第16話養子縁組
一日授業を休んだ日の放課後に、私は園田先生の元を訪ねた。彼女は生徒達から回収したワークブックを携えて来て、それらを職員室で採点している最中だった。職員室と言う場所にやって来たのは、その日が初めてだった。先生は採点途中のワークブックを素早く閉じて机の上を片付けると、自分の向かい側に席を用意して、私に座るよう勧めてくれた。
「最近は体調が悪そうだけど、大丈夫?」
膝の上に置いた私の両手を握りながら、園田先生は心配そうに私の顔を覗き込む。
「その事で、先生にお話ししたい事があるんです」
私はそう切り出すと、慧奴との外出の後で医務室に行った事と、そこの医師と一緒に今日市内にある病院を受診して来た事を報告した。
「妊娠二ヶ月目だそうです」
不安と緊張で声は震えていて、俯けた顔を上げる事も出来なかった。だから、この瞬間に園田先生がどんな表情を見せたのかを、私は知らない。きっと、あまりにも突然の告白に酷く驚いて、閉口したのだろうと思う。園田先生は言葉の代わりに、握った私の手に励ましの力と包み込むような温もりをくれた。それらに勇気づけられて、私がゆっくりと顔を上げると、そこにはいつもの優しい微笑で目を細めている園田先生の顔があった。
「おめでとう」
目を合わせた時に彼女が最初に言ったのは、祝福の言葉だった。
「私には、残念ながら経験が無いから、力になってあげられる事は少ないかも知れない。でも、出来る限り全力であなたを応援するわ。不安な事でも、分からない事でも、何かあったら何でも聞いて頂戴。霞さんは、何でも一人で抱え込んでしまう癖があるから、絶対に無理はしないでね。自分が大変な時こそ、もっといろんな人を頼ってみて。みんな、きっと力になってくれるわ」
先生の慈愛深い言葉と笑顔で緊張が解れると、私の表情も自然と緩んで心が軽くなった。もっと早く先生に相談すべきだったと、私は後悔した。園田先生ならどんな事でも受け止めてくれる包容力を持っている事を、私はこれまでの彼女との付き合いからよく知っていたはずなのだ。それなのに私が彼女に事情を打ち明けられなかったのには、羞恥心以外にも理由はあったが、殊更にそんな事を気に掛けてしまう方が、かえって彼女に失礼なのかも知れない。
「園田先生は、どうして子供を産まないんですか?」
今までずっと無神経だと思って控えて来たその問いを、私は素直に彼女に尋ねた。先生は、「もちろん、産みたくなかったわけではないのよ」と苦笑いを一つ零すと、少し寂しげな目をして視線を落とし、静かに語り出した。
「結婚したのも遅かったから、妊娠もしにくかったし、私自身、体力的にも自信が持てなかったの。確かに、子供を産むと言う経験は素晴らしい事だし、その後の人生を大きく変える契機にもなると思うわ。でも、私は子供を産む為に今の夫と結婚したわけではないし、子供と言う存在だけが、夫婦を夫婦たらしめるものだとも思わないの。子供がいるのも人生だし、子供がいないのもまた別の人生でしょう?だから私は、夫と二人で生きて行こうと決めた事を、後悔なんてしていないわ。私は今幸せですもの。それで十分よ」
それでもしばしば子供の事を意識する場面はあると先生は言ったが、悲観している様子ではなかった。
「大切な生徒の一人である霞さんが、私とは違う道を歩む事を、私は心から誇りに思うわ」
先生は最後にそう締め括ると、握っていた私の手を離した。私は先生に礼を言って立ち上がると、職員室を後にした。
担任である園田先生に事情を説明した事により、私は以前より精神的にも肉体的にもずっと楽になった。無理をして平静を装う必要はもうなくなったから、体調が悪い日は学舎棟へ行かなくなった。だが、私が授業を欠席した日には、必ず園田先生が放課後に様子を見に来てくれた。園田先生の手厚い支援のお陰で、心配と心細さはだいぶ改善されて行ったけれど、心に引っかかった慧奴に対する想いは、日を追う毎に強くなって行って、私の心を締めつけた。妊娠が確定してから一週間が経った今でも、私はまだ彼に何も伝えていない。外出の帰りに告げようと決めたはずなのに、それが有耶無耶になって再び決心が鈍り、顔さえろくに合わせていない始末だ。
――隠し通す事なんてムリだと思う。
カナミさんの一言が、彼を想う度に頭の中で響き渡る。彼女の言う通り、隠し通す事など出来はしないだろう。だがそれ以前に、隠し通そうなどと考える事自体が間違えているのだ。妊娠は私一人の問題ではない。従って、もう一方の当事者にも事実を報告する義務があるはずだ。いや、義務とまでは言えなくとも、礼儀ではあるだろう。悪阻は依然として続いているので、思い切って彼の部屋を訪ねるのは気が重い。そうは言っても、彼から私の部屋を訪ねて来る事は期待出来ない。私の体調が悪いとなれば、なおさら遠慮するに決まっている。授業の後なら帰宅する前に捕まえられるが、誰が聞いているとも分からない教室内で話したい内容ではない。
――やっぱり、少しでも具合が良い時に、慧奴の部屋を訪ねるしかないな。
今度こそ覚悟を決めて決意した私だったが、運命は私を弄ぶかのように、意地悪く嗤って状況をまた転じた。
授業を終えた後に園田先生に呼ばれた私は、彼女に連れられて誰も居ない職員室へとやって来た。先生は前回と同じように私と向かい合って座ると、真剣な眼差しでこう言った。
「実はね、こんな時に、どうしたものかと困惑しているのだけど……霞さんに、養子縁組の申請があったの」
園田先生は一度そこで話を中断して口籠ったけれど、私にはもう全ての事情が理解出来ていた。
「申請者は、高山誠と恵美夫妻ですね?」
「そうよ」
「私が現在妊娠中だと言う話は?」
「彼らはご存知ないはずよ」
私は口を閉ざし、先生は目を伏せた。
「今週末にこちらへ来られるみたいだから、大丈夫そうなら、一度会ってみない?」
園田先生の謙虚な申し出に、私は無言のまま頷いた。あの時外出先で彼らと再会した時から、何となくこんなことになる気がしていた。施設を去る時に見せた三人の表情は名残惜しそうで、とても今の状況に納得なんてしているようには見えなかった。高山家の人々にとって、私はまだ彼らの家族なのだ。私が一方的に裏切って見捨てたのを知ってもなお、あの人達は私を恨もうとも忘れようともしてはいないのだ。
――どうして今なんだろう……。
この真実に気が付くのがあと一年早かったら、私はどれだけ幸せな気持ちに満たされた事だろう。血縁の無い自分でもかけがえのない家族の一員として愛してくれている人達が確かに存在している事実を知って、どれほど感激し、喜びに浸った事だろう。あの頃の私にとってなら、これ以上の希望なんて無かったに違いない。だけど、今はこの状況を心から素直には喜べない。二つ返事で彼らの元へは戻れない。今は、施設の中にも家族が居る。自分の中には、新しい生命が宿っている。もう、自分の願望だけを考えていれば良い子供ではないのだ。私は自分が後悔しない選択をする為にも、高山家と言う私の家族と向き合って話をする事に決めた。十一月も終わりに近付いた、寒い日の出来事だった。
「こんな風にして話すのは、何か、初めて会った時みたいで懐かしいな」
照れ笑いを浮かべて頭を掻くお父さんの姿は、私の中の彼の記憶と何も変わってはいなかった。
「前に会った時は、具合が悪くてあんまり話せなかったでしょ?もう大丈夫なの?」
相変わらず心配性でよく喋るお母さんの口振りに、思わず笑みが零れてしまう。
「お姉ちゃん、病気なの?」
不安そうに私を見つめる絵真を見ると、四年と言う月日は長かったなぁとしみじみ感じた。
「病気じゃないよ」
私が言って笑って見せると、みんなの顔は忽ちぱっと明るくなった。
「ここでの生活はどうなの?」
「まあまあ」
「テレビとか観れるのか?」
「リビングとか食堂とかにあるけど、観ないかな」
「えー?今すっごくおもしろいアニメやってるのに」
「じゃあ今度観てみようかな」
「日曜日の朝七時ね!!」
「はーい」
ひとしきり雑談が終わった所で、急にお父さんがよそよそしくなった。
「それで、あの……前、一緒に居た、男の子だけど……」
「慧奴の事?」
「そう。エヌ君。彼は、その……仲良いのか?」
「あなた何聞いてるの」
「お姉ちゃんのカレシに決まってるじゃん」
「や、やっぱりそうなのか?」
「あからさまに悲しそうな顔するのやめなさいよ、みっともない」
「え?どうだろう……」
「彼氏じゃないのか?!」
「何を基準に彼氏と友達を区別するか、よく分からないんだけど……」
一同沈黙。お父さんに聞かれてみて改めて思ったけれど、私と慧奴の関係ってどう表現したら良いのだろう?
