最終話 月光

 四月も終わろうとする夕暮れ時。

 横濱港大桟橋には一際巨大な客船が横付けされていた。客船を取り巻くようにして中型貨物船や護衛船が周囲の小桟橋に数隻係留されている。

 定期航路ではないためか岸壁には団体客や見送り人はおらず、最後の積み込みで荷役人が忙しなく行き来している。


「ちょっと、なんで誰も来ないのよ!」

姐姐ねえさん、鞄が壊れるってば」


 客船に架けられたタラップ横で巨大な革のトランクケースに座った若溪ルオシーはハイヒールの踵でガンガン鞄を叩いていた。


 客船の二つの巨大な煙突からは既に黒い煙が棚引き、ディーゼルエンジンの低い振動音が船体を伝って耳鳴りの様に鼓膜を震わせる。

 木製のタラップを男が足音高く駆け降りてきた。寿太郎の父親でありこの船団の船主の高村重雄しげおだ。


ファン姉弟、あと一時間以内に出航だ。荷物は人夫に任せて先に船室に案内しよう」

 

「ありがとうございます、おじ様。でもまだ高村――寿太郎じゅたろう君が来てませんから。皓宇ハオユー、先に出国手続きしておいてちょうだい」

「わかった姐姐。乗り遅れんなよ」


 皓宇は二人分の荷物を持つと乗船受付の窓口へと向かっていった。重雄は辺りを見回してみたようだが、それらしい影は見えなかったのか難しい顔をしている。

「まったく時間も守れないのか……ああ、来たようだ」


 横濱駅からの乗合い馬車でやってきた信乃は、若溪と重雄の姿を認めると手を挙げて走り寄った。


「良かった。見送りに間に合いましたね」

「待っていたよ信乃君。最後に挨拶が出来てよかった。ところで、うちの馬鹿息子はどこに?」


「いえ、特に待ち合わせなどはしてなくて。出航時間だけ告げられたので私はそれに合わせて来たのですが、まだ来ていないのですか?」


 信乃たちが話していると乗り合いバスの停留所に一台のフォード車が横付けされた。

「あれは翁の車じゃないかしら」

 若溪が車に近寄ると、まず執事の飯塚が降りて後部座席の扉を開いた。


「お、みんな揃ってるな!」


 最初に降りてきたのは寿太郎で、翁は後から飯塚に手を引かれて降りてきた。それを見るなり若溪が猛抗議する。


「なんであなたが翁の車に乗って来るのよ!」

 若溪が寿太郎に失礼だの分をわきまえろだのと言いたい放題言っていると翁がにこやかに言った。

「良い良い。若溪、この度は色々と世話になったな」


 若溪は両手を重ねて胸元に掲げると軽く頭を下げ古風な礼をする。

「こちらこそ。東城大人トンチャンターレンの助けがあればこそ我が家の面目が保たれたのですから。ファン家はこの恩を決して忘れませんわ」


 会話を側で聞いていた信乃に若溪が向き直る。

「信乃哥哥にいさんもありがとう。私たちは上海に戻るけどまた直ぐに戻ってくるわ。その時はよろしくね」


「ええ、またお会いできる日を楽しみにしています」

 信乃が頭を下げると、若溪は手を振って皓宇と共にタラップを上っていく。

 信乃が別れの余韻に浸っていると背後が何やら騒がしくなった。


「早くしろって! 出航に間に合わないだろ」

「それなら怪我人にこんな大荷物を持たせるなよ」


 信乃が振り向くと頼次が車の助手席から降りてくる所だった。


「頼次、見送りには来ないはずでは?」

「聞いてよ義兄にいさん。あいつほんと無茶苦茶だよ。義兄さんが出掛けた後、直ぐにあいつが家にやって来たんだよ」


 片手で荷物を降ろそうと四苦八苦している頼次を手伝おうと信乃が手を延ばした時、何かが車の中から足下に転げ落ちたが、頼次の派手なくしゃみに気を取られて信乃は注意を払わなかった。


