第6話施設での非日常 I

 季節は変わり、夏が来た。

園田先生の奮闘も虚しく、休日の学舎棟利用は許可されなかったが、それでも私とメイナは平日の放課後に一緒にピアノと戯れる時間を楽しんでいた。二人だけで始めた細やかなレッスンのつもりだったが、思いがけずにも聴衆が時折姿を見せるようになった。どうやらメイナの演奏に心を打たれた園田先生が、他の生徒達にも彼女の話を広めたらしい。そのお陰で、放課後の音楽室にはその話に興味を持った生徒達や居住者達が、僅かではあるが訪れるようになった。そのせいで私達のレッスンは少しやり辛くなってしまったけれど、小さなピアニストには少しだけ生徒が増えた。メイナ先生は俄然多忙になった状況に困惑しつつも、その分充実した日々を過ごせているように見えた。

 そんなある休日の昼下がりに、メイナが私の部屋を訪ねて来た。すっかり仲良くなった彼女が部屋に遊びに来るのは今や珍しい事ではなかったから、私はその日も何の気も無しに快く友人を迎え入れた。しかし、メイナの表情は明るくなかった。彼女は申し訳なさそうに小さくなってベッドの脇に正座すると、彼女の態度に違和感を覚えて怪訝な顔をしている私の顔色をうかがうみたいな眼差しをこちらに向けて来た。

「どうかしたの?」

私は心配になって、彼女に尋ねた。メイナはその問い掛けに対して何も答えずに目を逸らすと、顔を俯けた。さらりと揺れる涅色の髪が、彼女の表情を覆い隠した。それだけでもう、彼女がここに来た理由が良いものではない事は明らかだった。

「……絵夢に……相談が、あって……」

蚊の鳴くような声をやっとの事で絞り出すと、メイナは再び顔を上げて私を見ようと試みた。でも、彼女の頭は上方へ少し持ち上がっただけで、また力無く地面の方へと揺れ動いた。

「相談って、何?」

私は彼女の正面に座ると、細い両肩を掴んでその顔を覗き込んだ。

彼女は、涙を流していた。

「わたし……やっぱり、ムリなの……っ。頑張ったけど……頑張ってるけど……でも、どうしても……」

途切れ途切れの言葉は曖昧で、私には何の事なのか即座に理解出来なかった。だが少し考えて、私は彼女がピアノのレッスンの件で悩んでいるのではないかと思い付いた。

「無理しなくて良いんだよ。嫌ならやめれば良い。みんなだって、解ってくれるわ」

「……そうかなぁ?」

「そうだよ」

「絵夢は、怒ってない?呆れてない?わたしのこと……」

「そんなわけないでしょ。メイナは頑張って来たもの」

「でも、わたし、自分でそうする勇気が無くて……」

「それなら私が手伝うよ。出来る事があったら、何でも言って」

「本当に?」

「もちろん!」

メイナは安堵の顔色を浮かべると共に、少しだけ名残惜しそうな顔をした。そして、「それじゃあ……」と言いながら、何故か二つに結った私の髪の一房を手に取ると、

「この綺麗な髪で、わたしの首を絞めて殺してくれない?」

全く予期していなかった、衝撃の依頼を口にした。

「……え?……」

忽ち和やかになった空気は凍りつき、私は絶句した。

「ダメ?」

返答を迫るメイナの目には、不安と疑いの色が滲んでいる。

「何の話?」

この時になって漸く、私達の先ほどの会話には齟齬があり、そこで至った合意は不当なものだった事に双方が気付いて愕然とした。

「相談て、放課後のピアノの事じゃないの?」

「違うよ!!それについて何を相談する事があるの?」

メイナはむっとして少し声を荒げると、頓珍漢な早とちりをした私に蔑むような冷たい一瞥をくれた後、大きな溜め息を吐いた。それからしばらくの間、私達は口を開かなかった。

