第5話
僕は、耳を疑った。
「無くなった。パレットナイフは、紛失したのでない。ただ、無くなった」
確認するように、
「たっくんがいきなり油絵に目覚めて突発的に持ち帰ったのではないならね」
ふざけている。第一、僕は、文芸部の人間だ。いや、今、そんなことはどうだっていい。
「盗まれたんだよ」
お気に入りのソファに身体をあずける花澄子。
「この家に、セキュリティーなんて大層な概念があるようには思えないし。どこの鍵も、きっと針金一本で開けられる。あのぎいぎい鳴る重たい玄関扉だって、蝶番を外せば簡単に侵入できる」
言っていて恐ろしくなったのは、僕のほうばかりだった。焦って、花澄子に触れる。大義そうに、顔を上げる。
「私、たっくんのいたずらか、いやがらせか、あるいは屈折した愛情表現かと」
「面と向かって罵倒できるのに、わざわざ盗むものか」
「それもそうね」
肩をすくめる。
「それこそ、僕は、花澄子のいたずらか、いやがらせか、あるいは屈折した愛情表現かと思っていたくらいなんだ。そうでないなら、これは大変なことなんだよ、花澄子」
その後、手を組んだり、窓外を眺めていたりしたかと思うと、こちらに向き直る。
「私、なんだか不安なの」
両腕を広げる。
「そうなの。そんな風には、見えないけれど」
そっぽを向く。いらいらする。
「たっくん、お姉さんのひざだよ。座りなさいって」
ひざを叩く音がする。
「僕と花澄子は、よその家の子どうしということになっているんだ」
「いとこね。でも、いとこでも、私は、たっくんのお姉さんよ」
花澄子の声が優しくなっていくのが解る。大人の前では、決して出さない声。
「どうして、一人暮らしをしているの。今までだって、家庭教師だの、家政婦だの」
「心配してくれているのね。ありがとう。たっくんは、優しい。でもね、六年間だけなのよ。私が大学生でいられる間だけが、私の自由時間。ここを逃すと、どこかのお飾りみたいな奥さんのようになってしまうからね」
花澄子の戸籍上の母のことだ。政略結婚というやっかいばらいをさせられた。しかし、夫の子供を産むことができない。矛盾した存在。それでも、離婚できない。逃げ出せない。
「本当のきょうだいがよかった。花澄子がお姉さんで、僕が弟」
年甲斐もなく、泣きべそをかく。花澄子が立ち上がり、僕を抱く。何度も背中をなでる。
「嫌よ。そうしたら、たっくんは今のたっくんでないもの。私、今のたっくんが好きよ」
「そう思うのなら、僕の頼みを聞いてくれないかな。もっとちゃんとした所に住んで。きっと終わらない。こんなことで、終わらないよ」
結局、花澄子が実弟の忠告を聞き入れることはなかった。
県庁所在地に下宿があったほうが便利だし、また三十分の通学時間が勉強時間になっていいとうそぶいて。
花澄子は、僕に会うため、あの大学の医学部に進学した。そして、僕の住む街に、下宿を構えた。
間もなく、花澄子の飼っていたうさぎは殺されることになる。腹には、数本のパレットナイフが突き刺さっていた。
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