第3話 乱読家と小箱

「食べる……?」

「食べると言っても、食べ尽くすわけじゃないよ。そんな簡単に食べ尽くすしてしまったら、もったいないからね。他の人ならともかく、ラトミちゃんは時間をかけることに決めてるんだ。久しぶりだよ。こんなに準備したのは。媒介にする花を選んで、術式を描いて、環境も整えた。大変だったんだよ? ここまでするのは。

 まぁ所々不完全なのだけれど……それぐらいは許してね。ラトミちゃんに、こんな雑な姿を見せるつもりじゃなかったんだけれど、もっと完全に、完璧に整えてから行動に移すつもりだったんだけれど、ラトミちゃんが予定を狂わせるから仕方ないよね」


 彼女が何を言っているのかはよくわからなかった。いや、彼女の言葉をそのままうのみすれば、私はこれから食べられることになるのだけれど、そんな雰囲気はない。いつも通りの彼女のままで、何かの冗談かと思ったけれど、その割には手が込みすぎている気もする。

 もしも本当にこれから食べられるのなら、今やるべきことは彼女と話したり、理解しようとすることじゃなくて、彼女から逃げることなのだけれど、私の身体は動かない。動こうと思わない。


「私を食べるんですか? なんというか、こう……むしゃむしゃと? そんなに私が美味しいとは思いませんけれど」

「むしゃむしゃと食べるわけではないね。食べるとは言ったけれど、別に肉体を食べるわけじゃないよ。ラトミちゃんの中の魔力を食べる。いや、身体の半分以上は魔力できている私達にすれば、肉体を食べるのと同じなのかもしれないけれど、物質的な部分に私は興味はないよ。興味はない、というのは少し言いすぎだけれど、ともかく私はラトミちゃんの魔力だけを食べるつもり。

 それにラトミちゃんはとても美味しそうだよ。そんな美味しそうな子が自分から私の領域に入ってきてくれるなんて驚いた。それにどんどん私の魔法にかかって言うんだもの。本当はもっとじっくりと魔法をかけるつもりだったんだけれど、あまりにも熱心なものだから、我慢できなくなっちゃったよ」


 彼女はそういうと、花に魔力を籠めた。

 彼女の魔力を初めて見たけれど、彼女の魔力も美しく、綺麗だった。彼女の言い分通りなら、すでに私は彼女の魔法にかかっているようなのだけれど、私の認識している範囲では初めての彼女の魔法になる。

 人の了承を得ずに人に魔法を使うなんて、良くないと思うけれど、彼女にはあまり関係のないことらしい。誰の許可も得ずに、侵入禁止であるはずの屋上に入っているのだから、今更なのだろうけれど。


 彼女の魔力は大きく、今まで隠していたのが、隠しきれていたのが不思議なくらいだった。こんなに大きな魔力なら誰だって気づくはずだけれど、近くにいた私ですら気づかなかった。

 大きな魔力は、彼女の足元の模様を駆け巡り、穏やかな光を灯す。それが魔法発動の兆候だと気づかないほど鈍くはない。けれど、未だに私は何が起きるのかよくわかっていなかった。すでにそれは彼女の口から語られているというのに。


「いっ」


 気づけば、花が手のひらを貫通していた。

 刺々しい茎が私の手に深々と突き刺さっていて、血が、どくどくとした血が溢れ出てくる。血が止まる気配はなく、同時に血が地に落ちる気配もない。血は、花の下へと集まっているようだった。


「な、なにこれ……」

「言ったでしょう? 魔力を食べるって。魔力を食べるにはまず、魔力を取り出さないとね。なるべく、ラトミちゃんを傷つけるわけにはいかないから。死んでもらっては困るもの。長い付き合いにしていくつもりなのだし」

「え、ぇ、ち、血が……」

「そうだね。血が出ているね。あぁ、本当に美味しそう。美味しそうな血、とても甘美な香りがする。予想はしていたけれど、やはり実物は違うね。余計我慢できなくなってきたよ」


 血?

 血が。

 血は、魔力が変質したもの。

 魔力が肉体全体に満ちるように。けれど、肉体の外には出ないように。

 それが今、私の中から溺れ落ちていく。


「ど、どうして、こんなこと……」


 一歩、後ずさる。

 今更ながらにして、私は恐れを感じていた。とても遅くて、すでに取り返しの付かないところまできて初めて、恐れを、怖さを、恐怖を感じていた。これからとても恐ろしいことになる。その感覚をやっと獲得することができた。


「食事。食べないと、生きていけないでしょう?」


 食べる。確かにそれは生きていくためには必要な行為で、彼女は最初からそれを行っていると自ら語っていた。けれどこれは私の知っている食事じゃない。私がいくら物を知らないほうだと言っても、流石に人の食事というものがどういうものかを知らないほど常識知らずではない。