「とにかく、ここからは真面目に話しましょう」
お母さんが仕切り直し、私達は話し合いに臨んで姿勢を正した。
「絵夢は……またお父さん達と一緒に暮らす事について、どう思ってる?」
低く慎重な声の調子で、お父さんは私に尋ねた。
「絵夢の正直な気持ちを言って欲しいの」
お母さんが言葉を継ぎ、利口な絵真は黙って私の目に訴えた。
「私は……」
向かいに座った三人の注目を一身に浴びながら、私は静かに口を開いた。
長めに一回、短めに二回。呼び出し音の余韻が消える頃には、開かずの扉が開かれる。
「こんばんは。何か、久し振りだね」
彼はやっぱり何も言わずに私の手を取ると、部屋の中へ迎え入れて、直ぐに再び鍵を掛けた。
「大丈夫か?」
彼の温かくて大きな掌が、気遣うように優しく頬を撫でる。
「平気」
私は彼の手に自分の手を重ねると、そのまま少し背伸びをして彼にキスをした。しばらくぶりに触れあった唇の感触は、ちょっと不思議な感じがした。二人並んでベッドの上に腰を下ろした後、私は言った。
「『また一緒に暮らさないか?』って、お父さん達に言われた」
「それで?」
「分からないって答えた」
慧奴は私の方を向くと、怪訝な顔をして尋ねた。
「養子になれば確実に施設を出られるし、出た後に独りで路頭に迷う事も無い。悩む理由は無いんじゃないか?」
私は首を振った。
「だって、それじゃあ慧奴と離れ離れになるじゃない」
「俺が後で出所して合流すれば良いだろ?」
「信用出来ないもの」
「俺は嘘を吐かない」
「でも、気が変わる事は有り得るでしょ?」
彼は深い溜息を吐くと、額に右手を当てて顔を俯けた。
「何で俺なんだ?」
長い黒髪がはらりと落ちて、彼の表情を覆い隠す。
「お前の家族が戻って来いと言っているのなら、断る理由が何処にある?あっちに行けば、お前の望みは全て叶うだろ?もう施設には戻らなくて良いし、もう独りになる事も無い。退屈凌ぎにしていた俺と言う玩具ももう必要無い」
淡々と口から零れ出す言葉が、次第に鋭さを増して行く。
「俺はお前の脱獄に協力してやろうと思っただけで、本当は脱獄する気なんて無かった」
無情に放たれた思いが刃に変わる。
「これでお別れだな」
呆気無い一言を最後に、私の耳は音を聞くのを止めた。
頬にはまだ、彼の手がくれた温もりが残っている。
唇にはまだ、彼の唇が触れた柔らかさが染み付いている。
そんな刹那の間に、何が起こって、何が変わって、どうしてこんな結末になったのか、まるで分らない。止め処無く溢れ出した涙を拭いもせず、目が合った彼に何も言いもせず、私は操られるようにふわりと立ち上がって部屋を出た。
この八ヶ月の間に重ねて来た全ての思い出が、今私の中で死に絶えて色を失った。
彼が今更になってどうしてそんな事を言い出したのかなんて、私には解るはずもなかったし、考える余裕も時間も無かった。園田先生を通じてお父さん達に伝えてもらい、私は正式に養子縁組の申し入れを受け入れた。これで漸く安泰で、幸福な生活が保障されたにもかかわらず、私の心は誰かの言葉のせいで空っぽになっていた。私が妊娠していると言う話は、先日みんなと施設で顔を合わせた時に打ち明けてあった。胎児の父親が誰なのかも、私の家族は知った上で温かく受け入れてくれている。養子縁組の話がまとまって間も無く、私は施設を出た。定期的に産婦人科を受診する都合を考えての決断だと周囲には話しておいたが、本当は施設の中に居辛くなっただけだ。学期途中で施設を出てしまったし、どの道今の状態で学校へ通うわけにも行かなかったので、日中は誰も居ない家の中に独りで過ごすことになってしまった。それでは退屈だろうと気を遣ってくれた園田先生が、ある時私が施設で使っていたワークブックを持って来てくれた。
