第一章 長い墜落
総勢30名のクラスメイト。その内の一人である
言動が奇天烈だとか、或いは周囲が思わず目を見張るような、そんな突出した才能に恵まれているのだとか、そういうわけではないのだがしかし、容姿が少しばかり特殊だった。
顔面のおよそ四分の一、左目を覆うような形で、カニの脚のようなミミズ腫れが走っているのだ。いわゆるケロイドというやつである。
左目の色も、どういうわけか若干右目の色と変わっている。多分それらは、ずっと昔に負ったやけど……の名残、後遺症なのだろう。
「特殊」というのはつまり、腫物扱いというわけである。
厳しい受験を乗り越え見事合格を果たした――それが第一に志望したところなのかどうかはともかくとして――高校に意気揚々と入学したクラスメイト達は、入学早々に宮之城エリンと顔を合わせることとなった。
当然彼女の顔の傷が、俺含めその他のクラスメイト達の視線を否が応でも引き寄せたのは仕方のないことだったのだが、その当時は「慣れれば彼女もクラスに馴染むだろう」とクラスメイト達は高をくくって、大して気にも留めずに日々を過ごしていたのだった。が、しかし都合の悪い、というか質の悪いことに、宮之城は不愛想が極まっていた。
もうすでに入学から半年以上、文化祭やら体育祭やらがあっという間に終了し、壱年の粗方のイベントが矢のように過ぎていった。そんな高校生活、その今日のこの頃まで、少なくとも俺は、宮之城が笑ったところを一度たりとも目にしたことがなかった。
もしかしたら、仲のいいクラスメイトも一人か二人くらいは陰で作っているのかもわからない。ただ一つだけはっきりと確かなのは、少なくとも現状教室の中で表立って彼女と仲良くしているクラスメイトは誰一人としていない、ということである。
それこそ入学当初は、状況を危惧したクラスの一部の女子群が、なんとか彼女をコミュニティの輪に引き入れようとあれこれ画策していたのを知っているし、実際に何度か計画を実行に移していたらしいのを目にしたこともある。しかし、当の本人に全くその気が無いらしく、どれだけ親切してやっても梨の礫。
だからと言って宮之城が苛めにあっているとか総スカンを食らっているとか、そういったことは絶対にないと断言できる。というか、そういう空気に極力ならないようクラスメイトらが尽力した。
迫害とも疎遠ともとられないような絶妙な距離感。俺たちと彼女はこの半年以上の期間に、必死でそういう体裁を繕ったというわけだ。苛めだ何だとはた迷惑に騒がれるのは御免だ、という共通の消極的発想がクラスの団結を促しこれを為したのだと思われる。
どうせクラスに溶け込めていようがいまいが、本人はさほど困りはしないだろう。俺だって、ただ何となく近くにいるってだけの野郎どもと集まって放課後に駄弁っているだけなわけだし、宮之城は用事がなければさっさと教室を出て行ってしまう。お互いどうってことのないモラトリアムな日々が漠然と過ぎていくだけだ。
その、放課後に駄弁っている野郎ども筆頭の
俺が昨夜見た妙な夢について話してやると、舞城はつまらなさそうに肩肘をついて、手元の英単語帳をパラパラとめくった。
「へぇ、狭い部屋に閉じ込められて、ね。どうでもいいけど明日の授業の出題範囲って、ここまでだったはずだよな」
舞城が単語帳を指さしながら隣に座っている都筑にそう尋ねると、都筑は単語帳を覗き込んでから、頷いた。
「うん、でも舞城は当てられないじゃないかなぁ、座席の位置的に。順当にいけば、だけどさ」
