第10話Mの人間観察 III

 私が靄繕慧奴と言う奇人に出会ってから、もうすぐ五ヶ月が経とうとしている。長いような短いようなこの期間で、彼の印象も少しずつだが変わって来ている。当初、私は彼の人間味の無さに興味を抱いていた。私より一歳年上なだけとは到底思えない達観した考え方や、独特の表現に感心していた。だが今は、そんな彼が時折垣間見せる人間的な部分に魅力を感じている。人間離れした存在だと思っていた彼が、自分と同じ人間であると言う事実に安堵と親近感を抱き始めているのかも知れない。

 園田先生と靄繕君の三人でメイナのお墓参りに行って来たあの日、私は初めて彼の身体に触れた。これまでにも腕には触れた事があったけれど、あんな風に身体を密着させたのは、あの日が最初だった。そんなことになった原因は私にあるが、彼が私を拒まずに受け入れ、抱き締めてくれたと言う嘘のような現実が、今でもまだ信じられない。私が知っている靄繕慧奴は、捻くれ者で、皮肉屋で、感情を滅多に表出しない、ロボットのような人間だ。その彼が、たとえ我に返るまでの数秒間であったとしても、他人の身体に自発的に触れていたと言う事実は注目に値する劇的な進歩だ。

――少しは私に対する警戒心が薄れて来ているのかな?

現在私はベッドの上に転がりながら、そんなとりとめの無い事にぼんやりと思いを馳せている。好感とまでは行かないにしても、嫌悪感を抱かれていないとすれば、素直に嬉しく思う。それでは、そう言う私は彼をどう思っているのだろう?それは、目下の所謎である。靄繕慧奴は私にとって一番興味深い観察対象ではあるが、今のところはそれ以外に表現のしようがない。「友人」と呼んで間違いではないのかも知れないが、彼の方が同意してくれるかは不明なので、その呼称は避けた方が無難だろう。

――靄繕君は、今何をしているんだろう?

最近、こんな事をよく考える。そして、そう問い掛けた直後に、「きっと寝てる」と勝手に結論付けてその様子を想像してしまう。本当にそんなによく眠る人物だとは思っていないが、そうかと言って何かに熱中している姿がまるで思い浮かばないのだ。

その結果

「部屋に行って様子を見て来よう」

大抵の場合はこう思い立って、迷惑にも彼の部屋を襲撃することになる。私も案外、暇を持て余しているのかも知れない。


 北棟の二階に位置する靄繕慧奴の部屋の扉は、常に二重ロックと言うこの部屋の設備では最大限の厳重な施錠によって固く閉ざされている。彼を見ていると、部屋の扉はその人の心の扉を暗示しているのではないかと思う時がある。彼は、来客に対してはもちろん警戒を怠らないが、室内に自分や客が居る時ですら、必ず鍵を掛ける習性があるのだ。それに対して私の方はと言うと、外出時にすら鍵を閉め忘れる事がままある。だがそれは、この施設に住む人間達を信用していて、脅威を感じていないからと言うのではない。翡葉さんがある時言ったように、この施設の居住者達は他人に興味が無いと思っているからだ。仮に鍵を掛けないで外出したとしても、誰かが部屋に訪ねてくる可能性は低いし、来たとしても真っ先に扉に手を掛ける事はまず有り得ない。呼び鈴を鳴らしても応答が無ければ、そのまま帰るか、メモを残して帰るかのどちらかだ。しかし、そうした事態はここに来てから四年間一度も起こったためしが無い。

 私は悠々とした足取りで靄繕君の部屋の前までやって来ると、この頃酷使され続けている哀れな呼び出しボタンに指を押し付けた。一回目は長めに一回。二回目は短めに二回。その後は応答するまでひたすら連打するのが私のお決まりのやり方だが、最近はこの法則に気付いたのか、二回目の後には必ず自然と扉が開く。

「こんにちは」

来客の正体を確認するや否や、彼は無言でチェーンロックを外してくれる。用件を聞かなくなったのは、そんなもの私に有りはしないからだ。彼のこの柔軟な対応には、感動すら覚えている。人間嫌いの面倒臭がり屋である割には、人付き合いにおける順応性が極めて高い。ああ、だから人間が嫌いなのか。

「お邪魔します」

言葉だけは礼儀正しく、堂々と部屋に上がり込む。いつ見ても不思議に思うのだが、私の来訪は不定期にして不意であるにもかかわらず、彼が何かをしている最中だったと思われる痕跡が全く見当たらない。本当に何もしていないのだろうか?

