第46話 カステラの功罪

 寿太郎じゅたろうは廊下のソファにどっかと腰を下ろした。

 八重子は寿太郎とは反対の端に座り、無意識なのか手を袖に引っ込めて隠した。寿太郎がじっと見ているのに気付いた八重子は膝の上に手を置き直すと、一つ咳払いをして口を開いた。


「深山の後妻に入ったのは須長さんに紹介されたから、というのは聞いているかしら」


「ああ、女中の婆さんに聞いた。どうせ金目当てだったんだろ」

 寿太郎が先手を打って言うと八重子はふっと吐息を漏らした。


「――そう。でもその頃には久仁信くにちかさんは、どうしようもないほどに酒に溺れてたわ。私も仕事を探したけど手に職のない女は真っ当な賃銀など払って貰えなくて」


 八重子の状況には同情する。だが、結果がこれでは寿太郎は彼女に共感など到底できなかった。寿太郎は八重子に続きを促した。

「須長に最初に会ったのはいつどこでだ」


「十五年ほど前かしら、元旦那が入り浸っていた港近くの賭場に行った時よ。自分の会社で借り換えれば利息が減ると言われて。その通り一時的には減ったわ。それで何年かはやり繰り出来てはいたのよ」


 寿太郎は腕を組んで顎を撫でる。

「あのさ、信乃先生や頼次が働き始めてからマシになったはずだろ。どうしてそんなに借金が膨らんだんだ?」


 いくら信乃の給金が御礼奉公で目減りしていたとしても、頼次の賃銀と合わせて食い扶持程度は稼げていたはずだ。

 八重子が頷いた。


「私は元旦那に言われるままの金額を渡していたわ。そりゃ少しは疑問に思ったけど株や投資のことは分からないし……特にここ五年ほどかしら。それまで数円だった月々の返済が十円近くに膨らんで借金は嵩む一方になったのは」


 考えなしに金を渡していた八重子もどうかとは思うが、そんなに急激に借金が増えるなんてどうにも腑に落ちない。

 寿太郎ははたと気付いた。借金が急激に増えたのがここ数年なら、皓宇ハオユーが賭場で高利貸しの斡旋をしていた時期と合うのではないか。


 ――あの馬鹿野郎。もう一発くらい殴っておけば良かった。


「それで須長はあんたに贋作を唆したんだな。一つ聞きたいんだが、須長は信乃の親父さんを酷く恨んでいたのか。だからあんたみたいな女を差し向けたのか?」


「はっきり言うわね。どうせ碌でもない女だと思ってるんでしょう」


「性格は直せないからな。俺も、信乃先生だってそうだ。先生が今のままでいいって言うなら、俺がどうこう言える立場じゃねえけど」


「須長さんが白茲はくじ――久仁信くにちかさんを恨んでいた。どうかしら。そんな素振りは見せなかったけど。そう言えば、久仁信さんは私とは目を合わせることはほとんどなかったわね……それはお互い様だけれど」

 八重子は自嘲気味に言った。

 他人に振り回されてきた八重子に唯一許されたことは、良くも悪くも自分を愛することだけだったのだろう。


 寿太郎はソファの背もたれに頭をもたせ掛けると、口を引き結んだまま天井を睨み付けた。これ以上聞いていても八重子の口からは謝罪などなさそうだ。脅して言わせても清々するどころか余計に気分が悪くなりそうだ。ここは経緯を聞き出せただけでも良しとするべきだろう。


 寿太郎は話を切り上げソファから立ち上がった。


「分かった。俺は信乃先生と東城の屋敷に戻る。あんたは頼次の側にいてやれ。それくらいできるだろ。目が覚めた時に誰もいないじゃあ、流石にあいつが可哀想過ぎる」


「私が逃げるとは思わないの」

「俺は止めない。好きにしろ。本物のクズになりたいのならな」


 八重子を従えて戻った寿太郎は病室に入るなり信乃に声を掛けた

「信乃先生もう出よう。後はマダムが見てる。ここに居たいなら別だけど」


「そう、ですね。では義母かあさん、私は一旦、家に戻ります」


 信乃が告げる言葉に八重子は反応しなかった。そういう性分なのだと分かっていても寿太郎は苛つきを押さえられなかった。我慢せずに一言ガツンと言っておけば良かったと思っていると、八重子が口を開いた。


