第2話施設での日常 I

 翌日の朝、謎の転入生靄繕慧奴は、大きな欠伸をしながら教室へと入って来た。時刻は午前八時二十九分。彼が自分の席に着いた瞬間に、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。既に教壇の脇に控えていた園田先生は、可笑しそうに小さな笑い声を漏らした後、平常通りに朝の挨拶と学習開始の指示を告げた。

「園田先生」

授業開始から僅か一分足らずで先生に呼び掛けたのは、問題の転入生。教室に居る、私を含めて十六人の生徒達の視線が俄然彼に集中する。園田先生は眼鏡の位置を直しながら「はい?」と言って立ち上がると、開いたばかりの文庫本を椅子の上に伏せて質問者に顔を向けた。

「これ、全部終わりました」

抑揚の無い声で告げると共に、彼は机上に山積みにされた全教科分のワークブックの上に右手を置いて、その異様な存在を知らしめた。おっとりした先生は「あらまぁ」と驚いているのか呆れているのか分からない、ぼやけた感想を一言零した。そして、口を半開きにした状態でゆっくりと靄繕君の席の前までやって来ると、ワークブックの山を一冊ずつ手に取って解体しながら、丁寧に中の書き込みに一通り目を通していた。

「他にやる事は?」

「無いだろ」と言いたげな瞳で、靄繕君は園田先生に尋ねた。

「無いと思ったでしょ?」

見透かしたような園田先生の言葉に、思わずその場の全員が手を止めた。

「残念でした。あなたのように計画的犯行を行う生徒さんは割といるので、ちゃんと対策がしてあるのです。見事このワークブックを終了した優秀な生徒さんには、更に難易度が高いワークブックを幾つか取り揃えておりますので、引き続き勉学にいそしんでください」

彼女の柔和な笑顔と明るい声のせいで、その言葉は一層刺々しく聞こえた。園田先生はちょっとした意地悪で上機嫌になり、してやられた靄繕君は口を噤んだまま目を伏せた。

「このワークブックは、毎日少しずつ学習する為の教材なのですから、一度に片付けてしまわなくて良いのですよ。じっくり解説を読んで、のんびり問題を解いていれば、一課分がちょうど授業時間内で終わるように設計されているのです。あと、採点する私も大変なので、こう言うやり方ではやってもらいたくないかなぁ」

先生は困り顔でそう言うと、「何にせよ、一日で全部を終わらせた努力は素晴らしいですよ」と、最後にはいつもの優しい褒め言葉で締め括り、数冊のワークブックを抱えて教壇まで戻った。それから、これまでに見た事が無い表紙のワークブックを一冊持って来て、優等生の机の上に置いた。

「ご愁傷様」

「うるせえよ」

互いに各自のワークブックの紙面と向き合ったまま、私と靄繕君は本日初めての皮肉な挨拶を交し合った。


 《再教育施設》の学舎棟で行われている授業は、ワークブックによる学習だけではない。座りっぱなしの肉体と疲労した脳をリフレッシュする為に、時折体育の時間が存在する。とは言っても、少人数で出来るスポーツには限りがあるので、大抵は二人一組でプレー出来るスポーツが選択される。現在この《第十一再教育施設》の高等科で学んでいる生徒の総数は十七人。残念ながら割り切れないので、一人は先生とペアを組むしかない。靄繕君が来るまでは偶数だったからペアを組むのも支障が無く、私達はこの四月からテニスをやり始めたばかりだった。私は志願して園田先生とペアを組んだ。先生は恐ろしいくらいの運動音痴なので、ラリーなど一回として続かないのだが、それでも構わなかった。本来ならば体育教師を専任で雇うべき所であるのは明白だけれど、そんな予算などあるはずがない。全国の《再教育施設》の運営は、国民の血税で成り立っている。目覚ましい効果を上げているとは言い難い《国民再生計画》への反対は根強く、最近ではこの政策の廃止が真剣に討論されているとも聞いている。その状況は、当然ながら成人したり養子となったりして社会へ出た《特別出生児》達への差別へと繋がり、国民の偏見を助長している。《特別出生児わたしたち》と言う神に背いた存在を、あってはならない不良の産物を、この世界から排除してしまおうと人々は考え始めている。だけど、そんなのはあまりにも自分勝手だ。彼らは私達の事を知りもしないし、考えもしないし、理解しようとも思わない。私達を出来損ないの失敗作と呼ぶのなら、それを生み出した既存の社会は一体何と表現するべきなのだろう?

