第5話 天狗は本を売る方法を知らない

夕暮れ時の喫煙所のベンチの上に3枚のヨレヨレの1万円札が置かれている。その横で河野はタバコを吸っている。

「何すかこの1万円札。河野さん、池に財布落としちゃったんっすか」

ベンチの上の1万円札を見た陸が口を開いた。

「違う。ゆいおっぷの出版社の営業のやつが置いてったおにぎりの中に入ってた。3つのおにぎりの中に1枚ずつ万札が入ってたんだ」

「マジっすか。思いっきり賄賂じゃないっすか」

「…はっきり言うな」

河野はゆっくりと煙を吐くと、吸い殻をスタンド式の灰皿にぐりぐりと押し付けた。

思えばおかしなことだらけだ。文芸系の本の発注は基本的に河野がやることになっている。しかし、新刊入荷日の今日、ゆいおっぷが多めに入っていた。最初、配本の関係でそうなっているのかと思っていたが、調べてみたら若林店長がこっそり発注をかけていたことが発覚した。文芸書担当の自分の頭越しに勝手なことをされ、少々頭にきた河野がそのことを店長に問いただすと、

「大丈夫だって。売れるから。この店の責任者は僕だよ。もし売れなくても責任は取るよ。でも、責任取るまでもなく売れるはずだけど」

とにこやかに返された。こうまで言われてしまうと、もう反論の余地はなかった。

この若林店長の『ゆいおっぷ』に対する並々ならぬ情熱と信頼の源は一体何なのか。少々疑問に思っていたが、今村が東京からわざわざ持ってきたおにぎりに紛れた渋沢栄一のせいだということがわかった。渋沢栄一と書いて一万円札と読む。これで謎は解決した。

解決したのか?

解決なんてしていない。

若林店長もゆいおっぷの版元の英心書店の今村も、渋沢栄一味のおにぎりで河野が懐柔されたと思っているんじゃないか? もう、河野くんはゆいおっぷ推しになった。バンザイ!

冗談じゃない。

河野はベンチに座り直し、タバコを箱から新たに取り出し口に咥え、百円ライターを近づけた。しかし、カチ、カチとライターのスイッチをいくら押しても火がつかない。ふとライターを見ると、中のガスが無くなっていた。河野はライターとタバコを地面に叩きつけた。

「あーらら。八つ当たりはダメっすよ」

「こうなったら、SNSで賄賂があったってことを公表してやる」

河野はベンチから立ち上がった。

「ダメっすよ。落ち着くっす」

陸が河野の両肩を抑える。

「うるさい。天狗に何がわかる! こんなことを許していたら、金のある出版社がやりたい放題だぞ。書店は賄賂まみれだ。許されると思うな」

「でも、英心書店の人、お金くれたんですよね」

「それがどうした」

「それで困った人、このさしす書房セントラル矢戸東店にいるんすか? むしろ、お給料の他の思わぬ臨時収入が入って嬉しいっすよ」

「でもな」

「でももへちまもないっす。SNSで賄賂の話したってお店の評判下がるだけっす。チンケな正義感で事を荒立てて得する人、この店にいないっす」

河野は黙った。倫理観はないが正論だ。あの渋沢栄一3枚は返本にかかるコストを加味してもこちらの得にはなる。令和の今の日本の書店員の1ヶ月の給料はそれほど高くはない。アルバイトだと、月に10万もらえるか否か。正社員の給料の平均は17万前後だ。そんな中での3万は貴重だ。レッドジャック不況の今なら、なおさら貴重じゃないか。

河野は力無くベンチに座った。

「じゃあ、どうしろっていうんだ。納得がいかないぞ」

河野は俯いた。陸は地面に叩きつけられたたばことライターを拾った。

「簡単なことっす。河野さんも、自分が面白いって思う本をガンガン発注かけたり、ポップ作ったりしてアピールすればいいんすよ。あるでしょ、ゆいおっぷに負けないくらい面白い本が」

陸はまたも正論を吐いた。天狗のくせに。

「そうだな。そうするしかないか」

結局のところ、書店員のやるこというのはそれしかない。

「俺も何とかするっす」

「何とかって何をだよ」

「何かっす」

天狗は空を飛べても、本を売る方法は知らないんだな。河野は大きなため息をついた。

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