夕焼けの空、そして夜④

 電車を乗り継いで五十分と少し。都心にある秀峰学園に対し、月宮の自宅は郊外にある。


 町の特徴として、駅から出る方角によって景観が変わる。駅を挟んで北部には昔ながらの閑静な住宅街が広がる。対して南部は都市開発の影響を大きく受けている。高層ビルが立ち並び、高級住宅街とされるエリアが多い。


 駅に着き電車を降りると、南出口の改札へと向かった。出口から徒歩数分の所にあるマンションが現在の住まいだからである。


 月宮は秀峰学園入学の少し前から、親元を離れて生活をしている。


 それは中学時代に行った志願であり、なぜ志願したのかと言えば、単純に「一人暮らしをしたかったから」というのが大きな理由である。


 無論、当初許可は出なかった。だがそれで「はいわかりました」と受け入れられるほど、月宮もその提案を軽はずみにしたつもりはなかった。


 なぜ自立をしたいのか、親目線でどのようなメリットがあるのか、考えられる限りの精一杯の売り込みをし、遂にいくつかの条件付きで許可をもらった。


 その条件の一つが『秀峰学園への入学』である。全国的に一二を争う進学校である秀峰へ行くならばいいと言われた。


 秀峰学園は月宮の実家から飛行機を使っても二時間弱かかる。むしろ好条件であった。結果その条件をクリアし、今に至る。彼は自由を手にした。


 「――のにな」


 深く大きくついたつもりのため息も、駅の構内はたくさんの人でにぎわっていて誰の耳にも届かない。とぼとぼと小さい歩幅で歩いていたにもかかわらず、あっという間にマンションの2001号室――三月から住み始めた新しい家の前にたどり着いた。


 とりあえず部屋に籠って考えるか――そんなことを思いながら、ドアノブに手をかけて引いた。


 ゴン――扉の裏側から壁に無理やり押し付けられたような音がした。内鍵がかかっているのだ。


 ザザ――まるで自我があるみたいにインターホンが不敵な音色を奏でる。

一瞬の静寂。


 内蔵されたカメラがこちらを向いたように感じる。


 「おかえりなさいませ」


 暫しの間。


 室内からリビングの扉が開かれる音がかすかに聞こえた。


 扉の裏側にはすぐ玄関があって、そこには靴が数足置きっぱなしになっている。そのうちの一足が人為的に宙へ浮かんだ。靴底と大理石のタイルがぶつかり合う。


 すぐ目の前にいる。


 板一枚の隔たりの奥に、しっかりと像が見える。


 新婚夫婦みたいでいいじゃねぇか。誰かが言った言葉を脳で反芻した。


 扉が開く。ビデオカメラでコマ送りにしたみたいに、ゆっくり開いたように見えた。


 「おかえりなさいませ――」


 先ほど機械音で耳に届いた音が、今度は生音で聞こえる。


 一人暮らしのはずの家から、女の子が一人出迎える。濡れたように艶めいた黒髪。透き通った真っ白な肌。艶っぽく整った顔立ち。立っているだけで、優雅で品のある雰囲気。宝石のような輝きを放つ瞳。


 「――日向様」


 『近況を報告する役も兼ねて、身の回りの世話をする者をつける』。一人暮らしの条件、その二である。


 日向は深くため息をついて、


 「咲夜。家に帰るまではお前が天宮日向だ。そんで俺が月宮咲夜。そして家に帰るってのは俺がこの玄関に入ってドアを完全に閉め切ったところまでだ」


 力強く扉を閉めた。


 足の遠心力だけで靴を脱ぎ捨て玄関を上がり、リビングに続く廊下を数歩進んで振り返る。見ると咲夜は脱ぎ散らかした靴を黙って揃えている。


 「言いたいことはたくさんあるが……。咲夜、なんで内鍵なんかしている」


 ため息交じりに日向は言った。


 「当然です」


 踝まである長いメイド服のスカートを靡かせ、咲夜も日向の方へ振り向いた。


 そう、メイド服である。


 この女、学校から帰ってきては制服からどこで拵えたのかもわからないメイド服に着替えるのだ。朝の目覚めた時から夜寝る直前まで、家の中にいるときは常にこの格好である。幸い「メイド姿の買い物客がいる」という近隣住民のニュースを聞いたことがないため、外ではこの格好をしていないのだろう。ただ寝るときはどんな格好をしているのかというのは甚だ疑問である。


 「学校での日向様の様子、明らかにお怒りのご様子でした。あの状態で学校からご帰宅すれば、間違いなくご自身のお部屋に直行していたでしょう。内鍵をしたのはその予防です」


