。あれは夢の中の出来事だよな。現実であんな無茶苦茶なことが起きるわけがないんだから。


「……ん、いや、大丈夫だ。ちょっとした記憶違いが起きているらしい」


 最近変な夢を見るんだよ。多分それのせいだな。


「宿題の手が止まってるのも?」


 もちろん。


「……はぁ、ちょっと見せて」


 宮之城は呆れたような顔をしながら、机の上に広げられた手つかずの課題を指さした。


 ?


 いいけど。見てて全然面白いもんじゃないぞ?字も汚いし。


 あ、でも俺が四苦八苦しながら課題に取りくむ姿が滑稽で愉快だっていうなら、まあその通りかもしれない。せいぜい半笑いしながら俺が苦しみに喘ぐのを見てるがいいけど、その場合は俺との間にその後の友情はありえないということを覚悟しておいた方がいい。


「いやそうじゃなくて」


 宮之城は面倒くさそうに腕を組んだ。ちょっとうざすぎたかもしれないね。反省。


「宿題、手伝おうかって、言ってるの」


 まあなんとなくそういうことを言いたいのだろうとは薄々感じとってはいたものの、なぜ宮之城が手伝ってくれるというのだろうか。


 先ほどの菓子折りもそうだが、別に俺が何かをしたからって、それで宮之城が気を使ってくれる必要はないんだぞ。


「そう?じゃあ、これは単なる、私の気まぐれってことでいい」


 それから宮之城は、有無を言わさず俺の正面に座り直した。


 目と鼻の先に宮之城の顔がある。宮之城はクラスメイトではあるが、これほどまでに接近する機会が果たして今まであっただろうか(いや、ない)。


 正直トラック云々のことはあまり覚えていないのだが、それはさておき、ほんのちょっとしたきっかけで人間関係というのはこうも劇的に変わってしまうものなのだろうか。


 劇的に、というには些細な変化かもしれないが、それでも今までの彼女の姿を見てきた俺からしてみれば、十二分に驚嘆に値する。


 宮之城との協力プレイは思いのほか捗った。


 それもそのはず、宮之城は、学力に関して芭芭には一歩劣るものの、常にテストの結果は上位であり、少なくとも、どちらかと言えば下から数えた方が速いくらいの成績順である俺からしてみれば、両者の学力に然したる違いがあるとは思えなかったのであるからして、どちらが手伝ってくれるにしろ俺としては非常に大助かりなのであった。


 舞城はともかく、都筑ならこと成績の良し悪しだけを取ってみれば二人と比べて遜色ないだろうが、アイツの場合は圧倒的に他人にモノを教える能力に欠けているので、彼らに教えを乞うたとして彼女らのようにはいくまい。


「あ、これ、次の範囲の予習になってる」


「どうりでわからんわけだ」


 迦十先生はやはり鬼畜であったか。授業で習っていない課題ができるわけなかろうが。


「どうせいつか課題で出されるのだし、今終わらせてしまえば、あとが楽なんじゃない?それがあの人なりのやさしさでしょ」


 どうかな。


 俺一人ではこれだけの課題をこなせる処理能力を持ち合わせていないことなど、先生は百も承知だろうにこれだけの課題を課したということは、やはり単なるいじめだとしか思えない。あの人女子には幾分か優しいから、男子としては余計に疑り深くなってしまう。


「というかあなた、この程度の課題もこなせないなんて、授業の予習、ちゃんとしているのかしら」


 予習どころか復習もしていないな。


 なんてアホなことを言っている間に、いつの間にやら課題の進みは佳境を迎えていた……なんて都合のいい事実は存在せず、どうやら真面目に本腰を入れて取り組まなければ課題は終わりを迎えることはなさそうであった。


 というわけで雑談ばかりしているわけにもいかないようだ。


 俺と宮之城はしばし無言で筆を走らせた。


 ペンが止まると彼女の助言が挟まる。「じゃあ私こっちとそっちやっといてあげるから」みたいな、芭芭流の手伝い、もとい「ズル」はどうやら宮之城には到底見込めそうにないようだった。自分のためと思って真面目にやりますかね。


