第49話 それぞれのパースペクティブ

 元税関職員は寿太郎の手を取ると頼次の雇用を快諾した。

「こちらとしては身元もはっきりしてますし助かりますが、大丈夫ですか?」

「ああ、もちろん本人に確認はするけど、多分大丈夫だと思うぞ」


 大丈夫、というよりは断れないが正解だろう。町内会の手当程度では到底家計を支えることはできず、新たに仕事を探そうとしても、このご時世では直ぐに見つかるとは思えない。

 それは信乃も重々分かっているのだろう。元職員に向かって頭を下げた。


「もしよろしければ、頼次よりつぐをどうぞよろしくお願いします」


 すると側で話を聞いていた翁が信乃に尋ねてきた。


「それはそうと、信乃君の方はこれからどうするのかね。教師職に戻るのなら儂が斡旋しても良いが」

 問われた信乃はそれには答えず、全く別のことを聞いた。


「伯爵……その、質問で返して申し訳ないのですが。ずっと気になっていたことがあるのです。翁はいつ私が白茲の息子だと気がついたのですか。寿太郎は事前に私の名前は伝えていなかったと言っていました」


 翁はそんなことかと低く笑った。

「最初からだな。君は久仁信くにちかと同じ香を使っているだろう? あの香は儂が調香したものだ」


「――なるほど。私も絵に香りが移るよう描くときは父と同じ香を焚いていました」


 寿太郎がすんすんと匂いを嗅ぐ仕草をし、手の平に拳を打ち付けて「ああ」と声を上げた。


「だから先生はレストランで話してた時、テレピン油の匂いの話をさらっと受け流したのか!」

「君がテレピン油の方に気を取られてくれて本当に助かりましたよ」


 頬を引き攣らせて笑いを堪えている信乃に、寿太郎は顔を顰めた。寿太郎の気付いた信乃の香は、油絵の匂いを隠すためではなく和紙に染みついた仄かな香の匂いを再現するためのものだったのだ。


「ずるいよ先生。その時は俺は真作になんて触れたことがなかったんだ。倉庫でだってそう。先生本人が側にいたら『瑞雲と白鹿』に付いた僅かな匂いになんて幾ら俺でも気付かないって」


 寿太郎は両頬を膨らませる。信乃は笑いを収めると翁に向かって至極真面目に言った。


「私にはもう人を教え導く資格はありません。別の仕事を探して家の……今は頼次のですが返済を手伝います」


「それって元々はマダムの元旦那がこさえた借金じゃねえか。先生が被る必要なんてないだろ」


 寿太郎は納得がいかなかった。しかし、借金は現実にあって魔法のように消えるわけではない。先ほどの借金帳消しの提案も冗談めかしてはいたが半分以上本気だった。


「今度は何の話?」

 炭酸水のお代わりをしに厨房に行っていた若溪ルオシーが戻ってきた。若溪は寿太郎にそれまでの話の流れを聞いて、しばし考えてから口を開いた。


「それって皓宇ハオユーが借金漬けにしたっていう人よね。じゃあ、こっちで預かるわよ。須長の会社はウチが引き継ぐことになったから。ちょっとキツいかもだけど港湾荷役を何年かすれば直ぐに返せる額よ」


 片目を瞑った若溪に寿太郎は身震いする。荷役仕事は下手をすると命を落とすこともある過酷な労働だ。会ったこともない頼次の父親の運命に少しだけ同情したが、人様に散々迷惑を掛けた男が償うには日々の誠意を見せる必要がある。

 それに若溪の所なら返済金をちょろまかすこともできないはずだ。

 ――こりゃ俺が手を下すまでもねえな。そっとしておこう。

  

 勝手に話が進んでいく中で、寿太郎は信乃が所在なさげに立っているのに気付いた。


「先生、気分が悪いのか?」

「いえ、皆さんにこんなにして頂いて本当にいいんでしょうか。発端は須長さんとはいえ、私が贋作に手を付けなければこんな大事にはならなかったのですから」


「いや、それを言うなら俺も悪かったよ。だまし討ちみたいに先生に近づいたしさ。でも、結局のところ先生自身が動いてくれたから皆も動けたんだ。だから、好意は有り難く受け取っていいんじゃないかな」


 寿太郎の言葉に信乃は周囲を見回すとゆっくりと深くお辞儀をする。その時、広間に梱包材を持った作業員たちが入ってきた。それが丁度、お開きの合図となり、頭を下げる信乃の肩を翁と重雄が軽く叩いて広間を出て行った。


