第42話 須長という男

 目当ての質屋は広小路の大通りから少し外れた裏通りにあった。信乃は自転車を階段脇に停め三階建ての雑居ビルの二階に上がる。


 窓から日が差し込む廊下を進むと須黄質舗すおうしちほと書かれた表札を見つけた。廊下の奥の方にも扉は見えたが、看板のあるこちら側が入口なのだろう。


 まずは電鈴などを探してみたが見つからず、控えめに扉を叩くと中から若い男性の声が聞こえてきた。ドアベルの音と共に中に入るとすぐ左手に受付台が一つ、正面奥に植木で目隠しされた商談用のソファとテーブルが一組見えた。


「すみません。質草を引き取りにきました」


 卓上呼び鈴をチリンと鳴らすと、間仕切りの奥から太めの男がのっそりと出てきた。

「はい、はい。ああご本人様じゃないんですか。それなら質札か身分証はありますか」

 質札を出すと男はそれを持って奥の部屋へと入っていく。


 信乃は男がいない間に背伸びをして間仕切り向こうの事務所内を見渡してみた。


 薄緑色のペンキで塗られた壁に沿って木製の棚が幾つかと整頓された事務机が二つ、壁には許可証らしき額縁が一つ掛かっている。左手奥には少し上等な机が一つと倉庫らしき扉がある。


 事務所なのに引っ越し前と言われても分からないほど妙にこざっぱりとしている。


 ファイルを片手に戻った男は信乃を鉢植えの向こうへと案内した。手前のソファに信乃が腰を下ろすと男は手に持ったファイルと質札を見比べた。


「ええと深山さん八十円……それと権利証もお預かりしてますねえ。とりあえず先に返済の手続きからいたしますね」


 信乃は封筒に入れた現金八十円をテーブルに置いた。男が中身を確認している間に質問を投げかけてみる。


「あの……あなたが須長さんですか」

「え? まさか、私はただの事務員ですよ」


 急に話しかけられた男は紙幣を数えていた手を止めてしまい、あっと言った。


「すみません。須長さんはこちらには居られないのですか」

「須長なら普段は本社の方ですねえ。滅多なことではこちらには来ませんから。では八十円確かに頂戴しました」


 もう一度、紙幣を数え直した男は最後の一枚を小気味よく指で弾いた。扇状に広げた十円札を丸盆に置くと質札に万年筆で返済日を書き込んだ。


「後はと、お預かりしている権利証でしたね。少々お待ちください」

 男は丸盆を持って忙しなく戻って行った。


 信乃は深く息を吐いてソファに沈み込んだ。裏帳簿の件は今はどうにもならないが、権利証さえ取り戻せばこの質屋との取引も終わりだ。


 その時、チリンとドアベルが鳴って一人の壮年の男が事務所に入ってきた。男は信乃を見つけると片手で帽子を浮かし「おや、お客様でしたか」と言った。


 信乃が軽く会釈をすると男は受付も通さず事務所内に入ってきた。信乃のいる客用のテーブルまで来ると、内ポケットからシガーケースを取り出して言った。


「失礼、煙草を吸ってもいいかね。灰皿はここにしかなくてね。君も一服どうだね」

「どうぞお気になさらず。用が済みましたら直ぐに出ますので」


 男は信乃の正面に座ると紙巻き煙草に小洒落たガスライターで火を付けた。


 仕立ての良い紺の背広に山高帽、角張った鼈甲べっこう眼鏡、大ぶりの指輪、胸ポケットから覗く絹製の白いチーフ、几帳面に整えられた口髭。それら高級品に身を包んではいるがしかし、どうにも下卑た感じがする。


 男は煙草の煙を下唇で受け上へと吐き出して言った。

「権利証を取りに来たのならここにはありませんよ。深山みやまさん」


 いきなり名を呼ばれた信乃は腰を浮かした。

 男はくわえ煙草のまま口の端を上げると机の上に置かれたままの質札を指差した。


「深山さん、でしょ? いつもは奥様が来られてるんですが今日は代理かな」

「貴方はこの事務所の方ですか」

「ああ、私は貿易商をしておりまして、この店は子会社なのですよ」


 男は取り出した名刺をテーブルに置いて信乃の前に滑らせる。名刺に肩書きはなく「須長永青すながえいせい」とだけ書かれてあった。


「あなたが須長さんですか。義母ははがお世話になっております。権利証がないとはどういう意味ですか」


 須長が答えようとした時、先ほどの事務員がタオルで汗を拭きながら戻ってきた。

「いやあ、すみません。探したんですがどうも本社の保管庫の方にあるらしく……あ、社長」


 男は須長の顔を見ると慌てて尻ポケットにタオルを突っ込んだ。社長の客だと思ったのか信乃へ何度も頭を下げ「直ぐにお茶を出しますね」と言ってあたふたと引き返していった。


「すまないね。彼の言う通り今ここには大したものは置いてないんだ。宝石類などの高価な質草や重要な書類は本社の金庫に移したんでね」

「そうですか。それではいつ返却――いや、今からそちらに伺ってもよろしいですか」


 畳み掛けるように言った信乃に須長は煙草を灰皿に押しつけて言った。

「深山さん、預かっている権利証は八十円の代りなんかじゃあないんですよ」


「どういうことですか」

 信乃は訝しんだ。そんな話は聞いていない。


「先日納品される予定だった絵の分ですよ。月曜日までに持ってきて頂けると聞いて、代わりに権利証を置いていってもらったんですよ。だから今日は絵を持ってきて下さったとばかり思っていたのですが、お持ちでない? ならお返しはできませんねえ」


 半ばニヤついた表情で言う須長に信乃は辛抱強く尋ねた。


「納品日は延ばしてもらえたと聞いていたのですが」

「まさかまさか、日々利息は積み重なっていきますからねえ。月曜日でもかなり多めにみているんですよ。上得意様ですからね」


 月曜は密輸出船が出航する日だ。信乃はもう少し踏み込んで聞いてみることにした。


「須長さんはいつもは本社におられると聞いたのですが、今日はなぜこちらに? 週明けから海外に行かれることと何か関連があるのですか」


「よくご存じで。なあに商談のために青島チンタオへね。なのでここはしばらく閉める予定でね。それでちょっとした後片付けに来たってなわけです」


 事務所の奥から戻ってきた事務員が、湯飲みを乗せた盆を持ったまま呆然と立っていた。まさか今日仕事を首になるとは思いもよらなかったのだろう。

 大変気の毒だが今それに同情している場合ではなかった。


 信乃は首を振った。

「絵はお渡しできません。ご存じかと思いますが、深山家にはもう何も残っていないのです」


 須長は煙草を硝子の灰皿へと押しつけた。


「無いなら描けばいいじゃないですか、深山信乃君」

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