[4]
その広い座敷には七分丈のTシャツにロングスカートを身に着けた愛乃、スーツ姿の秀孝とスカートスーツを着た妻の紀香の姿があった。三人とも正座したまま、驚きで目を丸くしている。愛乃にいたっては怖気づいているように見えた。立っていた哲馬は、さらに殴ろうと上げた腕を猪瀬が摑んだ。
「暴行の現行犯だ」
猪瀬が中島を見ると、中島の口が切れて出血している。
「いや、傷害だな。来い」
せっかく足を運んだのに、また署に戻るはめになってしまった。猪瀬はもどかしく感じながらも、小野と共に哲馬を連行しようとしたとき、中島が引き留めた。
「協議が終わってからにしていただけませんか。またスケジュールを組み直すのも大変なので」
「え・・?ま、まあ、そちらがよろしいのでしたら・・・」
尻もちをついた状態になっている中島のもとに舞と勇が歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
しゃがんだ勇は中島にハンカチを差し出した。それを受け取った中島は口元に付いた血を拭い取った。
「ありがとうございます。クリーニングしてお返しします」
「いえ。結構ですよ」
勇は中島の言葉を丁寧に断ると、ハンカチをまた自分の手に戻した。
「なにがあったんですか?」
舞が周囲に向かって問いかける。その問いには秀孝が答えた。
「遺産の取り分が足りないと哲馬が怒り出したんです」
「俺だけ一千万なんておかしいだろ!」
声を荒げて突っかかる哲馬を猪瀬と小野が押さえた。
「一千万もありゃ十分じゃねえかよ」
猪瀬が小言で呟いた。
「あの、皆さんはどちら様ですか?」
見ず知らずの四人を見た紀香が訊ねた。
「この方は刑事さんで、私が呼んだんです」
愛乃が舞を手のひらで指して代わりに答えると、舞は警察手帳をかざした。
「呼んだのは舞さんひとりなんですけど、ほかの方は・・・」
困惑した声を出した愛乃に、勇は微笑んで返した。
「鴨志田と言います。あそこにいるのは猪瀬さんと小野さん。舞さんと同じ刑事です」
手のひらで猪瀬と小野を指し示した勇は、自分を指して続けた。
「僕は・・、似たような立場です」
「勝手に紹介してんじゃねえよ」
猪瀬はぶっきらぼうに言うと、哲馬を抑えたまま改めて自己紹介した。
「警視庁捜査一課の猪瀬です」
「同じく小野です」
小野が警察手帳を示して紹介を済ませると、猪瀬が付け加えた。
「弁護士の軽部さんが死亡した事件を調べに」
そこへ中島が口を挟んだ。
「捜査の話でしたら、協議が終わってからで構いませんでしょうか?」
「あ・・。そうですね・・。はい。わかりました」
聴取ならあとでここでもできるか。そう思い直した猪瀬はしぶしぶ応じた。
「でしたら協議を続けたいので、哲馬さんを放していただけますか?」
「ああ・・。はい・・・」
中島の申し出に、猪瀬は仕方なく小野に目配せをして、摑んでいた哲馬の腕を放した。
遺産の分割協議がひととり終了したあと、猪瀬と小野は哲馬に事件について聴取を行っていた。対して、舞と勇は秀孝と紀香の夫婦に脅迫状について聞き取りをしていた。中島は事務所へ戻り、愛乃は執筆中の小説を完成させたいからと二階にある自分の部屋に戻っていた。
