第12話恋人ごっこ

 私達が暮らすこの国の法律では、女性は満十六歳以上、男性は満十八歳以上であれば、婚姻関係を結ぶ事が認められている。何故男女間に年齢差が存在するのかと言う疑問に関しては、残念ながら私は答えられない。この年齢制限が男尊女卑と言う古臭い思想に起因する差別の名残であるとして、男女共に成人年齢と同じく満十八歳にすべきだと主張する人達もいるらしいが、私としては年齢なんて瑣末な問題だと思う。時代の潮流を見ると、どうやらこの法律も遅かれ早かれ改正されそうだが、幸いにもこの奇妙な掟が現存して効力を保ってくれているお陰で、私と慧奴の脱獄計画には一筋の光明が見出されたのだ。

「でも、いきなり『結婚します』って宣言するのも不自然よね?」

椅子からベッドに移動して寝そべっている慧奴を振り返りながら、私は彼に意見を求めた。慧奴は、事件現場に残された死体のように不自然な体勢で俯せに突っ伏していて、身動ぎ一つしない。まさか寝たのだろうかと言う不安と、あんな格好で寝られるのかと言う疑念とが私の心の中で渦巻いていた。少しの間そのままの状態で様子をうかがっていたが、返事が無さそうなので揺り起こしてみようかと思い立ち、私は彼の背中に手を触れた。すると、微かだが反応があった。

「恋人ごっこでもするつもりか?」

くぐもった声が響いて来る。

「その方が疑われずに済むんじゃないかしら」

私の言葉を耳にすると、死体は遂に息を吹き返して起き上がった。

「だが、何をどうするんだ?」

「取り敢えず……クノマ君とカナミさんの行動を模倣すれば良いんじゃない?」

私は何の気無しにそう言ったが、それを聞いた慧奴の表情は一瞬強張った。その反応が気になったので、「嫌なら無理にしなくても良いけど」と透かさず譲歩の一文を補足した。彼は一言も発さずに硬直していたかと思うと、また巻き戻されるみたいにベッドの上に横たわった。今晩の慧奴は、いつにも増して無口で神妙な気がする。

「まぁ、その件はまた今度考えましょ」

慧奴の態度がいまいちはっきりしないので、私は相談を別の日に延期する事を勝手に決めて立ち上がった。

「おやすみなさい。また明日」

去り際に声は掛けてみたけれど、屍からの返事は無かった。

――どうしたんだろう?

不可解な慧奴の挙動に顔を顰めつつ、私は自分の部屋へと帰った。


 その翌日。始業を告げるチャイムが鳴っても、靄繕慧奴は教室に姿を見せなかった。意外にも、彼が授業を欠席したのは、その日が初めてだった。突如発生した異常事態に、園田先生も心配で表情を曇らせていたが、一番気が気でなかったのは私だったと思う。昨晩会っていた時から、既に彼の様子はおかしかった。その原因は私かも知れない。私が脱獄と言う自分の我儘への協力を彼に迫ったせいで、一気に精神的な負荷が圧し掛かってしまったのではないだろうか?彼は元々、人付き合いも、人との接触も好まない質なのだから、「結婚」だの「恋人」だのと言った単語に拒否反応を示す可能性は十分に有り得る。

――やっぱり、無茶な事を頼んじゃいけなかったんだ……。

私は反省すると同時に、俄然慧奴の様子が心配になって来た。まさかとは思うが、あらゆる柵からの解放なんて望んではいないだろうか?基本的に何事にも興味が無い彼は、その事象に意義があるか無いかで物事を判断しようとする。もし、これ以上この世界に存在する事の意義が無いと判断したとしたら、彼は迷わず確実な手段を講じるに違いない。

――止めなきゃ!!

やりかけのワークブックを閉じ、大急ぎで筆記用具をぞんざいに鞄の中へ投げ入れると、私は園田先生に「帰ります!!」とだけ有無を言わさぬ調子で宣言して教室を駆け出した。


 体育の授業以外に全力で走ったのは、この時が初めてだった。私は一分弱で慧奴の部屋の前に駆けつけると、勢いに任せて呼び出しボタンを連打した。応答を待っている時間は、不安と焦りで正常な感覚を失った私には、酷く長く感じた。だが実際の所は、ほんの二十~三十秒だったと思う。

扉が開いた。

普段よりも険しい顔で扉の向こうに現れた靄繕慧奴は、チェーンロックを掛けたままで、不審そうに私の顔を覗き見た。

「相図が違う」

開口一番に不服申し立てを受ける。取り敢えず生存が確認出来てほっとした私は、一つ大きな息を吐いて胸を撫で下ろすと、ひとまず自らの手順違いを素直に謝罪した。彼は「ごめん」の一言を聞くと、黙って二つ目の鍵を外してくれた。

「何しに来た?」

「様子を見に来たの」

「連行する為か?」

「違う」

背中越しに聞こえる淡々とした問いに答え終えたその瞬間に、私は倒れ込むようにして目の前に立った彼の身体を後ろから抱き締めた。不測の出来事に彼は立ち止まり、その場に固まった。

「昨晩から様子が変だったから……心配になったの」

慧奴はしばらくの間口を閉ざしていたが、やがてこう言った。

「昨日の夜、お前と話していた辺りから急に頭が痛くなった。今朝は不眠のせいで寝過ごしたから、行く気が削がれた」

私は彼の腰に回した腕に一層力を込めると、更に身体を密着させた。

「私のせいじゃないの?」

「何が?ただの風邪だろ」

「慧奴って風邪とか引くの?」

「俺は人間だ。免疫力が低下すれば病気にもなる」

呆れたようにそう言うと、彼は巻き付けられた私の腕をぽんぽんと軽く叩いた。そろそろ離して欲しいらしい。私がゆっくりと腕と身体を離して解放してあげると、慧奴は私の方に振り返って言った。

「何をそんなに心配してたんだ?」

すっかりいつも通りの無表情な彼に戻っているのを目にすると、私は自分の早合点と飛躍した思考が急に恥ずかしくなり、目を伏せた。それでも事情を説明しないのでは彼も納得出来ないと思い、嗤われるのを覚悟で震える唇に指令を送った。

「……慧奴が……自殺でも考えるんじゃないかと思って……」

「何で?」

「私が、その……我儘に、付き合わせようとしたから」

「嫌ならその場で断固として拒否する」

彼は断言すると、顔を上げられずにいる私の頬に左手を伸ばし、情けない顔を上に向けさせた。

「大体お前、ゲンリョウの時は止めなかっただろ」

「慧奴は何も言ってくれないでしょ?」

「止められたくないなら言うわけないだろ」

「だからだよ」

私は強い口調でそう言うと、瞳孔が見えない真っ黒な彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「私はもう、大切な人を失いたくない。あんな後悔は、二度としたくないの」

慧奴は、少しの間黙ったまま、私の目を一心に見つめていた。それから不意に目を逸らすと、

「自殺はしないから安心して帰れ」

と、そっけなく言い放ってベッドの上へ転がり込んだ。私は彼の不器用な気遣いに破顔すると、お言葉通りにお暇することにした。


 【恋人ごっこ】の件をどうするかはさておきとして、私はクノマ君とカナミさんが何の目的で付き合っているのかと言う疑問を解決すべく、放課後に二人揃って学舎棟から出て来た二人を呼び止めた。

「ちょっと、話したい事があるの」

二人は不思議そうな顔をして一時顔を見合わせていたが、快くこの誘いを承諾してくれた。立ち話もどうかと言うので場所を移動し、私達は共用棟一階の談話室へと向かうことにした。名前通りの用途が期待されているこの部屋は、共用棟の中で最も居住者が寄り付かない場所である。そんなわけだから、他人を巻き込みたくない話し合いを設ける際には非常に重宝するのだが、普通は誰かの居室に集まって相談する為、結局は無用の長物と成り果てている。利用者がいない分清掃も行き届いていないのか、室内は埃っぽく、電灯も古ぼけた黄色い光を撒き散らしていた。長居はしたくなかったので、私は手短に面談を済ませることに決めた。

