01-1 最良の門出のはずだった
右膝の横にある小さなパワーボタンを押す。正常起動を知らせる軽やかなチャイムと共に満充電の下肢装具は電動アシストを開始。存在感が増した右脚にワンサイズ大きい靴を履く。
プレーンでスリムなデザイン、遠目なら少し厚めのタイツにしか見えない。合わせる服に困らない彼女のお気に入りだ。
――― この日を迎えるまで三年、三年だ。
鼻歌混じりに窓を開け、大きく二度の深呼吸。レイリー散乱が作り出す、視界いっぱいの青い天蓋。ばっさり髪を切ったばかりで襟元が涼しい。
二一三一年、四月初旬某日。
イオ・ミナミ、二十三歳。その想いを心の中で噛み締めた。
――― 天気も上々、なんて私のハレの日に相応しいんだろう。
カード型情報端末のアイコンをタップ、局員証を呼び出す。
「ええっと、ちょ、超越構造体研究対策……」
東アジア相互防衛条約機構、超越構造体研究対策局。略して『超研対〈ちょうけんたい〉』。超研対一課第五、ウィングガン運用巡航艦ヘパイストス。
本日より出向先としてイオが働く職場だ。新しい職務—— 外的干渉により性質が変異した重力および重力場の総称『異重力』を観測・分析する『異重力分析官』として。
身支度を確認し、玄関横の姿見に映る自らに視線を向ける。
おろし立てのスーツに新しい杖。不自由な右脚を補助する電動補助付き下肢装具。
杖は双子の弟達からプレゼント。装具とお揃いのブロンズ色、ドライカーボンの特注品で持ち手に『IO』と刻まれている。
十年前のビル崩落事故で両親を亡くし、更に負傷して右脚に麻痺も残った。だが、弟達が素直に育ったのは優しい叔父夫婦とこの脚のお陰、と自らの障害を憎からず思っている。
『姉ちゃん、杖で無闇に他人様をぶん殴ったら駄目だからね』
『姉ちゃん、物ぐさして杖を孫の手がわりにしたら駄目だよ』
――― 少し生意気なのは、不徳の致すところ……
と、愛する弟達との残念な回想。
――― ショートボブの私、割とイケてる?
鏡の中の己れの姿を自賛して、数枚の自撮りを端末に収める。襟の上で曲がっている出向元『イ重力研究科学局』のバッジには気づかない。
近隣の桜はすでに散り始めているが、ほんの少しだけその香りを残す。
爽やかな風と穏やかな陽射し、お誂え向きの空。
イオにとって、最良の門出の日になる……
はずだった。
***
イオは仮住まいのビジネスホテルを出て、沿道を流していたタクシーを拾う。後ろのドアが開き、前席に座る初老の男性が振り向いて会釈する。運転管理者だ。
彼女がまだ小さかった頃には自律運転の無人タクシーもあったが、現在は労働法の改正により有人が義務付けられている。
運転管理者は車両に搭載された人工知性「
イオは下肢装具の身ながら慣れた脚運びで乗り込み、行先を告げる。
「えっと、横須賀海軍施設の近くの、超研対の基地って…… 分かります?」
「ああ、ヨコスカ基地ね」
音声入力によりインパネの端末―― 演算思考体ATiが最適な運転コースを導き出す。運転管理者はそれを確認、端末の承認キーをタップする。
タクシーがゆるりと動き出したその時、ドンッと大質量が落下したような衝撃音。続いてビリビリと震える車内。
「今のなに? もしかして爆発?」
イオが独り言を呟くと、今度は胸ポケットのカード端末がアラートを鳴らした。手にすると、背面にテキスト—— ATiソーシャルウェッブからの広域警戒情報だ。
《現在、横須賀市周辺で暴走するC型メタスクイドが一体出現。超研対一課第三テーセウスが対応に当たり、所属のウィングガンAMD171一機が追跡中。近隣の住民は指定の避難経路に……》
メタスクイドとは、全長およそ三十メートル、黒く長い三角錐状の本体に六本の『銛状触手』と呼ばれる攻撃手段を持つ、
暴走状態のメタスクイドは行動に規則性が乏しく予測困難であり、また彼らの出現予兆『重力震』を伴わない。避難対策が遅れることから、主人同様に厄介な存在とされる。
昨日深夜、東京湾磯子付近に降下した五百メートル級メタストラクチャー、その支配下から外れた個体だ。
