夕焼けの空、そして夜①
呆然と窓の外を見ると、ついこの前までピンク一色だった木々に青さが目立つ。横切る風にも温かさが伴ってきた。少し息を吸えば鼻先を何かがくすぐり、寒さとは異なる理由でくしゃみが誘発される。
黒板の上に設置してある時計は、午後四時を少し過ぎていた。七時間目が終わり、終礼が始まるまでのちょっとした空き時間。
本来のこの時間帯ならば、ほとんどの者が疲労ゆえに立ち歩かず、自分の周囲にいるクラスメイトと他愛無い会話を繰り広げるのみ。
しかしこの日はほとんどの者が教室中を活発的に動き回り、甲高い声を響かせていた。
月宮の前の席に座っている
「いやー圧倒的だったなー」
と鼻高々に言った。
「なにが?」
「生徒会選挙」
おそらくは現在教室中のほとんどの生徒がしているであろう話題を持ち出した。
そう。教室どころか校内では今、本日の五時間目に行われた生徒会総選挙の話題で持ちきりなのであった。六時間目と七時間目に行われた数学Ⅰと地理の先生を、哀れに思うほどの浮足立ちぶりである。
「意外だな。お前ってああいう選挙の演説を真面目に聞くタイプなんだな。俺には葬式での坊さんの念仏よりも退屈に聞こえたよ」
現代人のミーハー具合を肌身に感じつつ、月宮は少し小馬鹿にして言う。
「本来ならそうさ。俺はきっと選挙権を貰っても投票になんて行かない。なのに当選した政治家を批判するタイプだよ。だけどよ。今日のあれにはなんつーの。ビビッときたものがあったんだよ」
予想より斜め上の返答が来て、月宮は顔を引き攣らせた。
「具体的にどの演説が?」
「何とぼけたフリしてんだ。他の連中もさっきからその話しかしてねぇだろ。どのってそりゃー」
その時、教室天井の放送機器から、ディナーチャイムを鳴らしたかのような機械音が響く。
会話が止まった。止まった会話は何も二人の間だけではない。先程まで耳障りだった教室中の会話も止んだ。
機械音が途切れる。そして先程数学Iの授業中に聞いた覚えのある声がバトンを繋いだ。老人特有のしゃがれた声で、
「えー、只今より、生徒会総選挙の結果を発表いたします」
皆がその声に視線を向ける。教室中のほとんどの生徒が、体育での集団行動以上の統率を見せる。きっと、教室の向こう側の景色も似た状況なのだろう。
「――今年度生徒会当選メンバーを読み上げます。まず生徒会長、三年――」
順々に、役割と当選者の名前が読み並べられる。生徒会長の名前が呼ばれ、次に副会長の名前も呼ばれる。当選者の名前が呼ばれるたびに、クラスの一部の女子が一喜一憂を繰り返すが、ほとんどの者は知らない上級生の名前に反応を示さない。
だが、次いで書記の当選者の名前が呼ばれ終えると、状況は一変した。
「会計――」
「次だ。来るぞ」
そう言うと、雪城は神にも祈るかのような姿勢を取る。
しゃがれた声の放送が続く。
「会計、一年八組、天宮日向」
突然、教室内全土から奇声が響いた。その中を掻い潜るように「これで放送を終わります」という声が続き、先ほどとは異なる音程でディナーチャイムが鳴った。
「いやーめでたいねー」
雪城が感慨深い顔をして、首を何度も縦に振る。
「そんなすごいもんかね」
「お前まだ事の重大性に気づいていないのかよ。いいか、」
雪城はそう言うと一呼吸おいて、
「ここはあの秀峰学園だぞ。そこにいる奴らほとんどが中学の時に学年上位が当たり前。そこに入学するのだって血反吐を吐く思い。そんな秀才ばかりのこの学校で、生徒会に立候補するだけでも勇気ある選択だ。それを一年生なのに立候補するなんて大した肝どころじゃねぇ。どんな強靭なメンタルだっての」
「立候補の噂が立ってから総選挙までの間なんだけどさ、」
雪城の話を聞いて居ても立っても居られなかったのか、月宮の席の前に群がっていた女子グループの一人が背を向けていた体をこちらに向けて、二人の会話に割り込んできた。
「あり得ないくらいの嫌がらせを受けたんだって。陰口はもちろんのこと、通りすがりにボソッと悪口言ったり。あっ、ロッカーにイタズラの手紙も入ってたのも聞いたことある」
月宮はさっきまで無関心だったのが嘘みたいに低い声で、
「へー誰に?」
女子生徒は目を泳がせて答える。
「誰かはわかんないけど。あくまで噂ね。でもすごいよね。前評判の劣勢ぶりを覆すほどの今日の名演説。私もつい票入れちゃったもんね」
「まぁ前評判は置いといてさ、」