「メイナ。一つだけ、聞いても良い?」

「何?」

「どうして、急に決心したの?」

メイナは「急なんかじゃないよ」とぽつり呟くと、目を伏せたまま話し出した。

「この施設に来る前ね、手首を切ったの。でも、怖くて全然深く切れなかった。そんなことなら、いっそ高い所から飛び降りたり、電車に飛び込んだりすれば良かったんだけど、どれも出来なかった。わたしはたぶん、あちら側の世界に居すぎたんだと思う。でもね、あちら側は結局わたし達の居場所じゃないし、どれだけ長く住んでいても、きっと居心地の良い場所にはならないと思う。絵夢だって、それはわかるでしょ?施設の中で、労働力と生産力のためだけに作り出されたわたし達が、それを知りながら、一体どうやって人生を楽しめるって言うの?わたし達は、んじゃない。だけ。そんなの間違ってる。そんな不条理な生物なんて、存在していてはいけないと思う。それなのに、死ねもしない。わたし達に自由なんて何も無い。だからと言って、自分の人生に絶望したわけじゃないよ。あちら側での生活は幸福そのものだったし、こちら側での生活は、絵夢のおかげですごく楽しかった。でも、それだけじゃあ死への欲望を忘れることは出来なかったの。わたしは、自分がこの世界に存在し続けてもいいと言う理由を見つけられなかったの」

そう語る彼女の眉に苦悩の影は無く、目に涙は滲んでおらず、唇は淀みの無い言葉を発していた。その毅然とした彼女の有様が、一層惨めで虚しい印象を強めているように感じられた。

「止めないよ。メイナは私の大切な友達だから」

私が何の躊躇も無く下したこの決断を、楽園の人々は理解しないだろう。

人でなしだと私を非難し、罵倒するだろう。

でもそれは、所詮自死を真剣に考えた事が無い人達が主張する綺麗事に過ぎない。

本来なら、自ら命を絶つと言う行為は異常行動だ。だから敢えてそれを試みようとする者達を危惧し、その行為に嫌悪感を抱くのは極めて正常な反応だと言えるのだろう。だけど、その理屈は《特別出生児わたしたち》には通用しない。《特別出生児わたしたち》は、誕生の過程からして既に不自然な存在なのだから、自然の摂理に従って生きられるはずがないのだ。きっとこの世界は、人間と言う種族だけがこのようなやり方で自分本位に増殖する事を許容しなかったのだ。

「ありがとう、絵夢」

メイナの小さくて温かい両手が、私の脱力した両手を取って包み込む。

「絵夢と出会えて、本当に良かった」

彼女の頬には、いつの間にか涙の雫が伝っていた。

私は何も言えないまま、自分の両目からも絶え間無く感情が零れ落ちて行くのを、ただじっと感じていた。そして、二人で向かい合って座っていながら、この想いは同じであって欲しいと心の内で祈っていた。

その日以来、放課後の音楽室からピアノの音が響く事は無くなった。


 玄嶺芽以菜の死は、不審死として警察に捜査されることになった。彼女と関係があった居住者達や生徒達、職員達に事情聴取が行われたが、誰の証言からも彼女の死の謎を解く鍵は見付からなかった。メイナの親しい友人であった私の証言には殊に注目が集まっていたようだったけれど、私はあの日の真相を一切口にしなかった。そうする事が、メイナとの最期の約束だったのだ。思うように捜査が上手く行かないと悟った警察は、ややもすると匙を投げ、未解決の謎を残したままで彼女の死を自殺であると結論付けた。彼女の死因は頸部を圧迫された事による窒息死と断定されたが、問題の【首を絞めたはずの何か】が何であるのかは判らず仕舞いに終わった。その決定的な何かが見付からないが故に、この事件は当初他殺と考えられていた。しかし、凶器は発見されなかったが、メイナが直筆で綴った遺書は見付かった。そうした事情から、玄嶺芽以菜の死は謎多き自殺として処理する他は無くなったのだ。更に言えば、仮にこれが殺人事件だとして世間に公表されたとしても、【《再教育施設》内で殺人が起きた】と言う不名誉な話が巷間に広まって、施設とそれに関連する政策に更なる批判が噴出するだけだ。そんな面倒なことになるくらいなら、【施設の監視の目を潜った未成年が一人自殺した】という事で決着する方が、ずっと穏便に事を終えられる。どの道そんな情報が外部へ漏洩する事は有り得ないのだが。

「みなさんも知っている方は多いと思いますが、玄嶺芽以菜さんが亡くなりました」

メイナが死んで数日経った頃に、園田先生が沈鬱な表情で生徒達に彼女の死を報告した。

「心臓発作だったそうです。こんな風にして、突然命を失ってしまった玄嶺さんに、みんなで一緒に黙祷を捧げましょう」

先生はそう言うと、「黙祷」と唱えて目を瞑り、顔を俯けた。

園田先生が嘘を吐いたのは、自殺と聞いた生徒達の間に動揺が広がらないようにする為だった。同様の措置は、施設内全体でとられている。本当の死因を知っているのは、恐らく私と園田先生だけだろう。

