第11話脱出計画

 開放的な夏休みが終わりを告げると、退屈で安定した日常が再開される。残暑の厳しい蒸し暑さにうんざりして目覚めた私は、倦怠感に苛まれつつも、支度を済ませて部屋を出た。居住棟の隣に併設された学舎棟の教室までは、のんびり歩いても五分はかからない。私が通い慣れた一室に到着したその時には、既に何人かの生徒達が行儀良く自分の席に座っていて、担任教師が姿を現すのをじっと待ち構えていた。私は自分の席へと向かいながら、教室の中を見回して慧奴の姿を探した。しかし、彼の姿は何処にも見当たらず、私の隣にある彼の席にも、彼が来た痕跡は確認出来なかった。ここで一旦時計を見遣る。始業時間までは、あと十五分ある。

――それじゃあ来てるわけないか。

自嘲的な一笑を漏らすと、私は席に着いた。その時、教室前方の扉が開いて、二人の生徒達が入って来た。その二人の顔を確認すると同時に、私の身体は勝手に席から立ち上がっていた。

――あの子達、ランドリーコーナーの……!!

声にまでは出さなかったものの、私の視線に気付いた彼らは、こちらに注意を向けた。それから直ぐに、男子生徒の方が「あ」と気の抜けたような声を出すと、隣に居た女子生徒と顔を見合わせ、二人揃って私の側にやって来た。

「居住棟でも会いましたよね?」

丸眼鏡を掛けた少年の方が、まず私に言葉を掛けた。

「同じクラスだったんだ」

私が問いに答える間も無く、青い目の少女が口を挟む。

「そうね。何処かで見た事があるとは思っていたのだけど」

愛想笑いを浮かべながら私は言い、漸く正体が判明した少年少女の容姿を繫々と観察した。少年の髪は胡桃色で、眼鏡の奥に光る円らな両目は茶褐色をしている。顔形からしても、割と一般的なこの国の血統だろう。一方少女の髪は綺麗な飴色で軽やかに波打っており、その両目は瑠璃色だ。翡葉氏と同様、異国の血脈を受け継いでいるのは疑いない。

「今更だけど、私は霞絵夢よ」

「僕は久野間くのま雄飛ゆうひです」

「あたしは河波かなみ磨礼まれ

長期休暇明けの新学期初日に、これまでも同じ教室で学んでいたはずのクラスメイト達と自己紹介をし合うのは大変奇妙な感じがしたが、私達三人は改めて各々の名前を言い合った。

「カナミさんとクノマ君は、よく一緒に居るの?」

「そうですね」

「ユーヒとは一年前からの知り合いなの」

「二人はいつからこの施設に住んでるの?」

「僕は二年前ですね」

「あたしは一年前」

つまり、私達は高等科のこの教室で出会う以前に、中等科で全員顔合わせを済ませていることになる。それなのに、今この時まで名前すら知らなかったとは驚愕だ。おとなしそうなクノマ君はともかくとして、外見からしても派手なカナミさんに私が注目しなかったはずがない。たぶん、物珍しさにひかれてしばらく彼女の行動を観察していたが、期待したほど興味をそそられなかったので、直ぐに飽きて忘れてしまったのだろう。私達の会話はそこで途切れ、話す事が無くなった二人は各々の席へと戻って行った。

「誰?」

足音も気配も無く私の背後に忍び寄っていた慧奴が、出し抜けに素朴な疑問を呟いた。

「クノマ君とカナミさん。見ての通り、私達のクラスメイトよ」

二人の事を目線で示しながら、私は無意味な説明を述べる。

「知り合いだったのか?」

「いいえ。今知り合ったところよ」

慧奴は無関心そうに大きな欠伸を一つすると、黙って自分の席に座った。私は彼と二人について何か語り合おうかと一瞬考えたが、名案ではなさそうなのでそれは止めておくことにした。

