第3話

 確かな、手応えを感じながら、ネーム作業は順調に進み、夕方になって、やっと完成することができた。

 でも、ネームを改めて、冷静に見返すと、本当にこれでいいのかという気分になってくる。

 自分では絶対に面白いと思ってる。けど、読者はそうは思ってくれないのはないか……。誰も読んでくれないのではないか……。ふつふつと、不安が湧き上がってくる。

 今まで漫画を描いてきて、ここまで、ネガテイブになるのは初めてだった。

 なぜ、突然、こんなことを考えてしまうのだろう。

 不意に、今朝のニュース、自殺した漫画家のことを思い出す。

 あのニュースのことをまだ気にしてるのか、心のどこかで?

 それがきっかけになって、今の不安を形作っている?

 いやいやいや、いくらなんでも弱気になりすぎだろ。

 ただでさえ今は大事な時で、頑張らなきゃいけないのに。

 打ち切り続きで、今回の連載は失敗したくないのに。

 もしうまくいかなったら、藤野に申し訳がたたない。

 生活面で、苦労をかけるたけじゃない、僕と藤野は運命共同体、一緒に漫画を書いてるから、僕の失敗は彼女の漫画キャリアに泥を塗る。

 だから、なんとしても成功させたい。

 そこで、はっと気づいてしまう。

 もしかして、失敗できないって気負いが、心に余裕をなくしているのか。    

 それで、ニュースのことで、ひどく心を乱されてるのか。

 不調の理由に心当たりをつける。

 ……。

 なんにしても、今の精神状態は良くない。今後の創作に悪影響が出る。

 僕は不安を必死に振り払おうとする。だけど、その気持ちは消えず、まとわりついてくる。

 気分を変えたい、何か甘いものでも食べて。椅子から立ち上がって、台所にいこうとすると。


「……啓太」


 藤野が作業の手を止め、僕を見上げてくる。

 見ると、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。


「ちょっと外歩かない? 一時間くらい」


 ちょうどいい提案だった。

 藤野とゆっくり外を歩きながら、話をする。

 甘いものを食べるより、よっぽどいい気分転換だった。


 外に出て、住宅街の道路を藤野と歩く。やかましいセミの鳴き声と、外の熱気が夏だということをいやでも感じさせる。

 とはいっても、今日は風が強い。湿度がそこまで高くないので、そこまで不快感はない。

  

「あのさ、なんか悩んでる?」


 しばらく歩くと、彼女は笑みを消し、心配そうにそう切り出してきた。 

 普段、あまり見ない真剣な表情だった。 

 

「えっ?」


 僕は思わず、足を止め、彼女をまじまじと見つめる。

 

「悩んでるように見えた?」

「うん、なんか、つらそうな顔してたから……」

「そっか、そんな顔してたのか……」


 とすると、彼女は僕を心配して、外出に誘ってきたのか。

 なんて、優しいんだ。

 彼女の心遣いに、感謝だな。


「確かに僕は今、悩んでるよ」

「何に、悩んでるの?」

「それは……」


 素直に打ち明けようとするけど、途中で、言葉が詰まってしまう。

 結構深刻な話だ。聞いたら、藤野はつらい気持ちになるかもしれない。

 いつも彼女には笑ってほしい。

 だから、適当にごまかすべきかもしれない。

 最近、夏なのに、夏らしいことが全然できてないとか……。


「あっ、今うまくごまかそうとか、考えてるでしょ?」


 ダメだよと、ちょっと怒った顔の藤野。

 図星を当てられ、ギクッとする。

 なんで、わかったんだ?

 その心の声も察したかのように、彼女は言う。


「ずっと一緒にいたから、そういうのわかるんだからね。さぁ、正直に言いなって。じゃないと、一週間、口聞いてあげないんだから」

「うっ、それは困る」


 想像するだけでも、かなりつらい気持ちになる。


「私も困る。そうなったら、寂しくて、死にそう。だから、私の命を助けると思って、さっさと言いなさい」


 自分自身を人質にする藤野。

 とても可愛らしい発言に、思わず笑みがこぼれそうになるが、それを抑える。

 彼女の表情が真剣そのものだからだ。

 

「じゃあ、わかった。言うよ……」

 

 僕は観念して、悩みを吐き出した。

 


「つまり、私のために、漫画を成功させたいんだね。でも気負いすぎたせいで、ちょっとしたことで、ネガテイブ思考になってしまうと……」

「うん、そうなんだ。考えても、仕方ないのに、つい考えてしまって……」

「そっか……。私のこと、とても大事に思ってるんだね。それで、思いすぎて、心を痛めてしまう……」


 僕の苦しみをいたわってるのだろう。藤野はどこか物憂げだ。

 でも、僕をまっすぐ見つめると、一転して、不満そうな顔をする。

 

「わかってないなぁ、啓太は……」

「え?」

「私が啓太のこと、どれだけ好きかわかってない。あなたといられて、どれだけ幸せかわかってないよ……」

「藤野……」


 僕は驚いたように、藤野を見つめる。

 彼女は服のすそをギュッと握ると、静かにこう言った。


「一生、貧乏ぐらしでもいいよ。漫画で成功できなくてもいい。だってあなたがいるんだもん……。だからね、覚えてて? この先、どんなことがあっても、私はあなたさえいれば、充分幸せなんだよ。報われてるんだよ」

「そこまで俺のことを……」


 思っていたのか。

 彼女の深い愛情に、感情が強く揺さぶられる。

 歯がカチカチと震える。目の奥がひどく熱い。

 思わず、泣きそうだった。

 そこで、ふと、藤野は表情をゆるめて、優しそうな目をする。


「それとね、啓太、あなたはもっと自信をもっていい。自分の漫画にもっと自信をもっていいんだよ。あなたの漫画は多くの読者に求められてる」


 そのことを今から、教えてあげると、彼女は僕の手を引っ張った。

 僕は何が何だが、わからず、されるがままだった。

 さっきまであった激情。それがあっという間に霧散する。

 感情の置きどころを失った僕は、とうとう涙を出す機会を失ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る