「《国民再生計画》は、あと何年続くんでしょう?」

休憩の為に腰を下ろした桜の木の下で、私は息切れしている御年四十歳の女性教師に質問をぶつけた。彼女は眼鏡を外して汗を拭き、深呼吸して乱れた呼吸を落ち着かせると、寂しげな表情でこう答えた。

「どうでしょうねぇ……。この政策を始める以前よりは状況が改善して来たとは言われているけれど、人間の問題は解決が難しいもの。子供が少ないなら生んで増やせば良いと言っても、子供は物じゃないのだから、育て上げる為にもそれ相応の費用と負担が必ず生じる。だけど、それに見合うだけの対価が得られているのかと言うと、この計画の場合にはそうとは言えないでしょう。それなら他に良い方策はあったのかと聞かれても、私には答えられないわ。この国の少子化問題は、単純に【子供を生み育てる費用と環境が無い】と言う理由だけじゃないもの。お金があっても環境が整っていても、いろいろな理由から子供を望まない人達がいる。それは、動物としては間違っているけれど、人間としては許容される事。こうなったらもう個人の意識の問題なのだから、介入するのは困難だし、不適当でしょう。私ね、思うのだけれど、きっとこれって、人間に対する神様からの罰なのよ。人間は、高度な知能を与えられた代わりに、動物としての本能を失ったの。【生きる事】が目的ではなくて、【生きる事】に目的を求めてしまう。複雑化した思考が、整えすぎた秩序が、素直で裸の【生】から人間を遠ざけてしまうのよ。人間が人間として生きて行く以上、他の動物が持つ野生さと奔放さは手放さざるを得ない。地上の生物に背を向けて、天上の神をひたすらに仰ぎ見てしまった人間に下された、最高にして最悪の罰が、この【知】なのでしょうね」

感慨深そうに遠くを見つめて語る園田先生の横顔は、神の教えを説く聖職者のそれに似ていた。彼女はその長い一連の言葉の後で急に破顔すると、「そう言う私も子供はいないのよ。非国民ねぇ」なんて戯けて言った。

「園田先生、ご結婚はされてましたよね?」

「ええ、そうですとも」

「じゃあどうして」と開きかけた私の口は、園田先生の表情を見るなり動かなくなって、半開きのまま一声も漏らす事無く不自然に止まった。先生は何も言わなかった。だけど、私は危うく無神経な問いを口にしかけていたのだろうと気が付いて、自分の軽率な行いを恥じた。

「桜、綺麗ですね」

重苦しい会話には似合わない、淡いピンクの可憐な花々が私達二人の頭上で風に揺れている。

「お花見でもしましょうか。天気も良いですし」

園田先生はそう言って嬉しそうな顔で立ち上がると、方々に散ってボールと戯れている生徒達に向かって大きく両手を振った。


 外の世界の学校には、部活動と言うものがあるらしい。放課後に生徒達が各々の嗜好に合わせて集い、スポーツや楽器の演奏などをして交流すると言うのだ。私はその話を園田先生から聞き、少し関心を持っていた。しかし、残念ながらここの《監獄》の学校にそのような活動は存在しない。生徒間の交流を深めるきっかけになればと思って園田先生が提案してみた事があったらしいが、その試みは敢え無く失敗に終わった。《再教育施設》に暮らす《特別出生児》達は、皆他人に興味が無いのだ。私達は普通の子供達と同じように教育され、集団生活を送って来たけれど、人付き合いと言うものを教えてもらった記憶は無いし、学んだとも思っていない。私達の周りにいた大人達が教えてくれたのは、素直でいる事、従順でいる事、無益な争いを避ける事の三つだけ。【愛】と言えば国家への愛、【忠誠】と言えば政府への忠誠。その同じ名詞が他人に対しても向けられ得ると言う事実を、私達は知識として知っていても普段は意識していない。大人にとって都合良く洗脳されて飼い馴らされた子供達からは笑顔が消え、感情が薄れ、あらゆるものに対する興味が衰退する。利益や目的、理由が無い限り、他人と積極的に関わろうなどとは夢にも思わないのだ。だけど、私はそんな生き方を酷くつまらないと感じる。他の人間ほど、理解不可能で予測不能な言動をする対象はいない。自分自身が支離滅裂なのは心地が悪いが、他人のそれは見ていて飽きない。ひょっとすると、靄繕君が私を【変わり者】に分類した理由とは、《特別出生児》らしくない他者への興味・関心の強さが私の中にあるのを見抜いたからなのかも知れない。事実、彼のその読みは妥当だ。だからこそ私は、新しく目の前に現れた靄繕慧奴と言う人物に強く心を惹きつけられているのだろう。そんなわけで、私は今日の放課後も靄繕君を連れ回して楽しもうと画策していたのだが、その事に勘付かれてしまっていたのか、目を離した隙に彼の姿は教室の中から跡形も無く消えていた。目当ての珍獣にまんまと逃げられてしまった私は、落胆しつつも、仕方なく帰り支度を済ませて教室を出た。春の陽は長く、外はまだ明るい。特にする事も無い部屋へ直帰する気にはなれなかったので、私は本でも読んで帰ろうと考えて図書室に向かった。そして、その途中で通りすがった音楽室から軽快なピアノの音色が響いて来るのを耳にして、思わず扉の前で足を止めた。木製の引き戸の上半分に嵌め込まれたガラスの覗き窓の向こうには、取りつかれたように両手を動かしている一人の女子生徒の姿が見えた。私は彼女の華麗な演奏を中断したくなかったけれど、彼女が奏でる美しい旋律を間近で聴いてみたいと思って扉に手を掛けた。案の定古い扉はガタガタと聞き苦しい悲鳴を上げ、驚いた彼女のしなやかな指はぴたりと止まった。

