夕焼けの空、そして夜②
窓から逃げ出す根性があれば。
そんな思いを胸に月宮は生徒指導室までの廊下を、飼い慣らされた犬のように歩いていた。
ホームルームが終わるとすぐに机の横にかけたスクールバッグを抱え込み、アメリカンフットボーラー顔負けの勢いで教室から出ようとした。だが教室の出入り口から線対象の位置に席がある月宮が教室から出るよりも、教壇に立っている上雷の方が教室の出入り口を防ぐのが早いのは単純明快な構図である。
「なんで俺の席は教室のドアから一番遠い席にあるんだ」
大型犬は「ワン」と鳴いた。
呼応するかのように、飼い主が振り向く。
「毎年いるんだ。部活動に強制的に参加しないといけないなんておかしい。生徒の自主性をウンタラカンタラっていう馬鹿が」
心臓に刃物が刺さったような感触に襲われ、月宮は左胸に手をやった。
「毎年そういう奴らをコテンパンに痛めつけなければいけないのが生活指導部長である私の大仕事であったんだが、今年の新入生は入試のボーダーが引き上げられたのもあってかお利口な子が多くてね。ここ右」
右手をあげハンドサインで右に曲がるよう促す飼い主に、透明な首輪を付けられたペットは従うしかなかった。
「他のクラスはほとんどの者が仮入部を終え、入部届けを集め終わっているんだ。私のクラスは例年、なぜか一週間足らずで集め終わるんだが、今年はそうじゃなかった。驚いたよ」
「だから、まだ悩んでるんですって」
大型犬が吠えた。飼い主の足が止まる。
「悩んでる? 仮入部期間にも関わらずこの一ヶ月、いの一番に学校を出ていたようなやつが?」
先ほど刃物で刺されたように感じた心臓が、次は口から出そうになる。
動揺する月宮の顔を見て、上雷は一杯食わせてやったという顔をした。そのまま前へ振り返り、止まった足を再度進ませる。
生徒指導室は目と鼻の先であった。秀峰学園は生徒数も多いがその分教員数も多い。そのため職員室もたくさんあるのだが、生徒指導室は先ほどまで月宮達がいた一年十組と同じ、二階の職員室の中の一角にある。
普段は「失礼します」と言わなければ、死相浮かぶ教員達の「挨拶は?」という視線に押しつぶされそうになるが、今日は違った。上雷に付き添う形で職員室に入室した際にぶつけられた視線は、まさに哀れみの目だった。
上雷美雲を一言で言い表すなら「鋼鉄の女」である。常に目で人を牽制し、相手に主導権を握らせない。それでいて理不尽に人を責めるわけでもない。「生徒指導室に行くとカツ丼を食べられる」というのはよくある学校の噂だと信じたいが、否定しきれないのも事実である。
「そこに座りたまえ」
上雷が後ろからそう言い、指導室入口から向かって最奥の席を指差した。
言われるがまま椅子を引き、深く腰を下ろす。月宮が腰掛けたのを確認すると、上雷は入口から最も近い席へと座る。
「単刀直入に言おう」
まさに短刀を突き刺すかの如く、右手を月宮の顔先に突き立てて言い放つ。
「月宮、生徒会に入りたまえ」
「え?」
そう言ったのは月宮ではない。確かに、月宮はその時まぎれもなくその「え?」という一言を脳で思い、そう言うように口へ伝達信号を送った。だがそれを声色として発するには至らなかった。
月宮が口を開くよりも早く、別の人物がそう発したのだ。
月宮の視線が外れたのを見てか、「え?」という声に話を遮られたからか、上雷は眉根を寄せる。「待っとけよ」と言いたげな目で月宮を牽制し、体を指導室入口へと向けた。
生徒指導室前に人影が一つ。肩にかけていたスクールバックは肘近くまでずり落ちていて、乱れた黒髪が顔に引っ付いている。急いで来たと見るからにわかる風体の女の子が一人立っている。
その女の子を月宮は知っている。先ほどまで件の人物として話題となっていた。
名前は――
「なんだ天宮か。びっくりするじゃないか」
上雷の失礼な言動に対し、天宮はまるで淑女のような丁寧な姿勢で「こんにちは先生」と挨拶を交わす。
かくいう月宮は、相手が気づくか気づかないか、微妙なラインの会釈を行った。
「ちょうど話をし始めたばかりだから助かった。同じ話を二度するのは面倒だからな」
そのまま流れるように上雷の隣の席に天宮を座らせる。すると、まるで大御所MCが自分よりも芸歴が上のゲストを番組に招いたみたいに気を遣った口調で、
