刺殺
あべせい
刺殺
人形町の一郭にある、古いたたずまいの和菓子老舗「小江戸」。
間口2間ほどの小さな店だ。間口は狭いが、京都で言われるうなぎの寝床のように、奥行きが深い。
店の奥と2階には、和菓子をつくる工房があり、常時5、6人の職人が忙しく働いている。
その店に、和服姿のしっとりした、30代半ばの美しい婦人が入っていく。
「いらっしゃいませ」
店の床は土間より30センチほど一段高くなっていて、店の者はお客を見下ろす形で応対する。
その隅で菓子の折り詰めを作っていた若い男が手を休め、婦人を迎えた。
「お使いものにしたいのですが、こちらの銘菓を教えてくださいな」
「それでしたら、こちらが当店の伝統の逸品でございます」
若い男は、そう言って、ショーケースの中から、「小金芋」と包み紙に記された和菓子をとり、小皿にのせて差し出した。
小金芋は、小さなジャガイモそっくりの大きさと形をしていて、薄手の四角い和紙で、四方から折りこむ形で包まれている。
「小金芋ね。おいしそう」
「当店いちばんの売れ筋でございます」
「そォ。これを10個の詰め合わせにしてくださいな」
「ありがとうございます。いま、化粧箱にお詰めします。少々、お待ちくださいませ」
若い男は、陳列ケースの後ろに隠れ、2号折りに、詰め物を敷いて、その上に小金芋を詰めて行く。
この間、約2分。化粧箱はさらに「小江戸」の萠黄色の包装紙に包まれ、婦人の前へ。
「お待たせいたしました」
「ありがとう。おいくら?」
婦人は勘定をすませて帰って行く。
「ありがとうございます。またのお来しをお待ちしております」
若い男は、そう言って婦人の後ろ姿を見送った。
と、店と奥を仕切る暖簾をあげて、ほぼ同年齢の男が顔を出す。
「征夫(ゆきお)、あの女、やったゾ。追いかけろッ」
「先輩。なんですか?」
「なんだじゃない。万引きだ」
先輩と呼ばれた男は、慌てて土間に降りて靴を履こうとするが、思うように履けない。
すると、暖簾の奥から、40代の男性が現れ、
「芳樹(よしき)、いいンだ。あのひとは……」
芳樹は、片足が靴の中、もう一方は靴下のままという格好で振り返る。
「ご主人、どうしてですか? 万引きですよ」
「ちょっとわけありなンだ。キミたちはこの店に来て、まだひと月だから。こんど説明する」
若い主の郁治(いくはる)は、そう言うと、再び奥に消えた。
残された芳樹と後輩の征夫は、顔を寄せてささやきあう。
「先輩、あのご婦人は何を盗ったンですか?」
「陳列ケースの上の籠にある、ばら売り用の焼き菓子だ」
「小判焼きですね」
「着物の袂に一つ、こっそり忍ばせた。暖簾の隙間から、見ていたから間違いない」
小判焼きは、ちょうど小判25枚、すなわち25両分の小判をひと包みにした大きさ。小金芋に次いで、小江戸の人気商品だ。
「でも、見た感じ、お金持ちの奥さま風だし、どうしてそんなことをするンですか」
「そんなこと、知るか。そんなことより、おれはご主人が見逃したことが、腑に落ちない」
「美人だからじゃ、ないですか。ぼくだって、見惚れていました」
「だから、おまえは、万引きに気がつかなかったンだ」
「そうかも……」
「ここの主人は42になっても独身でいる。女の噂は、あるにはあるが、女性に対して、積極的にアプローチしない」
「なにか、事情があるンでしょう」
征夫は、ハッとして、芳樹の顔を見る。
「どうした、征夫」
「先輩、いま思い出しました。ぼくたち、ちょうど1ヵ月前、アルバイト情報誌をみて、こちらにバイトに来たでしょう」
「おまえにそそのかされて、な」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。ぼくは、和菓子屋なら、おやつに困らないと思ったから」
「おれは、あのとき、レストランがいいと言ったンだ。銀座のうまいレストランが、ドアボーイを募集していた」
「先輩、あの店はダメです」
「どうしてだ」
「時給はいいけど、あそこはバイクで出前があります。先輩、バイクでデリバリーしたことがないでしょ」
芳樹は黙る。バイト経験は、2つ年下の征夫のほうが長い。大学3年になるこれまで、征夫は8つのバイトをこなしてきた。2浪して入学した芳樹は、家が裕福なため、バイトは小遣い稼ぎ程度しかしていない。
「2輪の原付きバイクでやるンですが、春や秋の晴れた日はいいです。楽しいくらい快適だ。でも、真夏の炎天下や、酷寒の雨や雪。手はかじかむし……」
「そんな話はいい。何を思い出したンだ」
2人は、同じ大学の哲学科に学んでいるが、性格が真逆なほど違っている。それが2人を互いに引きつけるのだ、と征夫は思っている。
「こちらにきた最初の日、ぼくはご主人に使いを頼まれました」
「おれが、軽のワゴンで配達に行っているときだな」
「先輩がいなかったから、ぼくにお鉢が回ってきたンです」
「どこに行ったンだ?」
「店から歩いて、5分ほどのところ。黒板塀に囲まれたイキな家です」
「時間は?」
「お店が終わる1時間ほど前だったから、午後7時くらい……」
「それで……」
「表に格子戸があって、そこを開けると玄関の引き戸まで、石畳を5、6メートルほど行きます」
左右には、ししオドシと手水鉢が並び、ギボウシや背の低い灯台躑躅(どうだんつつじ)が植わっている。
征夫が、引き戸についているインターホンを押したが、返事がない。返事がないときは、引き戸を開けて、上がり框に置いてくるように、主人の郁治から言われていた。
「それで、ぼくは、そーっと足をしのばせて玄関に入り、小判焼き12個の詰め合わせを上がり框に置いたンです。で、帰ろうとしたら、奥から、老人の声がしました。『勘定をもっていけ!』って。強い口調です。ぼくは、『はい、ちょうだいいたします』と答えて、玄関に立っていました。すると、5分ほどしてから、奥の襖戸が開く音がして、廊下を歩いてくる足音が続きます。玄関から奥に続く廊下は、床まで届きそうな長い無地の真っ赤な暖簾で仕切られていますが、その暖簾が左右に割れて、女性が現れました。洋装の美女です。山吹色のタイトスカートに、薄手の若草色のブラウスを着ています。長い髪は左右に垂らしたままですが、あまい香りがしてきます。ぼくが、緊張して立ったままでいると、彼女が上がり框で膝を折り、『どうぞ、おもちください』と言って、封筒を差し出しました。ぼくは、一歩近付いて、押しいただくようにしてそれを受け取ったのですが、そのとき、彼女の髪が不自然に乱れていることに気がつきました。それだけです」
征夫は、話し終えて、フーッと長い溜め息をついた。
「和菓子の配達を頼まれたンだろう。それが、どうした?」
「その美女が、さきほどの和服の美人です。間違いありません」
「本当かッ」
「確かです。髪型や化粧、服装は違っていますが、身のこなしや漂って来る空気が全く同じです」
征夫は、驚いている芳樹に、違和感を覚えた。
芳樹にとって、それほど驚くこととは思えなかったからだ。
「先輩、あの家に行って、万引きされた菓子を取り戻しますか?」
「バカか。ここの主がいいと言っているンだ。焼き菓子一個くらいで、大騒ぎすることはない」
「先輩、さっきとはずいぶん違う……」
征夫は、芳樹が急に大人になったような気がした。
その夜。午後8時に店のシャッターを閉じ、征夫は芳樹と2人で店の外に出た。
芳樹にとっては、夏休みの2ヵ月間だけのバイトだが、征夫は働きやすいことから、いまと同じ木金土の週3日、午後2時から閉店時刻まで、夏休みが終わった後もバイトを続けようと考え、帰りがけ、主人の郁治に伝えていた。
この日は土曜日。明日は日曜でバイトはない。2人で飲んで帰るのが、バイトを始めてからの2人の習慣になっている。
「先輩、浜町寄りなンですが、新しくオープンした居酒屋を見つけたンです。今夜はそこで、どうですか?」
すると、芳樹は、何か思い詰めたようす。
「悪いが、きょうは野暮用があって、ここで失礼する」
そう言うと、駅まであと100メートルというところで、右に曲がる細い路地に入って行った。
征夫が声をかける暇がないほど、その動作は素早かった。
征夫は、日比谷線の南千住駅から近いアパート、芳樹の家は浅草線の浅草橋が最寄駅だった。
先輩の知り合いが人形町にいるなンて、聞いていなかった。征夫は芳樹の用事というのが気にはなったが、あとをつけるのもはばかられ、大人しく南千住に帰った。
駅の改札を出たとき、主人の郁治から携帯に電話がかかった。
「急な話で申し訳ないが、明日、予定していた職人が身内の不幸で来られなくなった。菓子は私が作るが、キミに手伝いをお願いしたいと思って電話した。量はそれほどでもない。法事用の蒸し饅頭だ」
