第45話 放言の代償
全員が動きを止めた。
静まりかえった事務所の中、一人、
「頼次!」
須長に捻られた腕を押さえながら
直ぐ側にテーブルから垂れた須長の腕がだらりと伸びている。顔を上げると至近距離で銃声を聞いてしまったのか意識を失っているらしい須長の顔が見えた。立ち上がった寿太郎はその襟首を掴んで引き上げる。それから頼次の側でぴくりとも動かない信乃に向かって声を掛けた。
「信乃先生、頼次は!? この辺に病院はあるか?」
「あ……ええと……」
完全に動転しているらしい信乃に代わって
「近くに
「に、逃げねえよ!」
出て行こうとした皓宇は扉前で引き返して信乃の側へ走り寄った。
「そいつ、見せてみろ」
皓宇は頼次の様子を手早く調べると自分の髪を括っていた長い飾り紐を外す。
「肩か……
最後に皓宇は頼次の鼻の下を親指でぐいと押す。
「気が付いたら布でも噛ませておけ」
皓宇が事務所から飛び出して行くと、寿太郎はぐったりしている須長の頬を手の甲で叩いた。
「おっさん。狸寝入りしてねえで起きろ」
須長は意地でも目を開けないつもりらしい。寿太郎は須長の右腕を背中で捻り上げる。堪りかねた須長が悲鳴を上げた。
「このオトシマエどう付けてくれるんだ?」
「い、今のは事故だ。私には関係ない!」
「馬鹿野郎! 人様に銃口向けて置いて、そんな言い訳が通るわけがねえだろ!」
寿太郎が耳元で大喝すると、須長は目を回してぐったりとなった。
「
「もう呼んであるから大丈夫よ。それよりも早くそいつを拘束しておしまいなさいな」
若溪が何かを投げて寄越した。寿太郎は受け取った物を見て驚いた。
「おい、本物の手錠かよ!? 俺、逮捕権なんてねーぞ」
「私がやったら捕まるじゃない。あなたなら怒られる程度でなんとかなるでしょ」
「俺は捕まってもいいのかよ……ったく」
両手をお願いの形で顔の横で合わせる若溪に、寿太郎はこういう奴だったと諦めつつ、須長に手錠を掛けた。
意識が戻った須長を連れてビルから出ると、寿太郎たちと入れ替わりに清掃業者がビルの階段を駆け上がって行く。ビルを出ると
「高村、怪我人をこっちに!」
寿太郎は
「あんたはどうするんだ、若溪」
「私は須長の本社に行くわ。先に押さえなきゃいけない物があるし」
若溪が指差した車には数人の男が乗っていた。制服は着ていないようだ。恐らく若溪の部下たちなのだろう。
「ちょっと待った。それって
不安げな表情が顔に出ていたのだろう、若溪は寿太郎に指を振った。
「今日の事件で
車に乗り込んだ若溪に寿太郎は頭を下げた。
「ありがとうな。悪いがもう一つ頼まれてくれないか。深山家の権利証を探して確保してくれ」
若溪は「
「おい、
「行くってどこへだよ。しかもなんで俺がお前なんかと一緒なんだよ」
心底嫌そうにしている皓宇を寿太郎は残った車に追いやった。
「この状況だと、力仕事が出来るのはお前しかいないだろうが」
「なに? 貴様もようやく俺の実力に気づいたのか」
寿太郎は長い髪を払って決めている皓宇を車に蹴り込む。
「須長を押さえておくためだっつの! 御託はいいからもっと詰めろ」
寿太郎は手錠を掛けられた須長を後部座席に押し込むと、ビルの階段下に繋いでいたカステラの元へと向かう。
「カステラ、大人しくしてて偉いぞ!」
寿太郎は手すりに結んでいた引き綱を解いて子犬を抱き上げると、車に戻って須長の隣に乗り込む。
「遅くなった。車を出してくれ」
「高村様。ご無事で何よりでございます」
バックミラーにいつも通りの飯塚が映っている。
「飯塚さん!? こんな所までお疲れ様です。じゃあ、さっきの清掃屋さんは……」
「はい、翁の指示でございます」
――なるほど。この手際の良さは内務省の鴨井さんが手配して
くれたのか。
今まで大人しかった須長が手錠をがちゃつかせて身体を捩った。
「ま、待て。私をどこへ連れて行くつもりだ! 先に弁護士を呼べ、弁護士を!」
白手袋を履いた飯塚がハンドルを回し、クラッチペダルから足を離した。あり得ないほど静かに車が動き出す。
「東城の屋敷だ」
青ざめた須長はそれから一言も話すことなく俯いていた。
寿太郎は飯田橋の東城屋敷で須長と子犬を飯塚に引き渡した。
それから別の運転手に頼んで直ぐさま車で上野へととんぼ返りする。
直接病院に行かなかったのは、信乃が乗り捨てた自転車を拾うためだ。
適当な所で下ろして貰った寿太郎は、教えてもらった大学病院まで自転車で向かった。かなり急いだものの到着した時には既に日が暮れてしまっていた。
受付で聞くと頼次は既に病室へ移動したという。寿太郎は直接そちらへ向かった。教えてもらった外科病棟の病室番号を見つけると、扉のない病室のカーテンを少しだけ引いて中を確認する。そこにはぐったりとした様子で座っている信乃と八重子がいた。
「信乃先生、遅くなった。頼次の様子はどうだ」
「今は問題ないです。しばらくは入院ですけれど」
眠っている頼次の布団を掛け直した信乃の袖口から包帯が見えた。
「その腕、大丈夫か?」
「軽い捻挫です。
一先ず胸をなで下ろした寿太郎は、病室の隅で放心したように座っている八重子に歩み寄ると声を掛けた。
「マダム、ちょっと廊下に出てくれないか」
病院廊下に出ると高い天井にぶら下がっている白熱電灯は夜になってかなり光量を落としていた。薄暗い中、消毒液の入った
大人しく後ろを付いてきた八重子に寿太郎は淡々と告げた。
「今、
黙りこくっている八重子に寿太郎はなんとも言えない気持ちになりながら話を続けた。
「権利証も取り返して信乃先生に渡す。それでいいよな」
「――私を責めないの」
八重子が初めて口を開いた。謝罪の言葉が出ると思ってたがそうではなかった。寿太郎は
「責めて欲しいのかよ」
「謝って欲しいと思ってるんでしょう?」
寿太郎は頼次が執拗に人を疑う理由が分かった。この女は相手が欲しがる言葉が分かっていても一切投げかけない。幼少時からこんなことをされ続けていたら、人の顔色ばかり伺って表面上は従順だが猜疑心の強い歪な人間が出来上がるのも無理はない。
「俺に謝っても意味ないだろ。それに、あんたが実の息子より絵を守ることを優先した事実を擁護なんて俺にはできねえよ」
八重子はじっと青いリノリウムの床をただ見つめているだけだ。寿太郎はやるせない気持ちを抑えて言った。
「まあでも、少しくらいの言い訳は聞いてやるよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます