第47話 デ・フォルマシヨン(歪曲)
「以前から妙にぼこぼこしているとは思っていましたが、単に古くて
「まさか、最っ初からこんなに近くにあったなんてな」
襖紙の下貼りは全面に糊をつけて貼るが、中に絵を入れるのに袋状にしたため、カステラが引っ掻いた衝撃で剥がれてしまったのだろう。
「これって絵の半分だよな。もしかしてこっちにもあるのか?」
寿太郎はもう一枚の襖も取り外して上貼り剥がしてみる。予想通り左側の半分が入っていた。絵は下に落ちない様に上部が糊で貼りつけられていて、襖から外すには専門家に頼まないと傷んでしまいそうだ。
「先生、どうする?」
「そうですね。このままにしておくと傷みそうですし上貼りをもう一度貼り直すしか」
「いや、そうじゃなくてさ。真っ黒の……じゃない
「本物で間違いないでしょう。しかし、変な絡繰りとか仕掛けが好きだった父のことですから、これが本当に『
「どうやって?」
信乃が珍しく不敵に笑う。
「そんなの、実際に見たことのある人物に訊けばいいんですよ」
週明けの月曜日、本来は須長の本社事務所に踏む込む予定だったが、急遽変更になり関係者は東城屋敷に集まることとなった。
東城屋敷の大広間の中央には、襖から丁寧に剥がされて仮仕立てされた屏風「
広間の前半分のテーブルは片方に寄せられ椅子だけが整然と並べられている。さながらオークション会場のようだが、違いは競売人の位置にぽつんと一つだけ椅子があり、絵に正対して置かれていることだ。
「高村、信乃
寿太郎と信乃を見つけた若溪が小走りで寄ってきた。寿太郎は正面の絵を指差す。
「翁が探してた屏風絵が見つかったんだ。それのお披露目兼、鑑定。そういや今日は
「横濱で謹慎中よ。あの日は必要だったから同行させただけ」
「そうなんですか。頼次を助けて頂いたお礼を言いそびれてしまいました」
信乃が残念そうに言うと若溪は嬉しそうに言った。
「私から言っておくわ。相当反省してるようだからしばらくは大人しくしてると思う。それより、あの絵はどこで見つけたの?」
「信乃先生の家だよ。襖に貼ってあってさ、大き過ぎてどうにもならなくてよ」
腕を組んで言う寿太郎に若溪が驚く。
「まさか襖ごと背負って来たの!?」
「自転車の荷台に載せてだよ! ――って余り変わらないか。折り曲げられないし電車には乗らないし、自動車にも入らなくて大変だったんだぞ」
その時、大広間の扉が開け放たれ、翁、内務省の鴨井、以前会った横濱税関の職員が次々と入ってきた。それぞれが軽く自己紹介の挨拶をしてから着席する。
間を置かず正面奥の使用人用の小扉が開くと、腰縄で繋がれた須長が私服の警官に連れられて入ってきた。よほど騒いだのか、殺人犯でもないのに目隠しと手錠、猿ぐつわまでもされている。
「先生、本当に須長に確認させるのかよ。あんな嘘つきに?」
「まあ様子を見ましょう」
警官たちは襖絵の前にある椅子に須長を座らせると、肘掛けに手錠を取り付けてから腰縄を持ったまま須長の側に立つ。
翁が飯塚に支えられながら須長に近づくと、警官が須長の目隠しを解いた。
「――!」
正面にある絵を見て須長が目を見開いた。
「
首を回し翁を仰ぎ見た須長の表情が途端に険しくなり、くぐもった声が漏れた。
「外してやりなさい」
翁の指示に警官が猿轡を外すと途端に須長が喚き出した。
「東城ぉおおお、貴様あああああ!」
「永青、お前の目の前にある絵は『
翁の問いに須長が狂ったように笑い出した。
「は、ははは、お前目が見えないのか! 俺の絵を切り裂いた天罰だ!」
翁は大きなため息を付くと首を振った。
「世迷い言を……儂は元々目が弱かった。いつかは見えなくなるのは分かっていたことだ」
「はっ、それであいつの同情を引いたのか?」
須長の言い草に翁は鋼のような声でもう一度言った。
「その絵は『班馬』か?」
「何故俺に確認する。合作したのはお前だろう
「永青お前は何か勘違いをしている。いや、それが事実だと本当に思い込んでいるのか」
「どういうことだ!?」
「白茲は……
途端に須長の顔色が変わった。
「噂? 何を言っている。俺は……本当に」
「お前は二つの根も葉もない噂を校内に流した。一つは久仁信がお前と合作すること。もう一つは展覧会で審査員を買収したという噂だ」
翁の告発に信乃が先に声を上げた。
「買収だなんて、父は絵を描くことを愛していた。そんなことをするわけがありません!」
「息子のお前が知らないことだってあるだろう。俺は聞いたんだぞ、本当だ!」
嘲笑った須長に信乃は壁際から一歩踏み出してひたと見据える。寿太郎は信乃がそのまま飛び出すのではないかと思ったが、彼は背筋を伸ばし凜として言った。
「たしかに祖父の代まではお抱え絵師としての名声もありました。しかしその後は
信乃の言葉を受けて翁が頷く。
「信乃君の言う通りだ。儂もその後、買収されたという人間を探したが見つからず仕舞いだった。それに
須長は信乃の方には一瞥もくれず、翁に向かって吐き捨てるように言った。
「はっ、人の絵を台無しにしたお前どこが違う。友人を守るためだ? 貴様がそんな感傷的な男のわけがない。帝国美術学校最高峰の賞を取る、これがどれだけのことかお前は十分に知ってるだろう」
「――儂は」
翁に水を向けたことで遠回しに嘘を認めた須長は自棄になったのか翁の言葉を遮って更に言い募った。
「うるさい! 実力以上のことを望んでいたのは俺が一番知っている。だが一等では駄目だった。特等を取らなければ家業を継ぐことを約束させられた。俺は特等でなければならなかったのだ」
寿太郎はそっと大広間を見回す。誰もが息を潜めていた。須長の声以外、唾を飲み込む音さえ聞こえない。
須長は自ら吐いた嘘をまるで真実であったかのように話した。歪んだ記憶に囚われた須長が喚き続ける。
出し抜けに、カンッと固く鋭い音が広間に響いた。
翁が杖を強く床に打ち付けたのだ。須長がびくり身体を揺らして口を閉じる。
「だからだ。だから
須長の瞳孔が狭まった。額には脂汗が浮き、余程歯を食いしばっているのか首に筋が浮き上がっている。翁はもう一度杖で床を突くと、須長の意識を自分に向けさせた。
「合作の理由が知りたかったと言ったな。
翁はそこで一旦息を吸い込むと、細く長く息を吐いた。
「今思えばなんと浅はかだったのだろう。その後だ。久仁信がお前の苦境を知ったのは。奴は儂との約束とお前の流した噂との間で悩んだ。不器用な
――それで白茲は「班馬」を展覧会に出品せず、繰り上げで須長が特等になったのか。
しかし、須長の絵を切り裂いたことで翁も画業を断念し、家業を選ぶこととなった。
寿太郎ははっと気付いた。
――そうか、白茲は翁を恨んでいたんじゃない。怒っていたのか。一等でも視力がもつ間は画家として作品を残せたが、翁がそれすらもせずに筆を置いたからだ。
優しさは時に残酷だ。
翁は杖を須長の肩にぴたりと乗せた。
「儂は許せなかったのだ。久仁信を踏み台にした特等など断じて許せなかった。お前も儂自身もだ」
「はっ、自分の絵だけ美術館に飾っておいてどの口が言うか」
「そうか、お前は我々が何事もなく卒業できたのはなぜか知らないのか」
須長は翁の言っている意味が分からないのか胡乱な目で翁を見た。
「久仁信が美術学校の総会で一連の事件の後始末を全て一人で被ったからだ。儂の絵は特等に押し上げられたが辞退した。あの絵が美術館にあるのは儂自身が寄贈したからだ」
寿太郎はああと思い至った。翁が寄贈したのは消えた班馬を探すためだったのだ。
信乃は白茲の画風に寄せられた絵と落款の位置で気付いていたのだろう。「
「嘘だ……そんなこと、俺は知らない」
翁の見えない目を正面から受けて須長はぐうっと喉を詰まらせた。
「お主は到底許されぬことをした。船舶業を継いだお前は国内の美術品を端金で買い漁り、贋作を流通させ、画壇を
須長は唇を震わせて糸が切れた木偶人形のように項垂れ、抑揚のない声でぼそぼそと呟いた。
「――どうしてお前だったんだ。なぜ奴はお前を選んだんだ。なぜお前は『孤蓬』を描くのを許されたんだ……なぜ俺では駄目だったんだ……」
なぜを繰り返す須長には、もう周囲の声は届いていないようだった。翁は静かに言った。
「友との別れを惜しむ気持ちのないお前に久仁信は『孤蓬と班馬』は相応しくないと思ったのだろうな」
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