アンドッキング

丹路槇

アンドッキング

重苦しい湿気を纏った秋霖が続く今週は、極め付けに台風が接近している。ひねもす部屋で寝転がる兄を起こし、並んで傘をさしてスーパーへやってきた。同じ学年だが双子ではない兄と俺は、今春からそれぞれの大学に通っている。

いつもとは打って変わってスーパーは大盛況だ。野菜も肉も黄色の値札に赤い見出しで「台風の備えを!」と煽り文句を背負わされ、びっしりと陳列されている。兄は不自然な冷気で充満し人が溢れる店内の様子に怯え、そっと俺の裾を掴んだ。

反射で振り返る。目が合う。外出が苦手な彼は、いつも寄る処無く俺についてきて、特段役割もないという風にじっとしている。かといって、俺にひとりで来ればよかったなどとは責めたりしない。今も視線が交わると、安心したようにふわりと笑った。

裾を掴む手を片腕で抱え込み、足早に店内を歩き回る。

「実瑠」

兄の名を呼ぶ。同じ背丈の華奢な青年が、気もそぞろなままこちらへ向いた。

「寒いから、おでん、始める?」

ぱっと顔を輝かせて、俺に掴まれた腕を持ち上げると、串に刺すような仕草をする。

「そうするのも美味しいけど、今日はお鍋にたっぷりの方。家でよく出されたの、憶えてる?」

実家にいた頃は母がよく寒い日の夕食を鍋ではなくおでんにすることが多かった。火が通っているものばかりだから支度が楽だったからか、単純に練り物が彼女の好物だったのかは定かではない。大根は柔らかく出汁が染みていて美味しかったし、卵はなぜかいつも後入れで半熟だった。

「出汁の作り方、母さんに聞いておけばよかった。今は寝ているよね、きっと」

携帯を取り出してアプリで世界時計を見る。母のいるニューヨークは23時過ぎだった。隣で俺の手元を覗き込む兄が、難しい顔をして小さく唸る。彼は昔から日付と時間の間隔を読むのが苦手だ。それよりも空の明るさ、風の匂い、湿度、身体の軽さで時間を計っている仕草がよく見られた。今日のように滔々と雨が流れ続ける日でも、もうじき正午になることを分かっているのかもしれない。

ふたりのエコバッグに入るくらいの量に調整して、それでも明後日の昼頃までは保つ量の食糧を買う。レジでクレジットカードを出すと、年配の女性スタッフが少々迷惑そうな顔をした。

長たらしいレシートを3枚つけてカードを返される。籠を運んで袋詰めをする間、兄は隣でにこにこしている。

途中で暇を持て余したのか、兄は俺の後ろできょろきょろと辺りを見回すと、荷詰め台の近くにある丸椅子に座って機嫌良く笑った。おそらくそこは荷物を置いたり、お年寄りが歩くのに疲れた時に休息で使ったりするのだと思うが、兄は一度座るとすぐに立ち上がり、椅子の構造や色について具に観察し、座っては立ち、を繰り返した。

何度目かに立ち上がった時、目の前の椅子を見据えたまま、ゆっくりと大きく瞬きをした。シャッターを切るようなその動作は、対象物を脳に転写するような作業に見える。


兄は生まれた時から言葉を話さなかった。同時に言語の理解もできないのかと思われたが、先ほどのように俺が言うことには全て反応する。両親の話す内容は半分くらいの理解度で、あとの他人が話すことはほとんど彼に伝播しない。

耳は聞こえている。目も見える。だが文字も読めない。兄が見るかなや漢字は、おそらく音符や地図記号のようなものなのだろう。

代わりに携帯の絵文字やスタンプで会話がすることができた。例えば帰宅が遅れる時には、家、亀、走る人、汗、などのグループをトーク画面に送る。すると親指を立てた人と緑茶(おそらく、焦らずゆっくり来いという意味)が返ってくる。物を指し示す場合は実物の写真を見せれば理解された。

兄は俺がいれば困らないのだ。常に俺から一方的に口語で話す分には、コミュニケーションは成立する。

脳に映し出した椅子を眺めながら、兄は突然怖い顔をしてこちらを見た。視線の先に俺はいない。彼は想起しているものの収束点を探して、目を細かく動かしている。

それは彼が制作にとりかかる前触れだった。美術大学に進学した兄は、いわゆるファインアートを専攻する学科にいたが、彼の描く油絵や制作する彫刻は、なんとも言えない地に足のつかない感じが漂っていた。

今回も唐突に彼の中で何かが発起したようだ。この椅子を持ち帰ろうとでも言い出すのかな。

「袋詰め、終わったよ」

わざと何でもないように兄に話しかけてみる。空になった籠を積み上がったところの上に落として、兄の分もまとめてふたつのエコバッグを肩にかけて持った。

彼はビニール袋の脇にあるご意見箱のところからボールペンと記入用紙を抜き取った。さらさらとメモ書きのように絵を描いていく。まずはJRの在来線。路線カラーが胴に対して縦向きに引かれている、新型車両だ。山手線か京浜東北線だろうか。