「みなさんお久し振りですね。元気だったかしら?」

朗らかな笑みを湛えながら、園田先生が教室に入って来る。

疑似的学生生活の幕が、今再び上げられた。


 《特別出生児》は、通常であれば成人年齢満十八歳に達するまでの期間を、政府管轄の《教育・育成施設》の中で過ごす。その《教育・育成施設》とは、装置の中から取り上げられた子供達が最初に送られる場所であり、彼らはこの場所で国にとって都合の良い洗脳教育を施されながら、人命だけは過剰なまでに尊重されて健やかに成長して行くことになる。そして、その多くは成人すると共に施設から巣立って行く。成人までの育成過程で不具合が生じた欠陥品を修理する目的で存在している《再教育施設》においても、生活態度に問題が無く、心身共に健全な状態であると判断された未成年者達は、成人を機に施設を出る事が許可されている。出所が義務化されていない事から、本人の意思次第で施設に留まり続ける事も可能である。この点が、半ば強制的に施設の外へと放り出す《教育・育成施設》との決定的な違いとなっている。慧奴はこうした事情を把握しているからこそ、《再教育施設》への入所を志願したのだ。そんな変わり者の靄繕慧奴少年は、今年で満十八歳を迎える。晴れて成人となるわけだ。だが彼の性格と言動から鑑みて、彼がこの《監獄》から出て行く可能性は極めて低く、ほぼ皆無と言って良い。私の方は今年の四月末に十六歳の誕生日を迎えたばかりだから、再来年の四月まで合法的な脱獄の機会はやって来ない。《教育・育成施設》と同様に、《再教育施設》にも養子縁組の制度が存在してはいるが、一体誰が好き好んで中古の不良品を引き取りたいと考えるだろう?

――確実に《監獄》を出られるのは再来年の四月。もしそれよりも早く脱獄したいと思うなら、何か方法を考えなければいけない。

そうなると真っ先に思い付くのが、外出時での脱走である。外出時の監督官が翡葉さんであれば、脱走して行方をくらます事など造作無い。しかし、万が一にも施設へ連れ戻されることになれば、二度と外出許可が下りなくなる恐れがある。何より、翡葉さんの隙に付け込んで逃げると言うのは卑劣極まりないし、同族として私達の自由を尊重してくれている彼の信頼と厚意を裏切る行為だ。私は、断じてそんな愚行を犯したくはない。

――それに、私一人で逃げ切ったとしても、それからどうするって言うの?

所持金など高が知れているし、移動手段も無い。死ぬ為だけに飛び出すと言うのなら構わないが、生き延びる事を考えたらあまりにも無謀すぎる。まず大前提として、私は可能な限り早くこの施設を出る事を心から望んでいるのだろうか?ここには靄繕慧奴が居る。しかし、施設を出た先に私を待っているのは、完全なる孤独の世界だ。

私は本当に、それを望んでいるのだろうか?

独りぼっちになってしまうくらいなら、不自由なこの場所で見知った人達に囲まれて暮らす方が良いのではないだろうか?

――お前がそこに居たいと思う場所が、お前にとって最も相応しい場所だ。

翡葉さんの言葉が頭を過る。

――私が居たいのは、ここじゃない。

だけど

――私が居たいのは、独りぼっちの世界でもない。

簡単そうに聞こえた彼の言葉に対する答えは、考えてみると途轍もない難問に思えた。


 クノマ君とカナミさんが話し合っている現場を見た時に、私が脱獄の相談ではないかと思ったのには、理由がある。それは、この施設の居住者達が私的な交流をしているということは、それだけで不自然だからだ。私が食堂で食事をしていた時に気付いた通り、ここの住人は自ら進んで他者と会話しようとはしない。脱獄を考えているにせよ、自殺を画策しているにせよ、他人に知られない方が安全だし、そもそも他人と会話をする事に意味を見出さないからだ。しかし、脱獄を成功させる為には、施設職員の目を欺く必要がある。いかに自分が心身共に健康であり、この施設にとっては異質な存在であるかを知らしめ、外出許可が下りるまでに彼らを信用させなければならない。その場合に有効で手っ取り早いのが、施設内の誰かと親しく付き合って見せると言う方法だ。それによって他者にも興味がある事を示し、協調性があるように思わせる事が出来る。他者と対等に交際し、友好的な関係を築く事は、社会的生活を送る上で非常に重要な基盤となると考えられているから、その能力があると認められれば、職員からの評価は劇的に好転する。この施設に入所した者がその教育指導のお陰で更生したとなれば、喜ばない者は誰もいない。出来れば居住者達全員が生きる喜びに目覚め、大手を振って施設を去って行って欲しいと言うのが、彼らの本音だからである。つまり、クノマ君とカナミさんが行動を共にしているのは、施設職員を油断させる為の彼らの作戦なのではないかと私は疑ったのだ。実際に、結託した数名の未成年者達が職員達を誑かし、集団脱走したという事件が過去に起こっている。その当時は外泊が許可されていた為、彼らは同伴した数名の監督官達が寝静まった頃を見計らって部屋を抜け出し、宿泊していたホテルの屋上から一斉に飛び降りて果てたのだと言う。自殺目的だったわけだ。その一件があったせいで、以降はいかなる理由であれ外泊は禁じられることになり、外出時間の門限も午後五時までと制限されてしまった。外出自体が禁止されなかったのは、不幸中の幸いだ。何にせよ、私のように興味本位で他者との戯れを楽しんだりしない彼らが他者を求めるのには、必ず何か理由があるはずだ。私はそう思い、しばらくクノマ君とカナミさんの動向を注視していた。だが、彼らは毎朝揃って教室に現れ、放課後は一緒に帰って行くだけで、教室で顔を合わせている限りでは、これと言って不審な行動は全く見受けられなかった。本人達を直接問い詰めてみる前に、私は施設側の人間が彼らをどんな目で見ているのかを知りたいと思い、我らが担任教師の女性に尋ねてみることにした。

