第4話 約束

脚が絡んでつまづきそうになる。

すぐ後ろから付いてきていた上葉うえはが、たけるの手首を手に取った。

デニーズから出るのでさえ、一人の力では難しくなっていた。

「猛、俺の拳に合わせて殴られたふりをしろ」

上葉は猛の耳元で小さく言う。

「そんなの、すぐにバレる。第一、血が出なけりゃ、トオルさんは満足しないだろ」

出入り口のベルを鳴らし、扉を抜けると、店内のひんやりとした空気と、外の湿気を含んだ空気が融合し、重くなった。

「上葉、トオルさんはどうしちまったんだ。全然別人じゃねえか」

猛の言葉に、上葉は目を背け、額の汗を拭った。

「おい、何か言えよ」

「猛、トオルさんとは深い仲にならない方が良い。あの目、見たか?」

扉が閉まると、いよいよ時間が迫ってくる。

「止まれ」

上葉は猛の腕を引き、立ち止まる。

「もたもたしてるとやばいぞ、さっさとタイマンを見せなきゃよ」

「猛、俺な、去年父方の従兄弟とクラブに行ったんだよ」

「何の話だ。今そんな事話してる暇ねえだろ」

「聞いてくれ。従兄弟はアメリカ人なんだけどよ、アメリカの片田舎で牧場の経営やってんだわ」

「その話、後じゃダメなのか」

「今、話しておきたい。お前とは今日限り会わないかもしれねえから……」

上葉はそう言うと、特攻服のポケットから何かを握り締めた拳を出した。

「その片田舎のクラブで、こいつを見たことがあった」

上葉が拳を開くと、そのごつい手のひらの中央に、小さな粒が乗っていた。

ピンク色のそれは、真ん中にハート模様がくり抜かれるようにあり、一見するとラムネ菓子の様だった。

「これな、MDMAっていうクスリだ。トオルさん、これ売ってんだ」

「クスリ? 覚せい剤とかの事か?」

「ああ、ドラッグだよ」

「お前らも飲んでみろって、一錠くれた。飲んだ振りしたけどな」

「そんなもん早く捨てろよ、気持ち悪い」

猛が言うと、上葉は小さく頷き、デニーズの看板横の垣根に放った。

「ヤクザはクスリは捌かねえって、いつか何かの映画で見たけどな」

猛は笑いながら言う。

「お前も頭がどうかしちまったのか、猛よ。何笑ってんだよ」

上葉の声が背後から聞こえた。

猛が振り返ると、身構える暇もなく、上葉の拳はすでに目の前まで迫っていた。

咄嗟に身をよじり、腕を頭に被せるようにする。

上葉の拳は猛の左肩に当たり、その衝撃で尻もちを着いた。

「っぶねえな! いきなりは卑怯だろ!」

「クソッ」

上葉は両手の拳を構え、脇を締めて猛を睨んでいる。

「お前、飲んだんじゃねえよな、そのMD……何たらを」

猛は言いながら、地面に手を着き、身体を持ち上げる。

「飲んでねえよ。良いから、殴られてくれ。一発で終わるから」

「俺が立ち上がるまで、そうやって待ってるお前が、俺に勝てるのかよ」

上葉がデニーズの方へ目を向ける。それにならって同じく見ると、ガラスの向こうから皆がこちらを注視していた。

龍樹たつきが不安そうな顔をし、その隣でトオルと知らない顔の男が笑っている。

まゆみとすずは少し俯き、しかし、その目はしっかりとこちらを見ていた。

「お前、笠原に勝つ気でいるんだろ」

上葉が言う。

「またお喋りか、喧嘩は強えんだよな? お前」

猛は拳を作り、上葉の巨大な体躯を視界の中心に捉えた。

「当たり前だ、俺はまだ喧嘩で負けたことが無い」

「じゃあ、今日が初めての敗戦になるわけだ」

「言ってろ」

上葉が踏み込むと、一瞬で猛の目の前に身を寄せた。

「うおっ……」

猛は、自分自身から漏れ出た声にならない呻きを初めて聞いた。

顔の正面に腕を挙げた。

その隙間から見えたのは、上葉の拳ではなく眼だった。

拳はどこだ。

そう思った瞬間、身体がくの字に曲がり、確かに地面に張っていた足が宙に浮いた。

強烈な嘔気。

身体は横向きに倒れていた。

胃の内容物がアスファルトに流れ出た。同時に涙腺から大量の涙が噴き出てくる。

意識は、幾度も押し寄せる嘔気に対応するためだけに持って行かれた。

「弱ええなあああ! おい! おら!」

上葉が叫びながら肩を蹴りつけてくる。

しかし、全く痛みを感じない。

「おら! 死ぬか!? 死ねよ!」

今度は腹を蹴るようにつま先を当ててくる。

トンッと、上葉のつま先は寸での所で止まり、何度も猛のベルトに当たる。

「はぁ……はぁ……。クソチビが、結局口だけじゃねえか!」

上葉は大声でそう言うと、アスファルトに寝ている猛に背を向けて、デニーズに入っていった。

