第14話迷走

 クノマ君とカナミさんについて園田先生と話していた時に、私は二人が外出した事は一度も無いと彼女から聞いた事がある。二人にとっては一緒に居られる事が重要なのであって、場所にはこだわりが無いのだろう。或いは、施設へ来る前に住んでみているから、今更進んで外へ行く気にはならないのかも知れない。いずれにせよ、それは本人達の問題なのだから、私は干渉するつもりは毛頭無い。ただ、その時園田先生が酷く心配そうに顔を歪めていたのを見て、妙に気になってしまっている。

「やっぱり、施設に来る前の事が原因で、外に興味が持てないのかしら……」

先生はそれ以上余計なお喋りはしなかったし、私も聞かなかったので、彼らが施設へ来る前にどのような体験をしたのかは分からない。けれど、靄繕慧奴と言う特例を除外すれば、この施設に住む居住者達の恐らく全員が、何かしらの暗い過去を背負っているはずだ

「外へ出て行かなくても、二人なら生きて行けますよ」

打ち沈んだ表情の園田先生を励まそうとそんな言葉を掛けると、彼女は弱々しい笑顔で「そうね」と笑って見せた。それから先生と別れた後になって、私は何て皮肉な言葉を口走ってしまったのだろうと自嘲した。他の二人に向けて言ったつもりのその言葉は、そっくりそのまま自分達にも跳ね返って来た。クノマ君は私達二人と彼ら二人は違うと主張した。私もその時はそうだと思った。でも、表面的な行為や動機が違っていても、私達には特定の相手と一緒に居ると言う点が共通している。私が慧奴と一緒に居る事を望んでいるのは、その理由はどうであれ、カナミさんがクノマ君と一緒に居るのと本質的には変わらない。結局は、傍に居たいから一緒に居るのだ。私にとって必要不可欠な存在が靄繕慧奴なら、彼さえ居れば場所なんて何処でも厭わないはずだ。それなのに、私はどうして外の世界に執着しているのだろう?まるで、あちら側に何か大切なものを忘れて来たみたいに……。

「また考えちゃったな」

暴走しかけた思考を押さえつけ、私は独り呟いた。その独り言によって黙考を中断した私は、ふと顔を上げて辺りを見回した。

目に映し出されているのは、住み慣れた簡素な一室の情景。

何の変哲も無いその光景に、当たり前の静寂に、何故か酷く居心地の悪さを感じる。

――変わったのは、私も同じなんだ。

そう気が付いてしまったら、もうじっと座ってはいられなくなった。


 太陽はもうとうの昔に彼方の地平に沈んでいて、何処も暗闇が支配していた。動きに合わせて点灯する儚い命の光を頼りに、道を進む。黒い薄絹に顔を隠した建物の内部は、見慣れた顔と違って少しだけ恐れを抱かせた。自分の足音だけを聞きながら廊下を歩いて行くと、微かに人の声が響いて来た。夜な夜な奇声が聞こえると噂の、例の部屋からその淫靡な歌声が漏れ出している。いざ現実に耳にしてみると凍りつくような寒気を感じたが、この部屋の住人に用事は無いので、そっと背を向けて向かいの住人に相図を送る。彼は珍しく二重の守りを一気に外すと、乱暴に私の腕を掴んで部屋の中に引き込んだ。

「思ったより酷いね」

音量自体はさほど大きくないのだが、周囲が無音なので必要以上によく響いてしまうらしい。囁くように言って苦笑いを向けてみると、彼は見るからに不機嫌そうな顔をしていた。口は真一文字に固く結ばれ、眉間には深い皺が寄っている。

「私の部屋に来る?」

「いい」

慧奴はぶすっとしてそう答えると、苛々したように勢い良くベッドに腰を下ろして頭を抱え、溜息を吐いた。こんなにも露骨に感情を態度に表している彼を見たのは初めてで、なお一層気の毒になった。私は彼の右隣に座ると、両手で彼の耳を塞いだ。

「少しはマシでしょ?」

彼は黙って頷くと、私の両手の上に自分の両手を重ねた。音楽でも聴けば良いのにと思って辺りを見回してみたけれど、音を出す物は何も無かった。言われてみれば、私の部屋にもそう言う物は無い。向かいの部屋の物音は、彼の部屋に入ってみると、私には気にならない程度だった。なまじ耳が良いせいで、彼にとっては地獄なのだろう。そうしてしばらく経つと、声はぱたりと止んで聞こえなくなった。彼は両耳を覆っていた私の手を外すと、ようやく落ち着いたように息を吐いた。

「ありがとう」

衰弱しているせいか、慧奴は彼らしくない感謝の言葉を口にした。

「慧奴は騒音が嫌なの?それとも行為が不快なの?」

「騒音」

彼は即座に断言すると、私の方へ顔を向けた。

「女って皆ああなのか?」

「私に聞かないでよ」

私は恥ずかしくなって目を逸らしたが、慧奴はまだ何か言いたげな瞳でこちらを見つめていた。

身体を寄せ合った視線の合わない二人を、沈黙が包み込む。

「お前は、嫌なのか?」

意図的に目的語を抜いた意地悪な質問を、彼は私に問い掛けた。

「何が?」

返答は予測出来ているのに、私は彼に聞き返した。

慧奴はほんの刹那に言葉の選択を逡巡すると、「性行為」とあけすけに言った。

「興味が無いわけではないけど……」

私は悩ましい本音を口にしながら、体育座りになって両膝の上に乗せていた腕の中へ顔を埋めた。それがどんな事であろうと、未知の経験であれば、私は少なからず興味を抱く。性的な接触に関しても、同様の事が言える。ただこの場合は、一体どういう流れでそう言う行為に至るのが自然なのか分からないので、二の足を踏んでしまうのだ。手順なんて考えなければ良いのだろうが、無駄に完璧主義な性格が災いして無心にはなれない。

――キスをしてくれた時みたいに突然だったら、余計な思いに惑わされなくて済むのかな……?

顔は上げずに横目だけで慧奴の方を見ると、彼と目が合った。

「慧奴は、どうしたい?」

「何で俺に聞く?」

「慧奴の気持ちが知りたいから」

彼は徐に私から目を逸らすと、目を伏せた。その横顔は、何かを躊躇っているように見えた。私は両膝を崩して足を床につけると、彼の右の太腿に手を置いて、頬に軽くキスをした。

「あの時みたいに、キスして」

見つめ合った二人の唇が触れ合うのには、目を閉じる時間だけで十分だった。

幻想的な夕暮れの一時よりも、深い闇の夜は長く甘い。

共鳴し合う鼓動と、一つに溶け合う体温が、あんなにも抗い難く私を統べていた思考を、いとも容易く駆逐する。

火照る全身が、感覚だけに満たされる。

お互いの乱れた呼吸を聞きながら、私達は指を繋いだままで眠りに落ちた。


 無邪気な寝顔で夢を見ている寝坊助を残して部屋を出ると、同じく相棒の部屋から出て来たカナミさんと鉢合わせした。私は気まずさを紛らわそうと咄嗟に不自然な笑顔で「おはよう」と挨拶をしてしまい、無表情な相手が何も返事をしなかったのを見て尚更逃げ出したくなった。困った事に、これから自分達の部屋に戻るとすれば、私達はしばらく同じ道を辿って行かなければならない。

――何か、世間話でもしてごまかそう。

思った通り同じ方向へ歩き出した彼女を流し目に見ながら、私は適当な話題を模索した。だがその時、今まで一度も自分から話を切り出した事の無いカナミさんが、私の期待と策略に反して可愛らしい口を開いた。

「アイゼンエヌはどうだった?」

機械の音声みたいに単調な声に、私は「何が?」と白を切る。

「上手いの?」

「悪いけど、比較対象がいないから答えられないわ」

「ユーヒは下手だよ」

「そういう事は言わない方が良いと思う」

「でも事実だもん」

「……」

「それに、ユーヒは優しいから下手でもいいの」

対応に困る会話の内容に私は辟易したが、今日の彼女は何故か饒舌だった。

「あたしを引き取った男は、技術も経験もあったけど、自分勝手だった」

物語でも語るように、彼女は無感情にそんな告白を唐突に告げた。私は一瞬思考が停止したが、直ちに彼女の言葉の背景を理解すると、しばし絶句して言葉が出て来なかった。

「それを苦にして自殺未遂を?」

一定の足取りで軽やかに歩いて行く彼女の横顔に、私は恐る恐る質問をぶつけた。

「そんなわけないでしょ」

彼女は強い口調で否定すると、

「あたしは自殺未遂なんてしてない。あたしに飽きたあの男が、あたしを二階から突き落として、『精神がイカれてる』って喚き散らしたの」

聞いている私の方が戦慄して青ざめるような、凄絶な過去をさらりと言ってのけた。それでもカナミさんの表情は無変化で、時計の秒針の如く行進する足は乱れなかった。彼女のそんな態度からは、彼女自身がその事実に関して何の感情も抱いていない事が如実に示されていた。