「クノマ君とカナミさんは、いつも一緒に居るでしょ?何の目的で、二人は一緒に行動しているの?」

不躾とも言える単刀直入な私の問い掛けに、二人は面食らった様子で硬直した。

「目的……ですか?」

困惑した風にクノマ君が問い返して確認する。

「何か理由があるんでしょ?」

【目的】と言う単語は具合が悪そうなので言葉を変えて、私は再度二人に質問した。

「理由なら単純よ」

異国風の美少女が口を開く。

「あたし達は、ただ一緒に居るのが心地いいと感じるから、一緒に居るの」

カナミさんはそう言うと、「そうでしょ?」と隣に座ったクノマ君に同意を求め、彼は「うん」と頷いた。

「二人がキスしたり、抱き合ったりしている所を見た事があるって、慧奴は言ってたけど……」

「エヌって誰?」

「靄繕慧奴」

「あぁ、転校生の彼ですね」

「それがどうかしたの?」

「どうして、そんな事をするのかなって」

「気持ちいいから」

カナミさんの表現は率直で生々しく、私は少し顔が引きつってしまった。それを見て取ったのか、クノマ君が相方に一旦黙るようにと指示を出してくれた。

「でも、磨礼の言う通りですよ。僕達は、そうする事で快感を得られるから、そうしているだけです」

臆面も無く彼はそう語る。

――思ったよりも本能的な衝動だなぁ。

喜怒哀楽と言う基本的な感情表現さえ満足に出来ない彼らにも、そんな欲求があるとは正直驚きだ。

「キスやハグがどんな感覚か知りたいのなら、試してみればいいじゃない」

黙っていられなくなった天性の娼婦が放言する。

「相手が必要でしょ?」

私は冷静に言葉を返す。

「ユーヒでいいじゃん」

良くない。

「僕は構いませんけど」

断らないのか。

「いや、私は……」

どう答えても失礼になりそうなので、言葉を濁してみる。

「じゃあ、アイゼンエヌは?」

彼女が言い放った無節操な一言で、一同は言葉を失って静まり返った。

――慧奴は……。

相手として嫌なわけではないが、彼の性格から言って同意してくれる見込みは無い。人一倍の人間嫌いであり、病的に潔癖で神経質な彼の事だから、冗談で言っても本気で峻拒されるに決まっている。そんな事をうだうだと考え込んで口籠っている私を前に、クノマ少年は何を思ったのか見当違いな親切を口にした。

「やり方が分からないなら、教えますよ」

この会話だけで嫌と言うほどに思い知ったが、私はこの二人とどうにも波長が合わないらしい。


 クノマ君の筋違いな申し出を丁重にお断りすると、私は二人との対談を切り上げて談話室を後にした。内容整理の為にこれまでの会話を振り返ってみたが、何とも酷い猥談なので忘却に努めようと心に決めた。

――じゃあ、アイゼンエヌは?

どうしてあの時、彼女はその名を口にしてしまったのだろう。

理由は分かる。直前に言及したからだ。だが問題はそこではない。彼女が彼の名前をうっかり口に出してしまったせいで、私の意識があらぬ方向へ逸れた事が、私にとって致命的な過失を生んだのだ。もしあの場面で靄繕慧奴の名前が出なかったなら、私はこんな愚かしい興味に突き動かされて、彼の部屋を訪ねようなどとは決して思わなかっただろうに。迷惑だとは分かり切っていても、感情と言うものは御し難い。いつしかお決まりになっていた合図を送ると、間も無く扉は開かれた。何も知らない彼に続いて部屋へ入り、私はいつもと同じくベッドの上に腰を下ろした。

――何やってんだろう、私。

内心我ながら呆れつつ、椅子に腰掛けた慧奴の後ろ姿に目を移す。今日は珍しく本を読んでいる。

「ねぇ、慧奴」

「ん?」

「キスしようか」

突拍子も無いその一言は、自分でも驚くくらい自然に、当然の如く私の唇から零れ出した。

ページを繰る彼の手がぴたりと止まる。

彼はそのまま本を閉じると、それを机の上に置いて私の方に振り向いた。

「何で?」

いつもの疑問副詞が突きつけられる。

「どんな感じなのか、興味があるから」

一直線に私を射抜く彼の目に動揺は無く、表情にも変化は無い。

私は少し緊張していた。口走ってしまった事自体が既に気まずいのだが、これで断られたら尚更顔が見られなくなる。固唾を飲んで彼の返答を待つ間、彼は瞬き一つせずに私の目を見つめていた。その真剣な眼差しは、まるで私の中の何かを見極めているかのようだった。