 これを機に宮之城とより親睦を深めようかとも思ったが、それはともかくとして課題が終わらず迦十先生の鉄槌を食らうことは何としても回避しなければならないのだから、それはまたの機会にである。あれの威力ときたら、危うく死人が生じてしまうほどだからな。あんなに力を込めなくてもさ、バカとアホは叩いても治んないと思うんだがね。どうも先天性の病気のようだし。


 そんなこんなで10分ほどが経過したかと思われた時だった。



 遠くの方からクラクションのような音が微かにこだましたような気がした。



 まさかな。


 俺は恐る恐る音のした方向、教室の窓の方へ眼を向けた。この音には、夢の出来事だとはいえトラウマがある。



 外は街も山並みも斜陽で不気味なほど紅く染まっていた。もうじき陽が暮れるようだった。空も一面、オレンジ色に染まっている。



 そんな、ともすれば幻想的だとも思える光景の中央、空と街の境目の、稜線の中をポツンとそれは浮かんでいた。中空で、それはピタリと止まっている。



 それはトラックのように見えた。



「……」



 俺はさっと目を逸らして、それを見なかったことにした。そっちの方が都合がよかったからな。トラックが宙に浮いて静止している、なんて現実じゃありえない。


 俺が目線を目の前に戻してやると、宮之城はと言うと、俺とは逆方向の、教室の入り口を見ていた。


 俺もそれに倣って振り替えて見るものの、だれもいない。誰かいたのだろうか。


「いえ……気のせいだと思う。なんだか、神経質になってたみたい」


 ふむ。


 そう言われると、俺も改めてさっき見たものは気のせいだったような気がしないでもない。最近は夢のせいで変にぼうっとしてしまう事もあったからな。ストレスが溜まってあらぬものを見たのだろう。うん、そんな気がしてきた。


 というワケで、なんてわけでもないのだが、俺は何気なく、もう一度窓の外を見た。



「あ?」



 はっきり言って、見たのを後悔した。後悔したといっても、この当時は目の前に広がる光景を、到底受け入れることすらできなかったのだがな。



 というか、窓いっぱいに、巨大な黒塗りの大型トラックが広がっていた。



 バンパーを窓ガラスにこすりつけるようにして、トラックはまるでそれが当たり前であるかのように、窓の外にべったりと張り付いて静止していた。


 いや、正確には静止しているように見えた、である。


 トラックは宙に留まってなどいなかったのだ。静止していたように見えたのは、俺が視線を窓に移動させて、トラックを認識したその一瞬の間に、俺の脳が作り出した幻だった。


 「時折時計の秒針がピタリと止まって見える」


 なんて、そんなよくある錯覚と同じように、こちらに向かって突っ込んでくるトラックの姿が、ふと止まっているように見えた、ただそれだけなのだった。



 俺は咄嗟に、前を座っていた宮之城の椅子を足で押し飛ばした。



 その直後のことだ、轟音と共に教室の窓ガラスが吹っ飛んだ。


 硝子の破片が、斜陽を受けてキラキラと光って、横向きに教室全体を打ち付ける。


 窓枠の一部が宙をくるくると回りながら目の前を通過していくのを目にしたのを最後に、俺の身体はトラックとモロに衝突した。


 宮之城がどうなったのか、トラックに巻き込まれたのか俺にはわからない。ただし、少なくとも俺の身体は、トラックが衝突したそのパワーをまともに受けて、四肢と頭が弾け飛んだのが感覚で理解できた。


 それから、死ぬ間際の強烈な痛みを自覚する間もなく、俺は再びトラックに撥ねられて死んだのだった。


 気が付くと、俺は地面に伸びていた。硬く冷たいアスファルトの上を、無造作に寝転がされているのが分かる。


 俺の眼前には、先ほどの衝撃が嘘だったとでも言いたいかのように、ただただ青い空と雲がどこまでも広がっているばかりだった。


「うぉぉぉぁぁっ!?」


 もちろんだが、ちゃんと記憶がある。教室で空飛ぶトラックと派手に衝突事故、なんてあり得ない大事故を引き起こした直後だ。


 寝転がっていた俺は、しばらくもしない内にとんでもない絶叫と共に飛び起きた。男として情けない挙動だが仕方がないだろう。どんなに屈強な男だって、俺と同じ目に合えば自然とこうなるさ。


