第3話 ピンクメッシュの彼女
季節感を間違えている。
夏の夜にレザージャケットはおかしいだろ。
恐怖をどこかに捨て去りたい想いが強くなっていくにつれて、思考の回転速度は上昇していく。
男の背後からこちらを覗き込む魔利亜の二人の顔が見えた。
「セ、センパイ! まだガキですよ! やめて下さい!」
ショートボブが言って、頭を下げている。
口の中が生暖かい液体で充満してくる。鉄の匂いがする。
喉を鳴らして液体を飲み込むと、鼻の頭がこそばゆくなり、前腕で拭った。
汗で僅かに湿った前腕に、赤い液体がぬめりと伸びて、手首の方までを染めた。
「みーちゃんさ、ガキも赤ん坊も関係ないのよ。俺は大王様よ? アンゴルモアよ」
男は言うと、猛の大腿を蹴り上げた。
「世界は滅びなかった。俺、終末思想を信じていたのに。俺、わかっちゃったんだよ、まだ生きろって言われてるんだ。そうだろ? だって、死ななかったんだぜ。だからさ、こうしてガキにヤキを入れるのも、俺の生きる道。あ……蟹、食べに行きたい」
男は振り返り、魔利亜の二人に向けて言う。
「蟹、食べに行こうぜ。車乗れよ」
魔利亜の二人は見合ってから頭を下げた。
「いえ、あの、今、仲間と待ち合わせているんで、いけません。また今度じゃダメですか?」
「ダメだね。今から行く。朝一で蟹を食うんだ」
猛は、やっと上半身をあげることが出来た。息は落ち着いてきていた。手元に石の一つや二つ、転がっていてもおかしくなかったが、駐車場のアスファルトの上には、小石しかなく、武器にはなり得なかった。
男の背中が目の前にある。
(バットで闇討ちでもすりゃ勝てるけどよ)
バットなんてねえよ!
どうすれば、この男に勝てる?
猛が立ち上がろうと膝を立てた時、シーマのヘッドライトが、男の股間から猛の顔を照らした。
(喧嘩ってのは、結局、最後までやり遂げられる奴が勝つんだからよ)
トオルの言葉だ。
アスファルトを蹴り抜く。
猛の右足が、男の股間を蹴り上げた。
右足の甲が痛む。なぜ?
「えっ」
予想外の痛み。
男が振り返る。ベルトに伸ばした手には、20センチほどの筒があった。
それを素早く振ると、50センチほどまでに伸びた。
男が大きく振りかぶり、それを見た猛は頭を両腕で包んだ。
こいつは、本気で頭を狙っている。
手首に燃えるような痛みが走った。
「このガキが! 卑怯者め! 殺してやる!」
左脇腹、肩、ガードし損ねた耳にも痛みが走る。
徐々に腰は崩れ落ち、尻もちを着いてしまう。
「センパイ! 本当に死んじゃいますよ!」
みーちゃんと呼ばれていたショートボブの声がする。
「良いんだよ! 教育的体罰は許されるんだ! 死んだってかまいやしねえ!」
教育。
生徒指導室での体罰を思い出す。
父親からの暴力を思い出す。
「君たち! やめなさい! 何やってんだ!」
どこからか、大人の男の声がする。
「ジジイ、てめえ、殺すぞ! 邪魔すんじゃねえ!」
「やめなければ警察を呼ぶぞ!」
警察という言葉が、一瞬、男に躊躇いを生ませる。
こいつ、警察にビビるのか。
猛は、意識が飛びそうになりながら、そう思った。
「おい、ガキ! 命拾いしたな。店員のジジイに感謝して、チンポでもしゃぶってやれ」
男は甲高い声で笑う。きひゃ、きひゃ。
「おいジジイ! アイス貰ってくぞ」
「本当に警察を呼ぶぞ。早くどこかに行きなさい! なんて奴だ」
男は、「ふふん」と鼻で笑い、「みーちゃん、よっち、蟹食べに行こう」と言い、シーマの方へ歩いていく。
「ですから、あの、仲間が来るので……」
「行くんだよ! クソアマどもが。沈めんぞ」
「は、はい」
魔利亜の二人は、店員と猛に一度目を向けた。
その時、わずかに頭を下げたのだった。
バイクを、これからここに来る仲間を、よろしく。
猛には、そう伝わった。
「君、大丈夫かね。ほら、起きられるか。うわ、血が酷いな」
「おじさん、警察呼んでください。あのシーマ、行かせてはダメです」
「え……、それは、どうかな。今、仕事中だし、私はここから離れられない」
「やっぱ、大人は当てにならねえ……」
猛は、魔利亜の二人がシーマに乗り込むのを見ている他なかった。
身体は、動かなかった。
「とにかく、端に寄って。ここじゃお客さんの邪魔になるから」
店員は猛の両脇に腕を差し込み、身体を引きずってコンビニの壁にもたれ掛けさせた。
「ちょっと待っていなさい。水と……、絆創膏くらいしかないが」
「水と、唐揚げ。下さい」