「お互いクラスは違うから初めましてだろ。挨拶しとけ」
月宮にはそんなことどうでもよかった。
それよりも先に、今は聞きたいことがある。
あのー先生、さっき言ってたことなんだけど。月宮が一度流れかけた話題を戻そうとするよりも前に、上雷は何事もなかったかのよう話を続ける。
「これから一年生生徒会役員同士、協力することも増えるからな」
「だからそれ!」
「だからそれってどういうことでしょうか?」
お互いほとんど息ぴったりに、天宮と月宮はそう答えた。
脊髄反射の勢いで、返答がくる。
「だからさっき言ったじゃないか。月宮には生徒会の役員をやってもらおうと思っているんだ」
「まだ意味がわからないんですが」
続いたのは天宮だった。
めんどくさいな、とでも言いたげな顔をして、上雷はその場から立ち上がる。
「茶でも淹れてあげるよ。それともコーヒーがいい?」
ほんの一瞬時が止まって、それぞれに希望の飲み物を注文した。すると上雷は指導室隣にある調理場に移動し、壁越しに事情を説明した。
秀峰学園では新入生は全員、何らかの部活動か委員会に所属しなければならないこと。
仮入部期間が終わり、入部届の期限まで残り三日となり、全新入生で唯一月宮が入部届を提出していないこと。
そして月宮が入部届を出す気がないことを。
「悩んだよ。生徒指導部長になって今まで史上最大に悩んだ。私の教員歴に傷がつくところだ。今年は生徒会の顧問も任されて忙しいのに、こんなしょうもないことで時間を使いたくない。そこで私は思いついた。あぁこいつを生徒会に入れてやれば、生徒会の負担が減って一石二鳥じゃないか!」
とどのつまり、他の部活動に無理やり入れれば、その顧問の先生に迷惑がかかる。けれど自分の監視下なら大丈夫。というのが作戦の全貌である。
上雷が説明し終えると、ほとんど同じタイミングで飲み物が出来上がった。
天宮は自分の前に出されたミルクティーを、まるで毒見を任された下女のような素振りを見せて一口だけ飲み、
「それでもいきなり生徒会の一員になるってどういうことですか。意味が分かりません」
一教員の匙加減で特定の生徒を生徒会に入れるのは理不尽と言えるだろう。選挙をした意味は? 選挙で落ちた人がかわいそう。出てくる意見は簡単に予想できる。
天宮の言い分に対し、上雷は動揺一つ見せない。待っていましたと言わんばかりに「ふっ、ふっ、ふっ」と上機嫌な声色を覗かせる。
思わず固唾を飲んだ。どんな言い分が飛んでくるんだ。
「自慢じゃないが、月宮はすでに私のクラスでは素行不良の地位を一定数稼いでいる」
悲しいはじまり方であった。
「そんな月宮を天宮、君が更生させて生徒会に入れたとなったらどうなると思う?」
まるで潤滑剤でも口内に注ぎ込まれたのではないかというほど饒舌に、上雷は語る。
「少なくても、私のクラスの中での天宮の株は上がりっぱなしだろうな。それに私もこの素行不良を常に監視できる。ここ二週間、私の単細胞をフルスロットルで回転させ、考え付いたやり方がこれだ」
あまりにヒートアップをしていたからか、無意識に上雷は座っていた椅子から立ち上がっていた。言い終わると我に返り、もう一度元の席に座り直す。らしくなく盛り上がったことに気恥ずかしさを感じたのか、淹れたものの放置していたコーヒーをおもむろに飲み始める。
天宮は呆気にとられ飛んでいた意識を戻し、
「その、お気持ちはわかりました。けれどだからって、その、もう少し、違う方法はないかな、と」
「聞こえなかったか? ここ二週間、私の単細胞をフルスロットルで回転させ、考え付いたやり方がこれだ。君の優秀な頭脳をお借りできるのならどうぞ考えてくれ。そうだな五分だけ待とう」
沈黙。困った――という言葉が天宮の顔からにじみ出ていた。
月宮は上雷が淹れてくれたホットコーヒーに初めて手をかけ、さっと一息に飲み干す。
出された時こそ鼻から脳に染み渡る上品な香りだったが、すでにカップの中のコーヒーは人肌ほどに冷めている。そのため美味しいとは言い難い。
もう一度、完璧な状態でこのコーヒーを飲んで見たいとも思ったのも理由の一つで、
「わかりました。入ればいいんでしょ、生徒会」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます