第28話 選択
郁は今起こっている現状を目の当たりにした。
空は灰色に澱んでおり、不気味な黒い月が太陽を少しずつ隠そうとしている。
建物は先ほどの地震の様な揺れのせいで半壊しているものが多い。
市民の非難はノアの箱舟の隊員や、自衛隊が行っているようだった。
皆、突然起こった現象に困惑し、混乱していた。
猿間は夕凪を抱え、軽々と建物の屋根や電線に飛び乗り進んでいく。
郁も猿間と距離を縮めたい為、追いつけるよう走る速度を速めた。
猿間はちらりと追ってくる郁を横目に見ると、夕凪を抱えていない方の手の甲を下にし、郁の方に手招きした。
「?! 」
このままついてこい。ということだろう。
郁はぐっと口を紡ぐと、猿間の誘導に従った。
猿間は建物の上から地面に下りると進む方向を変えた。
郁も猿間が曲がった角に入ると、建物が少なくなり始め遂に猿間が歩みを止めた。
そこは廃車の山が並んでいるが、それ以外の障害物はなく、ひらけた場所であった。
「猿間さん、夕凪ちゃんを返してください。
夕凪ちゃんに何をしたかは知りませんが、これ以上は猿間さんに関わって欲しくないんです。
……なんて言っても聞き入れてもらえませんよね。
だからこういう状況になっているんですから」
郁は猿間に銃を向ける。
「夕凪ちゃんを俺に渡してください。
抵抗するのなら、俺は撃ちます。
今度は迷いません……! 」
郁は銃を構えながら、じりじりと猿間の方に近付いていく。
猿間は目を一瞬伏せると、次の瞬間抱えていた夕凪を郁目掛けて投げた。
郁は驚き、夕凪を受けとめる。
「……お前に今はその子を返す。
けれど、すぐにその子はお前の屍の上で眠ることになるぞ」
猿間から赤黒い血が蠢き出ると、ナイフになった。
猿間はナイフを手に持つと、一度振り払った。
振り払ったナイフからは余分な血液だろうか、地面にポタリポタリと落ちた。
「お前は俺が人間だった頃に深く関わっていた人物だと世釋から聞いた。
だが、すまないが俺はお前の記憶が一切ない。
一時期思い出しそうになったらしいが今はその傾向も消えた。
今の俺は世釋の願望を叶える為に存在している。
その邪魔をする為、お前が立ちはだかるのなら……俺はお前と此処で決着をつける。
だから……お前も本気で来い。郁」
「ッ! 」
郁は猿間の瞳を見て理解した。
もうあの頃には戻れない。
そして猿間はきっと郁自身の信念が揺らがない様に嘘をついているということを。
郁は出そうとした言葉を呑み込み、銃を強く握りなおした。
郁は猿間から視線を外さないまま夕凪をそっと地面に下ろした。
「……ノアの箱舟の一員として貴方達アルカラの目論みを絶対に止めます」
郁と猿間は同時に相手の方に向かって行く。
猿間が振り下ろしたナイフの先を郁はスライド部分で受け止めると、押し返した。
しかし、猿間がその隙に郁の足に自身の足をかけ、郁はバランスと崩した。
地面に倒れる郁に猿間はナイフを突き刺した。
郁は頬に少しかすめたが、ナイフを避けると距離をとった。
ナイフは地面に刺さると、形を崩し元の赤黒い血に戻った。
赤黒い血は猿間の方に戻っていくと両手の甲から手首を覆い、手甲になった。
猿間は郁と距離を詰めると、拳を握り郁の肋骨、胸骨や顎に打撃を加える。
郁を打撃を受けながらも、銃を持っていない手の拳を握り、同様に猿間の腹や顔面そして足で脛、膝に打撃を加える。
お互いに一歩も引かない殴り合い。
刑事時代もここまで激しい殴り合い等したことがない。
人間だった頃よりも混血の吸血鬼になった今の方が力の入り方が違うのか、郁は猿間に蹴り飛ばされ、廃車の山に身体ごと突っ込んだ。
力の差的にも郁よりも猿間の方が上なのだろう。
猿間は近づいてくると、郁の腕を掴み起き上がらせようとする。
しかし郁はその腕を掴むと、猿間が自身を起き上がらそうとした動力を使い、逆に猿間を廃車の山に倒した。
猿間は起き上がろうとするが、カチャリと額の近くでマガジンを装着する音が聞こえる。
「……そのまま引金を引け。郁」
猿間はそう言い、郁を真っすぐ見つめた。
猿間は眉を少し下げるとほほ笑んだ。
郁はグリップを握り、引金に指をかける。
「……っ、やっぱり無理です。
俺はまた猿間さんを目の前で失いたくない……っ! 」
「まぁ、そうだよね。
今度は君がこの手で猿間の動いている鼓動を止めるんだもんね。
そんな覚悟君にはやっぱり無いだろうね。
本当に偽善者で笑えてくるなー」
郁の耳元でそう声がすると、世釋がにこりと笑っていた。
世釋は郁の銃のセイフティレバーを操作する。
そしてそのまま体重を使い、郁を下敷きにするように倒れた。
「やっぱり夕凪もそうだけど、エンマも君と関わると正気に戻りそうになるぽいね。
危険だな、君本当に。
あのとき真っ先に消しとくべきだったなぁ。
それかエンマと仲良く君もこっち側に引き入れておけばここまで手こずらなかったのかな?
まぁ、そんなこと今更考えても仕方ないけどね」
「ッ、」
郁は頬を地面に擦り付けながら、背の上に乗る世釋を睨んだ。
「世釋……なんでここに?!
ラヴィさんは……っ」
「狗塚 郁。
こうなってしまったのは君が選択を間違えたからだよ」
世釋がぽつりとそう呟いた。
「……は? 」
猿間が廃車の山から起き上がる音がすると、郁が猿間の方を見た。
世釋から出てきた禍々しい赤黒い血の渦が猿間の身体の至る所に刺さり、猿間は震えた手で郁に銃を向ける。
「……猿間さん、俺」
夕凪は酷く痛む頭を抱えながら、重い瞼を開く。
パンっと銃で何かを撃ち抜いた音がすると、夕凪はそれを見て眉を歪め、目を見開いた。
「あ、もう全部どうでもいいや」
夕凪はそう言うと、深く黒い意識の闇の中に落ちていった。
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