第43話 月白のエスキヰス

「やはり貴方が義母ははに贋作の指示をしていたんですね」


「これは人聞きが悪い。それでもいいと言っただけです。そう怖い顔をしないで下さい。私たちは同じ穴のむじな。絵がないのなら君を連れていけばいいだけのことです」


 須長の視線をまともに受けて全身の毛がそそけ立った。寿太郎の言う通り、一人で来たのは不味かったかもしれない。後ろにいる須長の部下は腕っ節では役に立たなそうだが、二人を相手にするのは分が悪い。


 カランとドアベルが鳴った。緊張が一気に緩んで須長が大げさに吹き出した。


「冗談ですよ。ねえ、深山の奥様」


 須長の言葉に信乃はソファ越しに振り向いた。戸口に着物姿の八重子が立っていた。こんなに早くと思ったが、大通りの辻待ち自動車タクシーにでも乗って来たのだろう。


「ああ、絵をお持ち頂いたんですね。助かります」

「貴方が言っていた通り、スケッチがまだ残っていたようですわ」


 八重子は持っていた紙挟みカルトンをテーブルに置いた。手揉みをしながら待つ須長の前で紐を解くと中から真っ黒な画仙紙がせんしが出てきた。


 八重子は黒い紙を手に取ると唇を震わせて今にも握り潰しそうな勢いで言った。


「何この紙、真っ黒じゃないの。あのエセ役人!」


 真っ先に反応したのは信乃だった。

義母かあさん、それは!」


 怒りで両腕に力を入れた八重子を止めようと信乃が腕を伸ばす。しかし、信乃の手が届くより先に須長が叫んだ。


月白つきしろのエスキース! まだあったのか!」


 須長の感極まった声に驚いた八重子の手が一瞬止まる。

「何、なんなのよ。二人して大声出して」


 信乃はひとまず安心すると八重子を興奮させないようにゆっくりと話した。


「義母さん、それを裏返して見て下さい」


 八重子が黒い紙をテーブルの上で裏返すと、そこには中国風の衣装を纏った男が雄大な大河を前に馬を引いている絵が白絵の具一色で描かれていた。


 信乃は八重子を逆上させないよう、できるだけ話を引き延ばせるような話題を選んで話した。


「白黒なので銅版画メゾチントのようですがこれは着彩デッサンです。エスキスや下絵とも。黒地に白のデッサンには色は付けません。固形画材のパステルや白墨、白鉛筆などで陰影を描いて終わりなことが多い。そしてこれは着彩をなぜか白絵の具である鉛白えんぱくを使って塗った、一風変わったものです」


 単色の素描は陰影の度合いを見る機能的なものだが、この絵にはそれだけではない美しさがあった。青味を含んだ冴え冴えとした白を好んだ白茲はくじの骨頂とも言える作品だ。


「そんなに珍しい物なの。じゃあ、あの男はこれを見越して?」


 落ち着いた途端、嬉々として言う八重子に信乃は渋い顔をした。

 寿太郎なら見ただけでこの絵が何なのか、どれだけの価値があるのか直ぐに分かったはずだ。たまたま紛れ込んだのか、単に面白がっただけなのか。何にせよ一番ここにあってはならない絵であることには間違いない。


 須長は胸ポケットから小さな真鍮製の拡大鏡を取り出してテーブルの絵をつぶさに見ている。


「これは白茲はくじが帝国美術学校在学中に描いた襖絵ふすまえの下絵だ。何が気にくわなかったのか奴は下絵を全て破ってしまった。もう残っていないと思っていたが……。卒業展覧会特等作品『孤蓬こほう』の片割れ『班馬はんば』。一度見たきりだったが素晴らしいな」


 須長が快哉に打ち震えているとドアベルの鳴る間もなくバタンと事務所の扉が開いた。ずけずけと中に入ってきた男は、三人の前に立つと手に持っていた紙切れを散蒔ばらまいて一喝した。


