第17話結婚宣言

 私が再び高山家の家族となった今となっては、もうかつて話し合った脱獄計画は必要無かった。つまり、慧奴と私が偽装結婚する理由は消滅していた。慧奴があの日私に言った通り、彼が成人を機に施設を出るだけで、私達二人は晴れて脱獄を完遂出来たはずなのだ。それなのに、彼は敢えて予定通り結婚すると言う決断を下した。その本当の理由は、私には分からない。私が妊娠を告知した事によって、その責任を取ろうと考えたのかも知れない。しかし、相手の女性を妊娠させたら結婚しなければならないなどと言う掟はこの国には無いし、慣習的には存在している暗黙の了解であるとは言っても、捻くれ者の彼がそんな固定概念に従うとは思えない。これまでの人生の中で最高に嬉しい一言を彼から貰った後になって、私はまた悪い癖で、無意味な思考を弄んでいた。きっと、退屈なのがいけないのだ。余分な時間と言うものは、人間を堕落させるものだ。

何を思い惑う事があると言うのだろう?

私が今幸福だと言う事実以外に、確信のある事など何も無いのに。

慧奴の言葉を信じていないわけではないし、彼の心を疑っているわけでもない。それならどうして、私は恐れているのだろう?何を恐れているのだろう?

――やっぱり、考えすぎね。

妊娠中には精神状態が不安定になる事があるらしいと、何処かで聞いた覚えがある。恐らくそのせいで、私の悪癖に拍車が掛かっているだけに違いない。

――久し振りにピアノでも弾きたいなぁ。

読み散らかした無数の本に囲まれて、私は落胆の溜め息を吐いた。


 成人を機に施設の出所が許可されるとは言っても、通常は誕生日を迎えたその日に施設を出る事は無いらしい。婚約を報告する為に園田先生と面会した私達は、親切な担任教師から今後の事について幾つか有益な助言をしてもらった。彼女は私達が結婚する事に決めた事を聞くと、文字通り跳び上がって喜んでくれた。

「私も本当に嬉しいわ!!!幸せになって頂戴!!!」

興奮気味に私達二人の肩を叩くと、先生は神でも崇めるような眼差しで自分の教え子達の姿をうっとりと見つめていた。居た堪らなくなった慧奴が頭を掻きながら顔を背けたのを見て、私はそろそろ次の話題に移る事にした。

「それで、慧奴の施設出所の日程についてうかがいたいのですけど……」

「あら、そうね。大事な事を忘れるところだったわ」

先生は冗談交じりの笑みを浮かべながら机の上の書類に手を伸ばすと、一転して真剣な表情になって、手に取った書類の文面に目を走らせた。そして、流すように全体をざっと読み終えると、眼鏡を直して顔を上げた。

「原則として、成人年齢満十八歳を迎えた当施設の居住者に関しては、本人の意思を尊重した上で施設を出所する日時を決める事が可能よ。ただ、再教育施設内の教育機関も一般の学校と同等の扱いになっているから、学期途中で施設を出る場合は、中途退学と見なされてしまうの。霞さんの例で言えば、あなたは高校一年生で学校を退学した生徒に相当していて、もしまた学業を再開するとしたら、高校二年生からということになるでしょうね。同様に、もし靄繕君が今直ぐにでも施設を出ると言うのなら、あなたは高校三年次中退が最終学歴になるわ。それならあと三ヶ月くらい我慢して、卒業と同時に施設を去る方が円満だと思うのだけど、どうかしら?」