 断じて、人の食事は、人の血を食べることではない。


「そろそろ良いかな」


 彼女が手をひゅいっと動かせば、私の手に刺さっていた花が抜け、彼女の手元へと帰っていく。そして血に染まった花を、口の中へと入れた。食べた。私の血で、私の魔力で染まった花を。

 それをとても美味しそうに、幸せそうに食べる彼女は、理解できない光景なのに、とても綺麗で、綺麗だからこそ、それが異質な存在であると理解する。彼女が人ではないと理解する。


 彼女は人はない。人ではない何か。

 そんなものに私は関わってしまっていた。

 そして私は。

 私は。


 逃げ出した。

 足を動かして、扉を開き、校舎を走り、校門を抜け、帰宅路を駆け抜ける。

 わからない。何もわからない。ただ怖くて、恐ろしくて、恐怖に駆られている。血塗られた花を喰らう彼女が、後ろについてきているんじゃないかって、今にも私はすべての魔力を取られるんじゃないかって。


 逃げて、逃げて、家の前までついて、家の中に逃げ込もうとして。


「ちょっと、逃げないでよ。今、大事な話をしているところなんだよ?」


 彼女の前に戻ってきていた。

 訳が分からない。私は確かに、逃げたはずだ。逃げ出したはずだ。振り返ることもせず、恐怖のままに逃げ出したはずだ。足を動かして、逃げ出したはずだ。

 なのに、私は、なんで彼女の前に戻ってきている?


「良い? ラトミちゃんはもう私からは逃げられません。私の呼び出しには逆らえません。えっと、それから……あと、なんだっけ? 眷属作成は久しぶりだから忘れちゃったな……あ、そうそう。身体は大切にね。もうラトミちゃんだけの物じゃないんだから」


 私は自分でもわかるくらい、恐怖で精神が落ち着いていなかったと思う。恐慌状態であったと思う。けれど、それが認識できるくらいには落ち着いていた。彼女の言葉を聞けば、彼女の言葉を理解できるくらいには落ち着いていた。

 彼女の美しい声が、私を落ち着かせている。恐慌の始まりは彼女だというのに、それはわかっているのに、彼女の言葉が私の精神の安定剤のようになっている。


 あれだけ恐れていたというのに。血を、魔力を喰らう何か、人ではない何かである彼女を、怖がっていたのに、私はすでに、その恐怖を克服していた。冷静になって、落ち着いて考えてみれば、彼女は別に何か悪いことをしたわけじゃない……屋上に侵入したり、私に怪我を負わせたりなんて、そんなに忌避するほど悪いことというわけではないはずだ。

 ただ人ではないと分かっただけで、私がそこまで彼女から逃げる理由なんてない。それにここで逃げれば、彼女と関わることはできなくなる。彼女ともっと話していたいというのが、ここ最近の私の気持ちだったはずなのに。


「落ち着いた? ちょっと、いきなりすぎたかな」

「それは、そうですよ……びっくりしました。いきなり手に穴が開いて……」

「あはは。でも、もう治っているでしょ?」

「そんなわけ……あれ?」


 治っている。回復魔法をかけられた記憶などないし、あれだけ深い傷がそう簡単に治るわけがない。人間は、そんなに回復能力が高くない。


「すぐ治るよ。だって私の眷属だもの。まぁ、眷属というのは私が勝手に呼んでいるだけで、従僕でもいいし、配下でもいいし、部下でもいいし、服従者でもいい。ともかく、私とラトミちゃんはすでにそういう関係にあるってことだよ。もちろんそれは、形式上のものじゃない。形式上のものじゃないっていうのは、明確にそれを示すものが、示す繋がりがあるということでもある。私の能力、ってほどでもないけれど、私の魔法がラトミちゃんにも使えるようになるのは当然だよ。


 あー、でもあんまり私は堅苦しいのは好きじゃないから、今まで通りでいいよ。基本的にはね。眷属だからって、私がラトミちゃんに何かを求めることはないし、何かを強制することはない。自由にしてくれたらいい。

 基本的にはね。でも、例外が少しだけある。魔力を保持しておくこと。多少なりとも使うのはいいけれど、私が食べたい時に食べたい分だけは残しておいて。これだけ。これだけだよ。簡単でしょ?」


 簡単、だろうか。魔力なんて、基本的には使わないけれど、魔力測定のときとか、運動するときにはどうしても使ってしまう。まぁ、それぐらいなら許してくれるのかもしれないけれど。

 でももし、それを破ったらどうなるのだろう。魔力が空っぽだったら。


「魔力がなかったら? うーん。食べちゃうかもね。食べ尽くしちゃうかも。ラトミちゃんを全部。っていうのは、冗談だけれど。その時は私で何とかするよ。そこまで押し付けないよ。ただ、なるべく守ってほしい約束ってだけ」


 そう語る彼女は冗談を言っているようには見えなかったけれど、ともかくこうして私は人ではない何かになった。

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