「唐揚げ? あ、ああ。わかった。それで、私はこの事は見なかったことにする。それで良いかね?」
「大丈夫です」
店員は店の中に入って行った。
コンビニの駐車場に、また、虚しさが残った。
スクーターが二台、一つはエンジンが掛かったままだった。
みーちゃんのスクーターだ。
耳鳴りがする。その奥から「教育的体罰」という男の言葉が聞こえてくる。
「何が教育だ。ボケが……」
前腕と手首の痛みが酷く、力が入らない。
「そら、水と唐揚げ、サンドイッチもある。大丈夫か? 腹、減ってるんだろ」
「ありがとうございます」
「大人も、やる時はやるのさ、ははっ。それじゃ、バイナラだ。気をつけて帰れよ、少年」
手が痛くて食えねえよ。
バイナラって、何時代だよ。水の蓋、開けてくれよ。
店員が店に入っていくと、生ぬるい風が猛の頬を撫でた。
蝉の死骸が、縁石の横に転がっている。
***
蟻は、夜でも働くのか。知らなかったな。
でも、種類によるのかもしれない。
蝉の死骸が、蟻の群れに少しづつ運ばれて、1メートルほど移動した時だった。
二人乗りのスクーターが、コンビニの駐車場に入ってきた。
「お姉ちゃんのバイク! まゆみちゃん!」
後ろに乗っている女が言いながら飛び降りた。
スクーターは少し揺れてから、駐車スペースに停まった。
「中にいるのかな」
身長の低い、朱い特攻服を着た女は、足早に店の中に入っていく。
壁にもたれている猛に目もくれない様子が、焦りを感じさせた。
女はすぐに出てきて、「いない! いないよ! まゆみちゃん!」と、ヘルメットを外している女に向かって言った。
「すず、落ち着いて。電話してみよう?」
まゆみと呼ばれた身長の高い女は、携帯電話を耳に当てている。
16音の浜崎あゆみの着信音楽が、みーちゃんのスクーター付近から鳴った。
ハイビスカスの装飾が、風とエンジンに揺れている。
「よっちの携帯だ……どうしてこんなところに?」
まゆみが呟くと、すずは泣き始めた。
「どうしよう、きっと何かあったんだ」
「店員に聞いてみる」
まゆみが店に入ろうとした時、猛と目が合った。
「あなた、私達と同じ特攻服を着た二人、見なかった?」
まゆみは猛に近づいてきながら言う。
「うわ、どうしたの、ぼろぼろじゃない!」
まゆみは猛の前にしゃがみ込んで、顔をじっと見てくる。
「レザージャケットを着た男が、シーマで連れて行きました」
猛が言うと、まゆみの表情が曇った。
まゆみの後ろで泣いていたすずが、顔を覆ってしゃがみ、声をあげて泣き始めた。
艶のある黒の、前髪の一部が、ピンク色に染められている。
「
「かさはら?」
あいつが……。
猛が聞き返すと、「うん、その男、センパイって呼ばれてたでしょ。あなた、やられたのね」
「すみません。滅多打ちにされてしまって」
猛の言葉に、まゆみは微笑んだ。
「いいの。ありがとう、守ってくれようとしたんだよね。かっこいいよ」
まゆみは、猛の頭を一撫でしたあと立ち上がった。
「笠原だ。すず。トオルさんに連絡しよう」
「……う、うん」
「トオルさん? あの、俺も連れて行ってくれませんか」
「あなた、動けるの? その身体で」
猛は立ち上がろうとしたが、全身に痛みが走った。しかし、それどころではなかった。自分の身体の痛みより、泣いているすずと言う女が気がかりで、そして、まゆみの優しさに、応えなくてはならなかった。
「こんなの、全然大丈夫です」
膝を立てた。頭を思い切り前方に振り、その反動で腰を浮かし、右下肢に力を込める。
そのまま倒れてしまいそうだったが、まゆみが身体を受け止めてくれた。
「本当に、大丈夫? バイクから落ちないでよね」
「みーちゃんって、呼ばれていた人が、助けてくれたんです。多分」
「みこ。どうして?」
「俺の事、塾帰りだって、笠原に話したんです。関係ないって」
「……そう」
「だから、俺も、助けに行かなくちゃ。……トオルさんに会うんですよね?」
「トオルさんを知っているの?」
「はい、今日の集会、初参加で挨拶させてもらいましたから。本当は、セルシオに乗る予定だったんです。俺」
「あ、宅間の後ろに乗っていたのって……」
「俺です」
すずが、まゆみを押しのけて猛の前に立つ。
猛の頬が張られた。
「えっ」
「あんたのせいじゃない!」
「ちょっと、すず、止めなさい。怪我してるのよ」
「まゆみちゃん! こいつのせいで、あきちゃんや他の皆も捕まったのよ!」
「でも、守ろうとしてくれたの。みこと芳美を」
まゆみが言うと、すずは涙を拭い、猛の大腿を蹴った。