「靄繕君て、普段は何をしてるの?」

聞いてみた。

「いろいろ」

不明確な回答が得られた。

仕方がないので、部屋の中を見回してみる。だが、何処もいつもと変わらず生活感が無いほど綺麗に整頓されているだけだ。大体、この部屋は異常なくらいに私物が少ない。埃すら殆ど落ちていない状態からしても、彼が本当にここで生活をしているのか疑わしくなってしまう。私は質問を変えることにした。

「さっきまでは何してたの?」

「考え事」

「何の?」

「お前には関係無い」

「何か悩み事でもあるの?」

「無い」

それじゃあ夢想でもしていたのだろうか?確かに、それなら物は必要ではないと思うが。

「お前は何をしていたんだ?」

思いがけず質問が返って来た。

「考え事」

「何の?」

「靄繕君は今何をしているか」

「それを考える事に何か意味があるのか?」

「無いわ。だから直接確かめに来たの」

靄繕君は心底迷惑そうに溜め息を吐くと、机に向かって何かし始めた。ベッドの上に腰かけている私の位置からは、彼の背中に隠れて何も見えなかった。そう言えば、今日は勝手にベッドの上に座っても怒られなかったな。

「何してるの?」

物音を立てないようにベッドの上へ倒れ込みながら、私は平然と彼に尋ねた。

「暇潰し」

彼は簡潔に答えると、

「座っても良いが、寝て良いとは言ってない」

後ろを振り返りもせずにそう忠告し、既に横になっていた私をギクリとさせて飛び起こさせた。

「何で分かったの?」

「物音」

「地獄耳だね」

「五感は鋭い方が役に立つ」

私はベッドから立ち上がると、机に向かって【暇潰し】をしている彼の様子を後ろから覗き込んだ。

「こんなだったっけ」

呟く彼の手元には、見覚えのある海辺の風景が、白い紙の上に鉛筆で描き出されていた。人物は意図的に排除されていたが、筆圧による濃淡だけで表現された白黒の画像には、私の記憶と同じ鮮明な色が浮かんで見えた。

「靄繕君て、絵が上手いのね」

写真の如く精密な描写に目を丸くしながら、私はこの寡黙な画伯を称賛した。思った通り彼は無反応だったが、賛辞に対するコメントの代わりに次のような言葉を語った。

「『あらゆる事が人並み以上に熟せるが、あらゆる事に対して興味が続かない。それが、靄繕慧奴と言う人間だ』と、施設の人間に言われた事がある。恐らくその見解は妥当だろう。根気さえあれば超人になれるとも期待されたが、俺は超人になりたいとは思わなかったし、そうはならなかった。何でも出来る凡人で十分だ」

彼の話を聞いて、私は【天は二物を与えず】と言う諺を思い出した。彼は人並み外れた才能を授けられた代わりに、そのどれも極める気が起きない無気力な人間であるよう定められたのだろう。そうでなければ、彼は人間の域を超越してしまうからだ。一見すると理不尽に見える事象であっても、実は釣り合いが取れていると言うのが、この世界の仕組みなのだろう。今、また少しだけ靄繕慧奴の本質に近付けた気がした私は、更に貪欲に彼の情報を収集したい衝動に駆られた。

「今度、また外出しない?行き先は靄繕君が決めてよ」

彼は唐突な私の提案を耳にすると、呆気に取られた様子で私の顔を見上げた。

「靄繕君がどんな事に興味があるのか、知りたいの」

目を瞬くしかない彼にそう告げると、私は満面の笑顔で笑って見せた。


 私は施設の事務員から外出申請書を一枚貰って来ると、何も記入していない状態のそれを靄繕君に渡した。外出を渋った彼が申請書を提出しないのではないかと言う一抹の不安が私の胸を過ったけれど、私は敢えて全てを彼に委ねて待つことにした。白紙の申請書を渡してから数日後、私の郵便受けに事務室からの手紙が一通届いていた。その内容は、外出申請書の受理を告げる文面と、外出日程の確認だった。それによれば、外出予定日は三日後の水曜日で、外出時間は午前十時から午後三時。同伴監督官はまたしても翡葉晃氏。訪問予定地は……。

