第7話施設での非日常 II

《再教育施設》内にある教育機関にも、夏季休暇と年末休暇が存在する。生徒達は平日の授業から解放され、一定期間を自分達の好きなように過ごす事が許されるのだ。この空白期間が設けられているのは、多忙な教員側への配慮でもあり、生徒達の自主的な活動を助長する為でもある。その意図とは裏腹に、何の予定も無い大半の生徒達にとっては単なる苦行期間だが、この時期を狙って外出許可を申請してくれるお利口さん達も幾らかいる。外泊は許可されていないが、日中に監督官同伴で出掛ける事は可能なのだ。

「靄繕君。海行こうよ」

「何で?」

「夏だから」

「理由になってない」

「じゃあ、夏以外にいつ海に行くの?」

「いつでも行けるだろ」

陽射しもすっかり強くなった八月初頭、私はミスター無関心をどうにかして外へ連れ出そうと、徒な交渉を続けていた。メイナが死んで以来連れを失った私は、事あるごとに靄繕慧奴の棲家を襲撃し、彼に煙たがられている。彼はいつも心底面倒臭そうな顔で歓迎してくれるのだが、近頃はこの鬱陶しい来客にも慣れて来たらしく、適当なあしらいが上手くなって来た。私の方はと言うと、部屋に上がり込むなり、勝手に冷蔵庫を開けて飲み物を頂戴する始末だが、これに関しても今や黙認状態である。私の靄繕慧奴に対する非常識な振る舞いは枚挙に遑が無い為、彼も逐一指摘するのが億劫になったのだろう。言うまでもないが、私は根っからの非常識な人間ではない。ただ、何故か靄繕慧奴に対してだけは、自分でも不思議なくらい傍若無人に振舞ってしまう。たぶん、そうしても彼は何も気にしないと思っているからだろう。我ながら実に失礼な奴だ。

「本当に、全く外に興味が無いの?」

「無い」

ベッドの上で背中を向けて寝転がったまま、彼はぶっきらぼうに吐き捨てた。

「私は海に行きたいなぁ」

「行けよ。一人で」

「一人で行ってもつまらないでしょ?」

「監督官が付いて来るだろ」

「それは同行者に含まないわ」

「知るか」

私はこの時、メイナを失った事を心から後悔した。

「大体お前、何でいつも俺の部屋に来る?」

「それなら靄繕君が私の部屋に来る?」

「行かない」

「ほらね。それじゃつまらないもの」

「俺は一人の方が良い」

「だから毎日は来ないじゃない」

無益な押し問答に嫌気が差した靄繕君は、大きな溜め息を吐くと、むくりとベッドから起き上がった。

「頼むから新しい依存対象を探してくれないか?」

「無理ね。他の子達は面白くないもの」

即答でそう答えた私を、彼は酷く不満そうな眼差しで睨みつけた。私は気にせずコップに注いだ麦茶を一気に飲み干すと、立ち上がって言った。

「良いわ。それじゃあ一人で楽しく夏を満喫するから」

そして、飲み終えたコップを流し台に置き、そのまま玄関へと向かった。

「ご機嫌よう」

振り向きざまに垣間見えた彼の表情は、呆気に取られているようだった。


 靄繕君の部屋から帰る途中、私は一組の男女とすれ違った。その顔を何処かで見た気がして振り返ってみると、同様に感じたのか、あちらも振り返ってこちらを見ていた。

――ああ、いつだったかランドリーコーナーで立ち話してた二人だ。

私は直ぐにそう思い出したが、二人の方はそうでもなかったらしく、おどおどと会釈だけすると、足早にその場から去って行った。

――ふぅん。

彼らの後ろ姿をしばし見送ると、私も方向を転じて自分の部屋への道を急いだ。


 それから数日後、奇跡が起きた。何と、あの出不精の靄繕慧奴少年が、わざわざ私の部屋を訪ねて来たのだ。私は突然の異常事態に頭が真っ白になり、しばらく状況が理解出来なかった。炎天下での立ち話もどうかと思い、ひとまず彼を部屋の中へ招き入れてはみたものの、それからどうしたら良いのかが全く見当も付かなかった。自分でも驚いてしまうくらいに、私は気が動転していた。