 そして、飛び起きた俺の目の前には、奇妙な連中が横にずらりと並んで突っ立っていた。



 なんだなんだこいつらは。



 一見すると、石膏のように真っ白で不気味な造形の仮面を、全身黒タイツの上に装着している変態集団だ。


 そして、その変態集団の並ぶ列の丁度中央に、まるで親玉であるかのように、そいつは静かに佇んでいた。


 黒いコートに、真っ白な仮面。仮面には黒い蛇の意匠が施されていて、白と黒のコントラストが俺の中の厨二心を絶妙に擽ってくる。……あと、どうでもいいんだけど仮面に視界を確保するための覗き穴が見つからないのが気になる。ちゃんとこちらの景色が見えているのだろうか。


 背は俺と同じくらいの、野郎だろうか。


 駄目だ。考えがあまりまとまらない。


 記憶の前後が全くつながらない。ずっと頭の中がぼんやりとして何一つとして明瞭だと思えるものがない。


 そんな俺の朧気な意識の狭間を縫い付けるかのように、仮面の男の仮面の中から、機械で合成したかのような、ざらざらとした不快な声が聞こえてきた。


 はっきりとは聞き取れなかったのだが、後から思い返して見ればこんなことを言っていたような気がする。


「『—――男と女の脳みそはその構造からしてまるで違う』」


 妙な話を始めた。


 うん。まあでも言わんとすることはわからなくもない。


 それはそうだろうな。彼女たちとの考え方の違いは、よく実感させられるよ。まるで違う生き物って感じ。


「『そして、これは、或いはお前らにとって周知の事実であるかもしれないが、基本的に男の脳みそよりも女の脳みその方が数段優れている』」


 なんでやねん。


 そこは対等であってくれよ。


「『理由は男の脳みそは原始の時代から狩猟に特化していて、それが現代に至るまで脈々とその傾向を受け継いでいるからだ。男は空間把握能力に長けている……が、それは獲物を捕らえる際にその能力が必要不可欠であったからだ。ところが現代において狩りの能力など全く持って不必要であるからして、当然それらの能力にリソースを割いている男の脳みそは無駄が多いということなのだ』」


 へぇ。そうなのかい。 無駄とか言わずに、なんかに使えない物かね。空間把握能力。


「『逆に女性の脳みそは言語能力に長けている。他者とのコミュニケーション能力が高いということだ。感受能力も高い。記憶力だって素晴らしい。しかも、だからと言って男に比べて空間把握能力が数段落ちるのかと言えば、実のところそれほど差があるわけではない。というわけで、少なくとも脳みそは男よりも女の方がずっと優れているのだ』」


 なるほど道理で芭芭や宮之城なんかには逆立ちしたってテストの点数で勝てないわけだ。俺が馬鹿なのは男だったからなんだなぁ。


 そんなことよりも、これは一体どういう状況なのだろうか。


 だんだん記憶がはっきりとしてきた。トラックに押しつぶされたかと思えば、いきなり車の中にいて、その車がコスプレ騎士に襲われて横転したあと、ヤバい犬に襲われたところまでは記憶に新しい。


 なぜこんな強烈な記憶を、今の今まで忘れていたというのだろう。


 もしかしてだが、こちらに戻ってきたから記憶が戻ったのだろうか。


 ここは、……いや、この世界はなんだ?