「選りに選ってなんで今日! 私のハレの日なのに……」
思わず大声で文句を口にしてしまう。運転管理者の存在をすっかり忘れている。だが、当の運転管理者はタブレット型端末で副業中のため我関せず。見慣れた光景だ。
すると、イオのカード端末に通常通話の着信。『エリックおじさん』のアイコン。
『イオちゃん、まさかこっちに向かってないよね?』
イオの父が生前、大学で研究職に就いていた頃の助手。要は昔馴染みだ。
フルネームはエリック・シャーウッド。痩せ型長身のちりちり髪、眼鏡の三十二歳男性。無精髭で猫背、如何にも研究者然とした彼の風貌を想像しながら応答。
「おじさん? いやぁ、ははは、向かっちゃってます……」
『しょうがないなあ、昨日の重力震は知ってたよね? こんなことも起こるって、研修で教えているはずだよ?』
やや高い掠れた声の主、エリックは焦った調子で捲し立てた。
「えへへ、あれ東京湾でしょ。必ず北上するからこっちには来ないだろうって」
先の不機嫌を取り繕うような愛想。彼は新しい赴任先の先輩でもある。
『東京湾と言っても磯子だよっ! まったく君は昔っから楽観が過ぎるよ!』
通話口の向こう、微かに耳障りな反復音。
エリックは通話を何処から?と応対しながらぼんやりと考える。
「ええっと、返す言葉もございません……」
『もう分かった。近くまで来たら連絡してねっ、ダメだと思ったら引き返すんだよ? ああ、それと、僕はまだ『おにいさん』だからねっ、『おじさん』じゃないよっ!』
「はぁーい、エリックおじさん」
『お・に・い・さ・んっ!』
通話を終えると、窓の遠くに横須賀海軍施設に隣接する超研対ヨコスカ基地の姿が見え始める。奥の海上には赤い鉄骨造の着艦ドック。鉄骨の隙間から覗く真白い艦体はウィングガン運用巡航艦ヘパイストスだ。
全長は二百メートルに近く、第一印象は原油タンカーに似る。白基調にペイントされた艦体は増改築の痕跡らしき凹凸が随所に見られる。見映えはお世辞にも良くない。
艦の巨大質量に航空能力を与えるイカロス粒子重力干渉制御—— イ重力制御エンジンを六基を備え、艦橋と思しき突起部分と胴体横に列ぶ多連プラズマ砲の短砲身が合計八門見える。
横腹を彩る、太い淡灰と青・黄緑・黄の細いストライプは、主に関東圏沿岸部の防衛を任務とする『超研対一課第五』のシンボルカラーだ。
そしてほぼ同時に、ヘパイストス艦上から一機の航空砲撃機が現れた。
——— お、あれがウィングガンの実機か。やっぱり違うなあ。
鑑と同じ白基調の機体に、淡灰&黄緑のストライプが入っている。先のアラートでメタスクイドを追う一課第三の航空砲撃機と同じ機体だ。
まるで重力を無視するかのようにゆっくりと浮上。続いて機体下に吊り下がる楔型構造物の先端に眩い光輪が現れた。母艦と同じイ重力制御エンジンの正常起動の証しだ。
機体背面の加速スラスターが青い焔を噴き上げ、大気をつん裂く爆音と共に加速を開始。高層ビルが建ち並ぶ横須賀市街に機首を向け、真っ直ぐ白い尾を引いた。
正式呼称『航空砲撃機動兵器 AMD171』、通称『ウィングガン』。
ジュラミック積層装甲に覆われた翼断面形状のT字型ボディ。両翼の多関節アームにはプラズマ砲および高周波振動ブレード。そしてボディ上部右肩には、最重要戦術兵器である異重力位相変換弾頭アンチグラヴィテッド専用電磁投射砲を備える。
同じく重力制御の『見えない翼』を持つ複座型航空機であり、時空歪曲防壁IVシールドを突破する、現時点で最も有力な対抗兵器だ。
——— 私もあれに乗るのか。それにしても凄い音。
遠ざかる機影をタクシーの窓から眺め、イオはぼんやり考える。研修時の訓練機には武装が施されておらず、加速スラスターもずっと控え目。記憶に残る印象とは大きく違っている。加えて、『翼を持つ砲』を由来する名がどうにも腑に落ちない。
――― 鳥、と言うより、ロブスターだよね……
対抗車線は渋滞を始め、タクシーはヨコスカ基地目前の陸橋手前で停止した。運転管理者はしばらく端末と格闘していたが、諦めて後席のイオに振り向いた。
「お嬢さん、ここから先は『エー・ティー・アイ』が許してくれないから無理だよ」
「えっ、あとちょっとなのに……」
演算思考体ATiは拒否を始めたら梃子でも動かない。目的地の超研対ヨコスカ基地はすぐ目の前。イオは渋々タクシーを降り、残りの道は徒歩を選んだ。
避難に急ぐ人の流れが煩わしい。下肢装具はデザイン重視で軽いアシスト機能しかなく、焦るイオの役にはあまり立っていない。
ホテルを出た頃と違って埃っぽい空気、焦げ臭い匂い。遠くには総ガラス張りの美しかったビル群がその洗練さを失い、一部損傷または濛々と黒煙を伸ばしている。
散発的に届く衝突の音、自動車のクラクション、悲鳴と怒声。横須賀市街を覆う負の喧騒がより近づいて聞こえ始める。
ふと、視界の右端に小さな男の子が映った。衣類と背の高さから未就学児童のよう。大人達の慌ただしい流れの中で立ち止まり、おろおろと辺りを見回している。
イオから約四メートル。固く唇を結ぶ表情は、今にも声を上げて泣き出さんばかりだ。
——— あの子、迷子かな? どうしよう、私……
と、その時、避難に急ぐ大人のビジネスカートが男の子の背に強く当たった。前に押されてよろめく男の子。カートの持ち主は気づかない。
「あぶないっ!」
咄嗟にイオは動いた。が、
「んがっ!」
がくん、とイオが前に転んだ。踵を返した際に脚がもつれ、杖の補助が間に合わなかった。打った膝の痛みを堪えて身を起こすと、雑踏の合間から安堵の声がする。
「ああ良かった! もう大丈夫だからねっ!」
顔を上げると、男の子を抱き上げる母親らしき女性。もちろん四メートル先のイオに気づく余裕はない。親子はその場を足早に立ち去り、あっという間に人波に紛れた。
「え、えぇ…… 」
大丈夫ですか、と他の避難者に声を掛けられ、イオは愛想笑いを返すしかない。
——— う、うう、これでいい。良かったのだ……
杖を頼りに立ち上がり、埃を払って身なりを確認する。装具の機能に問題はなく、膝の保護パッドが僅かに汚れただけ。ストッキングの左膝が伝線したが、軽い打ち身で済んだ。
だが、イオの災難はまだ序の口なのだ。
***
超研対一課第三テーセウス所属のウィングガンに追跡され、暴走状態のメタスクイドは未だ当てのない逃避行を続けている。
奇怪な重低音を伴いながら市街地に侵入するが、頻繁に高層ビルなど障害物に接触しているため、三角錐形状の胴体は傷だらけだ。また、時空歪曲防壁IVシールド特有の現象『像の揺らぎ』は確認できるが、通常のそれより弱まっていた。
漆黒の逃走者は全長が約三十メートルに達するのに対し、ターコイズブルーの追跡者は全高十二メートルほど。遠目からはまるで暴れ牛を追う狩人だ。視線を市街に下ろすと、避難が遅れた人の姿がまだ残っている。スケール感が狂って脳が混乱する眺めと言える。
一方、一課第三のウィングガンと合流するため、先を急ぐ一課第五の航空砲撃機。
白基調のボディに淡灰と黄緑のストライプ、ウィングガン三号機のコクピットに搭乗するのは操縦士であり射撃手、通称『ガンナー』のリコ・カシワギ。
コクピット全天を覆うメインモニタには、真っ青な空と矢のように過ぎ去る横須賀市街のビル群が映し出される。次々に立ち上がるミニウィンドウは被害情報だ。
リコの視界にヘパイストス演算思考体、通称『へピイATi』の指示が介入する。
《人的被害軽減のためプラズマガン使用禁止、バイブレードによる近接撃破を推奨》
リコの背後、コクピット後席に搭乗するニュクス・ジョーンズ異重力分析官は、同じ指示をコクピットのメインモニタで確認し、女性らしからぬ低い声で不平を漏らした。
「飛び道具は使うなって無茶ブリもいいとこ。どうしろってのよっ!」
そう吐き捨てると、帽帯型情報端末ヘッドセットの視界同期ゴーグルを降ろす。
「こんなので大丈夫? リコ、知覚共有システムが起動するよっ!」
リコは既にゴーグルを降ろしているので表情が確認できない。ニュクスの野太さとは対照的に、リコの声は十代女子の鈴鳴りだ。
「大丈夫。今日もニュクスは、よく『見えている』から」
