[2]

 案内された場所は同じ階の控室だった。出入り口の前で、ピンクのブラウスにグレーのパンツスーツ姿の女が半泣きの状態で立っている。それを横目に勇が中に入ると、女がひとり、苦悶の表情を浮かべたまま床に横たわっている。勇がその女の首筋に触れて脈を確かめる。

「一応、救急車は呼んだんですけど・・・」

岩下が遠目に様子を見ながら言った。

「すでに手遅れのようです。警察にも通報してください」

勇は岩下に指示を出すと、室内を見渡した。鏡台には私物であろう鞄と、化粧ポーチに雑誌が一冊、さらにスマートフォンが置かれている。テレビはいたままで、ワイドショー番組が流れていた。そして、遺体となった女のそばにあるテーブルには、飲み口が開かれた缶ジュースが一本置いてあった。そこで勇は室内に残ったなにかを感じ、鼻をクンクンと鳴らした。


 十数分後、通報を受けて警視庁捜査一課の猪瀬勝之いのせかつゆき小野平太おのへいた、並びに羽華警察署の鑑識係が現場に臨場した。小野が関係者に事情聴取している間、猪瀬は遺体を検めている鑑識課の沢渡泰三さわたりたいぞうに訊ねていた。

「死因は?」

「遺体の状態から見て、喉頭浮腫こうとうふしゅによる上気道閉塞じょうきどうへいそく。つまりは、アナフィラキシーショックの可能性が高いって検視官が言ってたよ」

「アナフィラキシーショックというのはですね・・・」

室内の隅で立っていた勇が手を挙げて説明しようとしたところを猪瀬が遮った。

「知ってるよ!っつーか、なんでまたお前がいんだよ」

最近は事件が起こるといつもこいつがいる。自分は呪われているのかと猪瀬が項垂れたとき、手帳を持った小野が声をかけた。

「猪瀬さん」

小野の隣には岩下と女が立っている。勇が先ほど控室前で見た女だった。

「死亡したのは岡田莉々子おかだりりこさん。二十九歳。タレントをしています」

手帳に記した遺体の身元を小野が明かした。それを聞いた猪瀬が再度、遺体の顔をまじまじと見て呟いた。

「芸能人か。確かになんかのバラエティに出てたな」

小野は次に、女を手のひらで指し示して紹介した。

「それでこの方がマネージャーの氏家夏美うじいえなつみさんで、遺体の第一発見者です」

夏美が黙って一礼すると、小野が遺体の発見状況を説明する。

「本番直前になっても岡田さんがスタジオに現れないので、心配した氏家さんが様子を見に行ったところ、遺体を発見。通りかかったADの岩下恒夫さんに声をかけたとのことでした」

岩下も簡単に頭を下げたあと、手帳を見ながら小野は続けた。

「その三十分前、十一時半ごろに数分、軽い打ち合わせをしたらしく、岡田さんも出席していたので、亡くなったのは打ち合わせを終えてここに戻ってきたあとになりますね」

小野が報告すると、猪瀬が死んだ莉々子について質問をした。

「岡田さん、なにかアレルギーみたいなのありますか?」

死因がアナフィラキシーショックと知っての質問であった。

「はい。重度のピーナツアレルギーでした」

「そんなに重かったんですか?」

猪瀬の問いに夏美はうなずいた。

「ええ。少しでもピーナツの成分が体内に入ると発作を起こすそうです。なので、食べ物にはすごく気をつけていました。食品ラベルの表を逐一確かめるほどでしたから」

腰に手を置いた猪瀬が室内を眺めて言った。

「だけど、それらしい物はないよなあ。あるとしたら・・・」

猪瀬は前屈みになり、テーブルにあるジュースの缶に目を遣る。

「でもこれ、リンゴジュースだしなあ」

≪APPLE≫と記載された缶のラベルを見てそう言った猪瀬に、隅で話を聞いていた勇がひと言発した。

「交差反応・・・」

猪瀬が訊き返す。

「え?なんだって?」

勇は直立不動で説明を始めた。

「ピーナツアレルギーを持つ人のなかには、無関係に見えるほかの食べ物や飲み物を食べたり、飲んだりした際に発症する場合があるんです。それが交差反応。それが引き起こされる食品のひとつに、リンゴのジュースがあります」