  図星だった。


 日向の住居は2LDKである。日向と咲夜それぞれに自室があり、その部屋は玄関を入ってすぐ右手側。つまり帰ってきて誰にも会わず、すぐさま自室に籠ることができる。


 「だからって鍵を閉めるな」


 日向は掌の上で転がされていたことに腹が立って、苛立ちを隠せずに言った。


 「それは困ります。夜間の防犯対策として内鍵は優秀ですから。日向様の身に何かありましたら。私どうにかなってしまいます」


 まるで子どもをあやすかのように咲夜は言う。


 こちらは真剣に言っているのに。


 「頭が痛くなってきたよ。とりあえず俺が帰ってくるってわかりきっている時に内鍵は閉めるな」


 「それはご命令でしょうか?」


 「……あぁ命令だ」


 かしこまりました、と咲夜は頭を垂れた。


 当初の予定ではいの一番に向かう予定であった自室を視界の先に追いやり、手洗いを済ませると日向はリビングへと向かった。


 入ってすぐに出迎えるのは充満したカレーの匂い。普通に使えば持て余しそうな設備を持つシステムキッチンに隣接する形でリビングにはテーブルがあって、日向はそこが指定席だとでもいうようにテーブル最奥の席に座った。


 一呼吸おいて、


 「矢継ぎ早に話を進めるが、まずは生徒会役員おめでとう」


 日向がそう言うと、咲夜はスカートの裾を軽くたくし上げ、ひざと腰を軽く曲げた。カーテシーという所作らしいことを最近知った。


 「ありがとうございます。光栄の至りでございます」


 「予定通り第二段階クリアだ。このまま咲夜が天宮日向として一定の地位を築いて

くれれば当初の計画通りことが進む――」


 時を少しさかのぼる。


 日向の一人暮らしに向けての計画がほとんど決定段階になったころである。それは今でいう日向の実家にある彼の自室で行われた。学校から帰宅してままならない制服姿のままで、一人の使用人を呼び出して、中学三年生の彼は告げた。


 「四月からこの家を出ることになった」


 「おめでとうございます。旦那様は快諾されたのですね」


 咲夜は慎ましやかに顔の前で拍手をして、精一杯の祝福をする。それに対し日向は頭を抱えて少し困った素振りを見せた。


 「あぁ。いくつか条件を付けられたが」


 「条件?」


 「一つは学校を指定された。秀峰学園? という学校があるらしい。『そこならばいいだろう』とあいつは言っていたよ。調べたところ結構な難関校らしいが、入学することは難しくない。場所もここから遠いし、条件としては好都合なくらいだ」


 「なるほど」


 咲夜は秀峰学園と聞いた時、心では大きく動揺した。普通に過ごしていれば嫌でも知ることになる有名な学校であったからだ。クイズ番組などでも頻繁に名前を耳にする。


 「それで、他には」


 「もう一つがお前を呼び出した理由だ」


 首を傾げた。


 「二つ目の条件は、監視役をつけるということらしい。伝達係として一人、使用人を連れて行けだとさ。めんどうくさい。自分の子どもが信用できないのかあいつは」


 「それで私が白羽の矢に」


 「そうなるな」


 悪いな。それくらいの感覚で日向は言う。


 「いえ、それでしたら。むしろ私はおいて行かれるのかと思い、少し傷心していたので」


 「そう言ってくれて助かるよ」


 日向は微笑む。それに対し、咲夜も気さくに笑った。軽いフリートークのつもりであった。


 突然、そのたわいない雑談を邪魔するかのように木枯らしが吹いた。扉も窓も開いていないのに不思議だ。そう思いつつ咲夜はそれがきっかけで忘れていたことを思い出して、


 「コーヒーがまだでしたね。お持ちいたします」


 慌てた様子を一切見せず、体を扉の方へと向けた。


 「いや咲夜。お前には時間がないからな。自分のコーヒーくらい俺が淹れるよ」

驚いた。そんなことを言われたのは初めてだったからだ。だからこそその瞬間、咲夜はその裏に隠された大きなメッセージに瞬時に反応することができなかった。少し間をおいて、咲夜は踵を返した体をゆっくりと戻した。


 「どういうことでしょうか?」


 「何って、咲夜。お前も秀峰学園に入学するんだ」


 とぼけた感じは一切ない。純粋に。当然だろというように、日向は言った。


 「俺が咲夜として。咲夜、お前が天宮日向として、秀峰に入学する」


 まるで予期していなかった発言をいきなりぶつけられて、咲夜は目を丸くした。そこだけ時間が止まっているようにすら感じた。


 日向は話を続ける。


 「俺の代わりに入るんだ。一番の成績で合格くらいはしてもらわないとな」




 そして現在に戻る。


 「――普通の新入生として何不自由ない学生生活を送る予定だったのに」

 

 思い出す。今日あったことを。始業のチャイムが鳴りはじめる前から記憶をさかのぼり、脳裏に憎き冷徹教師の顔が現れたところで記憶をシャットアウトさせた。

危うく腐ろうとしかけた脳みそから不純物を摘出する。それが言葉として出た。


 「こんなことは想定の範囲外だった」


 ――生徒会に入りたまえ


 再び冷徹糞教師の顔が脳裏に浮かびあがった。脳内にアラームが鳴り響く。今度は態度として出た。羽織っていた学校指定のブレザーをテーブルの上に投げ捨てる。


 「くそっ」


 投げ出されたブレザーを律儀に机の上で畳みながら、咲夜が言う。


 「その、日向様。水を差すようですが」


 「なんだ?」


 「むしろこれはチャンスだと思います」


 「チャンス? 誰にとってどんなチャンスなんだ」


 「日向様にとって、でございます」


 チャンス――昔から利のある言葉が好きだった日向にとって、それは耳を傾けたくなるような単語といえる。言ってみろ――日向がそう言うよりも前に、咲夜は口を動かしていた。


