第13話教えてもらえなかったもの

 【寿出所】という前代未聞の目標を掲げたのは良いものの、その計画の推進状況は好調とは言えなかった。偽装恋愛と言う発想は良かったけれど、その具体的な手法について、私達はあまりにも無知だった。恋人同士が交わすだろう愛情表現のおよそ全ては眼鏡男子と金髪女子が行ってはいたが、本能の赴くままに睦み合っている彼ら二人を手本としたものか反面教師としたものかは、実に悩ましい問題だった。第一に、私も慧奴も彼らのように理性を捨てて行為に没頭する事は性格上不可能だったし、仮に出来たとしても、そうしたいとは思えなかった。それに加えて更に致命的だったのは、どんな風にお互いに接する事が【恋人らしさ】を醸し出すかについて、二人とも何の意見も持ち合わせていなかった事だ。実際には、それらしい雰囲気を巧みに演出して、周囲の人間に誤解を植え付けさえすれば、性的接触など一切無くても事足りるのだ。しかし、そうした空気を意図的だがそうとは悟られない自然な感じで創出するのは、相当な経験値と高度な演技力を要する至難の業であり、役者どころか一般人よりも感情表現が拙い《特別出生児わたしたち》には到底出来るはずもなかった。私は別に、慧奴との性的接触を避けたいと望んでいるわけではない。ただ、脱獄と言う目的の為に自分を律してそうしようとしても、上手く行かないのだ。だからきっと、私はあの時に彼を拒んでしまったのだろう。それでは、後はもう成り行きに任せるしかないのだろうか?だが成り行きで上手く行くのなら、それはもう人工的とは言えないだろう。私達には、そんな楽観的な希望は有り得ないのだ。

 そんな事ばかりを無為に考えて、貴重で限られた時間を私が空費している間にも、規則正しく朝と夜を繰り返す日々は過ぎて行った。

「靄繕君は、もうすぐ成人でしょう?霞さんは、彼がその後どうするのかについて、何か聞いているの?」

生徒達が出払った夕暮れ時の教室で、園田先生はそんな質問を私に尋ねた。唐突に慧奴の今後についての話題を振られた私は戸惑い、口籠りながら、「分からないです」と真実を述べた。

「でも、霞さんは、成人したら施設を出るつもりでしょう?」

「はい」

「もし靄繕君が施設に残ると言う決断をしたら、あなた達は離れ離れになってしまうわよ?」

「それは、解ってます」

「霞さんは、それでも良いの?」

「良くないですけど……決めるのは、慧奴ですから」

自分でそう答えながら、私は彼がこの場所に留まると告げる場面を想像して、勝手に悲しくなった。悄然として項垂れた私を憐れっぽく見つめていた園田先生は、短い沈黙の後にこう告げた。

「私はね、靄繕君は、霞さんと一緒に居た方が良いと思うわ」

先生はそう言うと、顔を上げた私に向かって、いつもの優しい微笑みをくれた。

「霞さんは当事者だから気が付いていないかも知れないけれど、靄繕君にとって、あなたは特別な存在なのだと思う。他の人達に対してよりも、霞さんに対しての方が、彼の態度って柔和なのよね。それに、霞さんと一緒に居る時の方が、表情が活き活きしているもの」

私はおっとりした彼女の性格にはそぐわない鋭い観察眼と、それを疑わない断定の言葉に目を丸くしながら、「そうですか?」と心とは裏腹に冷めた疑いの言葉を返した。園田先生は自信満々に「そうですよ」と答えると、「やっぱり、本人達には分からないのねぇ」と、傍観者の方が事態を冷静に見定めているとにおわせるような発言を漏らして、意味深な笑みを零した。


 私は先生の言葉と笑顔を噛みしめながら教室を出ると、本でも借りて帰ろうと思い、二階にある図書室へ向かった。放課後にこの階段を上る時、私はいつもメイナの事を思い出す。音楽室も二階にあるので、私達は授業が終わると一緒に教室を出て、他愛のない話をしながら音楽室へと歩いて行ったものだった。

――初めて話した時にメイナが弾いていた曲、良いよね。

――だよね?あの曲わたしのお気に入りなんだ。

――私にも弾けるかな?