「市立博物館……?」

何とも彼らしい選択に、私は失笑してしまった。


 翡葉さんは、前回と同様に集合時刻だけを告げると、運転席から降りる事も無く車ごと何処かに消えてしまった。それを見た靄繕君は、「適当な奴」と呆れたように暴言を吐いた。

「四六時中付いて回られるより良いでしょ?」

「そうする事によって賃金を得る仕事だろ。職務怠慢だ」

彼の妙に真面目なこの性格も、翡葉氏との相違点として数える事が出来るかも知れない。私はそんなくだらない事を考えながら、陽光を受けて輝く博物館の白い外観に目を遣った。

「懐かしいなぁ」

思わず、そんな言葉が口をついて零れ出す。

「来た事があるのか?」

気の無い様子で靄繕君が質問する。

「《監獄》に来る前は、寿杜芽市内に住んでいたから」

私は言うと、少しの間目を瞑った。それから再び目を開いて靄繕君と目を合わせると、彼を促して入り口の方へと歩き出した。


 まだ夏休みの期間中だったせいで、館内では子供達がはしゃぎ回っていた。基本的に騒々しい場所が好きではない靄繕君の表情は途端に不機嫌そうに変わったが、私は見て見ぬふりをして辺りを眺めていた。この博物館の規模は大きくないので、一つ一つの展示をじっくりと見て行ったとしても、一日あれば時間が余る。私は主に展示物だけに注目して解説を読まないから、せいぜい二時間で事足りる。そんな私とは対照的に、靄繕君は全ての解説に一通り目を通しているらしかった。最初は彼のペースに合わせて一緒に見て回っていた私だったが、彼があまりにも一箇所から動かないので次第に飽き始め、仕舞には自分の興味の赴くままにふらふらと徘徊するようになった。同伴者の存在を忘れた私の足は、無意識に自分が一番好きだった場所に向かって歩き出していた。

――変わってないなぁ。

薄暗い部屋の中央で、一際存在感を放っている大きな天体の模型を見つめていると、初めてここへ来た時の記憶が私の脳裏に蘇って来た。その時も、やはり夏の終わりだった。私はお父さんとお母さんと、まだ二歳だった妹の絵真と一緒にこの場所に来た。こんなに大きな天体の模型を初めて見た幼い私は、興味津々で色々な疑問を口にした。その他愛のない質問の全てに対し、お父さんは丁寧に説明をしてくれた。自分達の住む星がこんなにもちっぽけだと教えられた時、私はとても衝撃を受けた。その頃の私にとっては、この小さな町ですら途方も無く大きく感じられていたからだ。でも、今はもうそんな無知で無邪気な子供ではない。この宇宙が果てしなく広大である事も知っているし、その中における私達の存在がどれだけ儚いものなのかも理解している。星は今でも好きだけど、そこに神話の怪物や王女が居ない事も解っている。日々学び知る知識と引き換えに、私は純真な空想を失った。それによって現実は確固たる実体を獲得したけれど、もう世界はあの頃のように輝いては見えなくなった。私が今見上げている球体だって、同じ事だ。全く同じ物を目にしているはずなのに、その印象はまるで違う。それが、無性に虚しく感じた。

「霞」

不意に、後ろから誰かの呼ぶ声が聞こえた。私が驚いて振り返ると、そこには靄繕君が立っていた。

「はぐれると面倒だ。勝手にうろつくな」

彼はぶっきらぼうにそう言うと、私の手を取って歩き出した。一度に色々な事が起こったせいで私の頭は混乱し、何から突っ込んだら良いのか分からなくなった。

「ねぇ、さっき私の名前を呼んだ?」

取り敢えず確認。

「この人混みで『おい』と呼び掛けても誰か分からないだろ」

そうですね。ということで次の質問。

「手は繋いでいた方が良い?」

「はぐれないならその必要は無い」

靄繕君から私に触れて来たのはこれが初めてだったので嬉しかったけれど、結局気恥ずかしくなって手を離してしまった。何か、子供扱いされているみたいで心地が悪い。

「名前呼んでくれたの、初めてだね」

私が言うと、彼は「今までは呼ぶ必要が無かった」と、可愛げの無い返答をくれた。

「名前呼んでくれるのなら、絵夢って呼んで」

「何で?」

「この名前、気に入ってるの」

靄繕君は黙って頷き、私はその答えに満足して笑みを零した。

「それじゃあ、靄繕君の事は慧奴って呼んでも良い?」

「好きにしろ」

彼は投げやりにそう答えると、また黙って展示物の説明書きを読み出した。だが僅かその数分後、私はある事を思い付いて彼に誘い掛けた。

「慧奴。プラネタリウム見たい」

彼は一つ溜め息を吐くと、

「子供かお前」

と、軽蔑の念が滲んだ声音で小さく言った。だが、俯き加減のその表情に難色は見られず、その口元は諦観にも似た苦笑いを浮かべているみたいに見えた。私はそれを同意したものと解釈すると、彼を連れてプラネタリウムの入口へ向かった。先程一旦離された二人の手は、またしっかりと結ばれていた。