「良いよ」

固く結ばれていた口元が緩み、思いもかけない短い返事を呟いた。

私の内心では様々な感情が入り乱れて縺れ合い、混沌状態に陥っていたが、それに反して私の表情は不自然なほどに無表情で、身体は微動だにしなかった。慧奴は徐に椅子から立ち上がると、ベッドに座った私の真正面に立って私を見下ろした。

彼の両手が肩に触れたと思うと同時に、身体がゆっくりと後ろに倒れ込む。

最早正常に機能していない頭を必死に制御して、私は自分がどうしたら良いのかを思い出そうとした。丁度その時に慧奴が目を瞑ったのを見て、目を閉じるものなのだと気が付いた。しかし、私は目を閉じようとはせずに、目を瞑って少しずつ近付いて来る彼の表情にただ目を奪われていた。

――慧奴って、こんなに綺麗な顔だったんだ。

そう思った途端、私の心臓が急激に鼓動を加速した。

――何?どうしてこんなにドキドキするの?

正体不明の動悸と身体の火照りに困惑した私は、唇が触れ合うまであと僅かと言うところで咄嗟に彼を押し留めてしまった。

「ごめん。待って」

「どうかしたか?」

「何か動悸が……。たぶん、大丈夫」

一瞬だけ盗み見た慧奴の表情は呆気に取られた感じだったが、私は恥ずかしさのあまりに殆ど顔が上げられなかった。

「やっぱり、今日は帰るね」

表情を見られないように顔を俯けたまま彼の脇をすり抜けると、私は自分勝手な言葉を残して足早に部屋から脱出した。


 自分の部屋へ逃げ帰ってシャワーを浴びた後には、もう何事も無かったかのように平静に戻っていた。

――何だったんだろう?

自分の全身を突然襲った謎の症状に、私は不安よりも疑問を感じていた。これまで慧奴と一緒に過ごして来た中で、あんな事になった事は一度も無かった。手を触った時も、抱き締められた時も、抱き締めた時も、心は穏やかに落ち着いていた。

――あんなに顔を近付けたのが、初めてだったからかな……?

思い当たる節と言えば、そのくらいしか無い。よく思い返してみれば、あの状況は今までの中で一番不自然だ。その不自然な状況を創り出したのは自分だが、ベッドの上に押し倒されたのは完全に想定外だった。きっと、そのせいで動揺してしまったのだろう。

――何か気まずいなぁ。

何の前触れも無くキスを迫り、挙句押しのけて逃げ帰るとは……。明日の朝教室で慧奴に会ったら、一体どんな顔をすれば良いのだろう。そんな事を考えると、少し気が重くなった。

――でも、断られなかったのは意外だったな。

もしかしたら、あの靄繕少年にもそうした行為に対する興味は少なからずあるのだろうか?そんな事を思いながら、私は眠りに就いた。


 翌日の朝、私は学舎棟へ向かう途中に、例のカップルが手を繋いで歩いているのを見かけた。敢えて近付いて行って挨拶はせずに、少し離れた所から眺めていると、彼らは急に足を止めてキスをし始めた。彼らの周囲には私を除いて誰も居なかったが、彼らは私の存在にすら気が付いていないようだった。

――本当に欲求に対して従順なのね。

動物の番でも観察する様に遠巻きに眺めながら、私はそんな事を考えていた。

「出た。青春ごっこ」

その時不意に、私の背後から彼らを野次る声が聞こえた。その独特の表現と聞き慣れた声から、私には振り返らなくてもそれが誰なのか即座に分かった。

「快楽の傀儡なのよ」

「人間性は捨てたのか」

本人達に聞こえていないのをいいことに、好き放題な罵声が続く。その話声に気付いたのか、はたまた視線に気付いたのか、二人はこちらの方へ振り向いた。

「お早うございます」

礼儀正しく挨拶する少年。

「あなた達もすれば?」

非礼極まりない少女。

「お前らと一緒にするな」

割と本気で不愉快そうに言い放つ慧奴。

「朝から騒々しいなぁ」

私が苦笑いを零して言うと、前方の二人は再び歩き出した。

「今日は、早いね」

「気のせいじゃないか?」

昨晩の杞憂などすっかり忘れて、私は自然と慧奴に笑いかけていた。

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