電車の先には格子状の外壁、と言うべきか、不思議な中間領域が描かれる。その奥にはまた格子調の建造物。

見たことのない場所だった。ここに行きたい、という要望だろうか。

これから台風で風雨が強くなるということは、彼にもよく分っているはずだった。予報によると夜半に首都圏全域をすっぽりと覆うような遷移をするらしいので、夕方ごろまで外出が済めば問題はないはず。兄はそこまで見越しているのだろうか。

そこまで考えてから、一度思案を止めた。そうではないのだ、きっと。掛川実瑠という青年は、目的地が見えたら嵐の中でも其処へ着くまで頑として突き進む。穏やかな笑顔で綺麗に覆い隠しているだけで、決め事への諦めの悪さは折紙付きだ。

諦めてそっと溜息を落とす。自分の矛盾にも気がついていた。いつもは兄がずっと家に籠っていることを気に病んでいるのに、自分の不都合で外出を迷惑と思ってはいけない。

「電車に乗るんでしょ。生のお肉も買っちゃった。一度家に戻らないと」

差し当たり、行き先を思い出す猶予がほしくて言い訳がましく帰宅を促す。兄は自分で描いた記入用紙を持ったまま、俺からエコバッグをひとつ取った。


並んで傘を差し、濡れたアスファルトを歩いて帰宅する。兄は普段やらないくせに今日は張り切って冷蔵庫に食糧を片付け、エコバッグを布巾で拭いて雨の水気を取ると綺麗に畳み直した。全て済ませるとぱっと笑顔になって、再びメモで差し示した建造物の絵を俺に見せる。

「うん、綺麗に描けてるよ。ごめんね、俺が思い出さないといけないのに」

やはり検索して幾つかの候補から当たろうと思い、ポケットに手を入れて携帯を掴んだ。その手を遮った兄が、そっと掌を翳して俺の額に当てた。怪我を労わるような仕草に、古い記憶の糸が縺れを解して真っ直ぐ張られていく。

あの日は、父と散歩に出ようと言われたのだろうか。車でそこへ辿り着いたのか、定かではない。母は留守番で、父と兄とで外出していた。西日の色を憶えているので、おそらく夕方だったのだろう。

初めて訪れたその場所は遊具もある広い公園で、大きな噴水の周りで兄と走り回っていると、場外のスピーカーから音楽が流れ始めた。

定時の演奏に過ぎなかったかもしれないが、何か大きなイベントが始まったかのような高揚感に、きっと俺は、衝動的に駆け出したのだと思う。

躓いて文字通り階段を転げ落ちた。酷く頭を打ったのは記憶している。背中も尻も熱くて胸が苦しかった。動けずに襤褸のように石段の隅に斃れていると、駆け寄った兄が俺を覆うように四つ這いになった。

濡れた硝子玉みたいな目が静かに見下ろしていた。憐れむでも責めるでもなく、兄はいつものように何も訴えてこなかった。いずれ痛みに呻いて俺が再び起き上がるまで、黙って弟を守っているように見えた。

その時に瘤を作っていつまでも傷んだのが額だった。大きくなったあたたかい掌の熱を表皮からゆっくり味わう。心地良くて目を閉じたくなった。

「公園の傍に、大きな博物館もあったよね。実瑠が憶えていた、椅子もそこかな?」

実際には何も言わない兄が、ここでも無言のまま小さく微笑んだ。俺の返答に満足をしたのか、ふたり分の冷感素材のパーカーを持ってくる。肌寒いが、湿度に抗うにはさらさらした素材が体感に合うのは同意だ。向かい合って同じ仕草で揃いの服を着るのが面白くて、「可笑しいね」と声をかけると、彼も悪戯っぽく笑って、チャックの位置まで同じ高さに調整してみせる。


北浦和にある埼玉県立近代美術館は、さほど大規模でもなく、ましてや博物館でもなかった。小さい自分が仰ぎ見た時の印象が、今の背丈に合った縮尺できちんと上書き修正される。

格子の半屋外空間の向こうに同じ格子型の建物があった。ガラスが波打つように緩やかな曲線を反復している。綺麗な建造物だ。

じゅうぶんな屋根のない壁際に、一匹の三毛猫がいる。体毛の表面は舐め取ったのか、濡れていなかった。兄はじっとその猫の背を見ている。傘でも貸してやろうと思っているのかな。だが彼らの人でなく場所へ懐く性分を考えると、その発想は兄にとっても幸福ではないだろう。気づかないふりをして入館を促す。

ドアの前で傘を閉じ、石突から零れ落ちてくる水気を振って落とした。雨を弾けなくなるくらい深くまで沁み込んだ水が生地を重くした。磨いたような艶を持つ鳥の濡羽とは大違いだ。疲れた翼を休ませるように、手元を傘立てに掛けて鍵を閉めた。兄の傘も隣で鍵をかけ、錠から押し上げられたプレートを引き抜いてポケットにしまった。

美術館の静謐な空気と雨の昼下がりの鈍い光が調和して交わっている。旅の一行が雨風を凌いで洞窟にたどり着いたような気分だ。

エントランスロビーに入ると、黒い背もたれが長く伸びた、上品だが少し奇妙な椅子がある。

初めに手に取ったリーフレットに〈今日座れる椅子〉と書いてあったので、きっと触るのも座るのも、写真に収めることも許されているのだろう。兄の背を軽く押し、椅子があることを促した。これ、座りたかったんだろう。