 俺がない頭を必死に捻らせている間にも、仮面野郎は訳の分からない話を続けている。


「『—――女が唯一はっきりと劣っているのは身体能力のみだが、それも訓練次第でいくらでも覆せる。……ところで、お前は声の質からして男だな』」


 声っつうか見るからに男だろうが。もしかしてだけどその仮面、マジに前見えてない? 覗き穴開けてやろうか、コラ。


「『お前は男だから、脳みそが優秀ではないはずだ』」


 ……いや、まあ、俺の脳が優秀じゃないのは、全く持ってその通りなんだからぐうの音も出ないんだけど、男だからってのはちょっと違うわな。男でも優れた奴は……いたかな。いたと思う。いたと信じたい。


「『そんな奴が、私の密室魔術クローズドマジックを『解錠』したというのが解せない』」


 くろ……なに?


 こいつらは頻繁にわけのわからない単語を使うんだな。頼むから馬鹿でもわかるように説明してくれよ。


 だけど向こうは俺の事情なんぞ知ったこっちゃないらしい。


「『……まあいい。お前らを確実に殺す手段を用意した』」


 殺すて……。


 まあ、コスプレ騎士が槍構えて車に突っ込んできた時からそちらの殺意はマシマシだってことはわかってたけどさ。


 何て考えてる場合じゃねぇ。


 何とかこの場から脱出しようと立ち上がろうと踏ん張ってみるものの、未だに車の横転のショックが残っているのか、上手く力が入らなかった。


 よしんば立てたとして、周りには女尊男卑蛇仮面の仲間の、黒タイツ白仮面軍団が控えているのだ。ここから自力で脱するのは不可能に近いだろう。命乞いも通用しなさそうな連中だ。


 そういえば、あいつらはどうなったのだろう。舞城らしき人物と、宮之城らしき人物。それからメイド少女だ。アイツらなら、少なくとも俺よりは事態に対処可能なのではなかろうか。正直俺の方は状況判断から戦闘能力まで、なにからなにまで完全にお手上げ状態なのだ。冷静に考えてみなくたって、頼りにできるとしたらアイツらしかいないのは明白だった。


 でも、今の今まで音沙汰の一つもないということは、俺より先に既にやられてしまっているかもしれないな。


 誰一人としてこの場に来ないのだ、その可能性は高い。さっきの犬にやられたか、それともコスプレ騎士の槍に串刺しにされたか。



 俺ももうじき殺されるのだろうか。



 ふと、身体がピクリとも動かなくなっていることに気が付いた。


 身体がセメントで押し固められたみたいに、自らの意思では全く動かせない。明らかに尋常でない体の異変。


 固定された俺の視界の端に、何者かの下半身がぬらりと写っているのがみえた。


 仮面野郎の服装でも、まして全身タイツでもない。脚がロングスカートに隠れていて、まるで剣道の有段者の如くその脚さばきを悟らせない。


 そうやって地面を滑るようにして、こちらにだんだんと近づいてくる。



 今までどこに隠れていたのだろう。



 なんてことが全く気にならなくなるほど、その人物の上半身は異常だった。



 正確には、胸のあたりまで伸びきっている頭髪がすこぶる奇妙だったのだ。



 そいつが身に着けている、緋色の水晶のネックレスを縫うようにしてそれは――視界の端に写っていてはっきりと断言することはできないのだが――まるで生き物のように蠢いているかのように見えた。


 というか、蛇だった。


 髪が蛇のようにうねっているのだ。


 そう、それはあたかも女神アテナの怒りを買ってその身に呪いを受けた、醜悪な怪物、のようだった。


 俺の中には、必死に目をそらそうと抗う心と、蛇髪の女を見てしまいたいという欲の狭間を全速力で反復横跳びしているかのような、奇妙な葛藤に苛まれていた。


 どちらかと言えば、正直に言ってしまうともう見てしまいたいとさえ思っている。


 だけど、見るとヤバいことになるのは、想像に難くない。果たして神話のように、石になってしまうのか。


 凝り固まっていく視界の中、ゴルゴ―マの声が聞こえてくる。



「『何をよそ見している?


 ……そうだ、それでいい。


 これでお前は――』」




 何やら勝利宣言をかまそうとしていたらしい仮面の男が、不意に言葉を切ってあらぬ方を見た。


 かと思った次の瞬間、仮面の野郎は突如として身を翻し、風のように瞬く間に俺の止まった視界の外へと飛び出していった。


 それとほぼ同時に、謎の影が横から吹っ飛んできて、俺の目の前に歩み寄ってきていた蛇髪女は巻き込まれて思い切り吹き飛ばされていった。


 なんだ、何が起こった?