「そう。頼次の着替えを用意しないと……信乃さん、明日朝にキヌさんにお願いしておいてくれるかしら」

「分かりました。義母さんの分の着替えも用意します。夜は冷えますから、これを」


 信乃は自分の羽織を脱ぐと八重子の肩に掛ける。


 翌朝、鴨井の手配した警察官が病室を訪れた。そしてこの夜が信乃と八重子の最後の会話となったのだった。




 寿太郎が自転車を深山家の門前で停める。信乃は自転車の荷台から降りるなり膝に手を突いて目を回していた。


「先生、大丈夫か?」


「自転車で出す速度じゃないでしょう。しかも夜道ですよ。私は右手一本で掴まっていたんですよ、いつ振り落とされるか気が気でありませんでしたよ!」


 信乃が文句を言っている間に寿太郎はガシャンと音を立てて自転車をスタンドで固定する。


「ネーデルランドじゃ平地ならあれくらい普通だぞ」


 寿太郎の本当か嘘か分からない言い分に信乃が疲れた顔でため息を付く。そもそも乗るときにも一悶着あったのだが、信乃は心底後悔したらしくぴしゃりと言った。


「今後、絶対に君の自転車には乗りませんから……どうかしたんですか?」


 寿太郎は信乃の両肩に手を乗せ、思いっきり叩いた。何度も何度も叩いていると、いい加減信乃が怒り出した。

「ちょっと、痛いですよ。一体なんなんですか」


「良かった……本当に、俺、心臓が潰れるかと思ったんだからな」


 叩き続ける寿太郎の腕を退けようとした信乃の右手が止まった。


「なんであんな無茶をしたんだよ」


「無茶ですか、私はそうは思ってなかったんですが」

「いやいや、どう考えたって無茶だろ……」


「だって君は来たじゃないですか。遠ざけようが閉じこめようが君はやって来た。私なんかのために。だから、特に不安は感じませんでした」


「参ったな。ちょっと先生を甘やかしすぎた」

「甘やかしている自覚はあるんですね」

「今更だぞ。ハンカチを渡したあの時から筋金入りだ」

「その割には何十年もほったらかしでしたよね」


 寿太郎はぼやけた視界の端を手の平で拭った。既に夜は更けて宵闇は深く、軒灯けんとうの幽かな明かりは丁度良く寿太郎の表情を隠してくれているはずだ。


「まだまだ仕事は残ってるから先生にも働いてもらうし、大丈夫だって」

「まったく、君といるとタダ働きばかりですよ」


 自分はあと数日で居なくなる。それまでに何かできることはと考えてみたが、多分そう多くはない。功名心からでない、素直な気持ちでそう思えることが、寿太郎には何より嬉しかった。




 翌朝、寿太郎は借りた客間ですっきりと目を覚ました。全く丈の合わない浴衣はもはや引っかけているだけの状態だったが、とりあえず適当に直して部屋を出る。


「あら異人さん、お早いお目覚めで」


 廊下に出ると右手の厨房からお膳を持って出てきたキヌに声を掛けられた。


「おはようございます。どうもお邪魔してます……あの昨日だけどさ」


 寿太郎がキヌに伝えようかどうか迷っていると、キヌは割烹着の上から帯を太鼓のようにぽんと叩いた。


「奥様と頼次坊ちゃんですよね。なんぞあったんでしょうが、アタシが聞いていい話じゃござんせん。さあさ、居間の方に朝餉の用意が出来てございます。ああ、若い人はパンとかの方が良かったんですっけ」


「あるだけで十分ありがたいよ。そうだキヌさん、昨日は新聞記事をありがとう。助かったよ」

「そりゃよござんした。ではアタシは信乃坊ちゃんを起こして参りますね」


 キヌは坊ちゃんは朝弱いだのなんだのとブツブツ言いながら離れの方に歩いて行った。


 しばらくして、半分目を閉じたままの信乃がキヌに押されてふらふらと居間にやってきた。

 ――そうまでして起こさなくても良かったんだけど。


「先生、おはよう」


 挨拶するとむにゃむにゃとした返事が返ってきた。寿太郎がおおよそ食べ終わった頃、信乃はようやくしゃっきりしたのかきちんと座り直して、もう一度おはようと言った。


「まさか先生、寝てないの?」

「寝ましたよ。少し思いついて下絵を描いてました」

「そんなことばっかりしてたら身体に悪いぞ」


「自分の描きたい物を好きな時に好きなだけ描けることが嬉しくて。つい」

 朝日が差し込む和室で信乃が屈託なく笑う。


「これからはいつだって描けるじゃないか」

「ええ、そうですね。君のお陰です……なんですかその顔」

「先生が素直で気持ち悪い」


 信乃はさっと笑顔を仕舞い込むとむすっとして言った。


「では、一つだけ苦言をいいましょうか。離れのふすまを破いたのは君ですか」


 寿太郎は顔を引き攣らせた。

「いや、あれはカステラが引っ張って――すみません。直します」

「よろしい」


 カステラが破ったふすまを修理するため、着替えてから離れへとやってきた寿太郎は、襖の前で呆然としていた。

 信乃もキヌに作ってもらった糊を入れたお椀を片手に声を失っている。


「なあ先生、これどこかで見たことあるよな」

 信乃は頷いた。


「二曲一双の片割れ――班馬はんばです」

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