すると彼は俺の手をむずと掴んで、その指先から痺れるような興奮を伝播させるかのように熱くし、弟を引き動かしてその椅子に座らせた。身構えていなかったので、臀部が打たれて少し変な痛みが残る。

「どうして、実瑠の席でしょ、ここ」

何故だかその陳述は声を潜めてしまった。兄は立ち上がろうとする俺の肩をぐっと手で押しつけて腰を落とさせた。スーパーで服の裾を躊躇いがちにつまんでいた青年とは別人に見える。

こんな時でも一言も口を利かない兄と、普通に、つまり凡庸に育った自分を比べようと思ったことはない。優劣を振り分けるならば劣は俺だ。兄は世界を作る方の者、俺はその世界の中でだけ生きられる生命維持装置を与えられて息をする者。彼が俺から離れられないのではない、俺が兄の傍にいることを止められないのだ。

兄は大人しく椅子に座って自分を見上げる弟の姿に満足したのか、自分はその場で床に体操座りをして、対面になり見つめ合った。

確信に満ちた顔をしている。創作の趣意が整ったのか、それとも自分の作品を俺と椅子を使って作ったのだろうか。そこまで理解も求められていない。兄は俺との対話ではなく、ひとりの世界を見つけてその隙間に腰を下ろしているようにも見える。

「実瑠……」

居心地が悪くて助けを求めようとしたが、兄は笑ったままで何もしない。前に屈んで話しかけようとすると、組んだ腕が片方解かれ、俺の頭を機嫌よく撫でる。

諦めて口を噤んだ。そのうち館の都合が悪くなれば声をかけられてここから退避させられるだろう。床に座ることに関して注意されるまでの時間はさほど長くないと踏んでいた。


ところが、最初に通りがかった母と同年代らしき婦人方は、俺たちの姿を見ると

「そっくりね。双子なんですか?」

と話しかけてきた。

「いえ……兄弟です。すみません、椅子、ご覧になりますか?」

婦人方はいえいえ、と手を振るとまるで俺たちにゆっくりするよう言っているような笑顔で立ち去っていった。

次に現れた30代くらいの一見気難しい男性は、俺たちの姿を見て少し唸ると、鞄から携帯を取り出し、写真を撮っていいかと尋ねてきた。

兄に確認をしてから頷くと、数カット撮ってから丁寧に画像を見せてくれた。

「今回の展示の企画ですか」

慌てて首を振り、俺たちも先ほど入館したばかりだと説明した。そういえばまだ切符も買っていない。

その後はしばらく人の通行はなかった。腕時計をつけ忘れてきてしまったので、時間の感覚が分からない。携帯を取り出そうと動けば怒られそうだ。

最後に来たのは女子高生だと思う。近くの制服だろう、紺襟のセーラー服を着ていて、かつかつと鳴るローファーの音に、雨の中それだと歩き辛そうだなと仄かに同情していたら、きっとこちらを睨まれた。

蔑むような目ではなかったが、何かを扇動するかのような挑戦的な視線だった。そういう尖った感覚がかつて自分にもあった気がして、少し羨ましくなる。

女子高生の姿を目だけで見送っていると、兄が俺を非難するように、伸ばした手で頬を軽く叩いた。

「なに、もう済んだ? 行こうか」

立ち上がると、兄は俺の腕に掻いついてくる。同じ生地のパーカーが擦れる。同じ背丈で同じ格好をしていて、表層では意思疎通に滞りはないが、その実、兄と俺は全く別の生き物だ。


上階から順に展示室を回った。兄はずっと俺の腕に絡みついて離れない。そわそわと辺りを見回しながら、小股の足でせかせかとついてくる。

寒いのかと尋ねたら、困ったように笑ってからぱっと目を逸らし、俯いた。彼の鼓動の振動が、ぐっと突き抜けるように腕ごしに伝わってくる。

階段でひとつ下のフロアへ移動していると、格子の外側から槍を突き立てるように角柱が斜に刺さっていた。曇りなく貫いて斜行に交わった建造物と柱は、もちろん音のないまま佇んでいる。

館内の案内を広げ、〈ドッキング〉という作品名だと分かった。その絶妙な角度を割り出すためにどう計算すべきか、と立ち止まって思案していると、兄が心細そうに声を上げる。

「ねこ」

使い慣れていない嗄れ声が出た。彼の話す言葉にはいつも意味がない。俺を呼んでいるのかと思う時もあったが、返事を求めているわけでもなさそうだった。これも兄にしか分からない独自の符号が含まれている音声、と仮定すれば家族は容易に納得できた。

それでも、声を上げられるとやはり、何か返事を用意しなくてはと思ってしまう。

「ごめん、好きに見ていいよ。俺がついていくから」

白い肌に縫い留められた黒釦のような目がこちらを見る。瞳の大きな小さな球体は、ふわふわと纏わりつく癖のある細い前髪が被さり、瞬きのたびに僅かに揺れた。

ちくちくと白肌を刺す彼の前髪を伸ばした手で掬って後ろへ送った。窮屈そうに瞼をぐっと閉じる兄を目に映しながら、先程まで眼前に広がっていたドッキングを思い起こした。

角度を割り出そうとしたのは、技術的に可能であることを確認したかったからだけで、俺にはあの角柱が決して建物と結合しないように思えた。作品に含まれた多くの余白が、空間への釈明にしか見えなかった。