「白茲が絵を気にくわないから破ったって? このペテン師野郎」

「な、なんだね君は!」

「なんだと言われても。俺って信乃先生のなんだろう?」


 四方に紙片が舞い落ちる中で寿太郎が信乃の方を見てきた。

「……寿太郎、一体、どうやってあの部屋から出たんですか」


 寿太郎の後ろから頼次が汗だくの顔をひょいと見せた。

 信乃は犬猿の中だと思っていた頼次が離れの鍵を開けるとは思ってもみなかった。信乃の視線を受けて頼次が首を縮こめる。


「義兄さんゴメン。断れなくて」


「ぞろぞろと一体なんだ。商談中だぞ、今すぐ出て行きたまえ」

 喚く須長に寿太郎が人差し指を振って顔を顰めた。

「ん、あんたが須長って奴か? 待てよ、そのド派手な感じ、どこかで会ったような……気のせいか」


 信乃は寿太郎の足下に落ちている紙片を一枚拾う。

 それは新聞の切り抜きだった。記事には赤いインクで明治二十七年と日付が書き込んである。信乃は大仰に書かれた見出しをいくつか読み上げた。


「帝國美術學校で大騷動」

「卒業展覽會中止、件の學生は退學か」

「東城伯爵の計らひにり事態收束に向かふ」


 須長が舌打ちをした。


「須長さんは父と同期生だったのですよね。父は美術学校を卒業しなかったと聞きましたが、この件の学生とは父のことですか」


「そんなことは取引には関係ないだろう。そこのお前たちも、これ以上居座る気なら警察を呼ぶぞ」


「俺を脅しても意味ないぞ。どうせあんたは逮捕されるんだ」

「私を逮捕? 私は質流れ品を良心的な値段で海外に卸していただけだ。むしろ社会に貢献している私に感謝するべきだろう」


 須長はソファから立ち上がるとニヤついた顔で言った。その時、事務所の奥の扉が開いて先ほどの事務員がおどおどと出てきた。


「社長お~。またお客様ですぅ」

「今は忙しい、追い返せ」


 事務員は押されるように前に出ると背後から若溪ルオシー皓宇ハオユーが現れた。


「久しぶりだな須長スーチャン。諸々精算してもらいに来たぞ」


 その顔を見るなり須長は激高した。

皓宇ハオユー……お前、裏切ったな!」


「先に裏切ったのは手前てめぇだろうが! 上海航路に事務所開設の費用、密売ルートの提示、全部きっちり耳を揃えて黄家に返して貰う」


「相変わらず乗せられやすい男だな。そんなことをしてみろ、お前もただじゃ済まないぞ。どうだ、計算掛りの件は不問にしてやろう。青島チンタオの新航路開設を手伝ってみないか」


 須長は皓宇が既に逮捕されたのを知らないのだろう。皓宇が鼻で笑った。


「そりゃまた熱烈な口説き文句だな。でもここで喋っていいのか? あんたの後ろにいる赤毛の大男は役人の手先だぞ」


「あっ馬鹿。バラすなよ皓宇ハオユー! 若溪ルオシー、なんでそいつが出所してるんだよ!」


「出所って、そもそも勾留なんてされてないわよ。条件付きで保釈したの。それよりあんたこそちゃんと行き先を伝えなさいよ。本社ならともかく、質屋の場所を全部知ってるのは弟弟おとうとだけだったんだから」


「はあ? ここ以外にも質屋があるなんて俺だって知らねえっての!」


 信乃は頭上を飛び越えて言い合いをしている寿太郎と双子に頭が痛くなってきた。


 事務所の一番奥に座っている須長は壁を背にして完全に三方を信乃たちに囲まれている。普通に考えて武術に長けた双子と、素で腕っ節の強い寿太郎に挟まれた須長にはもう逃げ場はない。だが、須長は窮地に立っている様には見えず、むしろ余裕さえあった。信乃はそれが気がかりだった。


「なるほど。そこの赤毛の君は内務か財務の密偵ですか。あまりそうは見えませんが、まあどちらでも良いです」


「お雇い忍者舐めるなよ、おっさん」


 信乃は寿太郎のつまらない冗談を咎めようとして違和感に気づいた。先ほどまで須長はテーブルの向かい側、信乃の正面にいたはずだ。それが今は八重子の直ぐ側にまで近寄っている。


「舐めているのは君たちの方じゃないかね」


 須長の腕が一直線にゆっくりと八重子へと伸びる。その手には手の平に収まる程の小さな自動拳銃が握られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る