「園田先生は、クノマ君とカナミさんの事、どう思いますか?」

「あの子達、仲良しよねぇ」

先生はいつも通りの呑気な調子で微笑みながらそう言うと、生徒達から集めたワークブックを教卓の上で並べ直し、数を確認した。その作業が済むと、彼女は物足りなさそうな顔で口を閉ざしている私に向き直り、また口を開いた。

「兄妹みたいよね」

「そうですか?」

「同い年だから、『双子みたい』って言うべきかしら?とにかく、あんまり友達同士のようには見えないわね」

「何でですか?」

「さぁ、何故でしょう。友達よりも、もっと近しい仲に見えるのよね。そうかと言って、恋人同士のような雰囲気ではないのだけど……」

「それじゃあ、私と慧奴はどうですか?」

「あなた達は……友達、みたいなところかしら」

園田先生は何故か愉快そうに笑っていたけれど、私には彼女の言葉の真意が全く読めなかった。「まだ友達」と言う表現からは、友達の次に何か別の段階が存在しているらしい事が暗示されているけれど、それが何なのは私には見当も付かなかった。私は余計にもやもやしてしまった気持ちを抱えながら、園田先生と別れて教室を後にした。


 「クノマとカナミ?」

慧奴は椅子にふんぞり返って座ったまま二人の名前を聞き返すと、何かを思い出すように一瞬視線を上へ向けた。

「青春ごっこしてる奴らだろ?」

「何それ?」

「毎日二人揃って学舎棟へ通い、人目を忍んでイチャつき、頻繁に互いの部屋を行き来し、休日は一日中一緒に過ごすと言う私的自由を放棄した生活を送る事で、恋愛と呼ばれる妄想の一種を疑似体験すると言う無為で狂気的な戯れに興じている連中と言う意味」

「それ本当?」

「抱き合ったりキスしたりしてるのは見た事がある。悲しい事に、クノマの部屋は俺の向かいだ」

さも絶望的な調子でそう告げると、慧奴は両手で顔を覆ってがくりと項垂れた。彼らしからぬ大仰な振る舞いから言って、半分くらいは面白がっていると思われる。

「それじゃあ、あの二人は恋人同士なの?」

「さぁな」

「園田先生は、そうは思わないみたいに言ってたけど」

「所詮他人の事なんかわかるわけないだろ」

彼はこう言ったが、私は何処か腑に落ちない気がしていた。しかし、こんな瑣末な事で慧奴と議論をしても仕方がないので、不満は飲み込むことにした。

「何の為にそんな事してるんだろう?」

私の口からは、消化しきれなかった疑問が零れ出した。

協調性を強調したいだけなら、恋愛関係を装う必要は無い。友人関係で十分だ。それとも、思春期の少年少女の間柄としては、友人よりも恋人の方が自然なのだろうか?いや、そんな事まで考えているとは思えないし、そんな事をする必要も無い。そうなると、単純に興味があっただけかも知れない。いずれにせよ、本人達に聞いてみなければ判らない。私は二人について不毛な詮索をするのを止めると、だらしない格好で椅子に凭れている慧奴に視線を向けた。

「ねぇ、慧奴」

「ん?」

「慧奴の誕生日って、いつ?」

「十二月八日」

「今年で成人でしょ?どうするつもりなの?」

即答で答えられるはずのこの問いに、彼は何故か答えなかった。

「お前は再来年出て行くんだろ?」

話題が摩り替る。

私は彼の不自然な対応に違和感を覚えつつも、彼の問い掛けに「うん」と小さく頷いた。

「だろうな」

分かり切っていたみたいに、慧奴は言う。私は腰を落ち着けていたベッドから離れると、草臥れたぬいぐるみみたいに力無く椅子に支えられている彼に歩み寄って、顔を覗き込んだ。暗黒色の双眸には、やはり何も映ってはいなかった。