 「日向様。失礼を承知の上でお尋ねいたしますが、咲夜が旦那様に命じられた役割を覚えているでしょうか?」


 考えるまでもなかった。


 「監視兼伝達係だろ」


 「その通りでございます。当然咲夜は日向様の物でありますから、日向様の命一つで融通の利く報告を旦那様にお伝えすることも可能ですし、そのつもりでした。ですがそれではいずれボロが出てしまいます」


 日向は静かに頷く。


 嘘で塗り固められた情報を伝え続けては、いずれ整合性が取れなくなってしまう。

咲夜はそう言いたいのだろう。


 「なるほど。そこに生徒会活動という事実を組み込むことができるということか」

それに生徒会活動というのは体裁的に見れば、変に部活動や勉学をがんばっているというよりも具体的で聞こえがいい。世間体を気にする者であればなおさらだ。


 「……生徒会か」


 日向は虚空を見つめて、ため息をついた。


 自分が元々求めていた高校生活と、これから過ごすであろう学生生活を、頭の中で比較する。


 もともと思い描いていた高校生活はいわゆる平凡。クラスにいるのかいないのか分からないくらいの存在感で、そつなく勉強と部活動を両立する。体育祭や文化祭といった校内行事を目一杯楽しんで、そして――。


 上の空に合わせていたピントが、ゆっくりと実像に重なる。


 「どうなさいましたか? 私の顔に何か?」


 熟考しすぎた。覗き込むようにこちらを見て呼びかける咲夜から、日向は逃げるように視線を外す。


 「――なんでもない」


 思う。このまま思い描く平凡を続ければ、三年間の途中で飽きてしまっている自分の姿を日向は簡単に想像することができた。平凡な学生生活を送るよりも、多少の山や谷があった方が自分の性分にあうような気もする。


 とっ散らかっていた頭の中に、ポツンと箱が置かれた。


 「――生徒会には、入ることにするよ」


 「賢明な判断だと思います」


 その日の晩御飯はカレーであった。部屋に入った時から漂うスパイシーな香りを嗅いだ時から、日向の胃袋は内側から握りしめられたみたいにキリキリとした痛みに襲われていて、食卓に出されるとがっつくようにそれを食した。


 「――しかしだ」


 口いっぱいに詰め込んだカレーが一度空になってから、日向は先ほどの話の続きを始める。


 「当初計画していたイメージから少しずれてしまったな」


 お預けされていた餌を目の前に置かれ、それにがっつく犬のような日向とは対照に、丁寧でゆっくりとした所作でスプーンを口に運んでいた咲夜の手が止まる。


 「計画とは――私が『日向様を演じる』ということでしょうか」


 日向はスプーンを持ったままの手で、咲夜に指を差して言った。


 「その通りだ」


 話を続ける。


 「高校生活の三年間は咲夜は天宮日向(俺の代わり)、俺は月宮咲夜として過ごす。その計画は当初の予定通り進める」


 続ける。


 「本来なら咲夜は特進クラスで、俺は普通の進学クラス。学校にいればよほどのことがない限り接点がない予定だった」


 だが――。


 「お互い生徒会の役員として接点をもってしまう」


 つまり――。


 「確かに」


 沈黙を貫いていた咲夜の口が動く。


 「日向様のおっしゃりたいことはわかります。我々が校内で話す機会が増えてしまうと、ふとした時にボロが出てしまうのではないか。それこそ例えば私(天宮日向)が生徒会で『日向様』と言ってしまえば即刻アウトでしょう」


 けれど――。


 「私のことが信頼できませんか?」


 自信満々な顔。蠱惑的な笑みを浮かべて、咲夜はそう言った。日向はその顔を見て理由もなく安心して、


 「そうだな。疑って悪かった」


 一度止まった右手を再び動かし、食卓へと手を伸ばした。


 「許しません」


 「こわいな」


 高校生活が始まって、一か月が経とうとしている。一月あれば桜の色は緑になるし、初めましての同級生の名前から「君」や「さん」が取れる。


 もう一月。


 まだ一月。


 人によって感じる時の流れは異なるものの、少なくても日向にとってこの一月はすごく緩やかで、退屈に感じ始めていた。


 自分がそこに止まっているだけで、周りの時間は流れるように過ぎ行く。


 明日から、また一つ変化が生まれるんだ。


 初めは無理やり所属させられそうになって嫌な気持ちで高まっていた思いが、日向は気づけば少し楽しみになっていた。


 その日の夜は満月だった。

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