 長過ぎるのではないかと案じていた時間はあっと言う間に過ぎ去り、私はまだ物足りないくらいの心持ちで翡葉さんの待つ駐車場へと向かった。いつからそうしていたのかは不明だが、翡葉さんは車のエンジンをかけた状態で車内に待機していた。どうあっても外へは出ないらしい。私はちょっと意地悪をして、集合時間になっても私達が姿を現さなかったら、彼がどうするのかを試してみないかと慧奴に提案してみた。しかし、彼が「素行不良で以後外出許可が下りなくなっても知らないぞ」と、いかにも有り得そうな警告を口にしたのを聞いて不安になり、悪戯は実行に移さなかった。おとなしく同伴しない監督官殿の待つ車に乗り込むと、車内は冷蔵庫のように冷え切っていた。

「今日も施設に帰っていたんですか?」

後部座席からの問い掛けに、運転手は無言で頷いた。まあ、他に行く宛も無いのだろう。

「寒いのか?」

半袖の為に剥き出しになっている両腕をさする私を鏡越しに見ながら、翡葉さんが尋ねた。

「冷えすぎじゃないですか?」

私は彼の質問にはっきりとは答えず、曖昧な質問を尋ね返した。

「俺は暑いのが嫌いだ」

車を発進しながら、淡々と彼は答える。

「同感です」

運転席の後ろの少年が、彼の意見に同意を示した。

私も暑いのは苦手だが、この温度設定は明らかに異常だと思う。だが、二対一のこの状況で私の賛同者は誰も居ないので、口を噤むことにした。

「必要なら膝掛けを使え」

運転手のありがたい指示に従い、私は後部座席の中央に畳まれて積んである膝掛け毛布を一枚手に取って、それにくるまった。

「この前乗せた連中が、凍死すると騒いだから置くことにした」

それでも温度は上げたくないのか。

「他の連中も送り迎えだけなんですか?」

何故か妙に活き活きしている慧奴が質問する。

「そうだ」

「規約違反じゃないですか?」

「目的地までは同伴している。従って同伴義務は怠っていない。監督官は、施設居住者を無事に帰還させる責任がある。これも果たしている。一日中付いて回るのは、私生活上の自由を侵害する行為と見なされる為、独自の判断として行わない事にしている。だが、それによって今までに問題が生じた事は一度も無い」

翡葉さんの主張は、施設側からしたら許容しがたい詭弁と言えるが、居住者側には寛容で好ましい雄弁だった。彼の行動に全く問題が無いとは言えないものの、居住者の私生活にも配慮をすべきと考えるその心意気は称賛に値するように思われる。ただ面倒だから放置していたわけではなくて良かった。

「それに、少し目を離しただけで問題を起こすような輩に、外出の許可など下りるはずがない」

翡葉さんはそう断言する。彼自身、施設の出身者として様々な人間を見て来たに違いない。そんな目の肥えた彼からしたら、危険人物など一目で見分けられるのだろう。

「もし私達が戻って来なかったら、翡葉さんはどうしますか?」

興味本位で私は聞いてみた。

「放っておく」

何とも無情な回答だなと私が落胆しかけたその時、彼が言葉を付け足した。

「お前達は必ず帰って来る。他に行く宛が無い」

確信に満ちたその一言を、私は自分達に対する信頼の証だと思って胸に仕舞い込んだ。

会話を止めて、窓の外に目を向けてみる。

立ち並んだ大小様々な家々。

時折顔をのぞかせる公共施設。

田んぼ、畑、小川……その向こうに見える山々の影。

住み良い楽園ではなかったと知った今でも、目に映るその世界を美しいと私は感じる。

――私はもう一度、あの場所に戻れるだろうか?

そっと目を閉じて思う。

私はもう、あの世界から逃げ出した四年前の子供わたしじゃない。

あの世界はもう、私が知っている《楽園》じゃない。

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