それがこの作品ではなく惨めな自分の胸中そのものを俯瞰しているだけなのだと、嵐の前に気づきたくはない。


地階の展示室へ行く。壁際の椅子に腰掛けて、センターホールの吹き抜けを見上げた。真下から見ると地上3階より先の天井まで解放されたアトリウムになっていて、細かく罫線を引かれて形成された窓の方眼が万華鏡のようだ。

寝息のように柔らかい兄の呼吸音が聞こえる。雨の音はやはりしなかった。

一枚の大きな油絵の前に佇んでいる彼は、時折思い出したように盛んに瞬きをして、また眼前の作品を凝視している。だらりと脇に垂らした両腕は、途中で思い出したかのように持ち上げられ、パーカーのポケットにしまわれた。

兄の視線に合わせて絵画を遠目に眺める。波打った顔料の撓みが面白い、と思う他は、それが花木なのか旋風なのかは分からなかった。

品の良いピンクが緑をかき混ぜて、山吹を巻き込んで躍らせている。乱暴か緻密か分からないタッチが竜巻のようにキャンバスの上辺へ伸びているようにも見えた。

兄は真っ直ぐに絵を見つめて、僅かに首を傾げている。天窓から注ぐ薄い自然光が交わって、色素の薄い彼の髪と睫毛の先をちかちかと光らせた。

鏡に吸い寄せられる寸前のアリスはこのような姿なのだろうかとぼんやり思考していると、それを中断するように、兄の立てた足の爪先がとんとんと床を打った。磨かれたタイルに泥の小片がぽろぽろと零れた。

我慢ならなくなって、腰掛けていた不自然に大きい学校の木椅子の形の座面から臀を滑らせる。

「兄さん、お腹減った」

甘たれた声を出すと、実瑠は漸くまた笑った。

たっと駆け寄ってくるが、足音は存外軽い。近寄って俺の腹に手を当てると、ポケットから財布を出し、自分の方が羽振りがいいと言うふうに悪戯っぽく歯を見せる。

「奢ってくれるの? じゃあ、大きいハンバーガー頼もうかな」

無論これは各々に母から預かっている金で、普段は俺が拠出して兄の仕送りには手をつけない。彼は時折思い出したかのように財布を持ち歩いて、兄貴風を吹かせるのを楽しんでいる。


一駅戻って浦和で降りる。かなり前に来た時は分離していた東西の出口が、地下の改札で一つになっていた。小綺麗なショッピングモールが駅直結で作られ、目につくキャラクターはサッカーとシラコバトにウナギまでいてイメージが渋滞している。

当てずっぽうに地下道を通ってバスターミナルの真下を通り、伊勢丹のところへ出た。時たま傘を開きながら細い道を抜け、記憶にあるバーガーショップが同じ場所にあったことに安堵する。

「ヒツジヤはね、館は潰れてしまったみたい。今は逆口の商業施設の中にあるって、調べたら分かった」

昔、画材をよく買いに行った手芸品店の名前を出しながら、兄が支払ったハンバーガーのセットが乗ったトレーを運んでテーブルに腰掛けた。既に向かいに腰掛けていた彼は先に包装紙を大らかに開けていて、山間から見える日のようになったバンズを捲ると、指でつまみ出したピクルスを俺の口元まで運ぶ。

いい加減、食べれるでしょ。漏らした苦情の声は、意地汚く兄の手から給餌を受けるためのものだ。舌先で受け取りぱくりと頬張る。歯で磨り潰した時のくみくみとしたもどかしさが空腹を煽る。

「実瑠もポテト食べて。最後の方、飽きちゃうから」

紙製の赤い容器をトレーの上でひっくり返すと、兄は愉しそうに声を漏らした。

ここでは店の乱暴なクーラーの音に合わさって、早足になった雨音が聞こえていた。少し風が混じってきた、と思う頃には、兄が飲むように口に運んでいったポテトが既に消滅している。


ヒツジヤで画材の品番を見ていたら、隣にいるはずの兄がいなくなった。東口へ行くまでに鬱陶しい雨に降られ、傘を差していたのに服と靴は手酷く濡らされていて身体が重い。襟足にあたる自分の髪が苛立ちを誘った。乱暴に頸を掻きながら、陳列棚の通路を一列見て回り、兄の姿を探す。

縦横を隈無く見たつもりだが色違いのパーカーを着た青年の姿はない。間仕切りのない同じフロアの別の店舗へ迷い込んだのかと周辺の数店を覗いたが、やはり見つからなかった。

ヒツジヤの店舗の外側をまわりながらレジ脇を通る。エプロン姿の店員が小声で何かを話しているのが耳に入った。

「大丈夫なのかしら、あの子」

「斎藤さんが見ておくからって言うから、任せちゃったけど」

「何を聞いても笑って答えないって、アレなのかしらね」

「アレって、どれよ……あ」

俺の視線に気がついたのか、ひとりと目が合うと慌てて口を噤んだ。もうひとりの方がそっくりね、と顔を不躾にじろじろと見ている。

「同じ顔の子、奥の手芸売り場にいますよ。お探しでしたら……ああ、言っても伝わらないかしら」

「……ありがとうございます」

あら、話せるのね、という言葉は無視して商品案内の釣り看板を確認し、手芸品の棚へ歩いていく。縦に並べられた生地のブロックを抜け、フェルトやビーズの売り場も素通りした。兄は、彼と同じように穏やかに笑う店員さんとふたりで、毛糸売り場のところにしゃがんでいた。