小江戸は、原則日曜は休むが、まとまった注文があるときだけ、工房で作って配達する。征夫は、そういうこともあると面接のとき聞いていたので、気軽に承知した。
翌日曜日。
征夫は7時に出勤した。店の裏口から中に入り、奥の工房に行くと、郁治はすでに白いユニホームを着て、饅頭を大きな蒸篭に並べている。
征夫は挨拶をすますと、指示されるまま、蒸篭から饅頭を取り出したり、箱詰め作業などを手伝った。
1時間後。
征夫は12の化粧箱に詰められた饅頭を軽ワゴンに乗せ、車で10分ほどのお寺に配達した。
店に戻ると、郁治が工房のさらに奥にある居間から、「少し話していかないか」と征夫を呼んだ。
急ぐ用事もないから、征夫は居間に行き、座卓の前でくつろいでいた郁治の向かいに腰をおろした。
卓の上には、小金芋と湯気の立つ緑茶が載っている。
「キミにはこれから長く勤めてもらうかも知れないから、話しておいたほうがいいと思ってね」
郁治はそう切り出した。
「昨日、小判焼きをくすねたご婦人を覚えているね」
「はい」
「彼女は幼なじみで、ぼくが昔つきあっていた女性だ」
征夫は、話が意外な方向に展開して行きそうな感じがして、息を詰めた。
「あの方は、いつも小江戸の和菓子を自宅に届けさせておられますね」
征夫はそう言ってから、アッと思った。
芳樹が、万引き婦人が店から5分ほどの黒板塀の家の住人と知ったときの驚きようだ。
芳樹は、征夫が一度だけだったのに対して、これまで何度も彼女の家に菓子折りを届けていた。その際、芳樹はたまたま彼女と顔を合わす機会がなかったため、同じ女性と気がつかなかったのだろう。
菓子折りを届けたとき、芳樹は彼女の顔こそ見なかったものの、声や周りの動きで女性の気配を感じ取り、彼女の人柄を思い描くことができた。だから、万引き行為を見つけたとき、そのギャップに驚いたに違いない。征夫はそう解釈した。
「彼女、名前は葉月というが、葉月は心の病を持っている。小江戸の菓子を注文するときは、まだ調子がいいのだが、そうでないときは、心のバランスを失っている」
「心のバランス、ですか?」
征夫には、何のことか、まるでわからない。
「大学で心理学の講義を受けているとき、いつも席を並べていた親しい友人、Kとしておこう。そのKから、聞いたことがある。彼の持論だけれど、彼はこんなことを言った。
『人が罪を犯すのは、心のバランスを失ったときが多い。特に性犯罪の場合は、それが言える。人の心はいろんな事象で満たされているだろう。例えば、恋人、家族、好物、趣味、雑多なものがあるけれど、その一つが何かの都合で欠けたとする。つまり、そのことで心に空白ができる。心の空白は、心のバランスが崩れることを意味するから、人はその空白を何かで埋め、心のバランスを保とうとする。バランスを保たなければ、精神的におかしくなるからだ。その際、多くの人は、社会が公認している事物で埋めるが、ごく少数の人は、社会的に受け容れられない、反社会的な行為で、心の空白を埋めようとしてしまう。それが犯罪だとぼくは思っている。また、何かが欠けて心に空白かできなくても、心を満たしている欲望などが肥大化して、心のバランスを失うことは珍しくない。その欲望が食欲や物欲なら余り問題にならない。しかし、それが性的欲求や暴力的欲求だと、しばしば困ったことが起きる。社会が認める形でその欲求が満たされれば問題はない。例えば夫婦間のセックスや、暴力的欲求ならスポーツ観戦などで、欲求不満は穏やかに充足される。しかし、それが力の弱い幼児や女性に対して向けられると悲劇が起きる。性犯罪者が同じことを繰り返すのは、ある一定の間隔で心のバランスが崩れるからだと思う。別の形で、彼の心の空白を埋めることができれば、彼は犯罪に走らなくなるはずだ。放火犯が逮捕されるまで放火を繰り返すのは、心の空白が、放火によってしか満たされないからだ』
ぼくは、葉月の万引き行為を見つけたとき、学生時代のKの持論を思い出した」
郁治は、征夫に哀しい目を向けて話し終えた。
「葉月さんが万引きをするのは、心のバランスが崩れたときだとおっしゃるのですか」
郁治は黙って頷く。
「ご主人は、葉月さんの心のバランスが崩れる原因をご存知なのですね」
「知っているつもりだ。確かめたことはないけれど……」
「原因を教えてください」