「仕方ないだろ。書類が今日になっちまったんだから。でも頼次が家にいてくれて助かったよ。深山の印鑑がないと駄目だとか言われてほんと焦ったんだからな」


 寿太郎は大きな革製の旅行鞄を受け取ると信乃の足下に置いた。


「印鑑って、先日聞いた書類のことですか?」

 寿太郎は信乃の問いに頷くと、旅行鞄から蝋引きの大きめの封筒を取り出した。

「間に合って良かった。これで正式に絵の権利を主張できるからな」


 表には文部省の印が押されしっかりと封緘されている。信乃は封を開けて書類を取り出した。著作権継承に関する覚書だった。信乃が礼を言おうとすると寿太郎はひょいと書類を取り上げて頼次に渡した。


「ほらよ頼次。絶対になくすなよ」

「当たり前だろ」


 信乃は自分の空っぽの手と頼次を交互に見比べて、少しだけ不満に思いながらも寿太郎に頭をさげた。


「ありがとう寿太郎。これでようやく終わりましたね」

「何言ってんだよ先生」

 寿太郎はもう一通の封筒を内ポケットから取り出すと信乃に寄越した。


「何ですかこれは」

「業務提携の依頼書。須長が売っぱらった作品を買い集める仕事ができたんだよ」


「まさか……やっぱり、この旅行鞄は父さんのものじゃないですか!」

 信乃が慌てて鞄を開けると着替えや小間物がぎっしり詰められている。


「はいこれ、義兄さんの旅券。枕はないけど筆は入れておいたから」

「一体どういうことですか!」

「寿太郎、またお前は勝手なことを!」


 信乃と重雄が示し合わせたように非難をしたが、寿太郎はまあまあと言って両手を上下に振る。


「親父は母さんと国外に駆け落ちして家督相続権と国籍を剥奪されたんだよな」

「――まあ、そうだが」


 重雄が何を今更といった感じに頷く。寿太郎は今度は信乃に向き直って厳しい顔付きで言った。


「先生、この仕事は一年以上かかる。だけど――その先にあるのは自由だ。だから今、選んでくれ」


 信乃は巨大な船尾を見上げて「自由」と呟いた。しかし、直ぐに視線を落として護岸の暗い海面を見つめて言った。


「まったく、君はいつも私に二択を迫るんですね。義母さんのこともありますし、家のことだってまだこれからあるんですから――」


「ああ、一つ言い忘れてたんだけどさ」寿太郎が信乃が持っている封筒を指差した。

「渡航料金はタダだけど、支度金の五百円は翁に返さないといけないんだ。封筒に俺と先生の連名で借用書が入ってる。あと鴨井さんが誤魔化してくれた件とか」


 寿太郎の言葉に信乃は慌てて封筒から書類を取り出した。信乃の名前の下に深山家の押印がされている。二択ですらなかった選択しに信乃の顔が紅潮する。


「頼次っ!」

 鋭い声にそろそろと後退っていた頼次が飛び上がった。

「だって、判子を押さないと義兄さんが捕まるかもって」


 頼次は眉をハの字に下げて必死に訴えている。事件の時こそ気骨のある所を見せたが、生来の気質はそうそう変わらないらしい。信乃は両腰に手を当てると、頼次とは対照的なふてぶてしい態度の男を半目で見据えた。