「靄繕君が訪ねて来たの、初めてだよね?」

「まぁな」

珍客に冷たい麦茶を勧めつつ、私は彼の反応をうかがった。無駄な行動を一切忌避する彼のことだから、ここへ来たのにも何か理由があるはずだ。

「何か用?」

「お前、海に行きたいんだろ?」

「そうだけど」

「じゃあ行くか」

「え?!」

私は驚きのあまりに、思わず左手に持っていたコップを落としそうになった。遂に暑さで頭がやられたのだろうか……。私は彼が正気なのかを見極めようと慎重に彼の顔を覗き込んだが、その顔はいつも通りの無表情で、吸い込まれそうな黒い両目には、不審そうに顔色をうかがっているマヌケな私の姿が映り込んでいるだけだった。「何で急に?」と尋ねようとしたその瞬間、靄繕君が再び口を開いた。

「お前、青海ヶ浦おうみがうらの施設の出身なんだってな。それで海が好きなのか?」

予期せぬ質問を投げ掛けられた私は一層困惑し、狼狽えた。

「そうだけど……。どうして、それを?誰から聞いたの?」

「園田先生」

彼の返答を聞くと同時に、あらゆる謎が解けた。

「随分お前の事を心配してたぞ。『霞さんはああ見えて寂しがり屋な所があるから、仲良くしてあげてくださいね』と釘を刺された」

「園田先生が、私を連れて海へ行けって言ったの?」

「お前は海が好きだそうだから。ついでに言うと、俺は海に行った事が無いしな」

「先生……」

園田先生らしいお節介だとは思ったが、何だか少し気恥ずかしい気分になった。

「流石は優等生。先生の言う事は素直に聞くのね」

私は自分の気持ちを隠そうと咄嗟に当て擦りを言ったが、靄繕君は全く意に介さなかった。

「一度くらい海を見てみるのも、悪くはないだろ」

彼が言ったその一言の裏には、子供のように純粋な好奇心が見え隠れしているような気がした。経緯はともあれ、当初の希望通りの外出が叶えられることになり、私は嬉しくなった。【メイナも一緒だったら】との思いが一瞬胸をかすめたが、その思いは直ぐに掻き消した。メイナの居ない生活を選んだのは、私自身なのだ。実際に彼女を失った今がどれだけ辛くても、寂しくても、私はそれを受け入れなければいけないのだ。

「それじゃあ、いつ何処に行くのか決めて、外出申請書を書かなきゃ」

沈みかけた不安定な気持ちを振り払うように、私は一際明るい声でそう告げた。


 外出申請書は一週間ほどで無事に受理され、私と靄繕君は、お互いにとっても初めての外出に繰り出すこととなった。そんな私達の監督官に任命されたのは、施設の出身者であると言う、翡葉ひばこうと言う男性だった。彼は長身で体格が良く、靄繕君よりも無口だった。容貌は異国人風で、殆ど白銀に近い金色の髪と、綺麗な翡翠色の目をしていた。恐らく、彼の両親となった人物には、外国の血が混ざっていたのだろう。私達は、彼の運転する車で海を目指した。私が幼少期を過ごした青海ヶ浦は、ここからでは往復で六時間以上もかかるので断念し、近くの海水浴場へ向かう事に決めた。道中、車内はまるで無人かと思われるほどに静かだった。私は寡黙な二人に色々話し掛けてみていたが、会話はテンポ良く続かず、やがて口を閉ざして車窓の風景に目を遣った。靄繕君も最初は車窓の風景を興味深そうに眺めていたが、代り映えのしない田舎の景色に飽きたのか、その内に寝たふりを始めて動かなくなった。そんな調子で黙々と車は走り続け、目的地の海水浴場に到着した。

「着いたぞ」

翡葉さんの唸るような低い声を合図に、私と靄繕君は車の外へ出た。クーラーの効いた車内に居たせいで、外は一層蒸し暑く感じた。靄繕君は灼熱の日照りから逃れるように日陰へ向かって歩き出したが、私はふとある事に気付いて足を止めた。

