第44話 一色即発

 磨りガラスの窓に西日が差し込み始めていた。刻々と色を変える茜色が味気ない事務所内に彩りを添えていく。


 形勢は逆転していた。


 寿太郎じゅたろうは八重子が叫び出さないかと気を揉んだがその必要はなかった。背後から見た八重子は引き攣った顔こそ見えないものの身体が小刻みに震えている。


 信乃しのはと言えばソファの前に立っていて辛うじて寿太郎からは見えるが、肝心の須長が八重子の影になっていて見えないため、自動拳銃の安全装置が外れているかどうかは分からなかった。


 友軍の若溪ルオシー皓宇ハオユーは寿太郎の背後にいてここからは指示が出せない。誰もが互いに手の届く範囲にいない微妙な立ち位置だった。


 やはり鴨井に無理を言ってでも武器を用意してもらうべきだったと寿太郎は後悔した。荒事に慣れている若溪と皓宇は別としても、残り三人を同時に助けるのは不可能だ。それなら誰を守るかだが――。


 寿太郎はいつでも動けるように両手を軽く握ったり開いたりして、できるだけ緊張を解す。 極限まで張り詰めた空気の中、信乃が何ごともなかったように言った。


「もしかして須長さんも月白つきしろのエスキースの実作品、『班馬はんば』を探しているのですか」


 須長は八重子に照準を合わせながら移動し、テーブルの上の黒い和紙を拾い上げた。位置がずれて寿太郎から須長の様子が見えるようになる。


 先ほどまで寿太郎は激高していて気付かなかったが、何やら白い絵が描いてある。


 ――待て、あの黒い紙って俺が紙挟みカルトンに入れた奴か!?


 信乃の表情を見るに、相当大事なものなのだろう。あの時は仕方なかったとはいえ、ちゃんと確認しなかった自分の落ち度だ。

 寿太郎は信乃が須長の気を逸らしている間に何か手はないかと視線を走らせた。


「私が? 探しているのは東城だろう。まあ大方その新聞の記事を信じたんだろうが私は完成品を見ていない。そもそも『班馬はんば』は展覧会に出品されていない」


「絵は完成していなかったのですか?」

「さあ、どこにあるのか捨てたのか……完成したかどうかなど画家本人の主観でしかない。そうだろう?」


 須長の注意が逸れた思ったのか八重子が数歩後じさった。それに気づいた須長が銃口を八重子へ向け直す。悲鳴を上げた八重子は腰が抜けてその場にへたり込んだ。


「父が卒業できなかったのは、それが理由ですか」


 信乃は臆することなく須長へ話しかけ続けている。このまま意識を逸らしてくれればいつか逆転の目が出るかもしれない。寿太郎は額に汗が流れるのを我慢して好機を待った。


「そんな事を聞いてどうする」

「単なる興味です。私は美術学校に行きませんでしたから」


 この信乃の言葉は須長の興味を強烈に惹いたようだ。

「ほう……信乃君も自分の道を選べなかったクチかな?」


 ――まったくどの口が言うか。


 寿太郎は今すぐ須長を殴ってやりたかった。この男が深山家を引っかき回しさえしなければ、今頃信乃は己の道を自由に歩んでいたはずだ。状況を忘れて須長を問い詰めたい気になったが、すぐに別のことに気を取られた。信乃が後ろ手に羽織の下から何かを引っ張り出そうとしているのが見えたからだ。


「どうでしょうか。他の道があったかどうかなど今まで考えてみたこともなかったので」

「その割には納得していない様子じゃないか」


 須長は信乃の前に移動すると持っていた月白つきしろのエスキースを上から放った。場の空気を切り裂くように滑り落ちてきた絵を信乃は慌てて受け止めた。その大仰な動きを小馬鹿にしたように須長が笑う。


 素晴らしいだの、大事な商品だのと言う割には絵をぞんざいに扱う。寿太郎にはこの男の真意が見えなかった。


「……父は東城伯爵の事についてはいつも愚痴を言っていましたが、あなたの事は一切話したことがありませんでした。しかしあなたは違う。執拗なまでに深山にこだわっているのは、復讐のためですか」


 一足飛びに踏み込んだ質問をした信乃に寿太郎の心臓が跳ね上がった。須長の変化を一切見逃すまいと神経を張り詰める。

 寿太郎の心配は杞憂に終わった。信乃の一計は功を奏し、須長は八重子に向けた銃口を下ろした。


「何も、だと? 奴は一言も私の事を話さなかったというのか。ははっ……蛇蝎の如くとはまさにこのことだ。私は奴の記憶の中に何一つ残せなかったというのか」


 須長は右手の拳銃を上下に揺らしながらブツブツと何かを呟いていた。


「この絵もそうだ。奴が急に東城と組むなどと言わなければ、私はあんな事などしなくて済んだのだ。なのに奴は絵を搬入すらしなかった。お陰で私は実家との約束を守れず絵を描く道を絶たれた」


 須長の話す内容は寿太郎にとって何一つ分からなかったが、信乃の側に近づくには絶好の機会だった。しかし、実行に移す段になって背後に頼次が居ないことに気づいた。視線を走らせると信乃のソファの真後ろでごそごそと何かが動いている。


 ――何やってんだ頼次! 自分から動けとは言ったがここで動くか!?


