第9話 精読家と煙草

 血まみれの男は重傷であったが、死んではいないらしい。命に別状はないと、情報番組では言っていた。言っていたけれど、どうせそんな楽な状況ではないだろうけれど。楽な状況ではないだろうけれど、と思ってはいるけれど、多分明日になればそんなことは忘れてしまうんだろう。


 忘れてしまうんだろうし、なんなら私は少し喜んですらいる。いや、近くにそんなことをしてしまう人がいること自体はとても恐ろしいのだけれど、学校が休みになって、大掃除がなくなったことは少し嬉しい。あの空気を感じたくはない。

 まぁ、大掃除はなくなったわけではなく、明日に持ち越されるだけだろうけれど。


 そう、明日になれば、犯人が捕まり、また学校が始まると思っていた。簡単にそう思っていた。軽く憂鬱に。でも、そういう信頼をしていた。いや、信頼ではないか。信頼というよりは、それが当然だと思っていた。

 けれど、明日になっても犯人が捕まったという話は出なかったし、学校が始まるということはなかった。それどころか被害者は新たに表れた。


 最初は情報番組の一角を占めるだけだったけれど、次第にその事件は話題性を増していった。それと同時に、事件が起こる場所も拡大していった。

 最初は近所で起きて、隣町、隣の地方まで広がった。時折、戻ってきたりもしているので、移動しているというわけではないようだけれど、ともかく活動範囲が広がっているということだろう。

 犯罪の対象は性別や年齢にあまりこだわっておらず、人数もまちまち、金品が抜かれた印象もなく、ただ人を傷つけて放置するというのが、今回の事件だった。活動範囲もあって、同一人物の事件というよりは、集団による事件というのが現在の主流ではあるけれど、犯人、もしくは犯人の集団の、手掛かりすらつかめていないらしい。


 そうは言っても、いつまでも学校を休校にしておくわけにはいかない。少なくともそう学校は判断したらしい。私としては、怖いので外に出歩くのはあまり嫌なのだけれど。まぁ、ともかく普通に学校が始まるということである。警備が強化されたり、道を巡回する警備機械の数が増えたりはしたけれど。


 まぁでも、そんな凶悪そうな事件が近くに起きていると知っていても、まさか自分がその対象になるとは思っていない。ましてや、犯人が近くにいるとは思わないだろう。まさか同じ学校の生徒が、自分と関わりのある人が、犯人だとは。


「あぁ、あれは私がしたことよ」


 彼女は、セグシアさんはそう言った。大掃除の集合場所に早くついた私にそう言った。私の世間話、つまりは最近の事件は恐ろしいという話に、彼女はそう言った。自らが、あの事件の犯人だと言ったのである。まるで当然のように、いや、それよりはとても誇らしげに見えた。自慢できることだという風に言っていた気がする。今ならば、それが分かる。

 でも、その時の私にはそれはわからなかった。何を言っているのかわからなかった。たしかにセグシアさんのことが少し恐ろしくなってきたけれど、別に仲が悪くなったわけではない。なんというか、苦手になってきたのだろうとはおもうけれど。ともかく、まさかそんなことをするとは思っていなかった。


「え?」


 そんなまぬけな言葉しか言えなかった。


「悪い人たちがいたから懲らしめたの。悪い人って言うのは、もちろん社会的に迷惑な人達よ。正義を成したのよ。

 最初の男たちは、大勢で店の出入り口を塞いでいたわ。みんな、その店に入りにくくなっていたんじゃないかしら。どれぐらいの時間いたのか? そうね……数十分はいたんじゃないかしら。それに煙草を吸っていて、しかもその場にごみを捨てていたわ。近くにごみ箱はあるというのに。そんな悪い人は、誰かが懲らしめなきゃいけないでしょう? だから、二度と集まれないように、歩けないようにしてやったわ。


 他には、魔車の座席を大きく占領していた女達ね。大きく広がって、大きな声でしゃべって、みんなが迷惑していたわ。あいつらはそれには気づいてはいないようだったけれど。気づかないものかしら、そういう視線って。気づかない鈍感さがあるから、あんなことができるのでしょうけれど。ともかく、座席はみんなで譲り合って座るべきでしょう? みながある程度の我慢と妥協の果ての秩序を歪ませるあいつらは悪い人達だから、もう二度と魔車には乗れないようにしてやったわ。