「翡葉さんは来ないんですか?」

何故か一向に車の中から出て来ようとしない翡葉さんに向かって、私は叫んだ。

「行かない」

運転席側の窓から顔だけを出すと、彼は簡潔に言った。

「俺は海に用事が無い。ここを出発する時間は十六時だ。その頃に迎えに来る」

そう言うと、彼は私が何かを言い返す間も与えずにエンジンをかけ、無責任にも走り去ってしまった。

「流石施設出身者」

私は呆気に取られたまま呟くと、人混みに紛れて既に見失いかけていた靄繕君を探しに走り出した。


 海水浴シーズン真っ直中とあって、浜辺は沢山の人々に埋め尽くされていた。誰もが浮き輪などを抱えて海の中ではしゃいでいるか、浜辺に寝転んで太陽の恵みを享受している。そんな中、ただ日陰から遠巻きに海を眺めているだけなのは、たぶん私達二人くらいだろう。

「海に入らないのか?」

気怠そうに靄繕君が尋ねる。

「水着無いもの」

遠くを見たまま私は答える。

「じゃあ何で来た?」

「ただ海を見て、潮風を浴びたいと思っただけ」

「それなら夏じゃなくて良いだろ」

「じゃあこのまま入る?翡葉さんに迷惑掛けるよ?」

「そう言えばあの人何処行った?」

「車で何処かに行ったよ?後で迎えに来るって」

靄繕君はそう聞くと、呆れたように溜め息を漏らした。

「まぁいっか。折角だから海入ろう!」

「行ってらっしゃい」

「何言ってんの?靄繕君もでしょ」

「……正気か?」

「『何で海に入らないのか』って聞いたのは、靄繕君だよ?」

彼はあからさまにそう言うつもりではなかったと言う顔をしていたが、私は構わずに彼の右手を掴んで波打ち際まで連行し、潮水の中に引き倒した。彼はしばらくそのまま硬直していたかと思うと、突如として立ち上がり、報復とばかりに今度は私を海水の中に沈めた。

「お前のせいだ」

砂塗れになった両手を見せつける彼の表情は、心なしか笑っているように見えた。


 私達は思いの外海辺で戯れ合った後、濡れた服と髪を乾かす為に、また浜茶屋の軒先が提供する日陰へと戻った。あの面倒臭がりで何事にも関心が無いはずの靄繕君が、私とのこんな戯れに付き合ってくれたのは正直とても意外だったし、それと同時にとても嬉しかった。

――いつか、靄繕君が心から笑っている顔を見てみたいな。

またいつもの無表情に戻った彼の横顔を見つめながら、私はそんな事を思っていた。

施設暮らしが長い子供達には、感情表現が乏しい傾向があると、園田先生に聞いた事がある。恐らく、閉鎖された環境下で暮らしていることに加え、どのような事態に対しても取り乱さず、平常心を保って的確な判断が下せるようにと教え込まれるせいだろう。施設の中では、そもそも楽しい事も、悲しい事も、怖い事も滅多に起こらない。変化の無い日々が、ただ漫然と過ぎて行くだけなのだ。そんな生活を続ける内に、感情が表に出なくなって行く。感情を表現する事に意味が無くなってしまうからだ。しかし、だからと言って完全に感情が消滅するわけではないはずだ。一見無表情で無愛想に見える靄繕慧奴にだって、確かに感情はあるはずなのだ。もしそんな彼の感情の動きを、表情から読み取る事が出来るようになったなら、彼の存在はもっと人間味を増して、魅力のある印象になるに違いない。私はいつか、そんな人間らしい靄繕慧奴を見てみたい。彼が笑い、泣き、怒り、悲しみ、そんな当たり前の感情を憚りなく表現している傍で、同じ思いを共に感じてみたい。根拠は何も無いけれど、彼はきっと、そんな風に変わる事が出来ると私は信じている。今回の外出で、ほんの少しだけ、その思いは確信に近付いた気がするのだ。