――そんなに難しくないから、今練習している曲が弾けるようになったら、教えてあげるね。

その約束は、結局果たされなかった。

私が課題曲を弾き熟せるようになる前に、彼女は自分と言う存在を世界から消す事を選んでしまった。

階段を上り切ったその時、幻聴が聞こえた。彼女が好きだったあの曲が、音楽室から溢れ出して来ている。私はその音色に導かれながら、引き寄せられるように音楽室の方へと歩き出した。その扉の向こうに何が待っていても、構わなかった。手元を見つめたまま扉に手を掛け、引き開ける。目線を上げた先には、決して誰も居ないはずだった。

「……何で……?」

絶えずピアノの音は響く。

幻聴なんかじゃない。生きた人間が弾いているのだ。

演奏が終わるまでのその間、ピアニストは一言も口を利かなかった。最後の和音が溶けるような余韻を響かせて消えた時、その人物は立ち竦んでいる私に初めて視線を向けて言った。

「『夕暮れのうた』。作曲者不詳だが、一部の人間達の間で熱狂的に愛好されているピアノ曲」

私は戸口に立ってその人と一定の距離を保ったまま、非難めいた口調で小さく言った。

「嘘吐き。ピアノに興味は無いって言ったじゃない」

「ある程度弾けるようになったから興味が失せた。嘘は言ってない」

「どうしてその曲を知ってるの?」

「少し前に、誰かがここで弾いているのを聞いた事がある」

彼は立ち上がると、仕事を終えた鍵盤を労うように優しく指で撫で、視線を指先に落とした。

「酷く下手だったが、とても懸命な感じがした」

今ここでそんな事を言うのは、卑怯だ。

泣いてしまうじゃない。

「ゲンリョウは、お前に感謝していると思う。それなのに、お前自身が後悔していたら、あいつは報われないんじゃないか?」

締めつけられた喉の代わりに、緩み切った両目から声無き思いが止め処無く流れ出す。返事をする事も、歩み寄る事も出来ない私を見た彼は、自分から私の方へ近付いて来た。

「絵夢。しっかりしろ」

彼の両手が頬を包み込み、唇と唇が重なり合う。

魔法のように呪縛が解けて、私は彼の胸の中へ崩れ落ちた。

「うん」

子供みたいにしがみついて、私は泣いた。私が泣き止んで落ち着くまで、慧奴は私の髪を撫でながら、ただ黙ってずっと抱き締めてくれていた。


 図書室から連れて来た物言わぬ友人達を机の上に寝かせると、私は脱力してベッドの上に倒れ込んだ。今日起こった二つの出来事が頭の中を占拠して、交互に際限なく再生されている。

園田先生は、どうして慧奴にとって私は特別な存在だと思ったのだろう?

何故慧奴は、あの時私にキスをしたのだろう?

――慧奴にとって、私はどういう存在なんだろう……?

彼は、少しずつだが変わって来ている。だがそのせいで、彼が考えている事、感じている事が、以前よりももっと分からなくなった気がする。初めて出会った頃の慧奴は、無愛想で、寡黙だが率直に物を言い、独特だが妙に説得力のある論説をする、分かり易く正体不明な変人だった。だが、今の彼はそうではない。正体不明と称するには、私は彼の事を知りすぎているのに、その人物像をいかなる言葉をもってしても満足の行くように説き明かして見せる事が出来ない。近付いたはずなのに、かえってその心がぼやけて見えない。それなら問いを変えよう。

――私にとって、慧奴はどういう存在だと言えるのだろう?

友人なのか、それともそれ以外の何かなのか。

――やっぱり、本人達には分からないのねぇ。

嘲笑うように、園田先生の言葉が耳にこだまする。人生経験が豊富な園田先生は、恐らく何か確信めいたものを持っているのだろう。彼女がそれを仄めかしながらも決して教えてくれようとしないのは、きっと私自身がその答えを見付け出さなければいけないからだ。私はそこで考えるのを止めた。今はこれ以上考えてみたところで、何も得られない気がする。ただ悶々と悩み続けるのは時間の無駄だ。真剣に問題と向き合いたいのなら、考察の手掛かりとなる情報を集めた方が良い。私達と境遇が同じと言うほどでもないが、似ていると言える人達なら幸い近くにいる。前回の記憶からするとあまり参考にならないかも知れないが、彼らの状況と比較する事で、何かが見えてくるかも知れない。私は、その一縷の望みに賭けてみることにした。


 授業が終わった後、私は以前と同じくクノマ君とカナミさんと共に談話室に集合した。私は、ここ数日間で慧奴との間に起こった出来事と、園田先生が語った彼女の私見を二人に話した。概略程度に簡略化して述べた話を聞き終えると、まずはクノマ君が思い付きの感想を言った。