都筑の方は単語帳を手に持ってはいるものの、開こうとはしない。きっともうこの程度の量の単語など粗方覚えてしまっているのだろう。
「それで?」一応、と言ったふうに都筑がこちらに振り向いた。「夢が何だっけ?」
「いや、だからさぁ」
改めて昨夜のリアルな悪夢について説明しようと身を乗り出した時だった。
教室の扉が音を立てて開けられた後、俺たち三人は思わず口を噤んで暫し扉の前に立つ人物を凝視した。相手がただのクラスメイトならばちらりと見ておしまいなのだが、今回のは非常に珍しいことに、一度帰宅したはずの宮之城がその人物だったのだ。
思わずギョッとしたね。俺も他のクラスメイト同様、彼女には一定の負い目のようなものが全くない、とは言えなかったからな。
宮之城と目が合う前に、俺たちは慌てて視線を机の上に戻した。
「あー……何だったか。確か部屋がどうこうって――」
「うんうん、それに関しては僕も実のところ中々興味深い話だと思ってたんだけども――」
舞城と都筑が自らさっさと終わらせようとしていた話を何とか拾い上げようと四苦八苦している中、俺はと言うと、実は視界の端のギリギリを利用して宮之城の動向を密かに追っていた。
宮之城は自分の席に戻って何やら机の中を探っている様子で、もしかしたら何か忘れ物でもしたのかもしれないな、何て事を考えながら視界の端のぼんやりとした景色にじっと意識を集中させていると、景色がわが校誇る灰と黒のセーラ服で覆いつくされた。
喉元に突きつけられたみたいな圧倒的存在感で、ひらひらしたスカートが風に揺れているのが目に入り、それから脳が擽られるような何とも言えない香りが鼻孔に滲んでくるのを感じた俺はとっさに体を仰け反らせて、結果椅子から転げ落ちそうになってしまった。
脚を必死に伸ばしてなんとか体勢を整えた後、俺が恨みがましい目で彼女を見上げた。音もたてずに近づいてきたそいつは眼鏡の奥の目を少しだけにやけさせながら、
「なに見てたの?」
高い声。男じゃこうはいかないよなっていう軽やかなソプラノだ。それから妙にニコニコしてやがる。
「
「気もそぞろにさぁ。宮之城さんの方ガン見してたよね?」
ガン見はしてない。どうやら芭芭から妙な誤解を受けているらしい。
「なんだよそれ、ガン見してたのか」
舞城が目つきの悪い三白眼でこちらをじろりと見やる。だから見てねぇって。
「ふーん」彼女は少しだけ気に食わなさそうに眼鏡のフレームに手を当てた。「ま、いいけど」
芭芭はそれ以上の追及はしなかったものの、どうやら芭芭の言霊に惑わされてしまったらしい馬鹿野郎二人がこちらをじろじろ見ながら妙な勘繰りを始めてしまった。
あーあ。 どうでもいいがあまり大きな声で名前を口にするなよ。本人にバレちゃうだろう。
なんていうことを思っていたら、後ろの方で不意に教室の扉が開く音がした。振り返って見ると宮之城がさっさと教室を出ていくところだった。探し物が見つかったのか、或いは先ほどの話を耳にして腹を立てて出ていったか。
「私さぁ」芭芭は俺たち同様宮之城が出ていくのを見送っていたが、すぐに目を離すと、それから俺たちに向かってこう言った。「もう帰るけど、みんなはどうする?一緒に帰る?」
「いや、帰らんけど。俺たち明日の授業の予習してるから」
俺がそう答えると、芭芭は肩を竦めた。
「いやいや、舞城君以外全然勉強なんかしてなかったじゃん。それに約一名は女の子に見惚れてたし」
見惚れてねーよ。
「まぁいいや。じゃあね、また明日」
芭芭はこちらに愛想よく手を振った後、宮之城に続くようにして教室を出ていった。
「珍しいよね、ああいうの」
芭芭が姿を完全に消したのを横目に、そんなことを口にした都筑。
「芭芭さんって、内藤の幼馴染でしょ?高校生にもなって、未だに仲の良い異性の幼馴染のペアってあんまりいない気がするんだよね」
この都筑の意見には舞城もおおむね共感できるらしく、腕を組んで何度か頷いている。
「漫画とかだとありがちな設定なんだけどな。俺にも一応幼馴染がいたけど、別に仲良くはなかったし、中学辺りから完全に疎遠になったしな」
舞城のやつに幼馴染がいるとは聞いたこともなかったが、まあ確かに舞城は特に女に不愛想なので異性とは幼馴染だろうが疎遠になるのもよくわかる。
せっかくルックスは学校で評判になるくらい良いってのに、そんなんだからお前はクラスの女子から悉く嫌われてるんだぞ。しかしそれでも一部熱心なファンがいるらしいのが、こいつの非常に気に食わないところだ。
というか、俺は別に芭芭と特別仲がいいわけじゃないんだけどな。
「それはないだろ。用もないのによく話してるじゃないか」
いや、そもそもの話、芭芭はクラスの女子の中じゃ一番男子との交流が盛んな奴だ。クラスで仲のいい異性は俺だけってわけじゃないんだし、俺にわざわざ話しかけてくるのも、幼馴染だからってだけの社交辞令みたいなものなのだ。
「そうかなぁ?僕の目から見ても、二人は特別仲がいい気がするんだけど」
都筑までそんなことを言い出した。ちなみに二人はもうすでに当初の目的をすっかり忘れているらしく、英語の教科書と単語帳は所在なさげに机の隅にて肩を寄せ合って放置されていた。
勘違いしている二人のために、俺と芭芭の関係、そのカラクリについて教えといてやろう。
俺と芭芭は幼馴染だが、実は中学が別々だったのだ。
俺は地元の公立校に、芭芭はいいとこの私立に。多感な時期である中学生活での交流を、図らずも回避した弊害と言うべきなのだろうか。互いに小学生の頃のテンションを引きずってしまっているのだ。互いにと言うか、主に向こうが。
入学当初、俺は遠慮するまでもなく話しかけなかったってのに、向こうが昔の儘の調子で話しかけてくるんだもんなぁ。
「なるほどねぇ」
都筑はそれで納得したらしいが、舞城はまだいぶかし気な視線を送ってくる。しつこい奴だな、いいから勉強してろ。
俺が少しばかり口調強めにそう言ってやると、今時の若者に流行の事なかれ主義者筆頭の友人二人であるからして、渋々ながらも素直に教科書を開いて勉強をし始めたのだった。放置されていた教科書共も寂しそうにしていた気がしないでもないし、ちょうどいい頃合いだろう。
俺も放課後に教室でうだうだやっているその真の目的を果たすべく、重い腰と肘を上げて、さてそろそろ始めますかねと自分の教科書を開きかけた丁度その時、ズボンのポケットにしまっておいた携帯電話が振動した。
電話ではなさそうだが、どうやら何らかの通知が来たらしい。俺は周囲に見られないよう配慮しつつ携帯を取り出して、机の下で通知の内容を何の気なく確認した。
ちなみにうちの学校では本来なら授業中はもちろんのこと、放課後でも校内での携帯の使用は校則で禁じられているものの、そんなのは建前だ知ったこっちゃないとでも言わんばかりに、ウチのクラスでは放課後の携帯の使用が平然と横行している。
学校での携帯の使用はバリバリの校則違反というのは承知なのだが、集団力学の成せる業なのか全くと言っていいほど罪の意識を感じられない。バレなきゃセーフである。
……。
なんだこれ?