顔を上げた店員さんの胸元をすかさず確認した。斎藤、と書いてある。彼女も俺に気づくと振り向いて見上げながら、にっこり微笑んだ。

「もう少し、かかりそうです」

「はい、すみません」

兄は難しい顔で毛糸玉を素材や色、握った時の弾力などを吟味しながら、床に置いた買い物籠の中に煉瓦を積むように横倒しで積んでいく。互い違いに、また直角方向に置いたりしながら、籠の容積を毛糸玉で埋めようとしているのだった。

「それは黄丹です。綺麗でしょう、定番色ですが差し色にもおすすめしています。糸番手は中細ですね」

兄は斎藤さんの声で視線を上げ、穏やかな表情を見て頷いた。おそらく説明の内容は伝わっていないが、彼女の表情を見てよしとしたのだろう、自分がいいと思うところへ毛糸玉を重ねる。

立ち上がってまた幾つか毛糸玉を腕に抱えると戻ってきた。斎藤さんが丁寧に用途や季節感、肌触りについて説明する。

兄はついに買い物籠をいっぱいにすると、手元に余った毛糸玉を丁寧に棚に戻してから、後ろに立っている俺の方へ向き直った。


手を引かれて籠の前にしゃがまされる。側面の大きな網目状の隙間からそれぞれ覗き込んでみろと促された。

更に頭の位置を下に落として、それぞれの穴から溢れ出そうな毛糸の集合体を凝視した。配色は先ほどの美術館内で見たようなのだったか、あるいはそうではないのか。様々な質量で嵩や重みが異なる楕円球体が、カプセル群ともいうべきか、不思議な共同生活を始めさせられていた。それに困っているのか快適なのか、意思のない糸の集積はそれぞれの重力と摩擦の中でじっとしている。

次に兄が俺を促すのは何か、もう分かっていた。これを纏めて持ち帰りたいのだろう、おそらく籠ごと。

実瑠が美大に入学するのに合わせ、言葉を使わないアーティストの卵を学校・社会と繋ぐ役を気づけば勝手に請け負っていた。兄が作る作品をSNSに投稿し、制作に必要な画材などを買い、好みを把握して在庫を確保し、今日みたいな急な買い物を部屋の中で保管・管理する。時折母に尋ねられれば、カードの支払いについて弁明する。

そして今の場面のような、見知らぬ人と兄の話をするための名刺も持っていた。彼の線画でフキダシとミカンの絵が横に並んで描かれているイラストを中央に配置していた。ミカンは兄を指し、フキダシは本人ではなく話しかけられている様子だという。もちろん、下には電話番号とメールアドレス、作品を見てもらうためのQRコードを記載している。

創作活動を目的に毛糸を買い取りたいこと、また資料として買い物籠を破損の弁償と同じような額で買い取りをしたいことを斎藤さんに伝えた。

彼女は俺の言葉ひとつひとつに丁寧に頷いて、「はじめから、そんな感じはしていましたよ」と快諾してくれた。幸運なことに、彼女のネームプレートの上部には役職者を示す金色の帯がついていた。

レジへ運んだ買い物籠を、中身を崩さずにラッピング用のセロファンで綺麗に包装してくれた。さらに雨除けでポリ袋に包んでテープでしっかりと留め、ビニール紐で括ると緑のグリップを嵌めてもらう。

「ご親切にありがとうございます」

頭を下げ、さらにカードの支払いを申し出るのは気が引けたが、斎藤さんは訳のないことだと言う風に笑って応対してくれた。

「久々に楽しい時間でした。お兄さんのこと、大事にされているんですね」

その言葉に、俺は驚いて何も言えずただ俯くしかなかった。嬉しかったのだ。話さない彼を弟ではなく兄と思ってもらえたこと、それについて歩く俺を大変とか可哀想ではなく、兄を大事にしていると言ってもらえたこと。ただそれだけのことだったが、見知らぬ人ばかりの世の中で、時たまこうして俺たち兄弟を見つけて微笑んでくれる人がいるのかと思い、絡んだ糸が解れたような安堵を覚えた。

重ねてお礼を告げる。兄は隣で斎藤さんに朗らかに手を振っていた。

去り際に、兄だけが呼び止められて彼女のいるレジに戻った。俺が荷物を持ったまま足を止めているところでも斎藤さんの話し声が聞こえる。

「使えそうなものがあれば持っていらしてください。夏祭りでお子さんに配ったものなんですが」

こちらに背を向けた兄の表情は読めなかった。困った様子はない。差し出されたものをいくつか見せてもらい、選んだひとつをポケットにしまった。何かは分からない。青い紐が少しだけポケットの端からこぼれている。


片手で傘を差し、もう片方の手でグリップを握り、ふたりで買い物籠を持ち帰る。駅前の軒に着くと兄が籠を両手で持ち、俺が2本の傘を順々に畳んだ。交代で荷物を運び、ちょうど良い頃合いでホームになだれ込んだ電車に乗り込む。最寄り駅で降車する頃には、ほぼ定刻と言わんばかりに不穏な風が吹き始めていた。傘は諦めてふたりでパーカーのフードを被り、雨を嫌というほど浴びて帰宅した。