征夫は、どうしてこんなことにこだわるのか、自分でもわからない。突然、口から出たことばだった。
「自分への贖罪の意味をこめて話すよ。3年前、父が急な病で亡くなり、ぼくはわずか37才で小江戸8代目当主になった。それから間もなく、葉月が結婚すると言い出した。つきあって半年たった頃だ。葉月の家は浜町で料理旅館をしている。結婚相手は、そこの常連客で、もうすぐ還暦を迎える相場師だ。葉月の母が相場に手を出し、損失の穴埋めにその相場師を頼ったことがもとだった」
「葉月さんは、親の尻拭いのために、好きでもない男のところに嫁いだのですか」
「20才以上も年の差がある相手だ。ぼくは反対したよ。しかし、聞くと、葉月の母が相場師から借りたお金は、8千万円。ぼくにそんな大金はない。店を処分すれば、出来ないことはないが、8代続く小江戸を絶やすことには、大きな抵抗があった。いまは後悔しているが、当時は母を施設に預け、店を新しくリフォームしたばかりで、蓄えは底をついていた。葉月は、ぼくが相場師から奪ってくれることを期待したのかも知れない。しかし、必要なのは金だ。葉月の料理旅館には、お客が注文するお土産用に小江戸の菓子折りを週に2、3度、届けていた。当時、自分で配達していたため、そのときに葉月と知り合ったのだが、ぼくは早くから彼女と結婚したいと考えていた。でも、相場師との縁談が持ち上がったとき、ぼくは不甲斐なくも、彼女を見捨てた。店を処分して彼女と一から出直すことも出来たのにだ」
郁治は、再び哀しい目を向け、征夫を見た。
「ご主人、いまからでも遅くはありません!」
「キミは若いから、そんなことが言えるンだ。相場師、餅蔵(もちくら)と言うが、餅蔵は葉月と結婚すると、わざとここから数分のところに、黒板塀に囲われたしゃれた家を建てた。葉月から、ぼくのことを聞いたらしい」
「いやらしい男ですね」
征夫は自分のことのように腹が立った。
「葉月はぼくの気持ちを知ると、こう言った。『わたしは餅蔵さんのところに行きます。いやいや行くのではありません。これから少しづつ、彼のことを好きになるつもりです。郁治さんとはこれが最後になるでしょう。あなたのことは、心から愛していました。いまも愛しています。でも、思い通りにならない世の中です。郁治さん、どうぞ、お幸せに……』葉月は、そう言うと、目に涙を溜めて、去って行った」
「この3年間、葉月さんと会う機会はなかったのですか?」
「あったさ。2度。最初は、別れてから3ヵ月後だった。葉月は妊娠していた。ぼくの子だと言った」
「エッ」
征夫は、予想していたことが的中して驚いた。
「しかし、すでに中絶していた。それを聞いて、ぼくはどうしようもない無力感に襲われた……」
征夫は、なんだかわかるような気がした。
「キミ! 怒るべきだろッ!」
征夫は、叫びにも似た郁治の声に、頬をひっぱたかれたような気がして彼を見た。
「しかし、ぼくには、怒りが湧いて来なかった。人間失格だよな」
郁治は自嘲気味に、薄ら笑いを浮かべた。
「お会いになった2度目は、いつですか?」
「半年ほど前。いま思うと、葉月がうちの店にきて、品物をくすねるようになったのは、その頃からだ」
「何があったのです?」
「ぼくの高校時代の友人が、近くで産婦人科医院をやっているが、彼がぼくにこっそり知らせてくれた。葉月が流産した、って。妊娠と流産は、結婚していればあることだろう。しかし、彼が言うには、流産のせいで、葉月はこどもが産めない体になった。葉月は否定したが、医師の彼は、もっとも安静が求められる時期に、激しい運動をしたせいだと言った。それでぼくは彼女に会った」
「どこで?」
「彼女はその頃から、毎週月曜のあさ、うちの店の前を通って、近くの水天宮にお参りをしていた。だから、ぼくは、彼女の後を追って水天宮の境内で彼女を問い詰めた。
どうして流産したンだ。旦那のこどもだろう。もっと体を大事にしないとダメじゃないか。しかし、葉月は、あなたには関係ないこと、としか答えない。ぼくはそのとき、急にぼくのこどもを産んで欲しいと思った。男は勝手なものだ。出来ないとわかって、言うのだから。彼女は哀しい眼をして、ぼくを見つめた。今夜、もう一度会いたい、とぼくは言ったが、彼女は無言で立ち去った」
「夜、お会いになったンですか?」