「暇潰しにもなるし、勉強にもなるでしょう?」
先生は戯けたように言って笑うと、急に残念そうな顔をして息を吐いた。
「靄繕君も、もっと素直になれば良いのにねぇ」
私は意味深な彼女の言葉に胸がざわつくのを感じ、彼女にその曖昧な台詞の真意を尋ねようとした。しかし、園田先生は私が聞くのを分かっていたみたいにそれを遮り、いつもの笑顔だけを残して帰って行った。
部屋に戻ると、私はかつての友であったワークブックのページを繰ってみた。最初の所から少しだけ進んだあたりの欄外に落書きを見付け、思わず手を止める。
霞 絵夢
靄繕 慧奴
初めて出会った日に記された、二つ並んだ二人の署名。
しばらくそれを見つめた後で更に紙を捲って行くと、未記入のページにノートの切れ端みたいな小さな紙が挟まっているのを見付けた。園田先生のメモだろうかと思いながら、拾い上げて裏返してみる。するとそこには、一言だけこんな文字が手書きで記されていた。
ごめん。
名前なんて書いていなくても、筆跡だけで誰かは分かった。
私はお父さんに買って貰った携帯電話を引っ掴むと、焦る指先をどうにか抑えて電話を掛けた。
私がそこに着いた時、冬の短い陽は既に沈みかけていた。携帯電話の時計を確認する。今なら丁度、学舎棟から出て来る所で会えるはずだ。
「ありがとうございます。翡葉さん」
「帰りは迎えに来てもらえ」
無口な運転手に礼を言って車から降りると、遠くに朧げな人影が見えた。
「慧奴!!!」
亡霊でも見たみたいに驚いて硬直した彼に向かって、私は一目散に駆け出した。減速しきれなかった勢いで彼の胸に飛び込むと、彼は少々体勢を崩したが、何とか私を受け止めてくれた。
「お前、何で……」
「会いに来たの。私、大事な事を慧奴に伝えていなかった事を思い出したから」
私は一歩足を引き、彼と向かい合って立つと、彼に言った。
「十八歳の誕生日おめでとう」
慧奴は、「わざわざそんな事を言う為だけにここまで来たのか?」と訝ったが、もちろんそんなつもりはない。
「私ね、妊娠しているの」
彼の目が、僅かに大きく見開かれる。
「慧奴の子供よ」
ずっと伝えなければいけないと思っていた言葉を、私は遂に彼に届けられた。
慧奴は目を瞬くと、私のお腹に視線を落とし、それからゆっくりと見上げて私の目を見つめた後、急に破顔した。
「何だよ、それ」
成人したばかりの彼の笑い顔は、子供のように無邪気だった。
「じゃあもう、嘘なんか吐く必要無いんだな」
安堵した様子で彼は言い、冷たくなって来た私の左頬に手を触れる。
「絵夢。結婚しよう」
同じく彼の左頬に手を伸ばして、私は笑顔で頷いた。
誓いを交し合った唇が、それを確かめるように一つに重なり合う。
暗闇に包まれて行く寒空からは、白い結晶が静かに舞い降り始めていた。
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