猛は上葉の姿を目で追う。ガラスの向こう側で、上葉は笑いながらトオルや龍樹の元へ歩いていく。

すずとまゆみは、まだこちらを見ていた。

しばらく、このまま立ち上がらない方が良い。

上葉は、演技をしたのだから。

トオルに見せるための演技。ボディブローも本気ではなかったのだろう。

あいつ、後で謝って来るかもしれない。

強烈な拳だった。

デニーズの席からこちらを見た上葉と目が合った。

口元には笑みがあるが、その眼差しは全く笑っていなかった。

龍樹が席を立ち、足早に出てくる。

「おい、猛! 大丈夫か!」

駆け寄ってくる龍樹は、本気で心配しているようだった。

「龍樹、戻れ」

猛が小さな声で言う。

「え……。すげえ傷じゃねえかよ。まったく上葉の野郎、加減て物を知らねえんだな。あのデカブツ野郎が。いつかバットでめっためたにしてやる」

「龍樹、お前、戻れって」

「お前がこんなぼろぼろになって寝てんのに、無視できるかよ!」

龍樹は言いながら猛の上半身を抱き上げようとする。

「良いから構うな、龍樹、頼むって」

「恥ずかしい事じゃねえよ、俺がやられてたら、お前だって同じように助けてくれるだろ」

龍樹は、少し恥ずかしそうな表情をしたあとで、「へへっ」と笑み、猛の腕を肩に回した。

こいつは、根が優しいんだ。だから、何も気づけない。

俺が、本当に上葉にボコボコにされて、立てなくなっていると思っている。

それほど、上葉の演技は完ぺきだった。

「龍樹、ありがとう」

「良いんだよ」

龍樹は、猛の身体を上げ、猛はその力で立ち上がる事が出来た。

「痛てえ」

「大丈夫か」

龍樹が言い、猛は更にもたれかかるようにして、耳元に近づく。

「龍樹、聞け。さっきのタイマンは演技だ。ここから……いや、トオルさんから離れるぞ」

「何言って……」

「でも、その前に、笠原の居所を掴む必要がある。掴んだら、速やかにトオルさんから離れるんだ」

「わ、わかった……」

「あと、俺と一緒に来た、まゆみさんと、すずって子も一緒に離れる。そのための考えを巡らせろ。穏便に、トオルさんから離れるんだ」

猛はそこまで言うと、俯くようにして、全身の体重を龍樹に預けた。

「うわ、ちょっと、重いかも」

龍樹は言って、猛の足を引きずるように、店内まで誘導した。

入り口の待合スペースのソファに、猛は寝かされた。

店員の女性が何かを言いたげな表情でこちらを見ている。

「龍樹!」

トオルの声が聞こえ、龍樹は不安げな表情を猛に向けた後に、皆の元へ戻った。

女性の店員が店の奥に下がっていく。

猛はソファで横になりながら、この後の事を考えていた。

とにかく、笠原の居所を掴まなければ。そして、すずの姉であると芳美を連れ戻さなければ。

すずと約束したことだから。


レジの後ろの壁に時計があった。11時半を指している。

猛の身体は、まだ起き上がるには辛かったが、肘を立てるようにして、皆の様子を見た。

龍樹と上葉が大袈裟に騒いでいる。

レジ横の天井から下がる、トイレの表札が目に入る。

「大丈夫?」

表札を注視する猛の視界に入ってきたのは、すずだった。

「ああ、平気」

「笠原、アパートにいるらしい」

すずは言うと、待合い席に座る。

「じゃあ、早くいかねえとな。それで、トオルさんは何て言ってんだ?」

「ああやって、笑ってるけど、笠原をどうこうしようとは考えてないみたい。お姉ちゃんとよっちの事、心配しているのかと思ってたけど……」

「あの人、クスリ売ってるって、上葉が言ってた。早くここから逃げよう」

「どうやって?」

すずは言うと、見下ろすようにして猛の目を見た。

「助けに行かねえと」

「だから、どうやって行くの」

猛には、ここに警察を呼ぶという案があった。

しかし、それは下手をすれば厄介な事になりかねないという思いもあった。

警察は今、猛達を探しているかもしれなかったからだ。

「一か八かだけど、警察、呼ぶか……? 事情を説明すれば、お前の姉ちゃんも助けてもらえるかもしれない」

猛が言うと、すずは黙って天井を仰いだ。

「そこまで、してくれるかな。警察が」

「わからねえけど。相手はヤクザだぞ。上葉がその気になれば、この場は何とかなるかもしれねえが、後から何をされるかわかったもんじゃない」

「それは、そうだけど」

猛は、自分の案を話しながら、惨めだと思った。

力の無さを痛感した。

「なあ、笠原のアパートの場所は、わかってんのか?」

「うん、行った事ある」