携帯に送られてきた通知を開いた俺は、液晶をまじまじとのぞき込んで、それから、さすがに眉を顰めざるを得なかった。
送られてきたのは一枚の写真のデータであり、送り主は匿名。一体誰が俺の携帯に送信したかについてはよくわからないのだが、気になる問題はどちらかというとそれではなく、むしろ共有された写真の方にあった。
「予習の範囲は……助動詞の活用か。面倒そうだ」
「助動詞かぁ。助動詞の成り立ちとか、勉強したら凄く面白いんだけどね。クリキントン(英語教師の蔑称)のやつ教科書の範囲外の授業は絶対しない主義だもんなぁ。あ、どうせならよかったら僕が――」
手を伸ばせば簡単に触れられるほどの近くにいるはずの二人の、死ぬほどどうでもいい雑談が遥か遠く感じられるほど強力に、ダイソンの掃除機並みの吸引力で意識が写真の中に吸い込まれて、飲み込まれてゆくようだった。
写真の内容は母親らしき人物(非常に美人)とおそらくだがその子供であろう幼女のツーペアがこちらに向かって微笑みかけているという至って普通の代物であるが、俺の気を強烈に引き付けた要因は写真に写っている母親の顔だちに在り、彼女の顔の造形に俺の知っている人物の面影を強く感じたからであった。
普段よく目にする顔立ちは火傷の後に覆われているから確証と言えるだけの確信はないものの、写真の中の女性はあの宮之城と非常によく似ているのだ。
もしかしなくとも写真の中のこの幼女は宮之城其の人であり、宮之城に非常によく似ているこの御仁は彼女の母親であるのではないか?
という一つの仮説が電光の如くパッと頭の中で花開いた……は良いもののだがしかし、なぜこんなものが俺の携帯に送られてきたのだろうかという原点の疑問に、結局のところ立ち返ることとなってしまった。
この写真は如何にもプライベートなもので、だとすれば当然、この写真の持ち主はこの写真の中の人物の極々近しい人間、家族であってしかるべきであろう。
とすると、もしやとは思うがこの写真の持ち主は宮之城なのではないか?
じゃあ、この写真のデータを送ってきた人物はまさかの宮之城本人……なわけないって。
俺と彼女に接点なんて微塵もない上に、仮にあったってこんなもんを理由もなく送り付けてくる道理などない。
……いやまてよ。
本人が意図せず送った、というパターンがある。本当は俺に送るつもりがなかったはずがしかし、何がどういうわけかで俺に間違えて送ってしまった。しかも本人は俺に送ったことに気が付いていない、とすれば。
……うん、この写真は送られてこなかった、ということにしよう。第一俺にこんな他人のプライベート丸出しの写真を保存しておく趣味などもちろんないので、どちらにせよ、この写真はさっさと破棄してしまうに越したことはない。
そう決めた俺はすぐに写真を長押し、廃棄コマンドまでドラッグして、躊躇なく写真を捨てる。こういった作業を指先一つで感覚的に行えるのがスマートフォンの凄いところ、なーんてことを考えていた次の瞬間のことだった。
ほんの些細ではあるが、奇妙なことが起こった。
俺が写真を廃棄したのとほぼ同じタイミングでケータイの向こう側から、手乗り程の小さな紙が宙をひらひらと舞って、ちょうど足元のあたりに落ちたのが見えたのだ。
今にして思えば、あれはどうも俺が写真を廃棄したタイミングでフッと、虚空に出現したような気がしないでもないのだ。
まるで、携帯の裏から水滴のように染み出して、ポロっと零れ落ちた、なんて具合に。
この奇妙な現象について当時の俺はさして気にも留めずにいたのだが、勘のいい奴ならばこのあたりから俺の身に起こりつつあった異変に、目ざとく気が付くものなのだろうか。
これから起こる出来事の数々に比べれば猫の屁みたいな、なんてことのないこの奇妙な現象が、はたして大地震の前触れを鋭敏に感じ取って暴れ狂うというナマズの如く、身に降りかかる災いに対する小さな予兆と呼べるものだったのかは未だによくわかっていない。
