第9話Mの人間観察 II
八月も中旬に差し掛かり、茹だるような暑さが続いていた。夏休みはあと半月ほど残っているが、私がやる事はもう皆無に等しかった。外出計画は好感触だったので、私は何度か靄繕君を誘って気晴らしに町へ散策に行こうと持ち掛けたのだが、彼は地獄のような陽射しと蒸し暑さを忌避して部屋から出て来ようとしなかった。それでも生存確認の為にしばしば彼の部屋を訪ねてみてはいるが、人工的に創出された涼気に毒されて自堕落になった人間が、自然に還ろうとする見込みは無い。彼は屋外へ出ようとしないばかりでなく、室内に居たところで何もしていない有様なのだ。完全に廃人と化した靄繕少年は捨て置くことにして、私は有り余る時間を潰すべく、読書に没頭した。ありがたいことに、学舎棟にある図書室は、長期休暇中でも月・水・金の週三日間解放されている。司書を含めたほぼ全ての職員が施設内に住み込みで勤務している事から考えれば、毎日開放するということも決して非現実的ではないのだが、諸経費削減の為に許可が下りないらしい。本当の事を言えば、《再教育施設》の運営費自体が浪費扱いされていて、予算の見直しを例年迫られているというのが実情だ。この調子で行くと、《再教育施設》の代替案として精神病院が浮上するのも時間の問題だ。結局のところ、何処かに軟禁されると言う点では、両者間に大した相違は無いのだから。
私は今日もいつものように図書室へやって来ると、まずは読み終えた本を返却し、それから新しい相棒を探しに書架の森へと踏み出した。最近のお気に入りは、外国語で書かれた文学作品だ。私は某天才少年と違って人並みの語学力しか持ち合わせていないから、外国語の文章を読み進める為には、辞書などを駆使しても母国語を読む時の倍くらいの時間が掛かる。大変良い時間潰しになるのだ。しばしば理解出来ない表現に出くわして立ち往生する事もあるが、ある程度調べても考えても解らない場合には、無視する事に決めている。一字一句正確に意味を把握する必要は無いのだ。辞書に載っていなくて困った単語が固有名詞だったり、作家独自の造語だったりする例はままある。それらが何か解明出来なくても、多くの場合は物語に支障を来さない。いよいよどうしようもなくなった時には、自分の部屋で転がっている人間辞書に翻訳させよう。そんなとりとめも無い事を考えながら本を探していた時、私は表紙にピアノの絵が描かれた本を見付けた。題名も作者も聞いた事が無かったけれど、私はそのピアノの絵に引き付けられて、その一冊を手に取った。丁度その時、誰かが私の方へ近付いて来た。
「霞さん、外国語の本が好きなの?」
そう言って、はっと顔を上げた私に微笑んだのは、園田先生だった。
「好きと言うか、暇潰しに丁度良いので」
「あら、そう」
園田先生は眼鏡を軽く掛け直すと、私が持っていた本の表紙に視線を移した。
「この本は、戦渦を生き抜いたあるピアニストの話よ。フィクションだけど、良く出来ているわ」
そして、懐かしそうに本を眺めながら、「学生の時にね、この本の翻訳をさせられたのよ」と恥じらうような苦笑を漏らし、だが良い本だと太鼓判を押して、私の手に本を戻した。
「先生は、お仕事ですか?」
「そうよ。会議があったの。でも、ちょうど良かったわ。霞さんに会って、相談したい事があったのよ」
「何ですか?」
「霞さん、来週は何か予定がある?」
「いいえ。特に無いです」
「それじゃあ、私と一緒に外出しない?」
突然の誘いに私は驚き、ポカンとして園田先生の顔を見つめた。先生は少し寂しそうに目を伏せると、外出に誘った理由を次のように語った。
「来週の木曜日は、玄嶺さんの月命日でしょう?私は彼女のお墓参りに行くつもりなのだけど、きっと、友達の霞さんが来てくれたら、もっと喜んでくれるのではないかと思って……」
その話を聞いた途端、私の頭の中では、爆発したみたいにメイナの記憶が溢れ出して来た。園田先生の「月命日」と言う言葉によって初めて、私は大切な友人を失ってからもう一ヶ月近くも経つのだということを認識し、何とも形容しがたい気持ちになった。メイナの事を忘れた日は、誓って一日として無かった。でも、彼女が死んでからの月日を数えた事も無かった。そんな事をしたって、虚しくなってしまうだけだからだ。私の中で分離していたメイナの死と現実の時間の経過と言う二つの概念が、今一つに溶け合って、無情にも止まる事を知らない世界の歩みを改めて私に思い知らせているような感じがした。そうしてやっと現実に目を向けた私は、かえって混乱し、しばらくの間園田先生の誘いに明瞭な返事をする事が出来なかった。園田先生は、急に黙り込んでしまった私を心配そうに見つめていた。
「そうですね。私も……メイナのお墓参りに行きたいです」
徐に私がそう答えると、先生は安堵したようにほっと息を吐いた。
「良かったら、靄繕君も誘って頂戴。出来るものならクラスの全員で行きたいのだけど、それだと監督官の目が行き届かなくなる恐れがあるから、駄目なのですって。玄嶺さんと特に付き合いがあったのはあなた達二人だと思うから、せめてあなた達だけでも来てくれると嬉しいわ」
私が「分かりました」と頷くと、園田先生は「それじゃあ、よろしくね」と念を押してから、何も借りずに図書室を出て行った。たぶん、彼女は私を探しにここへやって来ただけだったのだろう。私は胸に抱えた本の表紙をもう一度だけ見直すと、その一冊だけを借りて部屋に戻った。
すっかり引きこもりになった靄繕君を説得するのは、想像通り容易な事ではなかった。園田先生からメイナの墓参りに同行しないかと誘われた事を彼に告げると、靄繕君は案の定、「どうして俺が?」と言いたげな怪訝な顔をした。
「靄繕君もメイナと話した事はあるでしょ?」
「ある」
「それなら友達みたいなものでしょ?」
「ゲンリョウの友達はお前だろ。俺は違う」
「お墓参りくらい付き合ってよ」
「墓に行ったって当の本人は居ないだろ」
「気持ちの問題でしょ」
「俺を説得するより、園田先生の誤解を解いた方が早い」
「そうだろうけど、とにかく靄繕君はもっと外に出た方が良いと思う」
「余計なお世話だ」と返されると思ったが、彼はそう言わなかった。自覚はあるらしい。
「墓参りと言う行為に意義を見出せない」
不信心な彼は言う。
「所詮は自己満足だもの」
無感情に私は吐き捨てる。
「何らかの意義があると解釈しない限り、あらゆる現象は無意味に見えるんじゃないかしら」
彼はこの言葉を聞くと、満足げに「成る程」と頷いた。それを見た私は、彼が納得してくれたのだろうと思い、胸を撫で下ろした。だが、この曲者が何の反論も無く私に同意する事など有り得なかった。
「お前、本当に素直じゃないよな」
嗤うような彼の視線に、私は眉を顰めて彼を見た。
「一緒に来て欲しいだけなら、最初からそう言えば良いだろ」
ここに来て、彼はこれまでに私が労した説得への努力を悉く徒労にするかのような、意地の悪い一言を言い放った。
「そう言っても来てくれないでしょ?」
「まずは言ってみなければわからないだろ?」
私は内心で苛立ちを募らせつつも、表情は努めて平静を装った。私が怒りを露にしたところで、偏屈な対話相手には感興を催すだけだ。そこで、私は今までの無為な問答を一旦水に流し、最初からやり直すつもりでこう言った。
「私は、靄繕君も一緒に、メイナのお墓参りに来て欲しい」
靄繕君はふいと目を逸らすと
「別に良いよ」
あっさりと私が望んでいた返答を口にし、完全に私を拍子抜けさせた。
「何で?」
無意識に口から問いが零れ出す。
「お前のその願望を否定する理由が俺には無い」
あぁ、そうか。つまり彼は何事に関しても無関心であるが故に、他人の願望には干渉しないのか。誘い掛けられた場合の決定権は自分側にあるから自分で答えを選択するけれど、他人が述べたその人自らの願望の場合は、そもそも問い掛けではないのだから何も返答出来ないと言う理屈なのだ。更に言えば、願望は直感的であって論理的に説明しようがない代物だから、それを論う事も出来ないわけだ。
「それじゃあ、誰かの希望だったら、靄繕君はその内容が何であれ実行するの?」
「不本意だがそうなるな」
これは良い事を聞いたとほくそ笑む私をよそに、靄繕君は抑揚の無い調子でこう言った。
「大体、俺がいつ『行かない』と言った?」
園田先生の話によれば、火葬に付された後のメイナの遺灰は、寿杜芽市内にある霊園の一角に建てられた小さな墓の中に収められているとの事だった。彼女の棺が火葬場へと運ばれる直前に、施設内では細やかな告別式がしめやかに営まれた。メイナのクラスメイトである高等科の生徒達全員と数名の教職員達、その他にも、彼女にピアノを習っていた生徒達や、面識のあった居住者達、施設職員達がその式に参列した。棺の中に横たわった彼女の顔は、非常に穏やかだったのを今でもよく覚えている。許可無く施設の外へ出られない私達が彼女を見たのは、その時が最後だった。棺は園田先生を筆頭とした数人の施設職員らと共に施設を後にし、以後どうなったのかは彼ら以外に知る者はいなかった。
「靄繕君も来てくれて、本当に嬉しいわ」
園田先生は両手で車のハンドルをしっかりと握ったまま、鏡越しに後部座席に座った靄繕君の顔を一瞥した。靄繕君は何も言葉を返さず、つまらなそうに車外の風景を眺めていた。
「今日の監督官は、園田先生なんですか?」
「そうよ。私だって施設の職員だし、あなた達の担任教師でもあるもの。適任でしょう?」
先生は戯けたようにそう言うと、真相は単なる経費の削減だと明かして苦笑した。今回の外出は、彼女の私的な用事に施設内の未成年者二名が同行するということになっており、厳密に言えば私達の外出とは見なされていないのだと言う。その為、私達を連れ出した全責任を園田先生が負う形になっているらしい。そういう事にしておけば通常の外出申請よりも手間が掛からないし、わざわざ監督官と言う部外者を同行させなくても済む。当然のことながら、園田先生の私的用件に賃金が支払われる事も無い。