「ごめんなさい。素敵な演奏だったから、近くで聴いてみたくなって」

彼女は涅色くりいろのショートヘアを乱してふるふると首を振った。その口元には、微かにはにかんだ笑みが浮かんで見えた。

「同じクラスの人ですよね?確か……カスミエムさん」

「そうよ。あなたは――……」

「ゲンリョウです。ゲンリョウメイナ」

「漢字ではどう書くの?」

「えっと……」

彼女は徐に椅子から立ち上がると、黒板の前に立ち、白いチョークを握って丁寧に自分の名前を縦書きした。身長は思ったよりも低くて、私とは頭一つ分くらい違っていた。小柄な少女が書き終えた後には、丸みを帯びた筆跡で、小さく【玄嶺 芽以菜】と言う五つの漢字が並んでいた。私はその名を目で覚えると、彼女の名前の右上に自分の名前を書いて見せた。

「いいなぁ。絵に夢ってかわいいですね」

「うん。私も気に入ってるの」

「わたしの名付け親とか、絶対シュミ悪いですよ。玄い嶺に、芽と菜っ葉ですよ?暗すぎ。どうせ草冠にするんなら、花の名前にして欲しかった」

「でもメイナって響きは可愛いじゃない」

私は思った通りの感想を述べたけれど、本人はえらくご不満そうにむくれていた。《特別出生児》の名前は、政府機関の担当者が苗字も名前も自由に付けられる。常用漢字でなくてもお構いなし。ここぞとばかりに奇天烈な名前を授ける事で、私達の存在を名前からも容易に区別出来るようにしているらしいと言う噂が実しやかに囁かれてはいるけれど、真偽のほどは定かではない。ただ、恐らく確かなのは、名前を付ける側の彼らにとってみれば、《特別出生児わたしたち》はペットや作品と大して変わらないものとして認識されているということ。私達に与えられる個人名は、言わば個体識別番号だ。意味も願いも込められていない。人間として扱う以上数字で呼ぶわけには行かないから、見かけ上だけでもご立派なお名前を付けてくれているに過ぎない。私は自分の名前を気に入っている。だけど、この名前が真に意味している所は、絵や夢なんて麗しい抽象などではなくて、ある外国語のアルファベットの第十三番目の文字と言う記号だ。

「メイナって呼んでも良い?」

「もちろん!それじゃあ、霞さんのことは絵夢でいい?」

「ええ」

まるで今日初めて出会った二人みたいに、私達は笑い合って握手を交わした。メイナが私の名前を知っていたのは正直驚いたけれど、少し嬉しかった。それに、彼女のように自分から話したり、笑ったりする子は珍しい。《特別出生児》の最大の特徴は、無口・無表情であると言っても過言ではないくらい、彼らには生気が無い方が普通だ。その点から言えば、靄繕慧奴は典型的な《特別出生児》を体現している人物だと言える。

「ねぇ、メイナは小さい頃に外で暮らしてたでしょ?」

私が唐突にこう尋ねたのは、ある確信があったからだった。思った通り、彼女はこくりと頷いた。

「三歳の時に一般家庭の養女になって、それからずっとその家で暮らしてた。ピアノもその時に習ったの」

そう言うと、彼女はまたピアノの傍へ戻り、右端の鍵盤を軽く押して、澄んだ、それでいて何処か物悲しげな高い音を室内に響かせた。

《特別出生児》を養子として迎え入れた家庭には、所得に応じた育成支援金が給付されると言う制度がある。子供を授かれない夫婦や、後継者に困っている自営業の家庭などが、この制度を利用して《特別出生児》を家族の一員として迎え入れたと言う例は少なくないと聞く。こうして幼児期を施設の外で過ごすことになった子供達には、施設で育った子供達よりも饒舌で、感情表現が豊かだという傾向が見られるのだ。しかし、施設外で育つ事が必ずしも幸福に繋がっているわけではない事は、今私の目の前でピアノを見つめている少女の横顔を見れば一目で理解出来る。彼女は結局、帰って来てしまったのだ。幸福に満ちているはずの光の園を捨てて、荒涼とした何も無いこの地獄にまた舞い戻って来たのだ。理由なんて考えるまでもない。闇の中で生まれた私達は、光の世界に順応出来ない。たったそれだけの、無情で明白な現実が厳然と実在しているだけなのだ。

私はメイナの隣に並ぶと、気の向くままに指を動かして、白い鍵盤を沈めてみた。何の調子も無い、出鱈目で途切れ途切れの音が遊ぶ。長く、短く。強く、弱く。そんな簡単な操作一つで音色は変わり、踊る指に合わせて正確な音階で歌う。私はピアノが弾けなかったが、この楽器が奏でる情緒豊かな音色が大好きだった。胸の底を震わす低音も、ガラス玉が転がるみたいな凛と突き抜ける高音も、どれも快く感じた。メイナは私に何か弾いてみたらどうかと勧めてくれたが、私はそれを苦笑いと共に遠慮して、代わりに彼女に演奏を依頼した。彼女は少々照れくさそうに髪を撫でながら席に着くと、私が入って来た時に弾いていたのとは別の曲を弾き始めた。彼女の前に、楽譜は置かれていなかった。音楽に疎い私には、彼女の奏でるその曲が有名な作曲家の曲なのか、それとも即興で自由に紡ぎ出した曲なのか判らなかったけれど、繊細な音色が複雑に絡み合うその調べは儚く、美しく、感傷的だった。

「よかったら、わたしがピアノを教えてあげるよ?」

矮躯のピアニストは演奏を終えると、にこやかに言って私の顔を見上げた。色素の薄い茶色の瞳は、窓から差し込んだ夕陽の色に染まってオレンジ色に輝いていた。

「ありがとう」

私がそう言って笑うと、メイナは子供みたいに無邪気な笑顔を満面に湛えて見せ、勢い良くその場に立ち上がった。

「帰ろう!」

遠くに沈み行く太陽は、まだ血のように赤い色を撒き散らしながら、迫る宵闇に抗って足掻いていた。私とメイナは一緒に学舎棟を出ると、居住棟一階のホールで手を振って別れた。


 学舎棟に隣接して建てられたこの居住棟は二階建てで、《特別出生児》と施設職員が共同で暮らしている。各部屋にはユニットバスと電磁調理器の付いたキッチンが完備されているが、洗濯機は共用だ。私は部屋に戻ると、適当に食事を済ませてシャワーを浴び、洗濯物をランドリーコーナーの骨董品の口の中へと放り込んで再び自分の棲家へ帰った。汚れはほぼそのままに衣類を痛めつけてくれるポンコツの機械の怒りが収まるまでは、特にこれと言ってする事が無い。

――しまった。本を借りて来るんだった。

ベッドの上に横になった所で、私は漸く自分の失態に気が付いた。今日の放課後は、図書室で本を読んで暇を潰した後で、ついでに何冊か読書の友を連れて帰って来る予定だったのだ。それが、偶然足を止めた音楽室でメイナと話し込み、当初の目的をすっかり忘れて帰宅してしまった。

――まぁ良いか。

私は今日一日の成り行きに満足して、そっと目を閉じた。物言わぬ友と無言で帰るよりも、ずっと有意義で楽しい時間を過ごす事が出来たのだ。もしかしたら、これからはもう今までみたいに退屈していなくても済むかも知れない。メイナはきっと、良い友達になってくれるだろう。

こうして少しずつ、毎日何かが変わって行く。

昨日、私は靄繕慧奴に出会った。

そして今日、私は玄嶺芽以菜と知り合った。

それじゃあ明日は、誰と話すだろう?何を知るだろう?そう考えるだけで、少しだけ嬉しくなる。少しだけ楽しくなる。良い事ばかりが続くわけではない事は承知しているつもりだけれど、それでも無意識に事態が好転する事を期待してしまう。まだそんな事が出来るからこそ、私は立ち止まらずに生き《あるい》て行ける。

靄繕慧奴はどうだろう?