雪城が場をつなぐ。
「今回の会計は他全員が二年生。それに噂によりゃ、ほとんどが特進クラスのエリートらしいぜ。やっぱスゲェと俺は思うな。今日の得票数がどんなもんかはわかんねぇけどよ」
「みんなに聞いた感じだと、ほとんどの子が『悔しいけど入れちゃった』って答えてた。放送の時のクラスの子達の様子を見たら、一年生のほとんどの子は彼女に投票したんじゃない?」
「確かに、」
月宮がふと、口を開いた。
「今回の会計に立候補したメンバーは四人、だったか? その内三人は二年生。上級生の投票数がその三人で分散したという可能性は高いだろうな。そのおかげで一年生から大量に票を獲得しているだろう天宮が当選っていう――」
少し外れていた焦点を元に戻すと、雪城は半ば関心、半ば驚きという顔をしていた。その後ろでは女子生徒がグループに一時帰宅し、
「ねぇ聞いて聞いて! 月宮君と喋っちゃったよ!」
それに気づいて、月宮は慌てて話をまとめた。
「――可能性もある」
唐突に、雪城が力強く月宮の肩をたたいた。
「珍しく熱意ある会話だったじゃねぇか! なんだよ。興味なさそうな面してたのは演技だったのかよ!」
「うるさいなぁ」
「確かに月宮の言う通り、上級生の票が分散したから当選したって可能性はあるけどよ。一年生の票を多く集めたってのは実力じゃねぇの!」
雪城の発言に女子生徒も同意して、
「ほんと完璧超人って感じ。入学式の時、新入生代表の挨拶もしてたじゃない? あれってつまりは入学時の成績がトップだったってことでしょ」
「俺あの時普通に寝てたわ。今思えばちゃんと聞いとけばよかったって後悔。でもそうか八組ってことは特進クラスだしな。すげぇな。おまけに美人でスタイルもいいし!」
ここで女子生徒は顔を少し曇らせる。
「雪城ってホント馬鹿ねー。でも確かにあれはちょっと嫉妬しちゃうよねー」
だが、雪城は興奮をやめない。
「噂によればファンクラブが設立されるとか。やべーよな。アイドルかよ。俺らの中ではよ、誰が一番初めに連絡先を交換できるかのレースを開催してんだ」
「俺は入ってない」
馬鹿な話だ。一週間前の体育の授業前、体育館の更衣室で月宮所属する十組と、居合わせた九組の男子数名が繰り広げていた男子高校生特有の会話。
呆れた顔をして、女子生徒が脱線しつつある会話の軌道を修正する。
「それにさ、天宮さんってあの『AMAMIYA』のお嬢様なんでしょ。不動産とかやってる。CMでもよく見るじゃない」
雪城は女子生徒の言葉にぎょっとして、
「まじか。天は二物を与えずなんて言葉、二度と信用できねぇよ」
「はい着席」
その時、教室の扉が開いたと思うと、学級担任の上雷が、凛とした姿勢で教壇に立っていた。
上雷は教室全体にギリギリ響き渡るくらいの声量で着席を促すと、行動を止めた。
私は言ったからあとは自分たちで勝手にして。帰るのが遅くなったらお前たちのせいだからな。というのが彼女のやり方なのだ。
すでに教室のほとんどの者は彼女の教訓を頭に叩き込まれており、先ほどまで賑やかだったのがウソみたいに淡々と席につき始める。
「じゃあな」と言った雪城や「せっかく話も盛り上がっていたところなのにね」と言う女子生徒の声に片手間に返事し終えると、自分の机にうなだれて、周囲に聞かれないように月宮は、そっとため息をついた。
いい行いをすれば目立ち、悪い行いをしても目立つ。順位づけだってそうだ。一位を取れば目立ち、逆に最下位をとれば悪目立ちをする。ならば極地ではないその間を狙えばいいじゃないかと言うのも違う。なぜならば人には人の価値観があり、一位を妬むものがいれば、上位を妬む者もいる。なんなら順位づけじゃない。持つか持たないかでも嫉妬は生まれる。
人に評価をされると言うのは難しい。
教室内を見ているのが嫌で、月宮は先ほどと同様に、すぐ左にある窓の外へと視線を逃した。五階の窓から見渡す校庭の光景。学校を創立した偉大なるお方を模した石碑や、校是が刻まれている石碑を中心に、木々が点在している。入学して半月も経てば今更面白いものがあるわけでもない。まばらに生い茂った木々を転々と、意味もなく目で追いかける。
光景に一本の影が横切った。
一度だけ生で見たことがある。何度も、パンフレットで見たことがある。学校長だ。
中年体型の脂ぎった老人が、校庭の中庭を駆けている。