だが、それはともかくとして、これ以降の出来事については、正直な所、言葉で説明して理解させるのが不可能な領域に片足を突っ込んでいると言っていい奇天烈な現象を目の当たりにしてしまった。であるからして、タイミングを鑑みても先ほどの出来事が、少なくともこれから起きる事象における何らかの前触れ、「きっかけ」であったのは確かなことだろう。
足元の紙切れを少しだけ前かがみになって摘まみ上げ、紙切れが思いのほか分厚く硬いことに気が付いて、更には謎の数字、生年月日らしきものが印刷されているのを目にしてはてと首を傾げて紙切れをひっくり返したところ、目に飛び込んできた情報に思わず目を剥いた。
というのも、どうやらそれは現像された写真のフィルムのようであり、またそこに写っていたものは先ほど携帯に送られてきた写真と全く同じものだったのだ。
先ほどはただの電子情報として受け取っていたもの、しかもすぐさま廃棄したはずの写真が、今度は電子情報としてではなく現物としてこうして手元に存在している、というのは意外なほど奇妙で気味の悪い状態であり、しばらくはしかめっ面を継続して写真を睨めつけていたのだが、不意に、俺の中でバラバラに四散していたパズルのピースがかっちりとハマったかのような、或いはまるで解き方の見当がつかない知恵の輪を適当に弄りまわしていたら、輪の一つがどういう訳だかすっぽり抜けてしまったかのような、そんな奇跡的な閃きが、或いは都合のいい勘違いが起こった。ちょっとした現実逃避とすら言っていいのかもしれない。
どうして写真のデータが俺の携帯に送られてきたのかはわからない。つい先ほど起こった現象についてもよくわからない。この時点で「キミの推理はキミに都合のいい情報のみで構成されている。すでに提示された情報を余すとことなく推理に取り入れていない」としてどこぞの素人探偵にボロクソに叩かれそうなものだが、俺は探偵ではないのでそれはどうでもいいとして、重要なのは次の二点だ。
「この写真の内容はどうも「宮之城」に関するもの、それもかなりプライベートなものであることから、おそらくこの写真は宮之城かそのごく親しい人物の私物であるかと思われる」ということ、それから「そういえば先ほど一度帰宅したはずの宮之城がこの教室に来て自分の机を漁っていた。どうやら何かの忘れ物を取りに戻ってきたらしい」ということ。
以上の二点から俺が導き出した推測が、「宮之城の探し物はこの写真なのでは?」というものだった。
それからは足が速かった。
俺は考えるより先に椅子から立ち上がると、写真を折り曲がらないよう気を使ってカバンにねじ込んでから宮之城の後をすぐさま追った。
「どこ行くの?トイレ?下痢でもした?」
都筑の問いかけにああだとかうんだとか適当に返事を投げかけつつ、俺は足早に教室を出て廊下に飛び出した。
今から追いかけて果たして宮之城に追いつくことができるだろうか?俺はあいつの帰路なんか知りもしないし、校門のあたりで追いつかなければ完全に見失ってしまうだろう。そう考えると、もう俺の脚はほとんど駆け出していたのだった。
ところでどうして宮之城を追いかけようなどと思ったのかについては、実のところを言うと俺自身はっきりとしたことがわからない。一応の理由は、探し物(推定)を届けてやろうという底抜けの善意、というかお節介というものではあるが、俺は実際にはそんなにお節介な人間じゃないし、第一忘れ物なら今すぐに届けなくとも、どうせ明日も学校に来るならば宮之城の机の上にでも放っておけばいい。
そもそも本当にこの写真が宮之城の探し物なのかすら不確かなことなのだ(とはいえ明らかにプライベートな代物なので、探し物でないにしてもさっさと宮之城に渡した方が良さげではある)。
もしあの時の俺が他に、善意以外の何か特別な理由があって宮之城を追いかけていたのだとすれば……それは一体何だったのだろうか。
結局、最後の最後まで俺は決定的な解答を得ることができなかった。