 今のわずかな時間の間に、いつの間にやら身体が動くようになった。先ほどの硬直はあの蛇女のせいだったのだろうか。


 混乱の最中でどうにか蛇女が吹き飛ばされた方を見やると、倒れたままピクリとも動かない蛇女と先ほど飛んできた黒い物体が、黒タイツ白仮面の集団にものすごい勢いで引きずられながら撤退していく様を伺うことができた。中々に滑稽だが、それを楽しむ余裕などこちらには一切ない。


 黒い物体の正体は、どうやら先ほどのコスプレ騎士のようだ。


 なぜ奴が飛んできたのか気になるが、そんなことよりも直近の危機に俺は意識を丸ごと奪われてしまっていたのだ。


 引きずられていく二者と入れ替わる形で、波をかき分けるようにして黒タイツ集団の間からそいつは再び姿を現した。


 もうすでにトラウマと化している、俺を空の彼方に吹っ飛ばしてリアカーに叩きつけた、あの二足歩行の犬。


 あの気色の悪い犬が、地面から生えたかのように、その場にじっと佇んでいる。


 でもあの時ほどの忌避感は感じない。あの時は、ゴキブリが顔面に落ちてきたってああはならないってくらい逃げ腰になっていたというのに。


 それは犬が俺を狙っていないからか。


 そう、俺じゃない。


 別の奴を標的にしているのだ。


 俺は、先ほどコスプレ騎士が吹き飛んできた方向を顧みた。



 そこには、あの時車を運転していたメイド少女がポツンとつっ立っていた。



 突っ立っている、というか、彼女の両の手には黒タイツ白仮面の頭ががっちりと握り込まれている。


 手を引き剥がそうと黒タイツ二人は手足をじたばたさせているものの、メイド少女は全く意に介さない。大の大人二人を片手で抑え込んでいることから、途轍もない怪力が伺える。


「……」


 メイド少女は始終無言無表情であった。


 ……かと思えば、両手の黒タイツがいい加減うざったくなったのか知らないが突然ヒステリックな挙動で、しかし表情は変わらないまま、がっちり掴んでいた二人の頭を地面に思いっきり叩きつけた。


 黒タイツ二人の頭は嫌な音と共に、どす黒い血をにじませながら、硬いアスファルトにべったりと張り付いて、それからはもうピクリとも動かなくなった。


 メイド服に血が飛び散った。


 超こえぇぇ。なんというパワーだ。


 絶対に怒らせないようにしよう。人間じゃねぇよアイツ。


 怯える俺のことなどお構いになしに、状況は目まぐるし変化していくようだった。好転してるのだか悪化の一途をたどっているのだか、全くもってわからん。


 そんなこんなで黒タイツ共が明らかに死んだだろう挙動を見せたのとほぼ同時に、それまで対峙した状態のまま控えていた犬が、いきなりのノーモーションで右前脚をメイド少女に向かって射出した。


 そのあまりの速度といったら、俺が何が起こったのかを認識して脳内でそれらを言語化したその時には既に、射出された前脚はメイド少女に到達していたし、何ならメイド少女も途轍もない速度で動いて、片手で飛んできた前脚を引っ掴み、おまけとばかりに脚をバキバキに握り潰してひしゃげさせていた。


 おそらく瞬きをする間に行われたのであろう両者の攻防は、メイド少女が圧倒しているように、少なくとも俺の目にはそう写った。


 どちらにせよこいつらみたいに唐変木じみた大道芸の持ち合わせなどない、なんの変哲もない一般市民である俺には、最早大口開けながら事の成り行きを見守るほかなかったのだ。さっきまで高説垂れてた仮面の野郎も、いつの間にかどこかに姿を消してしまっているしな。