「時々こんな風にして出掛けてみるのも、良いかしらね」
前を見つめたまま微笑む園田先生に、私は「そうですね」と笑って同意した。
施設を出発してから一時間半ほど経った頃に、私達は目的地に到着した。暗色の墓石が整列するその異様な光景を目にした時、真夏の熱気は一瞬にして影を潜めた。霊園内には私達の他にも人影が散見されたけれど、一様に沈黙し、陽炎に揺れ動くその影は、まさに幽霊そのものだった。初めて足を踏み入れる異界に対し、私は少しだけ躊躇いを感じた。幽霊の存在は信じていなかったが、何となく、この場所は嫌な雰囲気に包まれていると肌で感じていた。しかし、他の二人の方は全く平気そうな顔をして、足取りも軽く墓石の林の中へと分け入って行く。私は園田先生に持たされた花束を胸に抱え、妙な居心地の悪さに耐えながら、二人の後を追って行った。やがて先頭に立って私達を導いていた園田先生が足を止めると、私の方へ振り返って手招きをした。彼女の面前には、【玄嶺芽以菜】の名が刻まれた、黒い墓標が佇んでいた。
「玄嶺さん、お久し振りね。今日は、霞さんと靄繕君も来てくれたのですよ」
物言わぬ石にそう挨拶を済ませると、園田先生は私の背中を軽く押して、次の番だと促した。私は抱えて来た花束を墓石の前に手向けると、姿勢を正して墓の前に立った。
「メイナ。メイナがいなくなってからの毎日は、正直退屈だよ。また一緒にピアノが弾けたら良いのになって、いつも思ってる。でも、私はメイナが自分で下した決断を、間違いだとは思わない。だから……もう今は、何も悩まないで、安心して眠っていて欲しい。私は、ずっと、メイナの事を忘れたりしないよ」
【ありがとう】も【ごめんね】も【さようなら】も、どれも私には違う気がした。園田先生は私の言葉に胸を打たれたのかしんみりとなり、それを紛らわすかのように、ぎこちない微笑を浮かべて靄繕君も何か一言言うようにと勧めた。無感動な彼は促されるがままに墓の前に据えられると、ただ一言「ご冥福をお祈りします」と慣例に従った定型句を淡々と述べ、どうだと言わんばかりの顔で園田先生を振り返った。先生はあまりにも彼らしい行動に苦笑いを浮かべていたが、諫めるでもなく受け流した。
「それじゃあ、帰りましょうか」
園田先生の一声を合図に、私達は再び元来た道を辿る事にした。行きと同様に最後尾となった私は、歩き出した二人の背中から目を転じると、もう一度メイナの墓の方へ視線を向けた。無人となった墓の前には、私が横たえた花束がぽつんと取り残されているだけだった。物悲しいその情景を目に焼き付けると、私は先行する二人に勘付かれないように急いで後を追った。
施設へと向かう車の中で、園田先生は言った。
「本当はね、お墓の中には誰も居ない事なんて、きっとみんなわかっているのよ。私だってそう。でも、お墓と言うものに死者を結び付けておかなければ、私達は死者を偲べないでしょう?何らかの形を与えておかないと、消えてしまいそうで不安なのよ。私達は死を恐れているのではなくて、忘却を恐れているのでしょうね。自分の大切な誰か、或いは自分自身が忘れられてしまう事が、堪らなく恐ろしいのよ。だって、存在が忘れ去られてしまったら、存在した事さえ証明出来なくなってしまうもの」
先生がそこで一度言葉を切ると、寝たふりをしていた靄繕君が目を閉じたままで口を開いた。
「つまり、園田先生は、俺達にゲンリョウを忘れて欲しくないんですね?」
「正解」
先生は嬉しそうに笑うと、
「遺灰が入った墓石を見た時だけでも、彼女の事を思い出してあげて頂戴」
と優しい口調で言い、その直後に、「霞さんは心配無いけど」と冗談めかして付け足した。
――園田先生は、何も知らない。
彼女のにこやかな横顔を見つめながら、私は心の中に呟いた。
園田先生は、私とメイナの間に起こった出来事の真相を知らない。彼女が知っているのは、私がメイナの親しい友人だったと言う表面的な事実だけだ。もし、メイナがあの時私に何を依頼し、私がそれに対してどう応えたのかを知ったのなら、それでも先生はこうして隣で笑っていてくれるだろうか?きっと、そんな事は出来ないだろう。
私は玄嶺芽以菜の事を決して忘れない。忘れたいとも望まないし、忘れる事など出来はしないのだ。
――私はこのままずっと、善良で温厚な園田先生に、嘘を吐き続ける事になるんだろう。
そう思うと、急に胸が苦しくなった。
私が園田先生よりも先に死んだら、先生が思い出すのは偽りの優等生である私の姿だ。果たしてそれは、私が存在した事を本当に証明していると言えるのだろうか。メイナの場合だって同じだ。
――結局は、死んだら本当の自分なんて何処にも残せない。
だからこそ人は、死を恐れるのではないだろうか?