「死ね!」
「やめなって」
「守り切れなくてごめん。でも、俺、絶対に助けるから」
「あんたに何が出来るのよ! このポンコツ!」
「いいから。すず、とにかくトオルさんに連絡するの。それで、笠原の居所を突き止めなくちゃ」
すずは不服そうに猛とまゆみに背を向けた。そして、みこのスクーターの元に行き、一度エンジンを止めると、シートバッグを開け、中を見始めた。
「あなたは私の後ろに」
「すみません」
「いいの。すずは姉が心配なの。私もだけど……。トオルさんに連絡するわ。待っていて」
「はい」
まゆみは携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。
すずの方を見ると、
猛は立っているのもやっとだったが、すずに近づいて話しかけた。
「あの、本当にごめん」
「うるさい。話しかけないで」
「……ごめん」
「どうしてあんたなんか……お姉ちゃんは助けたの」
すずは涙を拭うと、シートを戻し、猛の横を抜けてまゆみの元に歩いて行った。
すずの背中を見ながら、猛は自分の力の無さを呪った。
まゆみが電話を切っている。
「小山のデニーズに、トオルさんいるみたい。こっちに来いって」
「笠原は、蟹を食べに行くと言っていました。朝一で蟹を食べると」
「ううん。多分行ってない。ここから茨城の海までは二時間近くかかる。あの人は、そんな面倒な事はしないから。とにかく早く見つけないと、みこと芳美が危ないわ」
まゆみの腰のベルトを握るわけにもいかず、猛はスクーターのシート後方を両手で握った。
「大丈夫? 落ちないでね」
まゆみは言うと、アクセルをゆっくりと回した。
すずは、みこのスクーターに乗り、後ろから付いてくる。
十分ほど走り、デニーズに着いた。
駐車場に、セルシオが停まっている。
店内に入ると、来店に気付いた店員がこちらを見たが、話しかけては来なかった。
店の一番奥の、広い座席に四人の男の姿があった。
トオル、龍樹、
「トオルさん、お疲れ様です」
まゆみが言って、頭を下げる。
猛とすずは後ろに立ち、同じように頭を下げた。
「おい、猛、宅間はどうした」
トオルは、ボウリング場でのトオルとは顔つきが違って、明るく優し気な雰囲気が全く無かった。
「え、あの、コンビニで降ろされて、一人で帰れと言われました」
「何か言ってなかったのか」
トオルは言い、煙草に火を点ける。
「何の事だか分からないんですけど、やばいって言ってました」
「やばい? 走ってるときにか?」
「そうです。理由を聞いたんですけど、教えてくれなくて。今日はここまでだと、それだけしか」
「笠原とはコンビニで会ったのか」
「はい、俺、誰だかわからなくて、滅多打ちにされました」
「女二人が連れ去られ、お前は見ていたのか」
「身体が……動かなくて」
「情けねえな。これは、お前のせいだ。お前が喧嘩に勝っていれば、女二人が笠原に連れていかれる事は無かった。わかるか」
「はい。でも、奴は警棒を持っていたんです。俺は武器になるようなものは持っていませんでした」
「なんで持っていない? 準備不足もお前のせいだ」
「無茶言わないでください」
「あ? お前、今、誰と話をしているのか、わかってるんだよな?」
「はい、トオルさんです」
「生意気な奴だな。見た目以上に面白くない奴だ。おい上葉。こいつとタイマン張れ。ムカついたわ。俺」
上葉は、トオルの顔を見、その後で猛を見た。
「傷だらけっすよ。血も出てる。こんなんじゃワンパンっす」
「何だお前、猛の事、気に入らねえとか言ってただろ」
トオルは目を細め、にやけ顔で煙を吐いた。
「俺は良いですよ。上葉、タイマン張ろう」
「お前、馬鹿かよ。そんな状態で俺に勝てるわけないだろ」
「知らねえよ。お前の事なんか。俺は笠原に勝たなきゃならねえ。お前、笠原に勝つ自信あるか? 鉄の棒を躊躇いなく頭に振り落としてくる野郎に」
「笠原って人を見たことねえから、何とも言えねえよ」
「ガリガリに痩せてんだ。病気みてえに」
「なら余裕だ」
「そうか。じゃあ、俺とタイマン張ってくれ」
上葉は席から立ち上がると、猛の前まで歩いてくる。
「猛、お前、足が震えてるじゃねえか」
「手も震えてるよ」
猛は言い、上葉に「ついてこい」と、顎で外を指した。
猛が振り返ると、すずが見ていた。
目が合ったが、猛はすぐに外した。
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