第3話

「ねえ、たっくん。あれ、知らない。あれ」

 目前には、宿題の山。無視を決め込む。

「ねえ、たっくん。聞こえているのでしょう」

 ふすまを開けきり、隣の部屋でキャンバスを前にする花澄子かすみこ

「何」

 ようやく口を開く。

「だから、あれ知らない」

 油絵用の長い筆を振る。

「え?」「あ、れ」

 いい加減、このやりとりにも飽きてきた。立ち上がり、敷居をまたぐ。

「あれとは何ですか。仙波花澄子せんばかすみこさん」

「パレットナイフよ」

「ん?」

 顔をしかめる。僕には、それが何であるのか解らない。

「ほらね。だから、私はあれと言ったのだわ」

「それで、何故、通じると思っているのか」

 花澄子は微笑み、小首を傾げる。

「これが、筆でしょう。そして、もうひとつ筆以外の物を使うでしょう」

「ああ」

 ここまで言われてようやく理解する。

「あの、先がひし形の」

「そう、それ。どこかで見なかったかしら」

 部屋を見回す。さしあたり、見当たらない。

「無いよ。僕の視界に映らないという意味で、花澄子の部屋にはパレットナイフが存在しない」

「そう、残念。ついこの間も見当たらなくて、用心のために数本買い足しておいたのだけれど」

 溜息を吐く。その様子に呆れる。

「部屋を片付けなよ。花澄子」

 うんざりした目を向けるも、花澄子は決して微笑まない。ごまかしはしない。

「無くなったのよ」

 部屋を風が吹き抜けた。


 ヒヨは、産まれた。自らの手で母なる兎の腹を裂く。そうして、やっとのことで、ヒヨはこの世に頭を覗かせたのだ。黒目がちな瞳が初めて宿した光こそ、宿命そのものだった。

 部屋の中は、まだ薄暗い。さりとて、深夜というほどではない。太陽が顔を覗かせつつある。家人を起こさぬよう、ゆっくりと床から起き上がる。壁伝いに歩を進める。勉強机の上、花澄子からもらったぬいぐるみ。その様子は、いつかの事件を想起させる。口元をおさえる。腹の中に居る、それは首を傾げる。寝巻の袖口で拭う。反対の手を差し出す。自らがすっぽりおさまってしまうてのひら。親指のあたりに、頬と手が触れる。温かい。僕は、涙を流した。

「おかえりなさい」

 それは、果たしてどちらへ向けた言葉だったのだろうか。何度思い返してみても、解らなかった。

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