「この脅迫状、心当たりありませんか?」
舞は脅迫文が書かれた紙をふたりに見せると、秀孝と紀香は首を傾げた。
「これが愛乃ちゃんのところに?」
秀孝が脅迫状を指差すと、舞はうなずいた。
「そうです」
「うーん・・。私にはわからないですねえ」
秀孝が答え、紀香も同じ答えを発した。
「私もです」
「あっ」
そこで秀孝がなにか思い出した。
「どうしました?」
舞が訊くと、秀孝はおぼろげながら話した。
「兄は結婚する前に付き合っていた女性がいたんです。婚約の約束までしていたらしくて。けど兄はその女性を切り捨てて、亡くなった奥さん、
「その女性の名前ってご存じですか?」
手帳とペンを取り出して問うた舞に、秀孝は首を振った。
「いえ。名前までは存じません。兄は敵の多い人でしたが、脅迫状を出すとしたらその女性ではないかと」
そして秀孝は付け加えた。
「まあ、遺産や愛乃ちゃんのことをどうやって調べたのかはわかりませんので根拠はありませんよ。でも当時、それについてパパラッチが私に取材しに来ましたから」
「パパラッチ?」
「ええ。珍しい名字でした。たしか・・、
その名前に、黙って聞いていた勇の顔がピクリと反応した。
次いで舞と勇は、哲馬に聞き取りを行った。猪瀬は哲馬が逃げないよう、小野を監視に置き、ひとりで秀孝と紀香、そして愛乃に聴取を行っていた。
「これ、あなたが書いたんじゃないんですか」
舞が脅迫状を突きだす。暴力的な哲馬の言動を見て、もしやと思っていた。つり上げた目つきのまま文章に目を遣った哲馬は吐き捨てるように言った。
「俺がそんなまどろこしいことしねえよ。殺すならさっさと殺してる」
目を光らせる小野の隣で、哲馬がなにか思い浮かべるように続けた。
「そんなモン送りつけるとしたら、あいつじゃねえのか。兄貴の前の女。兄貴が結婚したあとも大分付きまとってたみたいだから。つっても、あくまで俺の想像だけどな」
勇がやや身を乗り出す。
「秀孝さんから聞きました。清志郎さんは奥さんの前にお付き合いしていた女性がいたとか」
「ああ。ガキまで
「その女性のお名前、ご存じありませんか?」
問いかけた勇だったが、哲馬も秀孝と同様に首を振った。
「知らない」
そして語を継いだ。
「でも・・、あのカメラマンの野郎だったら知ってるかもしれない」
「もしかして、豆寺という方ですか?」
勇の質問に、哲馬はうなずいた。
「そうだ。豆寺だ。前に俺んとこに話を訊きに来たんだよ。兄貴のスキャンダル追ってたら、その情報を摑んだらしい。俺は兄貴のこと嫌いだったからな。知ってること全部話したよ」
その後、被害者の軽部にクレームをつけに来ていたのは哲馬だということが判明し、中島への傷害の件も含めて詳しく聴取するため、猪瀬と小野は哲馬を連れて羽華警察署へと向かったのだった。その頃、舞は愛乃の部屋で本人に聞き取りの結果を報告していた。部屋の外では勇がスマートフォンを耳に当て、誰かと会話している。
「まさか豆寺さんの名前が出てくるとは思いませんでした」
勇が会話している相手は、秀孝と哲馬が証言していたカメラマン、豆寺
―で、鴨ちゃんはなんの用で電話してきたのよ?