施設の前で私達を車から降ろすと、園田先生はそのまま寿杜芽市内の自宅へと帰って行った。私は靄繕君と並んで、黙って歩いた。どちらも口を開こうとしなかったし、目も合わせなかった。普段なら共用棟一階のホールで別れるのだが、私は自分の部屋へは戻らず、彼に付いて行った。何となく、独りになりたくなかった。靄繕君がこの事に対して文句を言って来るかと思っていたが、予想に反して、彼は無言のままだった。こうして訳も無く靄繕君の部屋に上がり込んで腰を下ろすと、漸く彼が言葉を口にした。
「ゲンリョウの事、後悔してるのか?」
開口一番の彼の一言は、全く予期しないものだった。
「後悔は、してる」
私は答えた。
「誰かが死ぬ事が、こんなに寂しい事だとは知らなかった。私はただ、メイナが自分で決めた事を尊重してあげたいと思っただけだった。だって、私達は誰かの都合で勝手に生み出されて、生きるように命じられているだけでしょう?死ぬ時くらい、自分の意思で決めて何が悪いの?私達が本当に自由な存在なら、生きる事も死ぬ事も自由なはずよ。だから、メイナは間違っていない。でも、私の選択は間違えていたんでしょう。もし今の心境があの時の私に予測出来ていたのなら、私は彼女の意見に賛成はしなかった。でも、もしそうだったとして、私はメイナに何がしてあげられた?メイナを止めて考えを改めさせる事が、本当に彼女の為になったの?それは、私の身勝手な願望を、ただ彼女に押し付けただけにはならなかったと言えるの?」
彼は言う。
「両者を救う術が無いのなら、一方を犠牲にするしかない。そう考えるなら、お前の選択は正しかったんじゃないか?」
その瞬間、私の両目から涙が零れ落ちた。
突然の事態に驚いた靄繕君は、言葉を失って私を見つめていた。私は無警戒になっている彼の傍へ近付くと、無防備なその胸に顔を埋めた。
――私は正しかった……?
半信半疑で自問する。心は何も答えてくれなかった。代わりに、規則正しく脈打つ靄繕君の鼓動の音だけが、静寂の中に一際大きく響いて聞こえた。
「どうすれば良い?」
不測の事態に当惑した靄繕君が、身動ぎ一つせずに尋ねる。
「もう少しだけ、このままでいて」
彼の背中に手を回しながら、私は答える。
「もし嫌じゃなかったら、抱き締めて」
言いながら、私は更に強く彼の胸に顔を押し付けた。想像以上に温かい彼の体温が、夏にも拘らず心地良く感じた。彼はしばらくの間そのままの状態で停止していたが、やがてゆっくりと両手を持ち上げると、ぎこちない仕種で私の身体を包み込んでくれた。
お母さんとお父さん以外の誰かに抱き締められたのは、靄繕君が初めてだった。
「良かった」
「何が?」
「ちゃんと生きてる」
大きな安心感に包まれて、私の涙はいつの間にか止まっていた。
――人の温もりって、こんなにも安心出来るんだ。
気分が落ち着いて行くのを実感しながら、私はずっとこうしていたいと密かに願っていた。だから、もう涙が止まっている事を悟られぬように顔を俯けて、彼の鼓動に耳を澄ませていた。
「……暑い」
耐えきれなくなった彼が私を突き放したのは、僅か数秒後の事だった。
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