買い物籠を袋ごと三和土に置き、傘は壁の角へ立てかけ、ひとりずつ靴、靴下、パーカーと服を脱いでいく。兄の服の袖がべったりと肌に貼りついて脱ぎにくかったようで、袖を一緒に引いたら少しよろけた。油断していた分、自然に笑いが漏れる。

ズボンも脱いでTシャツとボクサーパンツ姿だけになってからやっとフローリングに降りた。床に脱ぎ捨てた服は纏めて抱え上げると洗面所へ直行した。ネットに入れずにそのまま洗濯槽へまとめて突っ込む。何も考えずに洗濯機のスイッチを入れる。まだ着替えやタオルの洗濯物が後から出ると気づいたが、すぐにどうでも良くなった。

風呂のドアを開けて浴槽の栓を下ろし、給湯ボタンを押す。お湯張りを開始します、という女性の無機質なアナウンスに思わず「お願いします」と言いたくなるくらい、少し疲れていた。

床を拭くための布巾とタオルを持って玄関に戻る。途中で廊下を数歩歩いてきた兄に出会い、毛先からぽたぽたと水滴を溢す頭の上から広げたタオルを被せた。

「身体、拭いて待ってて。お風呂できたら先に入ってよ」

それには応えず、頭にかかったタオルの端を掴んで俺の顔を拭こうとしている。後でやるからいいよ、と退こうとすると、片手を取られた。

ぐっと握られ、一緒に入ろう、と風呂の方を指差される。

「……ねえ、実家の大きな風呂と勘違い、してるでしょ。俺たちも背、伸びてて寸法合わないし。ふたりじゃ、狭い……」

出した声が少し震えた。こんな雨の日に突飛な散歩などするのではなかったとすぐに後悔した。

普段は出不精な兄が、珍しく行き先を告げて何処かへ行きたがるのが単に嬉しかっただけなのだ。俺がそれに乗じてはしゃぎすぎた。

兄は今でも子どもの頃そうしていたように、手を繋ぎ、身体を寄せ合い、肌に触れる。俺はその穢れのない無垢な交渉に応えられなくなっていた。

兄が美しいと思うようになってから、俺は臆病になった。

冷えた兄の手がぱっと離れる。納得してくれたのかと思い視線を合わせると、小首を傾げた青年は、大きな瞳を柔らかく光らせ、ゆっくり広げた両腕で俺の頭を抱いた。

兄の匂いがする。何度同じ洗剤で洗っても、兄の服からは同じように彼の匂いがした。薄荷に似たような、顔料や画材とも違う、昔から実瑠が持っているものだった。中間色のような涼感のある匂いに反して、兄の腕は締まった筋が厚く通っていた。

同じ背丈の青年は、ぽんぽんと手で俺の頭を叩き、頬を押し付けるように俺の顔と合わせた。氷に触れたような冷たい感触の後、だんだんと温もりが広がっていく。

しばらくすると兄は自然に離れていった。抑え込まれた頭が自由になったかと思えば、渡したタオルを今度はヴェールのようにかけられる。まるで何かを言いかけるような、彼が普段取らない口の動きのあと、すぐに照れくさそうに首を横に振り、ひとり風呂の支度へ向かった。


交代で入った風呂から出ると、兄はもう自室に籠っていた。マンションは2LDKの間取りで、ひとつはふたりの寝室、もうひとつの洋室は創作に使う兄のアトリエになっていた。床はベニヤの表面を研磨し塗装加工したものを敷き詰めている。窓には床下まで垂れるカーテンが掛けられ、壁には其処此処に飛び散った顔料の跡があった。

彼が創作に没頭している間、俺の短い独り暮らしが始まる。時折、排泄と水分補給に声をかけることはあるが、静かな彼から何かを求められることはない。

今夜も夕食に口をつけてくれるか五分だなと思いながら、粛々とおでんを仕込んだ。大根の味を染み込ませるために、一度火を切って鍋を置いておく。

普段は付けないテレビの電源を入れる。たまたま流れたバラエティには目もくれず、結局は携帯でネットニュースを斜め読みしたり、SNSの新着を見たりして時間を潰してしまう。

行く当てもなく画面の中を彷徨ったが、ふと我に返って携帯をロックして暗転させた。リモコンを掴んで地上波をニュースのチャンネルに合わせる。ソファの上で片膝を立て、その上に肘を置いて頬杖をついて見た。社会のフォーカスコーナーなのか、ヤングケアラーの話題を特集している。

自分がそうなのだと何度か言われたことがあったが、それを自認したことは一度もなかった。兄は身体に不自由はないし、失語と言われていたが俺の口語を全て理解している。文字は読めないがそれを学習不全と呼んでいいのかは分からない。むしろ彼の言葉を放棄した生活は、心を創作に賭すために削ぎ落した部分なのだと、俺は理解している。端的に言えば鎖国、ロックダウンだ。

彼の実の弟はそれを好都合だと思っている。ただ一人、弟だけを寄す処にしてくれるというのが、何も満たすことができない空の器を持って生まれた俺の生き買い甲斐となっていた。

キッチンに戻る頃合いかと思って立ち上がると、暫く静かにしていた携帯が突如、煌々と光った。母からの着信だった。

長方形の端末を取り上げて手の中に収める。視線の入射角が反射角と直角になるように斜に眺めてから、薄く溜息を吐く。心構えができないまま、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

《ああ、やっと出た。晴耕、元気にしてる? 実瑠は?》

母は優しい人だ。いつもあたたかい声ではじめに俺の名を呼ぶ。

「元気。さっき部屋に籠り始めたよ。今、夜の8時くらい。明け方に台風が通過するって」

《そうなの? 食べ物は大丈夫なの? 学校は?》

矢継ぎ早に質問が来る。連絡はまめでもなく疎らでもなく、数日から一週おきでやってくる。おでんを作ったが出汁の取り方が分からなかったと告げると、そのまま手順を話し始めたので、慌ててカウンターのメモ用紙に書きつける。ペンで間違ったところを黒塗りし、言われるままに走り書きをしながら、そういえば父が好きな甘めの味付けだったな、とぼんやりと思い出した。

「大学、今は後期の履修登録期間だよ。実瑠は平日、大学で制作してるけど、俺は来週から」

《そうなの……。ねえ、晴耕、もっと真面目に勉強したくなったら、お母さん、ちゃんと考えるから言うのよ》

悪意のないその言葉に、ヤングケアラーという片仮名の空々しい響きが重なる。彼女の言うことは少しだけ理解ができた。弟には兄が枷になっていると思っているのだ。

勿論、実瑠の所為で碌に勉強ができていないというのは言いがかりだった。大学に通う機会と学納金という投資には親に心から感謝している。感謝しているだけに、自分の意思で行き先を定めている生活や進路について、何か別の解釈が加わってほしくないと、子どもじみた反抗心が無性に駆り立てられた。

五徳に置いたままの鍋の蓋を開ける。閉じ込められた熱が白い湯気になってふわっと縁から溢れて昇った。蒸気に混じって旨味の香が鼻をくすぐる。少しお腹が減ってきた。

生返事を繰り返していると、母はまるで父に溢すようにしとしとと話し続けた。

《いつもごめんね、お母さんが貴方に昔から任せすぎてるわ。このままだと晴耕が可哀想。私が勝手ばかりしているから、実瑠とふたりで住むって言ったんでしょう。本当なら、お父さんが……》

「父さんのせいにしないで」

早口に遮った声色が、自分ではないようだった。

そんなことを言わせたくて出勤前の母からの国際電話に応じているのではなかった。双方言葉を継げられず、しばらく死んだように押し黙る。

何度か無為な思案をした挙句、諦めて通話の終わりをそっと待った。

母は最後に深々と溜息を吐き、全て忘れてほしいという免罪符を口にして、酷くあっさりと通話は切られた。

窓の通気口から風が吹き込んで笛のような甲高い音を鳴らす。カウンターを出てサッシの通気口をスライドして閉めると、機密性が上がった屋内との気圧差で、ボッと点火したような空気の揺れがあった。

連動してコンロの上にある換気口がバタバタと開閉音を出している。

コンロの火が落ちていることを確認して、暗い廊下へ出た。

かさかさと素足がフローリングを擦る。玄関の側へ行くと、ドアの向こうで唸る風雨の音が微かに届いた。

兄の部屋の前に行った。ノックはしない。木のドアに掌を当てて「実瑠」と名前を読んだ。

「おでん、できたよ」

扉の向こうから兄は出てこなかった。彼は今、台風の眼の中にいて、何も聞こえず、静かに佇んでいる頃だろう。

一枚の扉の向こうに取り残されたまま、俺はしばらく呆然と立ち尽くした。随分経ってから、ぷつりと糸を切るように諦めてリビングに戻る。


ドアを開ける音で目を覚ました。寝室を見回したが、やはり兄は昨夜のうちに寝床へは辿り着かなかったようだ。腰の下まで剥いでいた掛布を持ち上げて、抱くように脚と腕で挟み込んだ。ここには兄の匂いはしなかった。湿気を吸った繊維の匂いだ。じわりと襟足に滲むもののおかげで、今日はうんざりするような蒸し暑さがやってくるのが分かる。

再びバン、という、今度は盛大にドアを開け放つ音がした。物に当たる人ではないので、手が滑ったとかぶつかったとかそういう類だろう。大丈夫だろうか。

上体を起こして前髪を何度か適当に掻き上げた。壁掛け時計で時間を見る。6時17分。足をフローリングに下ろして立ち上がり、寝室を出る。

アトリエのドアは吹き込む風に任せて緩やかに開きかかっていた。壁に手を置いて中をそっと覗き込む。兄の姿はなかった。

部屋には顔料の揮発性油の臭いが充満している。換気をしないで何時間も籠りきりだったからだろう。エアコンも静音のためなのか彼が手動で停止している。

イーゼルに架けられたキャンバスには毒々しい量の顔料が混ぜられないままに厚く塗り重ねられている。その折々の層に挟まって練り込まれていたのは、昼間に買ってきた買い物籠の中の毛糸だった。

糸端は毛糸玉の腹から出すという斎藤さんの教えを忠実に守り、全ての毛糸は口から吐き出すようにその中心核からさまざまな色と番手の糸をキャンバスへ向かって伸ばしていた。裏を回って見てみると、キャンバスはいくつも尖った物で穴が開けられ、通った糸同士で結ばれている。それが固結びではなく蝶々結びというのが、実瑠らしくて好きだった。