俺が校舎の階段を駆け下りていくと、丁度帰宅途中だった芭芭とすれ違った。ちょうどいいところにいたぜ。
「内藤?どうしたの、そんなに興奮して」
興奮してねぇよ。息切らしてるだけだっつーの。
「もしかして一緒に帰りたくなった?」
いや、そうじゃなくて。
「お前、宮之城とすれ違ったか」
「宮之城さん?いや、会ってないけど。なんで?」
「そうか」
どうやら彼女は寄り道することなくまっすぐ帰宅しているみたいだ。これは急がねばなるまい。
「宮之城さんが……どうかしたの?」
芭芭がそう尋ねてきたときには、俺はすでに彼女を後ろ手に宮之城を追いかける姿勢を取っていた。悪いけど急いでるから、すまんな。
「そ、そっか……。気を付けてね」
申し訳なさも込めて芭芭に軽く手を振りつつ、とはいえ振り返りもせず、俺は階段を滑るように駆け下りると、玄関を足早に抜ける。
気のせいかもしれないが背中にわが校の生活指田中の怒号が投げつけられているような気がするが、気のせいかもしれないので振り返ることなく走り去る。
それから、どう考えたってこの学校の建設に携わった建築家の落ち度であろう校門から玄関の入り口まで続く長すぎる階段を駆け下り、そのままの勢いで俺は校門を飛び出して、そして妙に人気の少ない路地の先に――どうやら間に合ったみたいでよかったぜ――宮之城の後姿を見つけ出すことが出来たのだった。
「おーい!」
間に合ったことについて感傷に浸る暇などなかった。
宮之城は競歩のトレーニングでもしてんのかってくらい早足で、こうしている間にもぐんぐんとその背中は遠ざかって小さくなっていく。
引き留めようと叫んだ俺の声は、はたしておそらくは彼女の耳まで届いているはずなのだがしかし宮之城の脚は1マイクロ秒も止まる気配がなかった。耳にイヤホンでも詰まっているのか鼓膜の老化が激し過ぎるのか、或いは、まさか自分を引き留める声だとは露ほども信じていないのか。
「宮之城!」
名前を呼ぶと、ようやく引き留められているのが自分だと気が付いたらしい。宮之城は早足を止めてピタリと足を止めると、振り返ってこちらをいぶかし気な表情で見やった。
宮之城の顔の左半分が露になる。
初対面なら少しギョッとするかもしれない大きな火傷の痕、ミミズがのたうち回っているかのようなケロイドが左半分を覆っている。
だけど、それを目の当たりにしたって、俺の顔に動揺のような色が僅かばかりも交じるはずがないのだ。曲がりなりにもクラスメイトとして一緒に苦楽を共にしてきたし、彼女の顔は毎日のように目にしてきたのだから。
毎日会っているはずなのに顔も合わさない程度の関係ではあるが、最低限度の関係性はあるはずなのだ。クラスメイトであるという、苗字を呼んで引き留めてもいいくらいの関係性は。
「……」
宮之城は俺のことをじっと、羽化寸前のサナギを観察するかのような瞳で見ていた。俺は息を整えつつ、ゆっくりと宮之城の元まで近づいた。
「なに、何か用?」
宮之城はかなり警戒しているように見える。
それもそうか。俺は宮之城のことを、少なくとも名前と顔とクラスメイトだってことくらいは知っているけどそれは一方的なものであるし、向こうは俺のことなんて全く知らなくてもそれは当然というものだろう。
いくらクラスが同じだからって、俺と宮之城は一度も話したことがないんだから。
ところが宮之城は軽く首を振ってこう答えた。
「いや……名前は知ってる。内藤くん、でしょ。ウチのクラスの」
どうやら名前くらいは覚えてもらっているらしい。クラスの連中くらいは記憶してしかるべき、って感じなのだろうか。
「クラスの男子の名前なんて知らない。でも、あなたは……ちょっと、目立ってるから」
目立ってる?俺が?嘘だろ?それ、悪目立ちとかじゃないよな。
「知らない。
どうでもいいけど、用があるなら早く言って」
あ、はい。
少しだけ不機嫌そうな声色の宮之城に、俺はいそいそとカバンから例の写真を取り出すと、宮之城に手渡した。ほらよ。
「なに、これ」