 寿太郎は一瞬、頭に血が上りそうになったがふとあることに思い至った。頼次の突然の行動の原因はけしかけた自分にあるかもしれない。今、銃口を向けられているのは自分の母親なのだ。きっと頼次には何か考えがあるのだろう。


「父は言ったことを簡単に覆すような性格ではありません。父が展覧会に出さなかったことと、貴方が絵を描くのを止めた事に何の関係があるのでしょうか」

 信乃は淡々と言った。須長の言い分は一見筋が通っているようで、どこか歪で何かがおかしかった。


「うるさい、そんなことは東城から聞け――そこのお前、さっきから何をしている!」


 ソファの後ろを這っていた頼次がびくりと身体を揺らした。案の定見つかった頼次はその場でゆっくりと立ち上がった。


「何か、落とし物が見えたんで取ろうかなって思って」

 とぼけた頼次が寿太郎をチラチラと見てくる。


 ――何も考えてなかったのかよ! いやいや、俺を見てもこの状況は無理だぞ!


 須長は八重子の方を見て呆れたように笑った。


「まったく母親共々使えない。手切れ金で我慢すると思えばこんな所にまで乗り込んでくるわ、掛けた時間がまるで無駄だったな。最初から王将を狙う方が早かった」


 須長が空いた左手を信乃に差し出した。


「信乃君。私と一緒に新天地に行かないかね。今、青島チンタオは再開発の真っ盛りで投資も盛んだ。彼等投資家に絵を売れば君の腕なら今よりよほどいい暮らしができる」


 須長の話に寿太郎は頭の中で付けていた段取りが全て吹き飛んでしまった。内心狼狽えていると、信乃の方は慌てる様子もなく言った。


「魅力的なお誘いですが、それはまだ私に贋作を描き続けろという意味ですか」


 若溪が小さく「えっ」っと呟く。そう言えば双子は翁から深山家を見張る理由を聞いていない事を寿太郎は思い出した。


「そんなことはしなくていい。私が大々的に売り出せば、かの白茲の息子なら注目度は否が応でも上がる。それに現地では教師も不足していて君にはぴったりじゃないか」


 須長は白茲を利用するだけでなく、今また息子までも食い物にしようとしている。とことん人を小馬鹿にした態度のこの男に寿太郎は反吐が出そうだった。


 信乃は少し考えてから須長の手を取った。


「先生! そんな奴の話を真に受けるのかよ!」


「流石、須長さん。私のことをよく調べていますね。なのにどうして分からないのでしょう。あなたが父のことを理解できなかった理由はきっとそこなのでしょうね」


 言うや否や、信乃は須長の左手を思いっきり引っ張ってテーブルに引き倒した。


 机に突っ伏した須長を数歩で詰め寄った皓宇が背中を押さえつけ、寿太郎は拳銃を持った右手を踏みつけた。


 寿太郎はそのまま須長の手から拳銃を奪おうとしたが、銃口が自分の方を向いているのに気づいて躊躇した。須長の口からくぐもった声が漏れた。


「この状態でも引き金を引くくらいはできるぞ」

「撃ってみろよ。お前も道連れだぞ」


 須長の首には頼次の持つ小刀がぴたりと当てられていた。頼次が信乃の懐刀を受け取っていたことに須長は気づいていなかったのだ。


須長スーチャンもう諦めなさい。ファン家の代りに貴方を裁くのは東城伯爵よ」


 若溪が八重子を支えながら言うと、須長の表情が一変した。


「東城だと? 俺の絵を切り裂いたあいつに裁く権利などあるものか!」

「切り裂いたって……翁がですか?」


 信乃は暫し動揺していたようだが、大きく息を吸って落ち着くと須長に言った。


「その話は後で伺います。須長さん、拳銃ピストルから手を離して下さい」

「何を言っている。手を離すのはお前達の方だ。私に少しでも傷を付けてみろ、腹の下にある絵が台無しになるぞ」


 その時、須長の言葉を聞いて腰を抜かしていたはずの八重子が、出し抜けに寿太郎を突き飛ばして皓宇ハオユーの腕に縋り付いた。


「止めて、絵を汚さないでよ!」


 八重子の思わぬ行動に驚いた頼次は反射的に懐刀を持った手を引っ込めた。八重子を振り払おうとした皓宇の手が緩む。その隙に須長はテーブルの上を転がって信乃に掴まれた左手を捻り外した。


「この野郎――!」


 寿太郎は須長に振り下ろそうとした拳をほんの一瞬、躊躇ってしまった。


 そのままの勢いで転がった須長の手からすっぽ抜けた拳銃が固いテーブルの上に落ちるのを寿太郎は見た。声を上げる暇もなかった。


 次の瞬間、ガアンと一際大きな音が事務所内に響いた。

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