――園田先生が案じていたのは、この事だったのね。

彼女の憂慮など露知らずあっけらかんとしている本人を見つめながら、私は複雑な心境になって口を噤んでいた。

「でもいいの。ここに来たから、あたしはユーヒに会えたんだもん」

彼女は言うと、不意に私の方へ顔を向けて足を止めた。

「ユーヒだって、同じだよ」

最後に意味深な一言を言い残すと、彼女は階段を上がって行った。何とも言えない雰囲気の余韻に浸りつつ、私は彼女が消えて行った階段の先を黙って見上げた。


 私を取り巻く環境が変わっても、周囲の人間との関係が変化しても、世界が時を刻む速度は変わらない。時間は普遍的流動体として存在し続けているだけで、基準げんざいとなる楔を打ち込まない限りは、過去も無ければ未来も無い。少なくとも私にとって、時間の概念はそんな風に捉えられている。でも、そのように時間が一方向へ向かって流れて行くものだと見なしても、人は過去を振り返り、未来に目を凝らすものだ。自分が足を付けて立っている現在を、どうしていつも蔑ろにしてしまうのだろう?実際のところ、危険な目に遭うのは、遠くを見ていて足元が不注意になっている時なのに。久し振りに空想的で比喩的な思索に耽りながら、私は過去を想起させる一室へとやって来た。窓際に据えられた漆黒の楽器の前に、人影は無い。それを確認してから無人の部屋へ忍び込み、演奏者が座る座席に座を占めた。

滑らかに白い平原へと手を伸ばし、聞き慣れているが弾き慣れてはいないあの旋律を奏でてみる。

瞼の裏では、あの日の彼女が幸せそうに指先を踊らせている。

耳の奥では、その流れるような美しい音色がこだまする。

幾度も繰り返し思い出したその光景に、私はもう涙を流したりはしなかった。

たとえ共に過ごした期間は短くても、彼女と出会えた事を幸福だと思っている。その始まりであるこの日の記憶は、当然幸せで楽しいもののはずであって、思い返す度に泣き悲しむ為の惨めなものにしてはいけない。だから、この曲を弾いて彼女を懐かしむ時は、いつも笑って彼女の事を想おうと心に決めた。

「メイナがいなくなってからも、時々一人で練習してたから、少しは上手くなったでしょ」

演奏を終えると、私は誰に言うでもなくぽつりと呟いた。

――あれからもう、半年近くも経つのか……。

春の日に思いを馳せながら、感慨に耽る私の口元に笑みが零れる。

あの頃からしたら、私も随分変わったものだと改めて思う。あの二人に出会うまでの私は、他人に興味を持って観察する事はあっても、こんな風に誰かを想う事はしなかった。他人と交流する事も好んだけれど、独りでいるのも嫌いではなかった。

――でも今は、もう独りには戻れない。

人のくれる温もりは、孤独がくれる閉鎖的な安息を凌駕する。

一度それに触れてしまったら、もう人の支え無しに生きて行くのは難しくなる。

私は、現在の自分がとても脆くなったと感じている。だがその代償として得た感情に、かつての自身の強さ以上の価値があるとも信じている。いつかその弱さが私の運命を変えてくれる事を、私は沈む夕陽に向かって心の内で祈っていた。


 過去とさようならをして私が向かった先は、現在。目まぐるしく展開していく不安定なこの時に、私の心は絶えず揺れ動いている。変わる事の無い過去よりも、先の見えない未来よりも、私は形の無い現在が怖い。だから、常に確証を求めてしまう。自分がここに存在する事を、自分が立たされている今と言う状況を、安心出来るまで確かめたくなる。

「こんばんは」

開かれた扉の向こうに立つ部屋の主に、私は礼儀正しく挨拶を告げた。彼はいつも通り何も答えずに私を通すと、習慣的に扉に二重の鍵を掛けた。そうして部屋の中へ戻ろうと振り返った彼を、私は遮るように制して扉に押し付け、唇を塞いだ。