宮之城は不可解な表情で手渡された写真をじっと眺めまわしていたが、不意にギョッと眦がかっ開いて、かと思えば次の瞬間には物凄い手さばきで写真を、懐から引っ張り出してきた財布に素早くしまい込んだ。なんというスピード。
それからしばらく、閑古鳥が一回鳴いて、もう一度鳴くかどうかくらいの時間が経過した後、財布をしまい込んだままの姿勢で静止していた宮之城がようやく動いたか、と思えば俺のことを睨んできた。
「……見た?」
シンプルにそう尋ねてきた。「見たって何を?」なんて言うすっとぼけは一切求められてなさそうな表情を携えて。
まあ、見たか見てないかで言えば見たんだけども、それを果たして素直に伝えて良いものなのか否か。
「絶対に、落とすわけがないのに……もしかして、あなた」
なんだかあらぬ疑いが掛けられそうで慌てて首を振った。
「いや、盗ってない盗ってない。拾っただけだって」
焦って挙動不審になってしまったのが如何にも、という雰囲気が図らずも醸し出されてしまっているが、宮之城には是非とも冷静になって、俺がそんなことをする道理がないということに気が付いていただきたい。
「あ、いや、その……ゴメンなさい。本気で疑っているわけでは、ないから」
とか言いつつ未だに口はへの字に曲がっていて若干上目使いにこちらを見やる宮之城の頬は若干色づいていて、
あれ、なんか今の顔はすごく胸にクるものがあるぞ?
なんてそんな馬鹿なこと考えるのはどうなんだと思いつつ。
「一応、ありがとう……て、言っておく。凄く、大切なものだったから」
アホなことを考えてる隙に、宮之城にお礼を言われてしまった。それも意外なほど可愛らしい控えめな照れ顔を添えて。
いや驚いた。
「なに」
思ったよりもずっととっつきやすい奴なんだな、宮之城は。
いつもA・Tフィールド全開で他人を寄せ付けないから気が付かなかったけどさ。
「別に、そんなことないでしょ」
宮之城は如何にも不服そうに鼻を鳴らした後、「それじゃ」と言って踵を返した。
どれ、明日あたり教室でみんなの前で声をかけてみてやろうかな。もしかしたら彼女のギョッとした表情をもう一度拝める機会があるかもしれない。
まあそれはさておき、俺も手を振って見送りの言葉の一つでもかけてやろうと手を上げかけた、その時だ。
大きなクラクションが派手に鳴って、閑散とした校門前の路地裏に轟いた。
普通の乗用車が慣らすような音じゃない。もっと大きな車が慣らすクラクションだ。
周囲をぐるりと見回すが、車の通りは一台も見当たらない。と、そこまで考えて俺はようやく、目の前の地面に少しずつ浮かび上がってくる大きな影が見えた。
そして、反射的に空を見上げたその先にそれはあった。
数トンはありそうな、巨大な黒塗りのトラック。
一瞬だけ、まるで中空に突如出現して、そのままピタリと張り付けられているかのような奇妙な錯覚を覚えたが、違う、そうじゃない。
あのトラックは空から降ってきて、今まさに頭上へと高速で落ちてきているのだ。静止しているように見えたのは、おそらく脳の錯覚か何かに違いない。
大きな風切り音を縦ながら、大きなトラックが落下してくる。俺と、……俺の丁度前を歩いていた宮之城の真上から。
その事実に思い至ったのはコンマ数秒だったのか或いはもっと長かったのか短かったのか。
俺はとっさに前を歩いて立ち去ろうとしていた彼女を突き飛ばした。
異変に気が付いていたらしい、遅れて空を見上げていた宮之城は、背中を突き飛ばした俺を驚いたような、茫然としたような顔で返り見た。
付き合いが浅いから当たり前なのだが、あんな興味深い表情の宮之城は初めて見た。
そんな、見たことのない彼女の表情を目撃したのを最後に、
空から落ちてきた大型トラックが、俺の身体を地面に思いっきり叩きつけられたトマトのようにぺしゃんこに押し潰して、そうやって俺は虫みたいにあっけなく
死んだ。
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