「結局、彼女は来なかった。ぼくは女々しく、彼女を自宅に訪ねた。しかし、彼女の反応が怖くて、表の格子戸すら開けることができない。すると、中から、餅蔵の大きな声が聞こえた。『おまえを水天宮に行かせているのは、なんのためだ。餅蔵家の跡取りを授かるためだろうがッ。医者を変えろ。あの医者はヤブだ。3年子なきは去れ、と昔から言うンだ。おまえはあと半年でそうなる。おまえ、まさか、それを待っているンじゃないだろうな。オイ、返事しろ!』そのあと葉月の叫び声がして、それがしばらくして、あえぎ声に変わった。ぼくは、その場から自宅に戻ったよ。それから、彼女は、月に一度、毎週月曜の水天宮からの帰り道、うちに寄って菓子を買うようになった。その際、菓子一つくすねている。ぼくは、最初、それを見つけたとき、ぼくに注意させるためだと考えた。しかし、違った。くすねる瞬間、彼女の目が異様に光るのだ。尋常な精神状態ではないと思った。その原因はわからないが、月に数度、餅蔵から、取引先の贈答用に遣うとかで、菓子折りの注文があり、その配達をしている芳樹から、こんなことを聞いた。餅蔵の家に行くと、いつも応答がなく、玄関にそっと品物を置いて帰ってくる。ところが、芳樹は、その際、とんでもない光景を見ていた。廊下に面している襖の戸の間から、衣服からはみでた若い女性の脚が伸び、明らかに抵抗している女性の声がする。女性の顔は見えないが、旦那が女性の気持ちを無視して無理やり……と言うのだ。これまで、芳樹は3度、餅蔵家に行っている。3度とも、程度は違うが、女性は明らかに旦那の行為を毛嫌いしていた、と……」
征夫は、葉月が別れることが出来ない夫を嫌う余り、心を病んだのだ、と考えた。
そのとき、慌しく、居間に駆けこんできた者がいる。
芳樹だ。
「ご主人!」
郁治も征夫も、血の気を失った芳樹の顔にびっくりして、腰を浮かした。
「どうした、芳樹」
郁治に、悪い予感が走る。
「たいへんです。あの方、餅蔵家の夫人が、餅蔵さんを刺しました。いま警察を呼んでいます」
芳樹は昨晩、征夫と別れると、餅蔵の家に走ったという。征夫の話から、万引き婦人が餅蔵の妻とわかったからだ。
あんなに嫌っている夫と一緒にいなければならないのは理不尽だ、と怒りがこみあげ、どうしようもなかったという。
餅蔵の家を訪ねると、葉月がいて、やさしく迎えた。餅蔵は土曜の夜は、いつも外泊して帰らないと言い、なかでお茶でも、と言われて、芳樹は戸惑いながらも居間にあがった。
そこから、葉月のようすがおかしいことに気がついた。当然だろう。人妻が、旦那の留守に若い男を家に引き入れるのだ。それ自体、おかしいと考えなければいけない。
葉月は、芳樹を座らせ、卓の上にお酒を出した。自分も飲むと言い、猪口に注ぐ。
彼女は、
「あなたと、もっと早くから、こんなことがしてみたかった」
と、笑顔で話しかけた。
芳樹はなんのことかわからない。薄気味悪さがこみあげる。
「郁治さん、だから、あなたは、わたしのことを捨てることができた」
彼女は芳樹を郁治と思っていた。
芳樹が、帰るというと、葉月は、しがみついて、「帰っちゃいや。帰さない。郁治さん、いま帰したら、あなたは、2度と来ないでしょ!」
と叫んだという。
そのまま、芳樹は朝まで、彼女のそばにいて、酒を飲んだことも手伝い、いつの間にか眠ってしまった。
ところが、いまから半時間ほどまえ、餅蔵がタクシーで帰ってきて、芳樹を見つけた。
餅蔵の怒号が飛ぶ。すると、葉月が台所から包丁を掴んできて、餅蔵に突進した。
郁治と征夫は、話を聞くと、芳樹の先導で餅蔵の家に走った。
すでに警察車両が数台駐まっている。
ちょうど、救急車が出るところだった。餅蔵が搬送されるのだろう。
そのとき、数名の警官に周りを取り囲まれて、浴衣姿に肩からコートをかけられた葉月が現れた。
郁治と目が合う。
髪が乱れ、やつれた表情の葉月から、
「アッ」
小さな声が漏れる。
葉月に、一瞬だが、恥ずかしそうな笑みがこぼれた。
郁治が言った。
「葉月、ぼくはこんどこそ、迷わない。待っているから……」
征夫と芳樹は、顔を見合わせ、互いに心のなかで、これで納まるべきところに納まるのだろう、と考えた。
(了)
刺殺 あべせい @abesei
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