その説明を聞いた猪瀬は、気になって沢渡に訊いた。

「それ、本当か?」

「俺は医者じゃないけど聞いたことはある。考えられなくはないな」

「これ、ちょっと持ってもいいか?」

猪瀬がジュース缶を指差す。

「ああ」

沢渡の許可を得て、ジュース缶を手に取った猪瀬は耳元で振ってみた。

「まだ残ってるけど、飲んてはいるみたいだな」

ジュース缶を元の位置に戻した猪瀬は推し量る。

「じゃあ岡田さんは、そのなんちゃら反応のことを知らずにジュースを飲んで発作を起こし、亡くなってしまった。ってことかあ?」

「なら、事故死ってことになりますね」

小野が言い添えた。

「事件性なし、か。だが、念のため解剖に回そう」

そう発した猪瀬がひとつ息を吐いたとき、勇は夏美のもとへ歩み寄って鼻を近づけていた。

「なんですか?」

夏美が変質者でも見るかのような目になる。

「うーん・・・。あなたじゃない。ということはこの部屋の中ですか・・・」

勇は呟いたあと、夏美に丁寧に謝った。

「すみません。いきなり失礼しました」


 勇と岩下が副調整室に戻ってくると、亀井が歩み寄り、岩下に事情を話させた。番組はちょうどCM中で、その不穏なふたりを見た浜浦がスタジオから亀井に訊ねた。

「亀井さん。なんかあったんですか?」

亀井は備え付けられた卓上マイクに向かって話す。舞と浜浦のヘッドフォンに亀井の声が聞こえてきた。

―岡田莉々子さんが亡くなったそうです。

「えっ!?」

小さな声を舞は上げた。

「岡田さんが!?警察はなんて?」

驚いた様子の浜浦がさらに訊くと、それには岩下が答えた。

―どうやら、アナフィラキシーショックによる事故死だとか。

警察官として現場に向かうべきか舞は悩んだ。

―浜浦さん。岡田さんとは面識がありますか?

勇の声がした。

「廊下ですれ違う際に挨拶する程度で、それ以上は」

―わかりました。

「私、行ったほうがいいのかな」

舞が呟いたとき、なにかに気づいたのか、思い出したのか、勇が急いで室内から出ようとした。だが立ち止まり、一旦戻って岩下になにやら告げるとドアを開けて出て行った。それを聞いた岩下は、副調整室から舞と浜浦にマイクで伝えた。

―杠葉さんのお連れの方から、この件はこちらでなんとかするので、杠葉さんはそのまま続けていてくださいとのことです。

「そう、ですか・・・」

自分に気を遣ってくれているのか、それとも事故だから自分は必要ないと思って言ったのか、舞には勇の考えていることが判然としなかった。


控室の外では、まさかの事態に夏美がタブレットを見ながらスマートフォンで方々ほうぼうに連絡をしている。現場に入った勇は白手袋をはめた。こういったときのために常に持ち歩いているのだ。

「沢渡さん。岡田さんの所持品、少し見せてもらえませんか?」

「べつにいいけど・・・」

勇の申し出に沢渡は訝しながらも受け入れた。

「お前、帰ったんじゃなかったのかよ」

猪瀬の問いかけを無視して、勇は鏡台に置かれた莉々子の私物を調べた。化粧ポーチには口紅やファンデーション、そして携帯用と思しき小型でスプレータイプの香水ボトルなどが入っていた。そのうち勇は香水ボトルを取り出すと、蓋を開けてひと吹きし、香りを嗅いだ。それから勇は、スマートフォンに目が留まった。手に取って電源を入れると指紋認証の画面が表示された。

