プロローグ 第五話

 「きみは……だれ?」


 その声の方に、視線がずれる。

 自分と同じくらいの背丈と年齢の女の子だった。

 派手な色をしたドレスの上から、見るからに高そうな上着を羽織っている。人形みたいにきれいな顔をして、今まで汚いものを見たことがないような美しい瞳をこちらに向けて、派手に尻餅をついている。


 結果、落雷は起きていないのに、雷が落ちたみたいな衝撃に現実が受け入れられず、何も考えることはできなかった。


 何が何だかわからない。夜の人気がない公園に、子ども一人。加えて、ニコニコとした表情を崩さないところがより恐怖に拍車をかける。


 オドオドしているのが伝わったのか、女の子は先ほどの質問をなかったことにして、

「人の名前を訊くときはまず自分からだよね。……日向って言います」

と名乗り、照れくさそうに頬を撫でた。


 日向と名乗る女の子は、マシンガンのように話を続ける。


 なぜこの公園に来たのか。どうして尻餅をついていたのか。不安な表情をした自分に気を使っているのか、一つ一つ丁寧に、文章を指でなぞるように教えてくれる。まるで英雄譚を聞いているみたいで、ほんの少しほのぼのとした気分になった。固まった表情が、綻びはじめる。


 「それでさ――」

 

 ある程度話し終えたのか、日向は話の端を折って、


 「改めて名前聞いていいかな?」

 

 ようやく尻餅をついた体制を解いて、再びそう尋ねてきた。


 不意を突かれ、一瞬言葉に詰まる。けれど、ここまで丁寧に自己紹介をしてくれたのに断る理由も持ち合わせていない。くっ付いた糊を剥がすみたいに唇を開け、空気を吸い込み、肺を膨らまして呼吸を止めた。そして喉の奥から絞り出すように空気を出す。だが、それは思いがけない音を放った。


 「あ゛っ」


 慌てて喉元を抑える。何度か声を発生しようとする。


 脳みそ中に広がる電子回路は、確かに自分の名前を発するように指示を出した。けれど、喉の奥から出てきたのはゾンビが脳天をライフルで打ち抜かれたような音だった。


 喉がつぶれていた。


 「『あ』?」


 日向は耳で聞いた音をそのまま復唱して、疑問を浮かべた顔をする。それが名前なのか、とでも言いたげな顔だ。


 違う。


 そう主張するために慌てて立ち上がって首を振り、体全身で否定を表す。声が出ないのだ。そう言いたくて、喉を何度も指さした。

すると、何にも食べていなかったのにいきなり激しく動いたからか、栓が抜けた風船みたいに体全身の力が抜けて、前に倒れこむ。

コンクリートのタイルが顔の前に迫ってくる。


 だが、地面にぶつかるよりも少し前で、日向が手と体を伸ばし受け止めてくれた。


 「だいじょうぶ!?」

日向が慌てた声色でそう言う。


 大丈夫――そう言いたかったが、言えないことに気づき、肯定の意味でほんの少し首を縦に振る。


 ありがとう――という意味合いを込めてニコリと笑顔を作り、女の子の手から身を離し、顔を背けて立ち上がる。


 そして、頭の後ろから疑問を投げつけられる。


 「声が出ないの?」


 そもそもあった疑問が確信に変わったのか、いきなり、女の子はそう尋ねた。


 動揺を隠せず振り向くと、女の子は先ほどいた場所から少しずれた場所にいた。東屋の端、雨に当たらないぎりぎりの位置で立ち止まると周囲の地面を見渡し、一番近くに落ちていた腕の長さくらいの木の枝をつかみ、

 「これ、つかえるんじゃないかな」と言って、手に持ったそれを指さした。


 何を言っているんだ――という顔を分かりやすくしてしまったのだろう。女の子はこめかみに指をあてて、悩んだ仕草をする。そして木の枝を持った手と逆の手を挙げて、招き猫のような仕草をした。さすがにその仕草は自分を呼ぶために行っていることだと理解し、女の子のもとに近づく。十分に近づくと、女の子はその場でしゃがみ込み、雨でぬかるんだ土に木の枝を当てた。


 女の子の肩の後ろから、顔を覗き込ませる。


 あなたのなま ――と地面に書き込まれている。


 察した。


 「これなら答えられるでしょ」

 

 女の子は残りの文字を書き終えると、振り返ってそう言った。そして、木の枝をこちらに向ける。


 黙って頷いて、それを受け取った。受け取って、立ち位置を入れ替える。


 その場でしゃがみ込んで、「あなたのなまえは」と書かれた文字列の下に、自分の名前を記す。文字を書くのは苦手だ。一字一字丁寧に、時間をかけて書き込む。最後の一字を地面に書ききるより前に、


 「さや!」


 と後ろで自分の名前を復唱する声が聞こえた。心臓が飛び跳ねるようだった。女の子は話すのをやめない。まるで転校初日の同級生をクラス全員で攻めちぎるかのように、たった一人でたくさんの質問を投げつけてくる。


 「さやは――」


 次々にぶつけられる質問に、丁寧に答える。

 

 いくつなの? ――右手を大きく開いて五と答える。

 ここら辺におうちがあるの? ――苦虫をつぶした顔をする。

 どこから来たの? ――首を横に振る。

 好きな食べ物は? ――地面にオムライスと書く。

 嫌いな食べ物は? ――きのこ、と書く。


 徐々に言葉一つ一つ、女の子の気遣いは減っていっているように感じる。それは、質疑応答を繰り返して、二人の心の距離が限りなくゼロに近づき始めているからだ。数年来の関係だったような感覚にも襲われる。それは気が付けば表にも出ていて、当初控えめだった動作が、今や体全体を使った派手なリアクションへと変化していた。疲れもどこかへ飛んだ気がしていた。


 間違いなく、隙が生まれていた。初めは、見られたらいやだ。そう思って、隠すようにしていたのに。


 「じゃあさ――」


 先程までキラキラと輝いていた女の子の瞳が、ほんの少し黒ずんで見えた。


 「――その首のあざは何?」


 女の子の質問に、慌てて首元を手で覆い隠す。身体中の穴かという穴から、変な汁が湧き上がる。


 動揺を見せても、女の子は質問をやめない。


 「パパとママはどこにいるの?」


 耳に届く雨音が強くなる。


 風が現実を運び込む。


 女の子の口がゆっくりと動いた。読唇術が使えるわけじゃないのに、質問をされるよりも先に、内容が分かった。

女の子は目を閉じて、にこりと笑って、


 「きみはだれ?」


 女の子がもう一度目を開いてこちらを見る。


 目が涙で滲んで、光が屈折しているからだろうか。キラキラとまぶしく映った女の子の目が、より一層煌いて見える。

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