 あと、酒に酔っていろんな人に迷惑をかけている人もいたわ。店にいるときもうるさくて、見るに堪えない醜態を晒していたけれど、外に出てからはもっと酷かったわ。今にも倒れそうになりながら、色々な人に寄りかかりながら、感謝もなく、謝罪もなくね。これからも酒に酔えば迷惑を賭けそうだから、酒を飲めないようにしたの。


 あぁ、驚いたのは魔薬を使っていた人達かしら。本当にあるのね。魔薬なんて。違法改造された魔力増強剤なんて。いえ、あれは医療用のを過剰摂取するために濃縮した物だったかしら? まぁ……そんなことはどうでもいいわよね。それを売って、買っている人達がいたのよ。どちらも、何も考えられないようにしたけれど、もしかして望み通りにしてしまったかしら。それなら、意味はなかったかもしれないわね。魔薬の流通が止まったという意味はあったけれど」


 途中から私は聞いていなかった。

 いや、聞こえなかった。聞こえない場所まで逃げた。セグシアさんの言葉が恐ろしくて。目の前の彼女がとても恐ろしいものに見えて。


 私は走って、逃げて、人の見えない場所に向かう。けれど、どこに行っても、人がいる。それはそうだ。だって、今日は大掃除なのだから、校舎の隅々まで生徒の姿でいっぱいである。

 結局、私が落ち着いたのは、旧校舎の古びた教室だった。

 誰もいない部屋で、私は彼女の言葉を思い出す。思い出してしまう。


 どうして。いや、なにを。なにを、彼女は言っていた? わからない。彼女の言葉の意味が。いや、意味は分かるはずだけれど。わからない。冗談だったのかもしれない。それはない。それはないんだ。あの目で、あの声で、冗談なわけがないんだ。冗談であってほしいけれど。それはない。なら、なんだというのか。それは真実。少なくとも彼女にとっての。彼女にとっては、真実で、しかも良いこと。正しいこと。悪いことをしたとは、酷いことをしたとは、思ってはいない。正義を成したと、彼女は言っていた。正しいことをしたと。良いことをしたと。

 そんなわけがないだろう。そんなわけがないはずだ。ないと思う。正義ではない。私だけなのかな。そう思っているのは。どれだけ、悪いことをした人だって、殴ることはよくないはずだ。褒められることではないはずだ。いや、褒める人もいるのかもしれないけれど、彼女の言う悪い人たちに重傷を負うほどの理由があるとは思えない。でもなんで。


「落ち着いて」


 誰かの声がした。

 いや、この声を私は何度か聞いたことがある。

 読書同好会の一員。ずっとこの古びた教室の隅にいるコトリの声。


「落ち着かないと何もできない」

「そんなこと、言ったって……私に何が」

「何もかもできるでしょう? もしも気に入らないことが、嫌なことがあるなら、なんとかしなさい。自分でなんとかしなさい。あなたにしかできない」

「なぜ、それを……」


 私が彼女に、人ではない彼女に言われたことを知っているのか。そう問おうとしたけれど、顔を上げてもコトリの姿はなくて。外に行ったのかと思ったけれど、扉を開いた音はしなかった。


「幻……?」


 けれど、その幻のおかげで、気持ちを固めた。

 彼女を、セグシアさんを止める。止めた方が、良いはずだ。止めなくては、この恐怖や、燻る気持ちを抑えられないだろう。


 多分、自力でやるより法執行機関に通告した方が良いのだろう。でも、私には彼女を止める力がある。はずだ。こんな時ぐらい、私の力を使っても、かまわない。そんな気がする。


 いったん整理しよう。

 彼女の言葉が真実であれば、彼女は一連の事件の犯人であり、その動機まで語ってくれていたことになる。曰く、悪い人がいたから、懲らしめただけであると。


 たくさん疑問はある。

 彼女はなぜそんなに強いのか。もしも奇襲をうまく決めたとしても、大勢を一度に何とかできる力があるということになる。

 どうやって対象を見つけたのか。対象とはつまり、彼女の言う悪い人を見つけたのか。明らかに学生の行動範囲を超えた場所に被害者が出ている。


 ともかく、もう一度彼女に会わなくちゃいけない。

 そうしないと始まらない。そうしないと、なにもわからない。


 冷静になってみれば、彼女の言い分にも一理ぐらいはあるのかもしれない。悪いことをした人に悪いことを仕返す。これは昔から使われてきた法の仕組みであると言えばそうなのだろうし、それは正義である、いや、正義だった時代もあるのかもしれない。

 でも、彼女は明らかにやりすぎだ。やりすぎている。報復しすぎている。仕返しすぎている。それは良くないことなんじゃないのか。


 彼女を止めなくては。止めないと、いけない。

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