「心臓の発作ねぇ」

不謹慎にも黙祷をしなかった靄繕君が、不敵な微笑を浮かべながら呟いた。

「何かおかしい?」

「いや、そのまんまだろ」

「それなら黙祷ぐらいしてあげなよ。メイナの事は知ってるでしょ?」

「解放された奴に何を祈る?もう何の関係も無い」

「薄情な人」

「それよりお前、髪切ったのか?」

「そうだけど……何で?」

「何の為に切った?」

「……メイナに、あげたのよ。あの子、私の髪をよく褒めてくれたから」

「それはそれは。良いお友達だな」

会話はそこで終わり、彼は何事も無かったかのようにワーク学習を始めた。私は何事にも興味の無い彼がどうして私の髪になど言及したのかを不審に思いつつも、気を取り直して自分の勉強に取り掛かった。


 園田先生は、メイナの一件で私が意気消沈してはいないかと、随分気に掛けてくれていた。だけど、メイナが死んで辛そうなのは、私よりも園田先生の方に見えた。先生は、この施設に来て間も無いメイナがこんなことになってしまった事を嘆き、彼女に何もしてあげられなかった自分を責めていた。私は寧ろ、そんな生真面目で心優しい先生が精神的に参ってしまうのではないかと不安だった。

 放課後になると、私は暇潰しの本を借りる為に図書室へと向かった。そこでしばらく気になる本を探してから帰る途中に、夕暮れの校舎内に響く、あの物悲しい楽器が奏でる音色を耳にした。私は本を胸に抱えたまま、思わず駆け出した。

「メイナ?!」

駆け込んだ先にその姿があるはずのない事など知っていたのに、私は彼女の名前を叫んでいた。放課後の静まり返った音楽室と、窓から差し込むオレンジ色の夕陽は、私が初めて彼女と話したあの日と全く同じ光景だった。ただ、ピアノの前に立っている人物だけが違っていた。

「私、ピアノ弾けないのよねぇ……」

そう言って寂しそうに笑ったのは、園田先生だった。

「霞さんは、弾けるようになった?」

「少しだけ」

私が自信無さげにそう答えると、園田先生はいつものようににっこりと笑って、

「弾いて頂戴」

と、ピアノの前に私を招いた。私は一つ深呼吸をすると、ぎこちない手つきである曲を弾き始めた。演奏している最中、私の頭の中で絶えず流れていたのは、小さなピアニストが弾いてくれた流麗な旋律。

――上手になったね、絵夢。

いつもきまって褒めてくれた、あの優しい声と、屈託のない笑顔が蘇る。

意識は過去へと引きずられ、指先は制御を失って更に乱れた。知らぬ間に零れ落ちた生温い雫が右手の甲に触れた時、私は驚いて手を止めて我に返った。茫然とした状態で振り向いてみると、園田先生が拍手をしていた。

「素敵よ。ありがとう」

園田先生はそう言うと、私の頬に伝った涙の跡を、ハンカチでそっと拭ってくれた。

「楽しそうにピアノを弾いている玄嶺さんと霞さんは、とても活き活きしていて、見ているのが大好きだったの。勝手だけど、何だか自分の娘達を見守っているみたいな気持ちになってね……。本当に……幸せな一時だった……」

ハンカチを握った先生の手は、震えていた。

「私じゃあ、力になれなかったかしら?助けてあげられなかったかしら……?私に出来る事があったなら、何だってしてあげたかったのに……。ただ……幸せに生きて欲しかったのに……。これからも、ずっと……」

先生は堪えきれなくなって顔を覆うと、私の肩に凭れ掛かって来た。私は彼女の身体をしっかりと抱きとめた。

「メイナは、先生の事が大好きでしたよ。……だから、余計な心配を掛けたくなかったんだと思います」

言いながら、私は自分のした事が本当に正しかったのか、分からなくなっていた。

メイナは私にとって一番大切な友達だった。だから、そんな彼女の願いを叶えてあげる事こそが、一番良い事なのだと信じていた。でも、本当にそれが正解だったのだろうか?彼女の望みさえ叶えば、他の事はどうでも良かったと言えるのだろうか?私はメイナの希望を優先するあまりに、彼女を失う事に対する周囲の反応をあまりにも軽視しすぎたのではないだろうか?それに、メイナを救う方法は、本当に彼女が死ぬしかなかったのだろうか?彼女はこんなにも愛されていたではないか。その愛に支えられて生きる事だって、きっと出来たに違いない。それなのに、私はその可能性さえ考えてもみなかった。

今更何を思ったって、玄嶺芽以菜はもういない。

だけど、こうしてあれこれ考える事自体、私が後悔している事を意味している。

そして、後悔しているということは、私が選択を間違えたということだ。

「……私だって……何も出来なかった……」

もし私の行為がメイナ自身を救っていたのだとしても、私自身は救わなかった。私はそれでも構わないと誓ったはずなのに、今でもこうして悩み続けている。とんだ意気地なしの嘘吐きだ。

「私達は何も出来なかったかも知れないけれど、だからと言っていつまでも嘆いてばかりいるわけにも行かないわ。せめて、玄嶺さんに誇れるような、立派な生き方をするべきよ」

園田先生は涙を拭ってからそう言うと、落ち込んでいる私の肩を軽く叩いて励ました。

「私はもう、娘に先立たれるのは御免ですよ」

気丈に笑って見せる先生の態度に、私は胸が詰まる思いがして、何も言えなかった。

「帰りましょうか」

私達は立ち上がり、音楽室を後にした。去り際にもう一度だけ、私は扉の向こうのピアノを振り返った。そこには、楽しそうにピアノを弾くメイナの幻影が、一瞬だけ現れて忽ち霧散した。

――忘れないよ。ずっと。

心の中で語り掛けた後、私はゆっくりと歩き出した。


 自分でも何故そんな事をしたのか分からないのだが、私は園田先生と別れて学舎棟を出ると、その足で靄繕慧奴の部屋へ向かった。執拗な呼び鈴に根負けした彼は、平常よりも一段と険しい顰め面で扉の向こうに現れた。

「何?」

「ちょっと、話さない?」

「何を?」

「何でも良いでしょ?」

「何の為に?」

「さぁ?気晴らしかしら」

「他を当たれ」

相変わらずの問答が一くさり終わった所で、私は扉の隙間からのぞいている彼の顔に可能な限り顔を近付け、小声で言った。

「メイナの事で、確認したい事でもあるんじゃないの?」

靄繕君はほんの微かに表情を変えると、無言でチェーンロックを外した。私は「お邪魔します」と言いながら部屋に押し入り、生活感の無い殺風景な室内の一角に腰を下ろした。本当はベッドの上に座りたかったのだが、以前そうした時に「許可されるまでは二度とするな」と物凄い剣幕で叱られたので、渋々硬い床の上で我慢する事にした。

「殺したのか?」

彼の質問は、不躾なほど単刀直入だった。

「どうしてそう思うの?」

私は顔色を変えずに尋ね返した。

「ゲンリョウの性格からして、自殺をし遂げるだけの度胸は無い。かと言って、こんな所で一生暮らして行けるだけの根性も無い。誰かに頼むとすれば、お前しかいない。お前の長い髪なら首を絞める事は可能だし、証拠も残らない。それに、施設内での事件は警察には歓迎されないから、ちょっと調べただけで自殺として処理するに決まっている。遺書なんかがあれば尚更だ」

彼の推理はもっともだったが、私は彼に「名推理ね」と言う賛辞の他には何も語らなかった。

「でも、靄繕君はメイナの事を全然解ってない」

彼女は確かに、自分自身の力だけで自殺する事が出来なかった。だけど、彼女が死を望んだのは、生きる事から逃げたいと思ったからではない。彼女は、自分と言う存在そのものを否定したのだ。生きていてはいけないと結論付けたのだ。それは決して、逃げなどではない。寧ろ、自分と言う存在と全力で戦った結末に彼女が勝ち得た答えなのだ。たとえそれが一般的な解釈からしてみたら有り得ない、理解不可能な間違いだったとしても、《特別出生児わたしたち》には理解出来るし、共感も出来る正解なのだ。

「ねぇ、靄繕君」

「ん?」

「もし私が頼んだら、靄繕君は私を殺してくれる?」

彼は二・三度目を瞬くと、

「考えとく」

と、煮え切らない答えを私に言った。

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