「悩んでるの?」

彼は何も答えない。

この沈黙こそが、彼の答えだ。

「私は、正直言うと、迷ってる」

滑り落ちるようにその場へ座り込むと、私は目を伏せた。

「慧奴と一緒に何度か外出をして、やっぱり私は、あちらの世界でもう一度暮らしてみたいと思った。四年前、私は自分の意志であちらの世界から逃げ出した。私を受け入れてくれていた全ての人達を、その愛を、優しさを、何もかも投げ捨ててこちらの世界に戻って来た。塀の向こう側は《特別出生児わたしたち》の居場所じゃない、遠く霞んで見える町は楽園なんかじゃないって信じてた。でも本当は、そう思い込もうとしていただけだったんだって、薄々気が付いていたんだ。本当はもう一度戻りたいと思っているのに、私自身がその願望を素直に認められなかった。一度失敗したのだから、もう一度やってみてもあちらの世界に馴染めるはずなんてないって決めつけて、言い聞かせて、気持ちを押し殺して来たの。だけど、もう自分の気持ちに嘘は吐かないわ。この施設を出られるのなら、私はここを出たい。でも、この施設を出れば、私はきっと孤独になるでしょう。メイナも、慧奴も、園田先生も、知ってる人が誰も居ない真っ新な世界で、私は独りぼっちになってしまう。そんなことになるくらいなら、いっそ一生この施設に居る方が楽しくて、幸せなんじゃないかな?そう思うと、結局どうするのが正解なのか分からなくなるの」

慧奴は黙って私の話を聞き終えると、静かに言った。

「お前なら、あちら側でも楽しくやって行けると思う。独りでいなければいけないのは、最初の内だけだろ?ここに来た時だって、最初は独りだったはずだ」

突き放すような彼の正論は、いつも私の弱い部分に深く突き刺さる。

そうだ。彼は正しい。それなのに、どうして私はこんなにも納得出来ないのだろう?

「お前が恐れているのは、孤独なのか?」

畳みかける彼の言葉を反芻し、自問する。

――違う。

慧奴はもうとっくに、私が本当に恐れているものの正体なんて見透かしているからそう聞いたのだ。

「私は……慧奴と、離れたくない」

誰よりも、靄繕慧奴と言う存在を失いたくない。

私が本当に居たいと望んでいる場所は、《楽園》でも《監獄》でもない。

靄繕慧奴が居る場所なのだ。

「じゃあどうしますか?」

そんな大事な事を私に気付かせておきながら、当の本人は他人事みたいに無関心に問い掛ける。

「二人で一緒に脱獄する方法は……」

渋い顔で首を捻る私の頭に、クノマ君とカナミさんの顔が浮かんで消えた。

「そっか!!一つだけあるかも知れない」

私は言うと、自分が思い付いた脱獄計画をもう一度よく吟味してみた。私が考え付いたこの作戦なら、私は慧奴と共にこの施設を出所出来る可能性がある。しかし、制度上はそれが可能だと言えるだけで、前例など聞いた事も無い。その上、この作戦を成功させる為には、慧奴の協力が不可欠となる。

「でも、慧奴は施設の外に出る気は無いんでしょ?」

「じゃあお前も施設に残るか?」

「それは嫌だ」

「なら考えろ」

やはりこの議論はどうも不毛に思えてならない。だが、慧奴は施設の外に出る気があるのか無いのかについて、肝心な意思表示を何もしていない。施設の外に出る気があるとも言っていないし、出る気が無いとも明言していない。はっきり言わないということは、彼の中でも決めかねているということだ。

「施設から出る機会は少ないけれど、施設に戻る機会なら幾らでもある。だから、まずは施設を出る事に協力して欲しいの」

真面目な顔でそう言うと、彼は「それで?」と続きを促した。

私は深呼吸をして気持ちを落ち着けると、膝立ちになって彼の右手をしっかりと握った。

「慧奴」

静まり返った部屋の中、急激に緊張感が込み上げて来るのを感じる。

「結婚してください」

沈黙。

私は猛烈に恥ずかしくなったが、慧奴の真っ直ぐな瞳から目が逸らせなかった。

気まずい沈黙に包まれて無言で見つめ合ってから、永遠にも似た長い長い数秒間が経過した時、静寂は破られた。慧奴が笑い出したのだ。

「言うと思った」

彼のこの反応は、間違いなく最低最悪なはずだったが、こんなに可笑しそうに笑っている彼を見ると、どうにも怒る気になれなかった。ただ呆気に取られて茫然とする私を前に、上機嫌な様子で彼は言う。

「その気概に免じて、お前の嘘に付き合ってやるよ」

彼が言った「嘘」と言う些細な言葉が、何故かチクリと胸を刺した。

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