「初めての海はどうだった?」

「まあまあ」

私の期待とは裏腹に、彼の第一声はいつも通りのつれない返答だった。しかし、それから少しの間口を噤んだ後、彼は再び口を開いた。

「だが、無意味な時間がこんなに楽しいと思ったのは、今日が初めてだ」

その一言は、私にとって最高に嬉しい感想だった。

「外の世界も悪くないでしょ?」

「どうかな」

「良かったら、また一緒に外出しない?」

「考えとく」

心地良い潮風が、並んで座った二人の間を吹き抜けて行った。


 約束の十六時丁度に、翡葉さんは何処からともなく現れて待っていた。その頃には服も髪もすっかり乾いていたけれど、染み付いた潮の香りがほんのりと海の残り香を漂わせていた。

「翡葉さんは何処に行っていたんですか?」

「施設に帰っていた」

「誰かに見付かったら怒られますよ?」

「誰にも見付からなければ問題無い」

キビキビと答える翡葉さんの態度に、私は思わず笑ってしまった。

「翡葉さんて、靄繕君に似てますね」

「俺の方が年上だ」

「施設の連中なんて、みんなこんな喋り方だろ?」

「いや、何か変に自信満々に答える所とか」

「事実を述べているだけだ」

「そういう理屈っぽい所とか」

「お前が変わってる」

最後は二人同時に同じ口調で同じ言葉を発したので、まるでロボットの音声みたいだった。私は堪えきれずに大笑いしていたが、二人はむっとした様子で黙りこくっていた。


 施設に到着して翡葉さんと別れると、私と靄繕君は居住棟へ向かって歩き出した。

「今日は、付き合ってくれてありがとう」

隣を歩く無愛想な彼は何も言わなかったが、私は気にせずに喋り続けた。

「本当は、メイナが居なくなってから、結構寂しかったんだ。また誰かと、あんな風に一緒に過ごしたいなって思ってた。でも、そんな相手は他に誰も居なくて……。迷惑なのは解ってるけど、私には靄繕君しかいなかったの。靄繕君はいつも仏頂面だし、皮肉屋だし、面倒臭がりだし、他人になんて全く興味が無いけど、それでも、何だかんだ言っても、私を拒絶しないで受け入れてくれる。そういう優しい所があるのを知ってるから、つい甘えてしまうんだけど……」

私はそこで一度足を止めると、思わずつられて足を止めた彼の正面に向き直った。

「私はもっと、靄繕慧奴の事が知りたい」

私達の両目は真っ直ぐにかち合ったまま、鏡の如くお互いの姿を映し合っていた。靄繕君は目を逸らす事無く私の眼差しを受け止めると、しばらくそのまま何も言わずに私を見つめていた。どうやら、突然の告白に動揺し、どう答えたら良いのかが分からなくなっているようだった。だがやがて、彼は静かに口を開いた。

「お前、面白い奴だな」

そう言った彼の表情に変化は無かったが、その言動に否定的な態度は現れていなかった。しかし、私がその事に安堵したのも束の間、彼は続けて余計な一言を付け足した。

「初めて会った時から、変な奴だとは思ってたけど……」

言いながら目を逸らす靄繕君に、私は透かさず口を挟もうとした。だが、その時彼は、

「俺も、霞絵夢と言う人間に少し興味が湧いて来た」

俄かには信じ難い言葉をさらりと言ってのけて、私の口から声を奪った。私は全く予期していなかった展開に混乱し、茫然と彼の顔を見つめた。彼はそんな私の困惑ぶりを見て取ると、目元を細めて微かに笑った。それは、私が見て来た中で、一番美しいと感じた微笑だった。

「今、笑った?」

「そうか?」

「笑ってたよ」

無自覚なのか恍けているのか、彼ははぐらかしてまた歩き出し、私は慌てて彼の後を追った。楽しかった一日の幕切れを、沈み行く夕陽が遠くで告げている。居住棟のホールまでやって来ると、私達はここで別れて各々の部屋へ戻る事にした。

「今日は本当に楽しかった。ありがとう!!」

最後に、私は自分とは反対の北棟へ戻る靄繕君に、笑顔で大きく手を振った。

「よく笑う奴」

彼はそう言うと、申し訳程度に小さく右手を上げて別れの意を示し、部屋へと戻って行った。私は彼の背中が消えるまでずっと見送ってから、名残惜しくも部屋へと戻った。

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