第5話Mの過去

 《特別出生児》の為の諸施設は、どれも人里離れた大自然の中に存在する。その理由は、施設内で生活している子供達が、不用意に外の世界と接触する事を防ぐ為である。彼らもやがて教育を終えて社会へと巣立っていく運命にあるのだが、その教育課程で余計な刺激を受け、思考に陥ったり、言動をしたりする事が無いように、多感な時期の少年少女の精神面に殊更に配慮がなされているのだ。教育施設は年齢別で、幼児院、初等教育院、中等教育院、高等教育院の四つに分かれており、高等教育院修了後は、任意で専門技術訓練施設で就職に役立つ様々な技術を学ぶ事も出来る。養子縁組の申請が最多なのは幼児院の生徒であり、以降は年齢が上がるにつれて申請が減少して行く傾向にある。その為、幼少期に一般家庭へと招待されなかった不運な子供達は、大抵が十八歳になって成人して施設の外へ出て行くまで、本当の人間の世界を全く知る事が出来ない。彼らは、自分達が知り得た限りの情報で【外の世界】と言う名の理想郷を思い思いに胸に描き、いざ現実を見た時に愕然とし、絶望する。誰だって、まだ見ぬ未来の世界には希望を持ちたいと願うものだ。だがそれが仇となってしまうと言う無情な現実に、夢見がちで無垢な若者達がどうして気が付けるだろう。せめて政府と呼ばれる大人達だけでも気付いて対処してやるべきだったが、その肝心の大人達は手を貸さなかった。彼らは、自分達の生み出した若者達が純粋ではなくなる事を恐れた。もし若者達が自分達の世界と外の世界を比較して考える事が可能になったなら、《国民再生計画》は確実に破綻するからだ。だから、《再教育施設》に不良品を押し込めて社会的に抹殺するに留めるだけで、その不良品を量産する原因が判っているにも拘らず、根本的な解決には着手しない。そして、それでは何も変わらない。

 丁度九年前のこの日まで、私は無知故に何の不満も無く施設で暮らしていた。その施設は直下に美しい海を見下ろす崖の上にあり、いつも波の音と潮風に包まれていた。子供達だけで海へ行く事は禁じられていたけれど、施設の職員達とはよく海へ行った。私は海が好きだった。一面に広がる水は穏やかな青を湛え、一定の間隔で打ち寄せる波は白く溶けて、その砕け散る儚い音色で時を刻んでいるみたいだった。浜辺を埋め尽くす粒子の細かい砂粒は、子供の私の足でもしっかりと沈み込んで、自分が今ここに立っている証を示してくれた。何よりも、遮蔽物の無い開けた空間が清々しく、普段目にしている灰色の壁や天井を忘れさせてくれるのが一番だった。

 ある晴れた日の事。幼児院での一日が終わり、引率の先生に従ってみんなで教室を出ようとしていると、一人の女性が私を呼び止めた。

「霞さんは、ここに残っていてくださいね。少し、お話があるから」

その女性は優しい笑顔で私に言って聞かせると、ポカンとしている私の頭を軽く撫でた。彼女が施設の職員であるという事は、服装などから一目で判ったが、どういう仕事をしているのかまでは見当も付かなかった。彼女の顔には見覚えが無いから、少なくとも幼児院の教員ではないはずだし、居住棟の管理員でもないはずだった。

――何のお話だろう……?

背中を向けて去って行く他の子供達を見つめながら、私は突然の出来事に言い知れぬ不安を感じていた。そのせいで表情が曇ってしまっていたのか、傍に立っていたあの女性が腰を屈めて、「怖い事は何も無いから、安心して」と囁き、二・三度ポンポンと私の小さな背中を叩いた。そして、私以外の生徒全員が居住棟へ向かって出発すると、彼女は戸口に立っていた先生に目配せをして、扉を閉めさせた。