キャンバスの表層は荒れ狂う筆致とペインティングナイフで斜に切られた直線で騒がしく入り乱れている。笑顔で描いたのだろうな、と思う。右下にはいつものサインがあった。フキダシに並ぶミカン。落ち着いた繊細なタッチで、その上にも同じ筆で落書きがしてあった。毛糸玉で遊ぶ猫。これはなんだろう。


部屋を出てリビングに入ると、盛大な音は廊下のドアが風圧に負けて勢いよく壁に当たったのだということが分かった。

ソファの向こうにある窓は網戸も開け放たれている。カーテンが身の重さを忘れてはためき、時折ずわっと窓の向こうへ吸われるように飛び出ていた。

台風は明け方のうちに雨を散らし終わったようだった。今は残った風だけが轟々と吹いている。

カーテンの下にうつ伏せに寝そべる兄を見つけた。肘をフローリングに立てて、何かを口に当てている。後ろ姿を見ていると、ぷかぷかと上がったものが乱暴に風に攫われていった。

シャボン玉だ。

「おはよう」

隣へ行って腰掛けると、兄は横目でこちらを確認してから、見ていて、という風にふっとまたシャボン玉を出した。

左手で持っている溶液の瓶に青い紐がついている。ヒツジヤで斎藤さんから分けられたのはこのお土産だったのだ。

大きく吹かれたシャボン玉は球体を凹ませて歪み、小さく生まれたのは群れになってキラキラ光り、風の向こうに吸い込まれていく。

兄は吹き口の輪を一度溶液に戻してすぐに引き抜くと、口元へ持っていってふうと吹いた。手にはたくさんの顔料が塗られたままになっていた。今度は半ばまで膨らんだところで仕損じてバチンと弾け、溶液がベタンダに落ちる。

それを面白そうに笑いながら、青年はのんびりと身体を返して仰向けに寝直した。

胸の上に置いた瓶に吹き口を浸ける。引き上げて手を伸ばすと、今度は俺の口元に持ってきて当てがった。

兄が吹くより少し優しく息を吐く。ふわふわと大粒のシャボン玉が舞い上がって、ベランダの桟を越え、まっさらに洗われた朝の空を映した。その青は、あっという間に風に攫われる。

上を見たまま隣にいる兄の微笑を感じる。不意に、どこにも繋がっていないような言葉が口からこぼれ落ちる。

「……ねえ、あの公園で、シャボン玉、したよね?」

それが、あの時俺が階段を転げ落ちた例の公園なのか、それとも別の敷地だったのか。おかしな感覚だった。シャボン玉を吹くと目の端に「ドッキング」が見える気がした。昨日は見られなかった、外側に出た姿の。

隣に答えを求めないまま空を見ていると、吹き口を持った手が今度は指を開いて、小指の爪がかり、と俺の唇を掻いた。

「ごめん、寝言みたいなこと言った。変だね」

彼はただ笑っていた。目尻と鼻の頭に皺を寄せ、露わになった額には汗の粒をつけている。小指を折って唇を何度も擦るので、くすぐったい、と漏らすと、喉の奥がごろごろと鳴った。

「ね、こ」

発した掠れ声は、兄にとって意味のない音の繋がり、言葉ではない。それは理解しているが、彼はいつも好んで「猫」という音を口にしていた。

「今のは、実瑠の方が猫だったでしょ」

大きくて朝の青をたくさん吸った目がぱっと見開かれる。仰向けの兄が飛びつくように俺の腰に腕を回そうとしたら、シャボン玉の瓶が倒れて溶液がフローリングに広がった。

慌てて起き上がった兄がシャツの袖を伸ばして床を拭く。それを制止してテーブルのティッシュを持ってきて一緒に拭き取った。粘性の液体が泡立ちつやつやと光るのを見ながら、「大丈夫、食器用洗剤でも作れるし、スーパーにも液だけならたくさん売ってる」と呟く。

それがまるで自分を慰めている口調だなと後から気づいて、それを兄に悟られないように顔を伏せたままにしていた。兄はきっと俺が怒っていると思っている。昨日のスーパーへ行った時のように、弟の服を掴み、そっと顔を覗き込まれた。何度も顔を逸らしても追いかけてくるので、諦めて目を上げた。

きっとこの相貌を人々は「同じ顔」と呼ぶのだろう。大きくて光の多い目、長くて毛先が透けそうな睫毛、淡く引かれた眉、俺より仄白い肌。兄は綺麗な人だった。

「ねこ」

「怒ってないよ。実瑠の勘違い。ねえ、エアコンでリビング冷やして、おでん、食べない?」

頷いた兄が再び手を伸ばす。今度は掌で頭を撫でられた。子どもの頃から、自分とさほど変わらない年と背丈の弟を、こうしてよく褒めるのが彼の習慣だった。

ぽんと背を叩かれ、兄は先に立ち上がる。皺と溶液で汚れたシャツを指摘すると、情けない笑顔でさっきの失態を濁した。


風は渇きを煽るように吹き続けた。不意に攻める風圧と纏った濡れた空気が、今の俺には少し、痛い。


〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アンドッキング 丹路槇 @niro_maki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