「学歴に興味は無いですが、確かに中途半端ですね」

慧奴は即答で率直な考えを園田先生に伝えると、隣に座っている私の顔を一瞥した。

「でもそうなると、ちょっとの間離れ離れになってしまうのよね」

「二度と会えなくなるわけでもないんだし、俺は別に構いませんけど」

「霞さんは?」

「こちらから施設を訪問する事は可能ですか?」

「ええ、もちろん。靄繕君が外出する事も問題無いわ。ただ、どちらの場合も外泊は禁止されているから、出来ないわよ」

「申請なんかしませんよ」

「なら結構」

含み笑いをしながら先生は言うと、資料が全て揃っている事を確認してから、それらを茶色の封筒に入れて慧奴に手渡した。

「園田先生って、実は悪い人なんですね」

意外な彼女の一面を茶化して、私は彼女に笑いかける。

「あら、そうかしら?解釈の仕方次第で、物事は色々な見え方をするものでしょう?」

園田先生は恍けた顔でそう言ってのけると、二人同時に席を立って職員室を後にしようとする私達に、満面の笑顔で小さく手を振った。

「お幸せに」

祈りの言葉に見送られ、扉を閉める。

「やっぱり私、園田先生の事大好きだなぁ」

呟いた私の隣で、慧奴が静かに笑いを漏らした。


 施設を出てからの私の生活は、皮肉にも《監獄》とまで呼ばれているその場所よりも地獄のように退屈だった。毎日学舎棟に通うと言う反復運動をしなくなるだけで、こんなにも時間の流れが遅くなるとは思わなかった。逃げ出すように施設を出てから三週間が経った頃には、もう悪阻も治まっていたし、読書にも映画鑑賞にも飽き飽きしていた。

――慧奴は今何をしているんだろう?

手持ち無沙汰に時計を見遣る。学舎棟では授業中だから、大人しくワークブックの課題を解いているか、飽きて寝たふりをしているかのどちらかだ。

――カナミさんとクノマ君は元気かな?

二人は、授業中では極めて勤勉で優良な生徒達だが、私生活の方では今も変わらず仲良くし過ぎて、慧奴に煙たがられているような気がする。あぁ、もうそんな彼に避難所を提供する事も私には出来なくなってしまった。ちょっと気掛かりだし、何か残念だ。

――もう誰も、音楽室のピアノには触らないんだろうなぁ。

窓際に佇んで光を浴びるその黒い姿を思うと、切ない哀感が込み上げて来る。

あんなに施設を出たがっていたくせに、いざ出てみたら考えているのは施設の事ばかりだ。これじゃあ本当は出て行きたくなかったみたいじゃないか。

――本当は、あんな場所でもそれなりに愛着があったのかなぁ……。

【住めば都】と言う慣用句があったのを思い出す。都と呼ぶには質素過ぎたが、四年も住んでいると、同じ事を繰り返しただけの単調な日々さえ、気が付けば思い出になっている。

「また戻りたいなんて言ったら、やっぱり変だよね」

今年の四月に桜の下で撮った記念写真を見つめて、私は平面の中に描き出されている懐かしい笑顔に語り掛けた。ずっとあの施設に居たいと思っているわけじゃなくて、たぶん、突然過ぎたお別れに心が付いて行っていないだけなのだろう。

――もう少しだけ、時間を貰えないかな?

独りよがりは百も承知で、私は園田先生に電話で相談を持ち掛けた。


 数日後。翡葉さんに迎えを頼んで施設へとやって来た私は、職員室で園田先生と再会した。心優しい先生は、私と会うまでにこの問題について考えてくれていたようだった。向かい合って腰を下ろすと、先生は苦々しい表情で話の口火を切った。

「霞さんの気持ちは、よく解るわ。だけど、今更養子縁組を解消する事は出来ないし、そんな必要も無いでしょう?あなたは確かにこの施設の関係者だったけれど、今はもう無関係な立場なのよね。靄繕君と婚約しているけれど、入籍はまだだし……。そうなると、二・三日程度の宿泊には目を瞑るとしても、長期的な滞在は流石に看過出来ないわね」

どうやら私の申し出は無理が過ぎたらしい。すまなさそうにしている園田先生に我儘を言った非礼を詫びると、先生は別の提案を私に提示した。

「毎日遊びに来てくれる分には、全然問題無いのよ。必要だったら、私から翡葉君に送迎を頼んでおいても良いし」

先生にこう言われて初めて、私は通い詰めると言う手段があった事に気が付いた。

「でも、翡葉さんも流石に迷惑なんじゃないですか?」

「そんな事ないわよ。翡葉君は、頼んだら何でもやってくれるから」

「それは優しさですか?」

「自分からやる事を見付けられない不器用な人だから、頼まれた方が彼も楽だと思うわ」

少し翡葉さんに申し訳なくなったが、別段忙しいわけでもないからと園田先生に説得されて、私は了承してしまった。

「霞さんの顔が毎日見られるなら、私も寂しくなくて嬉しいわ」

お母さんみたいな先生の笑顔で、また少し心が温かくなった。


 園田先生と話を終えた後、私は帰る前に慧奴の部屋へ寄り道することにした。離れて暮らすようになってから、一層私の脳内を占拠する事が多くなった愛しの婚約者殿は、いつも通り外見には無頓着な格好で私を部屋へ通してくれた。よく見ると美形な彼なので、きちんとした服装をしたら見違えるだろうなと妄想しては、現実を見て悲観している。まぁ、私もあまり身なりには気を遣わない方だから、他人に口出しする権利は無いかも知れないが。

「一つ、聞いておきたかった事があるの」

ベッドの上に並んで座ると、私は彼に尋ねた。

「あの時、どうしてあんな酷い事を言ったの?」

慧奴は気まずそうな表情をして顔を背けると、消え入るように小さく低い声でぼそぼそと答えた。

「あのくらい言わないと、お前は養子縁組を断っただろ」

漸く答え合わせが済むと、私はほっとして微笑んだ。本当はそんな気がしていたのだけど、私は自分に都合が良いその解釈にどうしても自信が持てなかった。だから、実はあの言葉こそが彼の本心で、私はずっとそれに気付かずにいただけなのではないかと不安になっていた。

「でも、本当に施設を出る気は無かったんでしょ?」

「それは……」

彼は口籠って言葉を飲み込むと、ほんの一瞬間だけ沈黙し、

「嘘だ」

小さいながらもはっきりとした声で、そう断言した。

「嘘?」

愚直なほど正直者の彼の口から零れ出した思わぬ単語に、私は目を丸くして繰り返した。

「その辺の事情はもういいだろ。大体はお前の想像通りだ」

彼はぶっきらぼうにそう言い放つと、強制的に話を終わらせた。左側を向いたままの横顔は隠れていて、右側に座った私からは覗き見る事が出来ない。

――もしかして、照れてる?

彼が口にしたがらなかった真相が凄く気になったけれど、これ以上追及したら更に機嫌を損ねて口を利いてくれなくなる恐れがあったので、仕方なく心の中に問い掛けるだけで満足することにした。

「ねぇ、慧奴」

「ん?」

「じゃあどうして、『結婚しよう』って言ってくれたの?」

「……そうするべきだと思ったから」

「責任を感じたって事?」

「責任て、何の?」

「分からないなら知らなくて良いわ。どうでも良い事だから」

「最初に『結婚してください』って言ったのはお前だろ?」

「あれは偽装が前提でしょ。真に受けたの?」

「わけないだろ」

「じゃあ何で?」

「ずっと一緒に生きて行くつもりなら、それが一番普通の選択だろ」

「ずっと一緒に居てくれるの?」

「お前が『もういい』と言わない限りはな」

「言わない。絶対」

「じゃあ永久保証」

「慧奴が飽きる可能性は無いの?」

「お前にはもう慣れた。慣れた事に飽きる事は無い」

「何かその言い方……。まぁ、良いや」

話すのを止めて、彼の肩に凭れる。

見慣れた無機質な灰色の壁も、今は温かく見える。

一人でも狭く感じた部屋の広さでさえ、今の二人には丁度良く思える。

「今日は、ここに泊っても良い?」

「その質問はお前の親に聞け、放蕩娘」

そんな会話を交したまさにその直後、タイミング良く携帯電話が着信を告げた。


 翌朝目が覚めてみると、外は真っ白になっていた。昨晩から今朝にかけて、音も無く雪が降り積もっていたらしい。銀世界に変わった窓の向こうに目を輝かせていると、眩しさに安眠を妨げられた慧奴が、いつにも増して不機嫌そうに眉間に皺を寄せた顔で背後から覗き込んで来た。

「随分雪が降ったみたい」

「こんなに積もるのか?ここ」

この施設で冬を過ごすのが初めてな慧奴にとっては、その光景は衝撃的に映ったらしい。私はもう何度もこんな冬を経験しているから全く驚かなかったけれど、彼が見せた新鮮な反応にはとても和んだ。

「三鷹山にはスキー場があるくらいだから」

私は景色を見る為に開けていた曇った窓を閉めると、折角だから外へ出てみようと彼を誘った。


 私達が居住棟の外へ出てみると、そこには先客の姿があった。クノマ君とカナミさんが、巨大で歪な雪だるまを建造している。

「おはよう」

こちらの姿は目に入らないようなので思い切って声を掛けてみると、漸く二人と視線が合った。

「おはようございます。お久し振りですね」

いつも愛想が良くて礼儀正しいクノマ君が、まず私に挨拶をしてくれた。そう言えば、彼はいつもにこにこしているなということに、今更ながら気が付いた。私の一歩後ろで、顰め面をして突っ立っている誰かさんとは大違いだ。

「施設を出たんでしょ?」

可愛らしい顔立ちなのに絶望的に無愛想な彼の相方が、私に話し掛けて来た。こうして見ると、私達はまるで鏡写しみたいで面白いなと思う。

「退屈だから遊びに来たの。雪だるまを作ってるの?」

「だるまだと面白味が無いので、等身大の人間の雪像でも作ろうかと思ってたんですよ」

「あたしは、かまくらがよかった」

「だからって勝手に余計な所に雪を足さないでくれるかな?磨礼」

「共同制作じゃないのね」

「お前らでも意見が割れる事はあるのか」

私には分からない領域の芸術かと思っていたが、単なる攻防戦の産物のようだ。恐らく、クノマ君の緻密な作業が終わる前に、雪像は足元から積み固められた膨大な雪の延長線上に飲み込まれて、巨塔に成り果てるに違いない。否応なしに細長いかまくらと化すだろう。

「じゃあ、私は雪兎でも作ろうかな」

「うさぎ?」

ふと思い付きで言ってみると、かまくら職人が手を止めた。

「そう。座れるくらい大きい奴」

「おい。それじゃ記号表現と記号内容が一致しないだろ」

「いいじゃんでっかいうさぎ!!」

「雪で作った兎を、他にどう表現するって言うの?慧奴も手伝ってよ」

未成年者達の子供じみた遊びに呆れる新成人を巻き込んで、私達は時間を忘れてくだらない一時に全力で熱中した。小一時間ほど雪と戯れていた私達が最終的に完成させたのは、およそ何を模したのかは不明の、並びあって佇む二つの雪像。私は宣言通り真面目に兎を作っていたのだが、独創的な感性の少女が、兎にはあるまじき要素を次々に付加してしまった結果、この世のものではない幻獣が生まれた。それはそれで面白かったので、敢えてそのままにしておいた。クノマ君の作品の方は、製作者の技術力と表現力の問題だろう。

「折角だから、記念に四人で写真を撮らない?」

携帯電話を取り出して振って見せた私に、反対の声は上がらなかった。私はそのまま電話をかけ、仕事中だったのか作業服姿で現れた体格の良い男性に、写真を撮ってくれるよう依頼した。彼は私から携帯電話を受け取ると、「帰るから呼んだのではないのか?」と怪訝な顔で私を睨んだ。私が「これが終わったら帰る」と答えると、彼は不承不承ながらもこの極めて単純な一仕事を承諾してくれた。私が危惧した通り、翡葉さんが無言で突然シャッターを切ったので一回撮り直しになってしまったが、何とかこの他愛のない日常の一場面を記録に残す事に成功した。

「帰るぞ」

威嚇するような低い一声を放って、翡葉さんは駐車場の方へ歩いて行く。

「それじゃあ、またね」

寒いと愚図り出したカナミさんを連れて居住棟へと引き上げていくクノマ君の背中に、別れを告げる。彼らは私の声を耳にして振り返ると、軽く手を振って応えてくれた。

「じゃあね、慧奴」

もう居住棟の入り口に人影が見えなくなったのを確認してから、私は慧奴の首に腕を回してキスを交わした。自分だけがこの場所を去らなければいけないと思うと、少し寂しくなった。


 既にエンジンをかけて待機していた黒いセダンに乗り込むと、運転手は間も無く車を発進させた。

「面倒掛けて、すみません」

翡葉さんはそれには応えずに無言を貫いたが、やがて口を開いてこう言った。

「何故施設を出た?」

私は苦笑いを零すと、「失敗でしたね」と呟いた。

「今はまだ、私はあの中に居るべきだったと思います」

彼はまた沈黙する。車は蛇行する雪道を滑らかに滑り降りて行き、時折樹木の間にこれから向かう小さな世界が垣間見える。

「靄繕慧奴と結婚するそうだな」

「はい」

「おめでとう」

長いトンネルに入って声が掻き消されてしまう前に、私は「ありがとうございます」と言葉を返した。

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