「絵夢?」

唇を離して顔を見上げた時、彼は困惑した様子で私の名前を呼び掛けた。私は何の釈明もせずに彼の左腕を掴むと、混乱して無抵抗になっている彼を思うままに引いて行き、ベッドの上に投げ倒した。

「どうかしたのか?」

予想以上に沈着な態度で、彼は二言目を口にする。

「何でもない」

馬乗りになって彼の太腿の上に座り、私は思いもしない出鱈目を吐く。

「どう見てもおかしいだろ?」

「いつもと違うだけでしょ?」

「どういうつもりだ?」

「見ての通りよ」

私は彼の身体の上を這うように右手を伸ばすと、心臓の真上で止めた。指先は微かに震えていた。涼しい顔をした彼の鼓動が乱れているのを、掌の下にはっきりと感じる。

「性行為がしたいなら、はっきりそう言え」

身も蓋もない言葉を吐きながら、彼はふいと目を逸らして顔を右に向ける。

「そういう事を直接口にするのは、恥ずかしい事だって教わったもの」

言うと、私は顔を背けた彼の両頬を手で挟み、強引に正面へ向けさせた。

「快楽が欲しいわけじゃない。私は、靄繕慧奴が欲しいの」

彼は意味深な溜め息を一つ漏らすと、目を瞑った。そして、その行動が何を意味するのかと不安になった私を弄ぶみたいに、意表を突いて私の唇を激しく奪った。

昨晩初めて触れ合った時よりも熱く、官能的に身体が絡み合う。

全身で彼を感じているこの瞬間にしか、私は靄繕慧奴の存在が揺ぎ無い実体なのだと確信する事が出来ない。

言葉は欺瞞に満ちている。

態度は矛盾を孕んでいる。

だけど、直接肉体を繋いでいる間だけは、彼が目の前に居て、自分に触れていると言う事実を感覚でもって実感出来る。少なくとも今だけは、彼が自分を受け入れてくれていると知って安堵出来る。こんな拙いやり方でしか、私には靄繕慧奴が分からない。自分の現在が認識出来ない。

――慧奴にとっての時は、もっと厳然と彼を取り巻いているのかな?

甘美な倦怠感と睡魔に蝕まれて行く意識の最中に、私はふとそんな事を思った。


 夢なんて普段は見ないのに、その夜私は夢を見た。

舞台は、現実と錯覚してしまう見慣れた教室で、私は自分の席に座っていた。私の右隣の席には、やはり慧奴が座っていて、気怠そうに机に突っ伏している。目を転じた私の左側には、時間が止まったままのメイナが立っていた。

「霞さんは、どうするか決めたの?」

黒板脇の教卓から、園田先生の声がする。

「成人するということは、一人前の大人であると認められるということだもの。自分の事は、ちゃんと自分で決めなければいけませんよ」

確かに声が響いて来るのに、何故か先生の姿は何処にも見当たらない。

「絵夢は施設に残るでしょ?だって、あちら側にはわたし達の居場所なんて無いんだから」

決めつけたようにメイナが言って、無邪気な笑顔で同意を求める。

「お前は俺と一緒に脱獄するんじゃなかったのか?」

訝しげに顔を顰めた慧奴が、反対側から私を非難する。

「私は……」

二人に挟まれて座ったまま、私は口籠って両手を膝の上で握り締めた。

何かを訴えるようなその幻想は、私が答えを出す前に霧散して消滅した。

「やっと起きた」

眩しさを堪えて開いた目にまず映ったのは、私の顔を覗き込んでいる慧奴の顔。私は目を擦りながら欠伸をすると、寝惚けて朦朧とする頭で彼に時間を尋ねた。彼は机の上に置いてある置時計に目を遣ると、「午前十時二分」と正確に時刻を読み上げた。

「十時?!」

途端に私は跳ね起きた。今日は平日だ。

「何で起こしてくれなかったの?」

「起こす必要があったのか?」

常識はずれな返答を聞くと、私の焦燥感は嘘みたいに消え失せてしまった。よく見れば、彼も制服には着替えていない。

「まぁ、いっか」

忽ち何もかもがどうでも良くなって、私は再び柔らかなベッドに倒れ込んだ。

「ねぇ、今日はここに居てもいい?」

「好きにしろ」

慧奴はそっけなく言って背を向けると、読みかけの分厚い本を取り出して読み始めた。

翌日に私達が揃って園田先生に呼び出されたのは、言うまでもない。

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