「園田先生は、よく生徒達を観察していますね」

彼の隣に座ったカナミさんが頷き、私も「そうね」と同意した。

「それで、最初にアイゼン君とキスしそうになった時、動悸がしたんですか?」

「ええ。理由が分からなくて混乱したから、その日は何もせずに帰ったわ。あなた達にも、そういう経験はある?」

「あたしはないなぁ」

「僕も無いと思います。性的接触で興奮している場合は除きますけど」

「それじゃあ、私はあの時興奮していたって言うの?」

「有り得なくは無いですよ。感情的なものは、大体無自覚じゃないですか?」

彼が控え目にこう言った直後、カナミさんが口を挟んだ。

「カスミさんは、アイゼンエヌに恋しちゃってるんじゃない?」

「恋?」

私とクノマ君は口々に呟くと、カナミさんに注目した。

「だってよく聞くじゃない。ドキドキするのは恋だって」

「カナミさんは、恋をした事があるの?」

「ない」

「それじゃあ断言は出来ないですね」

一段落がつき、一同は沈黙した。カナミさんの発言はいつも突飛だが、そのお陰で凝り固まった議論に風穴を開けて流れを変えてくれる。【恋】と言う彼女の着眼点は、実に面白いと思う。だけど、この場に居る私達全員が、その曖昧だが現実味のある主張に頷けないのには、どうしようもない事情が存在する。

私達は、恋と言うものを誰も知らないのだ。

それがどんな感情を引き起こし、どんな行為に向かわせるのか、経験の無い私達には全く想像もつかない。仮に彼女が言う通りに私が慧奴に恋をしているとしても、私自身にはそれが自覚出来ない。慧奴だって、きっとそうだ。

施設の中で生み出され、育てられた《特別出生児わたしたち》に、両親はいない。家族も知らない。

その人達が自分達だけに向けてくれる特別な愛を、《特別出生児わたしたち》は感じた事が無い。

施設では沢山の事を学んだけれど、愛し方も、愛され方も、そんなものは誰も教えてはくれなかった。そんな私達が、一体どうやって他人を愛する事が出来るだろう?他人から愛されている事を知れるだろう?自分の感情すら上手く扱えないと言うのに、自分が誰かを愛している事にどうやって気が付くと言うのか?

「一つだけ言えるとすれば、カスミさんとアイゼン君は、僕達とは違うと言う事だけですね」

クノマ君が結論付ける。その考えには私も同感だ。

「めんどくさいこと考えるのやめたら?」

退屈そうに足をばたつかせながら、カナミさんが言った。

「なんでそうなったのか、全部説明できないといけないの?納得いかないの?わかんないものはわかんないでいいじゃん」

一見軽率にも聞こえる彼女のこの言葉は、物事を深く考えすぎる私への戒めとして私の心に強く響いた。彼女の言う通りかも知れない。無理やり答えを見付け出そうとしなくたって、どうにかなる問題はある。真実を解明する事にばかり目を向けていないで、たまには理屈抜きで感情に素直になるのも良い事だ。

「ありがとう。何だか、凄く気が楽になったわ」

私は二人に礼を言うと、会をお開きにした。クノマ君とカナミさんは、仲睦まじく手を握り合って、北棟の方へと消えて行った。私はそんな二人の背中をしばらく見送った後、晴れ晴れとした気持ちで自分の部屋へ向かって一歩を踏み出した。


 食堂で久し振りに翡葉さんと向かい合って無言で夕食を食べて来た私は、シャワーを浴びた後で、残すところ一冊となった図書室の本に手を伸ばした。毎日就寝前にこうして読書をするのが、ここのところ私の日課になっている。眠る前に頭は使いたくないので、読むのは母国語で書かれた小説ばかりだ。文庫本の中ほどに挟んだ栞を外して、さっそく読み始める。私が小説の世界に没入してからしばらく経った頃、来客を告げるチャイムが部屋に鳴り響いた。

――こんな時間に?

