第4話 おにぎりの味は渋沢栄一

「これ書いた人、頭おかしいんですか?」

丸はゆいおっぷのプルーフを閉じてそう言った。

「やっぱお前もそう思うよな」

丸の目の前の河野は、休憩室のテーブルに肘をつき、その上に頬を乗せている。

5月のGWが明け、ゆいおっぷの発売日になった。3月、4月と河野は副店長や他のスタッフにもゆいおっぷのプルーフを読ませて感想を求めた。みんな押し並べて丸とほぼ同じ感想を持っていた。そのことに安堵する一方で、何故店長がゆいおっぷを推すようになったのか、謎だけが深まっている。

「これは出版文化に対する冒涜ですか?」

「そこまで言う?」

「そこまで言いますよ」

「でも、店長は面白いって」

丸は首を捻った。

「意味がわかんないです」

「だろ?」

河野と丸は同時にため息をついた。

ドアをノックする音と共に、スーツ姿の男が入ってきた。

「休憩中のところ、すいません。河野さんという方はいらっしゃいますでしょうか」

スーツ姿の男の手には鞄の他に、丸まったポスターとプラスチック製の容器の入ったビニール袋がある。

「河野は私ですが」

「あ、休憩中でしたか。すいません。私、こういうものでして」

スーツ姿の男は鞄とビニール袋を休憩室のテーブルに置くと、懐の名刺入れから、名刺を取り出し、河野に手渡した。河野もそれに合わせてワイシャツの胸ポケットの名刺入れから名刺を取り出し、名刺交換をした。スーツの男から貰った名刺には『英心書店 営業部 今村陽平』とある。時々、出版社の営業の人がこうして書店の様子を見に来ることがある。しかし、英心書店は東京の出版社である。広島の書店を見に来るのはかなり珍しい。

「もしかして、ゆいおっぷの…」

「はい。こちらが今日発売の弊社のゆいおっぷの追加の拡材となっております」

今村はそう言うとビニール袋からポスターを出して広げて見せた。ゆいおっぷの表紙の子供の落書きのような人間の絵の上にデカデカと「先の展開が全く読めない! 異次元の発想! オススメ本大賞間違いなし」の文字が踊る。

拡材とは「拡販(拡大販売)材料」の略で、本を売るために売り場に節るポスターやポップのことを指す。特に重点的に売りたい商品に対して用いられるもので、時々、このように出版社からもらうこともある。

「もしよかったら、ご利用になってください」

「あ、ありがとうございます」

今村はニコニコしながらテーブルの上にポスターを置いた。

「あ、後これ、よかったら皆さんで食べてください。おにぎりのセットです」

今村はそう言ってビニール袋からプラスチックの容器に入ったおにぎりのセットを出してポスターの横に置いた。

「休憩中お邪魔してすいませんでした。失礼しまーす」

今村は空のビニール袋と鞄を持って休憩室を出て行った。

河野はテーブルの上のポスターを広げた。

「オススメ本大賞間違いなし、か」

「絶対ありえないですね。本大賞ならわかりますが」

ポスターにあるオススメ本大賞とは、新刊を扱う書店員の投票で大賞が決まる文学賞で、今年で30回を迎える。ノミネートされただけでも重版が決まるほど、出版業界で強い影響力を持つ賞である。

「なあ、丸。本大賞ってなんだ」

「その年の最もクソだった本を決めるネット上のお祭りです。オススメ本大賞の逆ですね」

「なるほど」

河野はポスターを丸めてテーブルに置いた。

ぐるぐるとお腹が鳴る音がした。

「…言っておきますが、僕じゃないですよ」

「…別にいいだろ、お腹が鳴ったって」

河野と丸の視線はテーブルの上のおにぎりのセットに注がれる。輪ゴムで止められたプラスチック製の容器の中におにぎり三つとたくあんが入っている。スーパーのお惣菜コーナー等でよく見るおにぎりのセットだ。

「あの英心書店の人、何で差し入れがおにぎりだったんだ? 普通は差し入れするにしても、お菓子とかじゃないか?」

「さあ? 河野主任、食べたらどうです?」

「…まあ腐らすのも勿体無いしな」

河野はテーブルに座ると、ビニール袋からおにぎりのパックを取り出し、輪ゴムを取って中を開けた。おにぎりはごく普通のおにぎりだ。何の変哲もない、ただ単なる差し入れだ。河野はそう思って、おにぎりの一つを手にとり齧り付いた。


クチュという感触が舌に伝わった。


何か、間違えて紙類を口に入れてしまった時に感じる感覚だ。お米の粒の感触の中に混じって、味のない異物の舌触りが口の中に広がる。口に入れてはいけない、嚥下えんげしてはいけない何かが口の中にある。

河野は表情をこわばらせている。

「どうしました? 河野主任」

丸が怪訝な表情で河野に話しかける。

河野は喋ることができない。ゆっくりと口の中に手を入れると、嚥下えんげできない原因の異物を取り出してテーブルの上に出した。唾液と米粒だらけの異物の正体は折り曲げられた紙のようだ。肖像画が印刷されているのがかろうじてわかる。

「うわ、汚い」

丸は思わず顔をひそめる。

河野は唾液まみれの異物を手で広げた。

渋沢栄一の肖像画が印刷された長方形が姿を現した。

日本銀行券の1万円だ。

唾液で肖像画もホログラムもヨレヨレになっているが間違いなく1万円札だ。

「な、何じゃこりゃああああああああ!」

河野と丸は同時に叫んだ。

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