「霞さんに会って、お話をしてみたいと言っている人達がいるの。今週末にここへ来てくれるから、その人達と会ってくれる?」

私は彼女の唐突で物足りない説明が殆ど理解出来なかったが、何となく「はい」と頷いてしまった。

「でも、何で?」

「それは、その人達が会った時に話してくれるはずよ」

「あなたは、知ってるの?」

「なんとなくね。でも、私から話すべき内容ではないの」

彼女はそう言うと、不満げな表情の私を見て苦笑いを一つ零して立ち上がり、戸口からこちらの様子を見守っていた先生に会釈をした。

「さあ、お部屋に戻りましょう。お話は、もうおしまい」

無防備に垂れ下がっていたか細い左手が持ち上げられ、私は引かれるがままに渋々彼女の後ろについて歩き出した。

「どんな人?」

ダメ元で私は口を開いた。

「とても素敵な人達よ」

案の定、彼女の返答はぼやけていた。


 全ての謎が解決するだろう週末のその日まで、私は繰り返しの日々を指折り数えて待っていた。何かを期待していたわけではなかった。ただ、得体の知れない予定が存在している事が嫌だった。そして遂に、待ちに待ったその日がやって来ると、私はあの名前も知らない女性に連れられて、居住棟の部屋を出た。私の部屋には同室の子供が四人居たが、皆一様に不思議そうな顔をして、さらわれていく私の姿を一心に見つめていた。私は別段胸を躍らせる事も、不安に怯える事も無く、案内人の手をしっかりと握って歩いた。目的地へ向かう道中、名も知らぬその女性は、幾らか他愛のない話題を私に振って来た。「今日は天気がいい」とか、「幼児院の勉強では何が一番好きか?」とか。たぶん、私が緊張しているのではないかと気を回して、気分を和ませようとでも思っていたのだろう。その気遣い自体は大変ありがたかったが、生憎私は黙っていたかったので少し苛々してしまった。そのせいで口調も態度も普段よりずっとぶっきらぼうになってしまい、哀れな彼女を一層狼狽させることになった。何とか無益なお喋りを切り抜けると、私は白い大きな扉の前で止まるように指示された。扉には何かが書かれた札が下がっていたけれど、私の身長ではよく見えなかった。

「準備は良い?」

小声で女性が私に確認し、私はこくりと頷いた。

「失礼します。霞絵夢さんを連れて来ました」

扉の向こうで微かな物音が聞こえると同時に、運命の扉が開かれた。


 扉と相対するように設置された低いテーブルの向こう側には、見知らぬ二人の男女が立っていた。

「お待たせ致しました。高山様」

同伴者の女性はそう言って礼儀正しくその二人と挨拶を交わすと、呆然と立ち尽くしている私に言った。

「霞さん。こちらの方々は、高山恵美さんと、高山誠さん。二人はご夫婦よ。今日、あなたとお話をしたいと言って、遠くから来てくれたの」

耳だけを向けて彼女の説明を聞き流しながら、私は紹介された二人の容貌をまじまじと観察していた。女性の方も、男性の方も、見るからに大人しそうで品が良く、悪い印象は受けなかった。

「はじめまして。《霞絵夢》って、とっても素敵なお名前ね!!《絵夢ちゃん》って、呼んでも良い?」

「はい」

「はじめまして、絵夢ちゃん。いきなり知らないおじさん達が来て、ビックリしたかな?」

「いいえ」

一通りはじめましてが終わった所で、付き添っていた女性が退室した。テーブルとソファしかない殺風景な部屋をぐるりと見回すと、私は高山夫妻に促されるままに、彼らの向かいのソファに腰を下ろした。

「本当に会えて嬉しいわぁ!!それに、写真で見たよりも、実物の方がずっと可愛らしいじゃない!!」

「それに、絵夢ちゃんはとてもお利口さんなんだってね」

「完璧じゃない!!!」

高山夫妻は何やら興奮しているらしく、その迫力に気圧され、訳も分からないので口を閉ざしているしかない私を前に、しばらく二人だけで盛り上がっていた。その内に高山氏の方が先に正気を取り戻すと、依然口を閉じる気配の無い夫人を制して言った。

「まずは絵夢ちゃんに、何で俺達が来たのか話さないと」

「あら、そうよね!絵夢ちゃんも困ってるわ」

高山夫人は恥ずかしそうに顔を赤らめると、呆気にとられている私に「ごめんね」と詫び、夫と顔を見合わせてから、今度は静かな調子で話し始めた。

「私達にはね、子供がいないの。結婚してから、もう三年経つのだけど……。でも、私達は子供が欲しいと思ってるの。絵夢ちゃんみたいな可愛い娘がいたら、きっと今よりもずっとずっと幸せなんだろうなって思うの。……だから……もし、絵夢ちゃんが嫌じゃなかったら、私達の娘になって、一緒に暮らしてくれないかな?」

言葉を続けて行く内に、高山夫人の表情は見る見る悲しそうになって行き、最後にはもう涙目になっていた。私は、さっきまであんなにも嬉しそうに笑っていた彼女が一転して暗く沈んでしまった事に動揺し、何と言ったら良いのか分からなくて下を向いた。

「もしおじさん達の子供になってくれたら、いろんな所に連れて行ってあげるよ。遊園地とか、動物園とか……。絵夢ちゃんが行きたい所なら、何処へだって連れて行ってあげるし、出来ることなら何だってするよ」

高山氏はそう言うと、泣きそうになっている妻の肩を抱いて慰めながら、私に向かって優しく微笑んだ。

「……あの……」

その笑顔に促されて、漸く私は言葉を漏らした。

「タカヤマさんたちの子どもになるって、どういうこと?」

夫妻はこの質問に顔を見合わせると、忽ち真剣な眼差しをこちらに向けた。

「この施設から出て、おじさん達の家で暮らすんだよ」

「ようじいんのおべん強は?」

「お勉強は別の所でも出来るから大丈夫よ」

「他のみんなはどうするの?」

「他の子達は、施設に残らないといけないんだ。だから、ちょっと寂しいけど、お別れをしないといけない」

私は彼らが交互に答えた内容をもう一度頭の中で整理すると、「そっか」と小さく呟いた。

「お友達とバイバイするのが寂しい?」

心配そうな高山氏の問い掛けに、私は「うーん」と首を傾げた。

「この施設を出たくないのなら、それで良いのよ。決めるのは絵夢ちゃんなんだから」

言葉とは裏腹に哀願の目をした高山夫人の追い討ちに、私は更に首を傾けた。

「しせつの外は、どんなところ?」

「とっても良い所よ。この施設には無いものも沢山あるし。きっと、絵夢ちゃんも気に入ってくれると思う」

「そうだ。今度何か持って来てあげるよ」

高山氏がそう提案した直後、ノックの音が部屋に響いた。

「高山様、そろそろお時間です」

扉越しに聞こえたのは、私を連れて来てくれたあの女性の声だった。

「そうか、もう時間か」

「短い時間だったけど、お話し出来て本当に良かったわ。ありがとう」

高山夫妻は口々にそう告げると、席を立って私の傍にやって来た。

「また、会いに来ても良いかな?」

「はい」

二人は満面の笑みを浮かべると、私の頭を撫でてくれた。その二つの大きな手は温かく、優しかった。

「バイバイ」

「ばいばい」

去り際に手を振ってくれた高山夫妻にぎこちない手つきで応えながら、私は二人の背中を見送った。二人が扉の外へ消えるのと入れ替わりに、あの女性が部屋に入って来た。

「仲良くなれた?」

「たぶん」

彼女はくすっと笑いを零すと、座ったままの私に手を差し出した。


 高山夫妻が再び施設を訪問したのは、それから一週間後の事だった。私達は以前と同じ部屋で再会したが、今回彼らは私を挟むようにしてソファに腰を下ろした。一通りお久しぶりが終わった所で、付き添っていた女性が微笑を浮かべて退室した。

「今日は、本を持って来たんだ」

嬉々とした様子でそう言いながら、右手に座った高山氏が一冊の本を鞄から取り出した。

「私達が住んでいる町の本よ」

透かさず補足説明をしつつ、左手に座った高山夫人がその本を受け取ってページを開いた。その紙面に載っていたのは、観光案内と思われる町全体の地図だった。

「おじさん達が住んでいるのは、三鷹山の麓にある、寿杜芽すずめ市という所なんだ」

「自然も豊かだし、歴史もある古い町なのよ」

二人は交互に私に語り掛けながら、地図の上を指差しては、いろいろな施設がある事や、それらの施設についての簡単な説明をしてくれた。私は二人の話を注意深く聞きながら、まだ見ぬ未踏の地に思いを馳せつつ、平面に描き出された街並みに目を走らせていた。すると、一つ妙に気になる記号を発見し、思わず顔を上げて二人に尋ねた。

「これは何?」

私の小さな指が示していた先は、三鷹山の中腹にぽつんと一つだけ存在している建物の記号だった。それを見た高山夫妻の顔は、何故か一気に憂鬱そうになった。

「それは……施設よ。特別な人達が生活してるの」

「どんな人?」

「うーん……元気が無い人、かな」

「どうしてそこにすんでるの?」

「また元気になって、町で暮らせるようになるためだよ」

二人の顔色には明らかな困惑の色が浮かんでいたが、その理由を知る由も無い幼い私は、構わずに無神経な発言をしてしまった。

「ここに行ってみたい」

途端に、高山夫人が取り乱した様子で「だめよ!!」と叫んだ。私は突然の大声に驚いて竦み、怯えた表情で高山氏の顔を覗き込んだ。彼は苦々し気な笑いを浮かべていた。

「ごめんね。ここは特別な人達しか入れないんだ。入っても、全然楽しいことも無いし」

私は腑に落ちない感覚に捕らわれつつも、「わかった」と言って俯いた。今思えば、私はこの時から既に、この《第十一再教育施設》と言う魔境に魅入られてしまっていたのかも知れない。


 三回目の高山夫妻との面会の日に、私は施設を出る事に決めた。夫妻の作戦が功を奏し、私はすっかり外の世界への興味と誘惑に打ち負かされていたのだ。施設に仲良しの友達がいなかったわけではなかったが、彼らとの別れもそれほど寂しくはなかった。いずれまた会えると教えられていたし、そうなのだと素直に信じていた。こうして私は七歳の誕生日を迎えた春の日に、住み慣れた灰色の住居を後にした。寿杜芽市にある高山家までは、高山氏が運転する車で向かった。初めて見る車窓の風景はとても新鮮で、何もかもが眩しく、輝いて見えた。長いドライブの果てにやっと目的地の家に辿り着いた時、私は初めての長旅に疲れ果てて眠ってしまっていた。高山氏がそんな私を起こさないようにそっと抱きかかえ、家の中まで運んで行ってくれたらしい。玄関の扉を開けて中へ入る際、高山夫人はこう言ったと言う。

「おかえりなさい、絵夢」

それが、私が高山家の一員になった瞬間だった。


 私は、高山家にやって来た二日後の月曜日から、他の生徒とは一ヶ月ほど遅れて、近くの小学校へ通い出した。私が《高山絵夢》として、初めて行ったのがその場所だ。幸い、小学校の雰囲気には直ぐに慣れた。同じ年頃の子供達が一緒になって勉強したり、遊んだりするのは、私が育った施設と殆ど変わらなかったからだ。次第に新しい友達も増えて行き、私の毎日は充実して、日増しに楽しくなって行った。そんなある時、突然転機が訪れた。

「絵夢。あなたはもうすぐ、お姉ちゃんになるのよ」

大事そうにお腹を撫でながら、お母さんはそう言った。

「きっと、あなたのおかげだわ!!絵夢は、私達に幸せを運んで来てくれた天使なのよ!!!」

お母さんは幸せ一杯の笑顔で私に笑いかけると、ぎゅっと抱き締めてくれた。私はお母さんと自分に何が起きたのかいまいち理解出来なかったけれど、幸せそうなお母さんを見て、ただそれだけで嬉しくなった。それから時が流れ、可愛らしい女の子が産まれた。彼女は私の名前に因んで、《絵真えま》と名付けられた。


 夫婦の悲願であった待望の娘が産まれてからも、お父さんとお母さんの愛情は変わらず、私は高山絵夢であり続けた。けれど、妹の絵真が産まれた事により、私は自分だけが血縁関係の無い余所者である事に悩み始めた。

どんなに愛してもらっていても、私はお父さんとお母さんにとって、血の繋がった子供ではない。

私にだって血縁の両親はいるはずだけど、それが何処の誰なのかすら全くわからない。

そんな得体の知れない存在の私が、高山家に居て良いのだろうか?

お父さんとお母さんが私を引き取ったのは、あの時はまだ二人に子供がいなかったからであって、今はもう私なんて必要無いのではないか?

年齢を重ねて知識を蓄え、考える力が増して行くほどに、私は自分の存在が高山家には不要なものに思えてならなくなって行った。そして、そんな苦しい胸の内を、まだ何も知らない、無邪気な妹に漏らしてしまった。

「私はよそから来たんだ。絵真の本当のお姉ちゃんじゃないんだよ」

突然の告白に、絵真は渋い顔をしてむくれた。

「そんなことないもん!!えむはおねえちゃんだもん!!パパとママもそういってるもん!!!」

「でも、私と絵真は違うんだよ。同じじゃないんだよ」

諭すような悲しげな私の声を聞き、絵真はしょんぼりして下を向いた。

「おなじだよ」

少しの間沈黙した後、彼女は言った。

「おなじだよ。なんにもかわんないよ」

当時五歳の妹にとっては、その言葉が精一杯の慰めだったのだろう。

それなのに、私は彼女の純粋な心を信じられなかった。

お父さんとお母さんが与えてくれていた、無償の愛さえ疑った。

絵真との会話の後、私は家を駆け出した。誰にも何も言わないで、ひたすら三鷹山に向かって走った。目指していたのは、以前に一度だけ家族みんなで来た事がある吊り橋だった。橋の下には山頂から流れて来た川が流れており、辺りは一面森に囲まれていた。孤独を感じられるその場所こそ、私にはぴったりだと思ったのだ。日が暮れた頃にそこへ到着すると、私は錆びついた鉄の欄干に迷わず手を掛けた。そこから飛び降りるのは、私にとってそれほど難しい事ではなかった……。


 これが、私の原点だ。

愛を、信頼を、友情を、自由を、与えられたあらゆる恩恵をふいにし、愚かにも全て投げ捨てたのだ。

そんな私が還る場所など、一体何処にあると言うのだろう?

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