ぬいぐるみがある風景
舞夢宜人
再会した幼馴染が嫁になった日
大学に進学して、この街に帰ってきた。
父が新しい支社の支社長に任命されてこの街から今まで住んでいた街に引っ越したのが、小学校に入学する前だったから12年前ぶりになる。当時に住んでいた家族向けの広めのアパートは父が本社に出張した時の宿泊用に当時のまま維持されていた。俺が大学に進学してこの街に戻って、父が海外の支社に単身赴任になったので、このアパートを俺が引き継ぐことになった。そのおかげで、着替えが入った大型のバッグ一つで身軽に引っ越しができた。テレビやパソコンといった家電はいくつか新しくなってはいたが、部屋は幼い頃のままだった。視線の高さの違いに違和感を感じるが、それだけの時間が経過したということでもある。
父が中身を持ち出したからか空になっている居間の書棚の上に、大きな熊のぬいぐるみが2体一組で飾られていた。女の子の方のぬいぐるみの服をめくってみると裏地に「さつき」と書かれていた。「さつき」といえば、緑川五月のことだろうか?彼女は、このアパートの大家で父の部下だった夫婦の娘さんで、俺がこのアパートに住んでいた頃には、母が彼女を預かって、俺が彼女に振り回されて玩具にされていた記憶がある。この一組のぬいぐるみは、俺と彼女の誕生日祝いに俺の両親が買ってくれたものだったはずだ。誕生日が同じだったこともあって、俺の両親が五月にも何か買ってあげようと五月もつれて俺の誕生日プレゼントを買いに行った。俺としては当時流行していた特撮ヒーローのフィギュアが欲しかったのだが、五月はこの一組のぬいぐるみを欲しがった。俺と彼女との攻防の末、彼女に負けてぬいぐるみになってしまった。五月が俺の家にいる時には、彼女はぬいぐるみを両手に抱えながら俺を追い回していた。小・中・高と特別に親しかった女の子がいなかった俺にとっては、人生で一番女の子が身近だった時期でもあった。
荷物を整理した後に、買い物に出かけるついでにアパートの大家さんに挨拶をしに行った。
「直人君、お久しぶり、さすがに大きくなったわねえ。」
「父の代わりに俺が住むことになりました。よろしくお願いします。」
「うちの旦那も、あなたのお父さんと一緒にシアトルだから、お互い様よ。あなたのお母さんとも機会があればお会いしたいねえ。」
「いろいろ確認しに突然訪問すると予告してましたので、その時はよろしくお願いします。」
「五月がいたら挨拶させるのだけれど、今日は出かけて行ってしまってね。あなたと同じ大学だから、会ったらよろしくね。」
挨拶を終えた後、教科書を買いに大学の生協に出かけた。
大学の生協の周辺には、荷物を抱えた新入生と、その新入生をサークルに勧誘する学生で賑わっていた。必修科目の教科書セットと、選択科目の教科書をいくつか選ぶと結構な重量になった。情報工学部で、著者が大学の教授たちなのだから、教科書ぐらい電子書籍にしろと言いたいのは俺だけではなかろう。
俺の前にレジに並んでいるポニーテイルの女の子も、どうしてこんなに重いのとブツブツと文句を言っていた。持っている本の組み合わせが同じなので、ひょっとしたら同級生かもしれない。学級委員長とか生徒会とかにいた秀才タイプだった。可愛いがちょっと気が弱そうな娘だなとレジ待ちの暇つぶしにちらちら見ていたら、睨まれた。声をかける前に振られてしまったようである。
会計を終えて生協から出たところで、俺の前にいた女の子がテニスラケットを持った男女のカップルに絡まれていた。
「教科書からすると、俺たちと同じ学部の新入生だろう。俺たちのサークルに入らないか?」
「心配しなくても、情報工学部の女子の大半が入っているサークルだから、大丈夫よ。」
困っているように見えたので、助け舟を出した。
「おーい。この後、用事があるとか言ってなかったか。」
彼女は俺のことをにらんだ後、パッと態度を変えた。
「そうなの。ちょっと用事があるから急いでいたのに、先輩に絡まれてしまったの。」
「持っている荷物からすると、君も情報工学部の新入生だろう。うちのテニスサークルに入らないか?」
「どんなサークルなんですか?」
「メンバーが情報工学部の女子に偏っているというだけで、普通のテニスサークルだよ。」
「情報工学部ってコマ数が多いから、他の学部の学生とはなかなか同じ時間帯に活動できなくてね。それで、同じ学部内でサークルを作ったのさ。活動日は毎週土曜日で、テニスと伊東ゼミの主催で情報処理技術者試験の試験対策の勉強会かな。」
「伊東ゼミというのは?」
「学部長の伊東教授のゼミで自然言語処理を30年以上やってきた研究室だよ。最近話題になったChatGPTとかと同じ分野になる。もっとも、ゼミでChatGPTを話題にすると伊東教授にあんな玩具と一緒にするなって怒られるがな。」
「情報工学部って卒業しても何かの資格が取れるわけではないから、就活を兼ねて、情報処理技術者試験の試験対策の勉強会だけ参加しているメンバーもいる。」
先輩方からの勧誘が続く中で、先に絡まれていた女の子はいつの間にか俺の服を掴んで俺の背後に隠れるようにしていた。
「岡田直人君だっけ、来週の土曜日に新歓のコンパを予定しているから、良かったら二人で参加してね。準備の関係があるから、あとで連絡ちょうだい。」
そうまくしたてると、別のターゲットを見つけた先輩方は去っていった。
「賑やかな先輩たちだったね。」
「じろじろ見るから誰かと思ったら、直人だったのか。お久しぶり。ああいう人たちは苦手だから助かった。」
「そういう君は、誰?」
「五月。緑川五月。うちのアパートに引越してきたのに、私のこと、忘れたの。」
「いや、分からないって。あの熊のぬいぐるみを抱えて、ぽっちゃりした幼稚園児が、スレンダーな秀才になって目の前に現れても分からないって。」
「まあ、いいわ。この後、帰るのでしょう?夕飯を作ってあげる。だから、私の荷物も持ってね。」
彼女は、そう言って自分の荷物を俺に持たせると、俺を引っ張っていき、途中でスーパーで材料を買うのに付き合わされて、俺のアパートにまで押しかけてきた。
調理器具を探すのを手伝わされつつも彼女が作ったのは、鶏の唐揚げと、カルボナーラだった。
食事の後に、お互いの両親たちのこととか、小・中・高での学校のこととか、話しているうちに、いつの間にか彼女は飾ってあった熊のぬいぐるみを抱きかかえていた。その後、父が冷蔵庫に置いていったレモンの缶酎ハイを見つけて二人で飲み始めたあたりから、記憶が曖昧になった。
翌日、母の怒号で起こされた。裸の女の子を抱き枕にして寝ているところを、様子を見に来た母に見つかった。ずいぶん暖かくて重いと思ったら、五月が肉布団になっていたのである。
「直人、どういうことなのか説明しなさい。」
「あっ、お義母さん、おはようございます。五月です。お久しぶりですね。」
「五月ちゃん?」
起きた五月は、近くにあったぬいぐるみで前を隠しつつ、ベッドの上で俺の隣に正座した。
「直人たらっねえ。これからはずっと側にいていいって、プロポーズしてくれたの。」
彼女は耳まで真赤にして恥ずかしながら、惚気だした。俺が、何か言おうとするたびに、あんなに愛を囁いて口説いたのに言い訳するのかと彼女に黙らされ、母は彼女の味方になった。途中から五月の母もやってきて、話が大きくなった。どうも母親同士は最初から縁談の同意ができていて、証拠を掴んだとばかりに畳みかけているようにも感じられる。気が付いたら五月は俺の嫁になっていた。
溜息を吐いて五月の方を見ると、彼女が大事に抱えている一組のぬいぐるみに、俺たちが証人だといわれている気がした。
酒は怖い。もう二度と酒なんか飲まないぞ。
ぬいぐるみがある風景 舞夢宜人 @MyTime1969
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