月宮が木々を追いかけた順序と逆に学校長は中庭を走り抜け、創立者を模した石碑を前にすると足を止めた。
視線を少しずらすと、石碑の前に『入校許可証』と書かれた札とカメラを肩から掛けている男と、その先に、かっちりとした制服姿の男女が数人立ち並んでいた。
名前はわからない。けれど彼らの顔を見ればそれがなんの集団なのかすぐに理解できた。
秀峰学園の標準服には、学年別に色分けされたネクタイかリボンの着用義務がある。集団の中に一人だけ、今年度から一年生を意味する緑色のリボンをつけた少女が一人いた。
西日が照らした校舎を背景に、少女は濡れたように艶めいた黒髪を風になびかせた。透き通った真っ白な肌はまるで絵画のように滑らかで、健康的な血色が頬を彩っている。高い鼻梁に整った顔立ち。立っているだけで、優雅で品のある雰囲気が漂っている。唇は淡いピンク色で、その血色のよさが彼女の美しさを一層引き立てていた。宝石のような輝きを放つ瞳は、知的でありながらもどこか遊び心を秘めているように見える。
楽しそうに周囲と談笑し、ある程度話し終えたのかその視線を移動させる。迷える視線は闇雲に空中を飛び回り、やがて本校舎二階の右から三つ目の窓へと降り立った。
目が合った。
視線を外そうにも、磁石でくっついたみたいに離れない。表情は崩さないまま、どう平静を装えばいいかわからず脳をフル回転させる。考え、手くらい振ってみるかという安直な結論に至り、意識を左手に移した。そして――
「おい!」
驚いた。
すぐ横で上雷の声が聞こえたと思えば、眺めていた窓と自分の顔の間に出席簿が叩き落された。一センチでも位置が異なれば、鼻がこそぎ取られていたかもしれない。
慌てて後ろを振り返ると、
目の前に落とされた出席簿を押しのけ、月宮は声を荒げる。
「あぶねぇだろ! 冷徹教師!」
「そうだ。非常に危ない。人の話を聞かないというのはリスクある行動だ。もし私が社会の場で君の上司だったのならば。落ちていたのは貴様のクビだろう」
上雷は続ける。
「何度も私は君の名前を呼んだのだよ。それに返答しなかったのは君だ。人の話を聞いていないうえに、背も向けていたことには驚かされたよ。喧嘩を売られていると思ったね」
だから落とした、と上雷はその手に持った出席簿を再び月宮の机の上にたたきつけた。その後先程までも鋭利だった目つきをより鋭くさせて、
「入部届けの期限が残り三日。私のクラスで提出していないのは月宮、貴様だけだが、どうなっている?」
『新入生には部活動及び委員会活動への参加を義務とする。』それは秀峰学園の校則の一つである。上下関係があるコミュニティに属することは社会に出た時役に立つから――というのが言い分だ。
全国有数の進学校である秀峰学園は、部活動においても活気賑わっており、運動部文化部問わず全国レベルに名を轟かせている。勉学の生き抜きにもなるからか進級しても継続する者は少なくない。また、元来真面目で負けず嫌いな生徒が多いためか、どの部活もサボることなく熱心に練習に取り組んでいる。
だが、この熱心に練習に取り組む必要があり、サボれないという点が月宮にとって不快な要素であった。
「まだ三日あるでしょ。どの部活に入るか決めかねているんですよ」
悩んでいるからまだ提出できない――そう受け取らざるを得ない言い方をして、その場をやり抜けることにした。『学級』の時間であるホームルームの時に、『個人』である月宮の対応をずっとしていてはクラス中のヘイトが上雷に集まる。その弱みに付け込んだのだ。
案の定、上雷は
「そうか……」と呟くと、
「では放課後、生徒指導室に来てくれ」
とだけ残し教壇へと戻った。
上雷からの個人指導が終わり、月宮は心の中で安堵する。とりあえず目先の問題を先伸ばすことができたからだ。しかしまだ根本的解決をしたわけではない。月宮の脳内の算段ではこのまま先延ばし作戦を続ければ相手も諦めるだろうという考えであった。とりあえずあと三日。三日以内に別の作戦を考えなければいけない。
先ほどの部活動に関する校則には補足として『――ただしやむを得ない事情がある場合これに限らない』という一文がある。月宮はこの三日以内にそのやむを得ない状況を作り上げ、それを実行するつもりであるのだ。
あるのだ。
あるのだったが、
「指導室!?」
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