彼も明日を夢見たりするのだろうか?それとも、ただ漫然と日々を消費しているだけなのだろうか?

――靄繕君は、今頃何をしているんだろう?

自己紹介の時の仏頂面を思い出したら、何だか急に可笑しくなった。

そうこうして漠然としている間にも時間は過ぎ、私は草臥れた洗濯物を回収する為にランドリーコーナーへと再び足を運んだ。私が到着した時、そこには二人の先客が居た。少年と少女が一人ずつ。二人は何事かを小声で話し合っていたように見えたが、私が来たのを見ると話すのを止めた。二人の顔には見覚えがある気がしたけれど、名前は出て来なかった。あちらも似たような状態らしく、私の顔を探るように注意深く見つめていたが、少しすると諦めたのか目を逸らした。少女の方は洗濯物をぞんざいに籠に投げ入れて持って行き、少年の方は何も持たずにその場を去った。

――脱獄の相談かな?

二人の人影が消えて行った方向を一瞥してから、私は反対方向に向かって歩き出した。

私達が暮らす《第十一再教育施設》は、前述した通り《陸の孤島の監獄》と言われている。その名の通り、ここは人里離れた大自然の中にそびえたつ収容所なのだ。そうは言っても、《監獄》と言う異名は入所する側から見た批判的なレッテルに過ぎないのであって、その実態は犯罪者を収監している本物のそれには程遠い代物だ。警備も監視もそれほど厳重ではないし、申請さえすれば自由に外出する事も出来る。それもそのはずで、政府の目的は《特別出生児わたしたち》を監禁する事などではなく、《特別出生児わたしたち》を保護する事だからだ。政府にとって困るのは、私達が施設の外に逃げ出す事ではない。人目の届かない所に逃げ込んで、勝手に自殺される事である。つまり、自殺さえ企まないと言うのなら、施設の中で暮らそうが外で暮らそうがどうでも良いのだ。その事情から分かる通り、脱獄を図る連中の目的は一つしか無い。この病は非常に根深く、一度罹患したら完治するのは相当困難だ。殆ど不可能と言っても良いかも知れない。私にはそんな事がよく解っているから、脱獄者かれらを止めもしないし、だからと言って勧めもしない。私は他人の生き死にには関与しないと決めている。私が自分の人生を自分で決めたいと願っているように、彼らも彼ら自身の人生を自らの決断で決めれば良いと思っている。善も悪も、正義も不正も、普遍性など有してはいない。詰まる所は当人の考え方次第だ。

私は生きたいわけではない。だけど、死ぬべき時は今ではない。

生まれてくる事を選択出来ないと言うのなら、せめて死に行く時くらいは自分で決める事が許されても良いはずだ。

私は自分が死ぬべき時について考えて、ある一つの見解に達した。恐らく、それは多くの人々にとって理解されないだろうということは解っている。けれども、その間違った解答こそが、私にとっての唯一の正解なのだ。少なくとも今はそう信じているから、その時が来るまでは人生を謳歌しようと思っている。

見知らぬ二人の密会を機に勝手な妄想を膨らませ、随分とくだらない事を長々考え込んでしまった。早とちりはいけない。ひょっとしたら、彼らは恋人同士なのかも知れないではないか。あれは脱獄の相談ではなく愛の告白で、部外者が闖入してしまったせいで途端に気恥ずかしくなって中断してしまったとも考えられない事は無い。そちらの方が前者よりもずっと平和で在り来たりだ。

――何考えてるんだろ、私。

空想に思いを馳せ、徒に思考を弄んでいる内に、休み無く動かされていた両腕は全ての洗濯物を干し終えていた。私はふうと一息吐くと、ぼんやりと星空に目を移した。山の中なだけあって、澄んだ空気が星々の瞬きを遮る事無く地上に届かせてくれている。星が綺麗なこんな夜は、いつも夜空に見入ってしまう。

――明日も楽しくなると良いな。

流れない星に心の中でそっと祈ってから、私はベランダの扉を閉めて部屋の電気を消した。

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