 犬は間髪入れずに、今度は左前脚を射出するも、やはりあっさりとメイド少女に掴まれて、見ていて痛々しいほどボキボキに折られて打ち捨てられる。


 メイドはあまりにも簡単にあの脚を掴んでいるが、俺にとっては瞬間移動してるとしか思えないほどの凄まじい速度なのだ。


 あの調子だったら、至近距離から撃ち込まれた弾丸ですら指で掴んで止められそうである。


 始終圧倒的なメイドの一方で、腕が伸びきったまま機能停止状態に陥っている犬の方は、今までの勢いは何だったのだと感じるくらい、見るからに旗色が悪そうだった。


 と、その時だった。


 今の今まで全く感情らしい感情など見せなかった犬が、ついに怒り狂ったかのように吠えた。


 不気味なほど無反応だった犬から、初めて感情らしい表情を感じ取った瞬間だった。どうでもいいが、この文章だけ抜き取ってみると感動的動物愛的なストーリーに見えなくもないのだが、その実態はまるで違うぞ。


 それはともかく、犬はむき出しの牙の隙間からまるで気炎が迸っているかのような激しい怒りを見せている……などと思っていたらどうやら比喩ではなくマジに口が燃え盛っていたみたいで、唸り声があたりに轟いた直後、口の中の気炎が弾け飛んで熱焔が一気に吐き出された。



 辺り一帯がオレンジ色の閃光に染まる。



 熱焔は真っ直ぐメイド少女まで伸びている。あまりの光で目が眩んで、こちらからはメイドの影すら見えない。


 トンデモない熱量が近くにいた俺の皮膚をチリチリと焦がした。滅茶苦茶熱い。今さらだが犬が炎を吐きだしているなんて本当に信じがたい光景だ。


 途轍もない熱の迸りは瞬く間にメイド少女を包み込んでしまった。あの犬がまだこんな隠し芸を持っていたとは。


 地面のアスファルトまで焦がしかねない直火の威力が、メイド少女を包み込んでいた。正直、全く生きている気がしない。


 犬は熱焔を完全に吐き出し終えた。首がぐったりしているところを見るに、どうやら全力をもってしてメイド少女を殺しに行ったようだった。



 が、ダメ。



 熱焔がしぼんで、あたりがすっかり落ち着くとそれは一目瞭然だった。


 先ほどまで火柱が立っていたその中心に、メイド少女は何事もなかったかのように棒立ちだった。


 何事もないどころか、あれだけ入念に炙られたにも関わらず全くの無傷。服ですら、全く焦げていない。敵の激しい攻撃で露出が増えた、なんてお色気シーンが挟まる余地なんて微塵も感じさせない、圧倒的無敵ぶりをメイド少女は醸し出している。


 こうなってくると、もうどちらが化け物なのかわからん。最早趨勢は完璧に決していたし、首が垂れている犬は落ち込んでいるようにも見えていっそ同情を誘われるまであった。


 しかし、その同情の余地もどうやらなくなってしまったらしい。


 垂れ下がった頭部がぶるぶると激しく震え始めていた。何やら最後っ屁のような攻撃を繰り出す予兆らしいが、個人的には、今さら彼女に勝てるビジョンなど皆無だろうし無駄な抵抗はよした方がいいのではないか、なんていうアホみたいな感想しか浮かばなかった。それもあのメイド少女の攻撃の矛先が俺に向いていない、という心の余裕が生じているからであろう。


 やがて、ぴたりと震えが止まった後、犬の頭部が前脚と同じ要領で射出された。


 犬の頭が途轍もない速度で空を飛んでいるのを見た。酒呑童子の生首もあんな風に頼光の元へ飛んでいったのだろうか……。


 犬の表情は人間の俺にはわからんが、空を飛んでいく奴の顔を怒りで歪み切っているように見えた。目の前を飛んだのはほんの一瞬だったし、気のせいかもしれないが、どちらにせよアレが俺に飛んでこなくて本当によかったといったところだろうか。