不審に思いながらも、本をベッドの脇に置き、念の為に時計を確認してみる。時刻は午後十時過ぎ。他人の部屋を訪問するには、少々非常識だ。そうは言っても、一体誰がやって来たのかは気になるので、とにかく呼び出しに応じることにした。私が二重のロックを外して扉を開けると、目に飛び込んで来たのは、Tシャツにスウェットのズボンと言うだらしない出で立ちをした慧奴の姿だった。

「こんな時間に何してるの?」

彼がわざわざ訪ねて来た事自体が驚きだったが、ひとまず理由を尋ねてみる。

「悪いが、泊めてくれないか?」

死んだように沈んだ顔で、彼は言う。

「別に良いけど……寝る所無いよ?」

それでも構わないと言うので部屋に迎え入れ、扉を閉めた。慧奴は一直線にベッドへ向かって歩いて行くと、断りも無しに布団の上に身を投げ出した。自分のものは駄目だが、他人のものは構わないらしい。認定基準が謎すぎる。

「何かあったの?」

「煩くて寝られない」

「何が?」

「向かいの部屋」

「クノマ君の所?どうして?」

「女の声がする」

「カナミさんね」

「何をやってても興味は無いが、騒音だけは自重すべきだ」

何をしているのかは容易に想像し得るので敢えて聞かない事にして、私は少し話題を逸らした。

「以前から煩かったの?」

「最近は特に酷い」

「本人達に直接苦情を言ったら?」

「言ったら止めるのか?」

「……止めないかな」

「なら無駄だろ」

ふてくされたみたいに言い捨てると、彼は壁側に向いて寝返りを打った。このままふて寝しそうな気がする。別にそれでも構わないけど、それだけベッドのど真ん中を占領されると私が難民になるので、そこは配慮して欲しいなとか密かに願ってみる。

――何か、子供みたい。

無防備な慧奴の背中を見つめながら、私はつい、にやけてしまった。

「慧奴が私の部屋の中に入ったのは、今日が初めてだよね」

後ほんの数センチずれていたら彼に踏まれていただろう非力な文庫本を拾い上げ、私は読書を再開する。

「お前がいつも俺の部屋に来るからだ」

不満なのか眠いのか、低くゆっくりとした声で彼は言った。話し掛けていないと彼は本気で眠りそうだったが、無理やり起こしているのも可哀想だと思い、放っておくことにした。それにしても、慧奴は案外早寝の人らしい。私は普段零時頃まで読書をして過ごすから、あと数時間は眠るつもりはない。

「絵夢」

不意に名前を呼び掛けられた。

「何?」

「お前、いつも何時に寝る?」

「零時くらい」

「今日もそのつもりか?」

「うん」

彼は落胆したように溜息を吐くと、

「明るいと眠れない」

と、絶望的な声で微かにぼやいた。

「分かった。じゃあ今日はもう寝ましょう」

何かお母さんみたいだなとか思いつつ、私は本を閉じて机の上に置き、電灯を消した。さあ寝ようとベッドに入った所で、そう言えばちゃっかり寝床を奪われている事に気付いたが、時既に遅し。仕方がないので、今日はこのままで眠ることにしよう。

「おやすみなさい」

就寝を宣言して彼に背を向けると、背中がぶつかり合うのが分かった。やはり、一人用の広さしかない場所に、二人で寝るのは窮屈だなと感じる。慧奴は辺りが暗闇に包まれた事に安心したのか、もう何も喋らなかった。

――あったかい。

背中越しに伝わる彼の体温を感じていると、不思議と大きな安心感に包まれた。誰かが隣で眠っていると言う事実が、それだけでこんなにも安らぎを与えてくれるものだなんて、知らなかった。私は彼の方へ向きを変えると、そっと背中に抱きつく形で自分の身体を密着させた。

「……暑い」

遠回しに拒否された気がするが、私は気にせずにそのまま目を閉じた。


 翌朝私が目覚めた時、転がり込んで来た客人はまだ眠っていた。幸いにも今日は日曜日なので、授業も無ければ、行事も無い。そういうわけで、彼の睡眠を妨害する理由は何も無いので、私は彼を起こさないように細心の注意を払ってベッドから抜け出すと、万が一に備えてバスルームに籠って着替えを済ませた。

――朝ごはんどうしよう……。

いつもならトーストを焼いてコーヒーを淹れるが、そんな事をしたら起こしてしまうだろうか?取り敢えずまだ眠っているかを確認する為にベッドへ忍び寄り、私が居なくなった分の空間も活用して広々と仰向けに横たわっている慧奴の寝顔を覗き込む。警戒心が強い彼の事だから狸寝入りではないかとも疑ったが、そっと頬を撫でてみても目を開ける気配は微塵も無かった。彼が完全に熟睡している事を知ると、私はとても幸せな気持ちになった。

結局、慧奴はその日の正午頃まで死んだように眠り続けていた。

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