「はあ……これでなんとかなったかな」

 寿太郎が言うと、ようやく頭を上げた信乃が寿太郎に言った。

「先ほどから私のことばかりですが、君はこれからどうするのですか」

「俺? あと一週間はいるよ」


 信乃に訊ねられて指を広げながら日数を数えてみる。そろそろ各地に散っている船団の船たちが横濱港に戻ってくるはずだ。日程にずれがなければ出航は予定通り月末になる。


「それは滞在時間でしょう。その……今後のことです」

「ああ、一週間の間にちょっとやりたいことがあってさ。観光とかしたかったんだけどなあ」


 信乃はまた寿太郎が何かをやらかそうとしていると思ったのか、訝しげ言った。

「ちょっとって、何をです?」

「えー、今言うの」


 まったく信用してない顔で見てくる信乃に、寿太郎は頭を掻いた。 

「まあいいか。最後は先生のサインもいるし。以前から親父に相談してたんだけどさ、白茲の著作権を明文化しておこうと思って」


 信乃の顔に疑問符が浮かんでいるのを見て取った寿太郎は、重雄から聞いた内容を思い出しながら言った。


「まず、著作者の遺族は手続きさえすれば正当にその著作権を主張できるんだよ。それも大切なんだけど、それに付随する複製コピー権の方が先生にとってはとっても意味がある」

「コピー、ですか」


 寿太郎は翁の部下たちが修復に運び出すために襖絵を梱包しているのを見ながら言った。


「それさえあれば絵を複製して堂々と売れるんだよ。本来は自動的な権利なんだけど須長がややこしいことをしたからさ、ちゃんとしておいた方がいいと思って。派手な儲けはないけど積み重なればそれなりの収入になると思う」


「それは知りませんでした」

 信乃が感心したように言うと、寿太郎は少し照れくさそうに言った。


「丁度、鴨井さんも来てるし相談しようと思って。日本も加盟してるベルヌ条約とか色々あって難しいから……その……ごめん勝手に決めて……」

 また先走ってしまったと、寿太郎の声はどんどん尻すぼみになっていく。

「――月白のエスキースだって、黒い紙入ってたらマダムがびっくりするかなって、それに一番肝心な時に躊躇ためらって頼次は撃たれるし。やっぱ俺、全然成長してねえよな……」


 次々と白状する寿太郎に信乃がため息を吐いた。寿太郎は大きな身体を益々身体を縮こめた。


「どれも意図的じゃないでしょう? 謝るのは私の方です。君を信用仕切れずに座敷に閉じ込めてしまいました。あの時、君が来てくれなかったら私は今ここに居なかったかもしれません」


「え、どういうことだよ!?」

「そのまま国外に連れ去られていたかもしれません」


 信乃は笑って言ったが寿太郎の背中に冷たい汗が伝う。寿太郎は一歩踏み出すと信乃の両肩を叩いた。


「先生、それ笑い事じゃないよ! ほんと良かった……」

「こちらこそ、軽率でした」


 二人で頭を下げ合っていると、廊下で重雄と話していた若溪がつかつかとやってきて指を突きつけた。


「さっきからなに二人して不毛な謝り合いをしてるのよ。そもそも友達ってそういうもんでしょ?」


 寿太郎と信乃は顔を見合わせた。


「な、なによ……本当のこと言っただけじゃない」

「若溪お前、たまーに良いこと言うな。本当は良い奴なのか?」

「ははん、今頃気付いたの? お詫びならサイダーを所望するわよ」

「それ以上飲んだら炭酸で爆発するぞ?」

「ほんと失礼ね、ずっとそこで二人で謝り合ってればいいんだわ!」


 足音高く広間を出て行く若溪に寿太郎が「またな」と言うと、彼女は髪の毛を振り払って振り向くとイーっと歯を見せた。


「そうだ俺、鴨井さんに用事があるんだった」

「私はこれから病院に行くのでこれで」


 同時に話しかけてしまって、どうにも締まらず互いに笑い合う。去り際、信乃が片手を出してきたので握手をしようとしたら、小気味よい音をさせて手の平を叩いて出て行った。

 

 じんとした痺れと共に寿太郎は信乃を見送ると「班馬」の梱包作業を見守っていた鴨井に声を掛けた。


「やあ高村君。随分とご活躍じゃないか。犯人どころか元締めを捕まえるなんてね」

 相変わらず趣味の良いダークブラウンのツイードを着た鴨井が金鎖の音を鳴らしながら振り向いた。


「報告が遅れてしまってすみません。色々と立て込んでて」

「構わないよ。内務卿様からご連絡を頂いていたからね。これで依頼は完了だ。ご苦労」


 握手を交わすと、鴨井が事務的なことだがと前置きをして言った。


「給金は内務卿様の方から手配してもらう。君の帰国もあるし早めに手続きしよう」

「そりゃ有り難い。お陰様でまた無職だからな」

「ははは。そうだすっかり忘れていたが、犯人逮捕で追加の報酬を出せるが何か希望はあるかね」


 そう言えば、最初にそんなことを言っていたと寿太郎は思い出した。

「うーん、今言われても……そうだ。贋作を描いた人ってどうなるんだ」


「本人が売ったという証拠がなければ逮捕はできませんね。深山さんのことですか?」


 いきなり切り込んできた鴨井に寿太郎の顔が引き攣る。


 ――この人にバレてない方がおかしいか。


「こればっかりは俺だけではどうにもならなくてさ」


「ふむ、その件は善処しましょう。その代わりと言ってはなんなのですが、最後に一つ請け負ってもらえませんか? これは内務卿からのたってのお願いなのですが――」


 鴨井の提案に寿太郎は一も二も無く頷いたのだった。


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