「遺体、搬送するぞー」

沢渡が言うと勇が強めに呼び止めた。

「ちょっと!ちょっと待ってください!」

遺体のもとへ行きしゃがんだ勇は、その遺体の人差し指を画面に触れさせた。すると、ロックが解除された。

「失礼しました。搬送して結構です」

謝した勇は立ち上がった。

「俺たちは大学病院行くぞ」

遺体が運び出されていくなか、猪瀬と小野が司法解剖に立ち会おうと室内を出ようとしたところで、スマートフォンを操作していた勇が申し入れをしてきた。

「猪瀬さんか小野さん。どちらか残ってもらえませんか?」

「なんでだよ?」

猪瀬が疑問をぶつける。

「まだ確信はありませんが、これは事故死ではないかもしれません」

「はあ?」

理解し難い猪瀬に、視線をスマートフォンからふたりに移した勇が懇願した。

「僕が言える立場ではないですが、協力してください。お願いします」

その眼差しに猪瀬は一瞬嫌な顔をしたが、内心では悔しいながらも勇の力を認めていた。

「俺が残るから、お前は解剖に付き合ってろ」

猪瀬は小野をあごで指した。

「わかりました」

あんなに毛嫌いしているのになぜだろう。白手袋を外した小野が、怪訝そうにその場を後にした。

「で、協力ってなにすりゃいいんだ?」

ぶっきらぼうに猪瀬が勇に訊いた。

「簡単です。見てるだけでいいんです。その前にある人から訊いてほしいことがありますが」

猪瀬は首を傾げた。勇は再びスマートフォンを操作し出した。


 同じ頃、舞は勇の動向が気になりながらも、浜浦やラジオの聴取者の質問に答えていた。

「続いては、モッチさんからのご質問。本物と刑事ドラマの違いはなんですか?」

ノートパソコンに送られてくる聴取者の質問文を読んで浜浦が舞に訊いた。

「そうですね・・。警察手帳でしょうか」

「警察手帳?」

舞がうなずく。

「はい。本物とドラマでは色が微妙に違うんです」

「今、お持ちになってます?」

「もちろん携帯してます。義務ですので」

「よろしければ、見せていただけますか?」

浜浦の要望を舞は受けた。

「ほんとは必要があるときなんですけど」

舞は上着から警察手帳を取り出すと、開いて浜浦の前に近づけ示した。

「確かに・・、違いますねえ」

警察手帳を食い入るように見つめた浜浦は続けて問うた。

「紐が付いているのは失くさないためですか?」

浜浦は警察手帳に取り付けられた紐を指した。その紐は、舞の上着の内ポケットまで繋がっている。

「ええ。失くしたら大変です。懲戒処分になっちゃいます」

「悪用でもされたら警察も困るでしょうしねえ」

「ものすごーく困ります」

そう言うと舞は警察手帳を上着にしまい、聴取者の質問に続けて答えた。

「あとは、ドラマで刑事同士が居酒屋や屋台などで事件について話すシーンがありますけど、ほんとはダメなんですよ。守秘義務がありますから。でも、お酒が入ってつい話しちゃう警官はいますね」

「刑事ドラマでは“あるある”ですけど、そうなんですねえ」

もうひとつ舞は付け足した。

「それに、取調室でカツ丼は出ません。これは皆さん知ってますよね」

舞が微笑んだとき、副調整室に猪瀬が入ってきた。スタジオからそれを見た舞は「どうして」と不思議に思った。


 猪瀬が視線を動かしながら呼びかけた。

「あのー、亀井さんはどなたでしょう?」

その呼び声に亀井と岩下が猪瀬に歩み寄った。

「亀井は私ですけど」

亀井が名乗り出ると、猪瀬は警察手帳を提示した。

「捜査一課の猪瀬です」

そして猪瀬は、亀井の傍らにいた岩下に小声で言った。

「あなたが遺体のあった控室に案内した男、鴨志田って言うんですけど、あいつがあなたになんか訊きたいことがあるそうで、今、例のその控室で待ってるんですよ。ちょっと付き合ってもらえませんか?」

「は、はい。わかりました」

言われたとおりに岩下が副調整室から出て行く。と同時に猪瀬は亀井に訊ねた。

「ひとつ伺いたいことがあるんですが・・・」


 その頃、勇はスマートフォンの画面からなにかを発見した。

「なるほど・・。そういう関係でしたか・・・」


 次に勇は、控室に置いてある三つの分別ゴミ箱をそれぞれ物色し始めた。

「やはりここにはない・・・」

勇はなにかを探しているようだった。


控室を出た勇は、困惑した表情でタブレットに表示されたスケジュールを見る夏美に声をかけた。

「氏家さん、ひとつ質問があるのですが」

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