「御手洗清志郎さんという方を取材していたと聞いたのですが、豆寺さんで間違いないですか?」
―御手洗・・。ああ、した。不正競争防止法に引っかかることをしてるってネタ摑んで取材したんだけどさ、結局はデマだったんだよね。それにしても鴨ちゃん、随分と昔の話してくるねえ。
「その取材の過程で、清志郎さんが結婚する以前にお付き合いしていた女性がいたことを知ったとか」
―そうそう。偶然ね。
「女性の名前、わかります?」
―わかるよ。ちょっと待って。たしか・・・。
スマートフォンの受話口で、ガサガサとなにかを
同じ頃、舞は愛乃に小型の機器を手渡していた。それは中央に赤く丸いボタンがあり、白く四角い形をしていた。ボタンの下には≪POLICE 110≫と黒く印字してある。
「これ、非常用の通報装置。この赤いボタンを押せば自動的に本庁とウチの署に通報が行くようになってる。それとこれも」
舞はそう説明すると、自分の名刺も渡した。
「裏に私のスマホの連絡先書いといたから、なにかあったらいつでも連絡して」
「わかりました」
無理もないが、愛乃はかなりナーバスになっている様子だった。そこへドアをノックする音がした。
「はい」
舞が返事をするとドアが開き、勇が顔を覗かせた。
「愛乃さん。ひとつお願いが」
「なんでしょう」
「髪の毛を一本いただけませんか?」
愛乃が怪訝に眉を顰める。
「髪の毛?」
「ちょっと調べたいことがありまして」
「は・・、はい・・・」
勇が部屋の中に入りズボンのポケットからハンカチを取り出す。愛乃は長い髪の毛を一本プチっと抜いた。勇は愛乃に歩み寄り、ハンカチを開いた。
「この上に」
そのハンカチの上に愛乃は髪の毛をそっと置いた。勇はハンカチを二つに畳むと、訝しい顔つきをしている舞に申し入れをした。
「度々で申し訳ないですが、舞さんにもひとつお願いしたいことが」
数時間後、羽華町内にある雑居ビルの薄暗い一室で、舞と勇は
「話はこれで全部だ。俺は逮捕されないんだろ?」
デスクトップパソコンが置いてある自席に座り、池沼はふたりに訊ねた。
「逮捕はしません。僕たちは」
勇はそう言ったあと、そばのドアをノックした。すると、ドアを開けてスーツを着た男がふたり入ってきた。男のひとりが警察手帳を提示する。
「羽華署の者だ。池沼聡、文書偽造の容疑でお前を逮捕する」
「おい!なんだよ!?」
慌てた声を出した池沼の両脇を男ふたりが抱え、椅子から強引に立たせて、そのまま連行していった。それをふたりは見送ると、しんとした部屋の中で舞が腕時計を見て勇に訊いた。
「私たちはどうします?鑑定が終わるまでまだ時間がありますけど」
「関係者の住所はメモしてありますか?」
「はい」
上着から手帳を取り出した舞はページを開いて見せた。勇はそのページに書かれた氏名と住所の羅列の一部を指差した。
「この人。この人について区役所で確認したいことがあります」
「それ、例の豆寺ってカメラマンが鴨志田さんに言ってたことの裏付けですか?昔の情報屋だった人なんですよね?ここ来る前に話してくれたじゃないですか」
「ええ。そのとおりです」
舞と勇は七節区役所にある住民課の窓口にいた。
「警察とはいえ、書類もなしに戸籍をお見せすることはできません」
「やっぱりそうですよね・・・」
男性職員の言葉に、予想したとおりだと気落ちしたような声を出し舞だったが、勇は引き下がらなかった。
「でしたら、当人の母親のお名前だけでも教えてくださいますか?それだけで結構ですので」
職員は少し沈黙したあと
「お待ちください」
と、ひと言言って奥へ引っ込んでいった。
「教えてくれるかなあ?」
頬杖をついて舞が呟くと、それが聞こえた勇は返した。
「だといいんですが・・・」
しばらくして職員が戻ってきた。
「お待たせしました。名前は
「ありがとうございました」
勇は職員に礼を述べた。
ふたりが区役所を出ると、腕時計を見た勇が言った。
「そろそろ戻りましょう。鑑定の結果が出ているはずです」
翌日の早朝、パーカーにジャージパンツを着た愛乃はひとり、最寄りのコンビニで買い物をして帰途につこうとしていた。脅迫されている身とはいえ、コンビニでしか販売されていない期間限定のスイーツをどうしても食べたいというのがその理由だった。コンビニから自宅まで歩いて十五分ほど。やや距離がある。パーカーのフードを被った愛乃が辺りの様子を窺う。行きは大丈夫だった。帰りも何事もないよう祈りながらスイーツが入ったビニール袋を提げて歩き始めると、背後から気配がする。愛乃はチラと後ろを見た。車だ。紺色の普通車が緩いスピードで追ってきている。明らかに自分を狙っていると愛乃は直感した。パーカーのポケットから通報装置を取り出してすぐさまボタンを押し、そして、スマートフォンも出すと舞に連絡を入れた。
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