すずの言葉を聞き、猛はその事実が嫌だった。あの男の暮らす部屋に行ったことがある。

その位、親しい仲なのだと。

「笠原と、魔利亜ってのは親しいみたいだが、どうしてだ? それとも、お前個人が、笠原と親しいのか?」

猛は、否定したい気持ちを押さえ、努めて真剣に聞いた。

「笠原の元奥さんが作ったチームだからだよ。もう死んじゃってるけどね」

伏し目がちに言うすずは、馬鹿騒ぎする皆の方を一度見る。

ピンクメッシュの毛先が、わずかに黄色がかった照明を吸い込んで輝く。

「まて、そもそもトオルさんと笠原は夜魔のOBだよな?」

「そうだよ」

「今、何歳なんだ、あの二人は」

「20」

すずと猛は、皆の様子に目を向けながら話す。

「で、魔利亜の創設者が、笠原の元奥さん?」

「うん。笠原は、夜魔の7代目の総長だからね」

「……総長だったのか」

「知らなかったんだ」

「知らないよ。俺は今日が初参加なんだから」

「そうだったね」

「笠原が総長だった時代に、魔利亜を作ったって事か」

猛はすずの横顔を見上げる。

「うん。今の魔利亜の総長は、笠原の元奥さんの妹」

「なるほど、じゃあ、笠原とは義理の兄妹って事か」

「そう。だから、笠原にとって私達は妹分」

「妹分の魔利亜のメンバー達に、あいつは何かさせてるのか。売春とかか?」

魔利亜の悪名は猛の世代には大きく轟いている。

売春の斡旋、恐喝、暴行、窃盗と、様々な噂があった。

「いや、何も。ただ遊びに付き合わされる。私達は、笠原に手は出されない」

「じゃあ、助けに行く必要はないんじゃないか」

魔利亜の悪名がただの噂に過ぎないことは、コンビニで出会った時には分かっていた。しかし、その悪名がもし、魔利亜のメンバーを守るためのものだとしたら、笠原のはかりごとは、この上なく効果的で絶大な力を発揮している。

だから、猛にとっては拍子抜けだった。

今頃、笠原に連れていかれた二人は、笠原に玩具にされ凌辱されているのだろうと思いこんでいたのだから。

しかし、すずの様子を見るに、そのような事態は無いと言う事は確かなようだった。

「私達は、魔利亜を解散させたいんだよ。チームの解散をして、普通に生活したいんだ」

「……それを許さないのか、笠原が」

「そう。縁が、切れないの。深すぎて」

「その縁は、どうしたら切れるんだ?」

猛がすずに問うと、すずは考えを巡らすように、じっと一点を見つめた。

「代わりが、必要なの」

「代わり?」

「私達に代わる、新しい遊び相手」

「それは男でも良いのか?」

「うん、大丈夫。笠原は、子供みたいな人だから。わがままで自己顕示欲の塊で、それでいて残酷」

すずはそう言うと、黙り込んだ。

「もう一つ答えてくれ。トオルさんと笠原の今の関係は?」

「ヤクザの元同僚で、友人。トオルさんが、笠原の保護者って所かな」

「なるほど。それで、まゆみさんはトオルさんに連絡したのか」

「宅間って人はね、笠原の遊び相手の一人なんだ。トオルさんがあてがったの」

「宅間さんが?」

「そう、でも、宅間は笠原から逃げようとしてる。それを笠原も知っていてね。こないだ電話を無視した制裁で丸刈りにされたって聞いた」

猛はGSXのリアシートに乗っている時の事を思い出していた。

隊列を乱し、警察の中を突き抜ける無茶な走り。

あれは、普段の宅間ではなかったのだろうか。

確かに、わずかに焦りのような、しかし、それは単純に興奮だったのでは?

普段の宅間はどんな人なのか。タバコを差し出してきた時、落ち着いて見えた。

でも宅間が『やばい』と言った時、あれは間違いなく焦りだった。

あの直線の先に、笠原の車が見えたのか?

そう思うと、猛は全て腑に落ちるような気がした。

「すず、だったよな、名前」

「うん、あんたは猛だっけ」

「トオルさんと話し付ける。ちょっと肩、貸してくれくれないか」

「大丈夫なの?」

「おう、約束したからな。助けるって」

猛が言うと、すずは立ち上がって、猛の手を取った。

猛は足が地に着いているのを、何度か床を蹴って確認する。

「あんた、結構重いのね」

「まゆみさんは支えてくれたぞ」

右足を引きずって、店員の視線を横目に店内を歩く。

上葉が気付いて笑顔にゆがめた口角を解き、懇願の表情になる。

(こっちに来るな)

上葉の目は、確実にそう言っている。

猛とすずはトオルの前に立った。

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