「これは君の残務なのでしょう。どうして私まで巻き込むのですか。しかもこれは二択じゃなくて脅しって言うんです」


「そりゃないよ先生。俺だけだったらどれが白茲の作品がなんて分からねえし。ついでにカタログ・レゾネも作れば一石二鳥。それがあれば深山の家は百年は安泰だって」


 選べと言った癖に絶対に断れない内容で、信乃は奥歯をぎりりと噛みしめた。どう断ろうかと考えていると、足下に何か温かいものが引っ付いていることに気付いた。


「か――カステラ!?」


 信乃はまたしてもと寿太郎を疑ったが、その飼い主も驚いているから本当に知らなかったのだろう。子犬は舌を出して尻尾を千切れんばかりに振ってとても嬉しそうだ。


「お前、いつ乗り込んだんだよ。勝手について来たら駄目だろ!」

 寿太郎の叱責に頼次がおずおずと言った。


「僕が助手席に乗ろうとしたら既に足下にいたんだよ。時間はないし誰も居ない家に置いとけないだろ、だから下ろせなくて。僕が足の間に押し込んでた」


「お前、それでずっとくしゃみばかりしてたのか!」

 寿太郎が言うと頼次がまた盛大なくしゃみをした。


 その様子を面白そうに見ていた翁が寿太郎に向かって言った。

「寿太郎君、この子犬も連れていかないかね」

「え、いいのか!」

「ああ、たしかに賢い良い犬だが、勝手に出て行くのでは番犬にするにはちと問題だからの。それに今日は友引、船出には良い日取りだ」

 翁は肩をすくめて言った。


「良かったな、先生」

「私が行く前提で話すのは止めて下さい」

「なんでだよ。カステラは俺より先生の方が懐いてるんだからいいだろ」


 今までとは段違いに程度の下がった話に信乃は呆れ果てた。

「そんな理由で渡欧する人がいますか!」

 カステラは別れを惜しんでいるのか、悲しげに鼻を鳴らしながら信乃を見上げている。


「ああもう!」信乃はカステラを抱え上げた。

「ほら言っただろ」

 子犬の温かな体温を感じていると、迷いが溶けていくようだった。信乃は頼次に声を掛けた。


「すまない頼次、後のことを任せてしまうことになって。義母かあさんをよろしく頼むな」


 頼次には今後の刑事手続や勾留中の義母の世話を押しつけてしまうことになる。鴨井やあの税関職員がよくしてくれたとしても、一人でこなすのは大変だろう。だが頼次は明るい声で言った。


「もし引き留めるなら義兄にいさんの荷物なんて持ってこないって。むしろ色々隠さなきゃならなかった時より全然動きやすいよ。時々でいいからさ、手紙書いてくれよな」


 信乃は何度も頷いた。

 寿太郎が思い出したように「そう言えば」と言った。

「頼次は外国に行ってみたいとは思わないのか?」


「あのな……それ僕の仕事を決める前に言えよ。母さんのこともあるけど、僕が居るべき場所は海の外じゃない。それに義兄さんが帰ってくる場所も必要だしな。高村、義兄さんを頼んだ」


「おう。任せとけ」

 信乃は翁にもう一度礼を言い、頼次に最後の別れを告げると既に歩き出していた寿太郎を追いかけた。


 遠く水平線の果てまで届くような長い汽笛の音が鳴った。


***


「寿太郎、こんな所にいたんですか」


 寿太郎が舷側にもたれて月明かりだけの真っ暗な海を眺めていると信乃が声を掛けてきた。


「ああ、先生。船室はどうだった? やっぱり親父に変えてもらおうか」


 寿太郎も一等に変えると言い張ったが「船主の息子が一般船室に泊まってたら船員たちが気を使う」と信乃は却下した。


「いえ、十分良いお部屋でしたよ。カステラ君の籠も用意してもらいましたし。用件は別のことです」

 信乃は照れくさそうにしながら手に持ったノート大の風呂敷包みを寿太郎に差し出した。

「本当は港で渡すつもりだったんですが、何だか調子が狂ってしまって。それに日が経つと渡しづらくなりそうですし」


「ここで開けていい?」

 頷いた信乃に、寿太郎が風呂敷の結び目を解くと中から絵が現れた。寿太郎は船室の窓から漏れる明かりに絵を翳して見る。


「これって……」

 それは輝くような白波と日本独特の白っぽい空を背景に、鮮やかな赤い髪をした男がベンチで眠っている絵だった。


辰砂しんしゃ鉛白えんぱくの使い道を思いついたので描いてみたのですが」

「もしかして、寝ずに描いてたのはこれ?」


 寿太郎がもっと喜ぶと思っていたのか、信乃は少し不満げだ。

「君の要望じゃないですか。無名の画家ですから一銭の価値もありませんけれど」


「いやいや、驚いたんだ。まさか覚えててくれたなんてさ。じゃあ俺が最初の顧客だから……」

 寿太郎は慌ててポケットをまさぐると「今これしかないけど」と言ってくしゃくしゃの一円札を信乃に押しつけた。


「懲りませんね君」

「十分懲りたって。欲しいものはその時にちゃんと手に入れておかないと後悔するんだって、よく分かった。ありがとうな先生、大事にする」


「ええ、これからもどうぞよしなに」


 信乃は笑って受け取った一円札を指で弾く。軽やかな音は直ぐに波音に飲まれて消えた。

 後はただ白い月の光だけが船上の二人を照らしていた。











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これにて全編完結いたしました。ここまでお読み頂いて本当にありがとうございます! 感謝しきりです。

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