 案の定というか、飛来した首はメイド少女の手によっていともたやすく叩き落とされてしまった。


 ――なんてのが俺の大方の予想だったのだが、実際に起こったことは俺の予想とはかなり違ったのであり、つまりそれは、メイド少女の両腕が、先ほど引っ掴んで握りつぶした犬の両前脚で二つともふさがっていたということと、その結果メイド少女は、飛んできた犬の頭を、なんと頭突きで対応したのだ、ということだった。


 メイド少女の、はたから見たって凄まじいと感じるほどの強烈なヘッドバットの威力を直に受けた犬の頭は、文字通り空中で爆散した。


 硬いゴムまりが破裂したかのような高い音が周囲に木霊する。


 さすがに想像だにしなかった撃退方法だ。まあでも、犬があのメイドに攻撃しようとした以上、グロい結末を迎えることに変わりはなかっただろうけどな。


 あたり一面に犬の頭部の破片があたりに降り注ぐ。黒いアスファルトの上に脳みそらしきものがべちゃりと落ちてへばりついた。うへぇ。


 スプラッタ映画のワンシーンみたいな光景だったが、血に塗れたメイド少女がこちらをじっと見つめているのを加味するとこれはB級映画だろうな。興行収入一億もいかないだろうが、メイド好きのコアなファンは面白がって見に来てくれるかもしれない。


 しかし、そんな猟奇的だが幻想的だかわからない状況に水を差すかの如く、或いは当然の流れだったのかもしれないが、全身タイツ集団が俺たちの周りを囲むような形でぬっと現れた。こいつらまだいたのかよ。てっきり仮面の野郎ともども逃げ帰ったものだと思ってたぜ。


 でもメイド少女がいるうちはとりあえず安心。俺を守ってるのか敵を手あたり次第抹殺してるのか知らないが、取り合えずこいつに引っ付いてさえいれば身を守れるはずだ。


 なんてヒモみたいな思考に陥っているところ、まるで甘えを許さないかのように事態は再び大きく動いた。



 俺たちを囲んでいた全身タイツ共が、突然燃え上がったのだ。 



 すわ新手の登場か!と身構えたが(まあ俺が身構えたところでどうすんだって話だけども)、どうもそうではないということらしい。


 後方から足音が聞こえて、俺は振り返った。



 そこには見慣れていた顔と見慣れた顔がいた。



 舞城と宮之城だ。



「……」



 二人は明らかにこちらを警戒している。何も言わずにじっとこちらに目を向け続けている。


 俺はというと、宮之城の姿に思わず目を奪われていた。


 宮之城の顔の左半分。いつもはケロイドで覆われている火傷の痕が、赤橙色の炎に包まれていた。


 顔の半分が燃えているのにケロッとしているのに吃驚したというよりは、その意外なまでの美しさというか、宮之城と焔の奇妙なシナジーに感心させられたのだ。感心している場合ではないということは百も承知のうえで、だ。


 俺が何も言わないでいると、宮之城が徐に、左手を軽く振った。それだけで、周囲で火柱となっていた全身タイツ共がばたりと倒れ伏して即座に鎮火したところを見るに、いかなる原理によるものかは全く見当もつかないが、おそらくあいつらを燃やしていたのは宮之城なのだろう。そして、宮之城の顔の炎も周囲の炎と一緒に消えてしまった。


 彼女は、



 宮之城は一体何者なのだろうか。



 何もかもわからないことだらけの現状ではあるが、それでも、そんな俺にもはっきりとわかることがいくつかある。



 舞城や宮之城が、俺の知っている彼らとは異なること。



 少なくとも俺の知る現実にはあり得ない奇妙な力があること。



 この世界が、ぱっと見は同じでも、俺の知るものとは少し違うということだ。




 どうやら、いつの間にやら異世界にやってきてしまったらしい。


 いや、元の世界との類似点が多いことや、俺のよく知る人物がそのまま存在していることから、異世界と言うよりは「並行世界パラレルワールド」と呼ぶべきだろう。



 俺は自分でも気が付かない内に、魔術とかいう妙な力が現実に存在し得る、俺の知る世界とは少しだけ異なる世界、並行世界に迷い込んでしまったのだ!




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