リコが返事をするとコクピット全てのモニタ表示は、ピー音と共にブルー基調からアンバー基調へと切り替わった。
彼らが持つ時空歪曲防壁IVシールド。超重力によって時空を捻じ曲げ、通常物理兵器のほぼ全てを無力化する不可視の盾。
その唯一の弱点、超重力が循環する最も脆弱な部分である異重力収束点、言わば『盾に空いた穴』を観測するには特定の人間が持つ「異重力知覚」に依存する必要がある。
異重力収束点はカメラやセンサー等あらゆる可視化技術を用いても観測不可能なためであり、ガンナーに異重力知覚を提供し『盾に空いた穴』への狙撃を実現させる技術が知覚共有システムだ。
そして、ある種の才能と言える異重力知覚を持ち、ガンナーへの知覚提供とアンチグラヴィテッド調律を行う。それらが異重力分析官の主な役割となっている。
「知覚共有、神経接続ともに起動良好。リコ、痛いとこないわね?」
「うん。ニュクス、格闘モードに入るよ」
「オーケイ」
ウィングガン管制システムもヘピイATiからガンナー優先に切り替わる。同システムは神経接続による動作同期を行うことで、ガンナーの意思に極めて忠実な精密動作を実現する。
神経接続の継続制限は十五分、時間内に任務を遂行しなければならない。
リコが操るウィングガン三号機は、両翼に備わるプラズマ砲の筐体に取り付けられた高周波振動ブレード、通称『バイブレード』を起動した。
両の刃を持つ白銀の銃剣が、待機状態の逆向きから百八十度前方へと回転。コクピットに重い駆動ギアの噛み合う音が届くと、メインモニタ下端に《Sword Fighting Form》のテロップが流れる。三号機は蟷螂のような二刀形態、格闘モードに移行した。
都市空間を縫うように追走劇を続けているメタスクイドとウィングガン。黒い逃走者は次第に勢いを失いつつあるが、ターコイズの追跡者もまた反応が鈍くなっている。
本来は東京湾磯子付近に降下したメタストラクチャー、その対応で出動した超研対一課第三テーセウス所属のウィングガンだ。稼働時間が大幅に伸び、バッテリー容量に限界が近づいたためだ。
高層ビル群の死角に入って急転身、メタスクイドは追っ手目掛けて銛状触手を放つ。その名の通り銛のような先端形状、硬質な節が無数に連なる攻撃触手だ。
ウィングガンは飛来する銛状触手の矢を躱しきれず、本体下部のイ重力制御エンジンに直撃。機体は重力制御の翼を失い、戦線の離脱を余儀なくされた。
ヘピイATiは一課第三離脱の報を受け、さらに一機の追加出動を提案する。
***
「テーセウスは東京湾から出突っ張りだから、仕方ないよね」
エリックは一課第三ウィングガン離脱のフォローを口にした。続いて、シートの右肩フックに掛けられた帽体型情報端末ヘッドセットに手を伸ばす。
耳障りな反復音。彼がイオに連絡したのはウィングガンのコクピットからだった。
「空の上だったら、すぐ終わっちゃうんだけどな」
抑揚がない少し鼻にかかったハスキー。前席に座るもう一人のガンナー、セリ・トドロキ。シートの上で抱えていた長い脚を床に下ろし、身体を固定する四点式シートベルトに手を伸ばす。ヘッドセットは着用済みだ。
「プラズマガンが使えなけりゃ、リコちゃん一機じゃ厳しいよ」
「逃げる相手に市街戦でしょ、最悪のパターン」
「ま、二号機がまだ出せないからね。一機待機の原則はギリギリまで崩さない」
エリックは偵察ドローンの映像を前席背面のディスプレイで確認する。横須賀市街を一望に俯瞰するが、火災の黒煙とビル群の死角に阻まれ、一目でメタスクイドを判別できない。
「ふふ、リコ、王子様じゃなくてごめんね」
セリは口角を吊り上げると、手元のタッチディスプレイを操作。コクピット全天を覆うメインモニタがスリープから復帰する。直後、ヘパイストス格納庫の様子が映し出された。
箱型の整備ロボットとクルー達が退去すると、整備ハンガー上の航空砲撃機は待機状態を解除。淡灰と青のストライプ、セリ・エリック組の一号機が出動シーケンスを開始する。
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