第41話 杯浮かぶ細流は切札を待つ

 どこに隠れていたのか頼次よりつぐがひょっこりと顔を出した。格子にがっちり囲まれた離れを見廻して感心したように言う。


「お前すごいな。母さんと正面から渡り合える奴がいるなんて思わなかったよ」


「何を言ってやがる。お前がマダムを止めなかったからこんなことになったんだろうが」


 ただでさえ苛つく状況なのに、頼次が寿太郎をまるで檻の中の珍しい生き物のように見ているのも気にくわない。


「僕に母さんを止められるわけがないだろ」

「偉そうに言えることかよ。いいから早くここを開けてくれ。そこの柱の花瓶に鍵が入ってるはずだからさ」


 頼次は面倒臭そうに庭先で一輪挿しをひっくり返すと濡れた鍵を取り出した。和錠を開けてガタゴトと格子戸を戸袋に仕舞いながら呆れたように言う。


「これ義兄にいさんがやったのか。せっかく忠告してやったのに間抜けな奴だなあ」

「うるせえ。でも、ありがとよ。助かったぜ」


 寿太郎は子犬をまた背嚢リュックに入れると頼次に尋ねた。


「そうだ一つ聞きたいと思ってたんだけどよ。お前、あのマダムが誰に金を渡してたか知ってるよな」


「……ああ、知ってる」


 寿太郎の問いに頼次が一瞬身構えたので聞き出すのは無理かと思ったが、予想は外れ頼次は意外とあっさり認めた。


「だろうな。相手は離婚した親父さんだろ。借金元はそれか?」


 八重子は身持ちの悪い女ではないと信乃も言っていた。そんな女が定期的に纏まった金を持ち出すとすれば理由は限られてくる。


「そうだ。借金は父の船会社が倒産して出来たものだ。それが元で母さんは離縁した」


 頼次は柱にもたれて手の中にある真鍮の鍵を弄びながら続けた。


日魯にちろ戦争で株価が暴落して更に借金が嵩んで、父は自暴自棄な生活になった。深山の後妻に入ってからも母さんへの無心は続いてさ。僕が奉公に出て稼いでた時もあったけど、それも難しくなって義父とうさんが死んだ後は、残った絵を売り払うことで埋め合わせてた」


 一気に話した頼次は至極すっきりしたようだった。彼にとっても相当重い荷物だったのだろう。


「それでよく今まで信乃先生に隠し通せてきたもんだ」

「多分、義兄にいさんは薄々気付いてたんじゃないかな」


 寿太郎は頼次が弄んでいた真鍮の鍵を見てふと思った。

「信乃先生はいつからこの離れに住んでたんだ?」


義父とうさんが入院した時だから……三年前かな、直ぐに亡くなってしまったけど。それまで義兄にいさんは母屋の仏間で寝起きしてた」


「なるほど。じゃあ以前は普通の生活だったのか」

 寿太郎がほっとして言うと、頼次が話にならないといった風に首を振った。


「あんたは今まで深山の何を見て来たんだ。確かに衣食住はある。でも何かにつけて制限を掛けられ些細なことで罵倒され折檻された。外から見えない場所は青あざだらけ。僕も同じだけど義兄さんの方がもっと厳しかった」


 二重の意味で外から見えない場所というのが、外面を気にする八重子らしい。


「それでよく教師なんて職業を許したな」

師範學校しはんがっこうのこと? あそこ学費がタダなんだよ。その代わりに何年かのご奉公ほうこうがいるけどさ」


 ――世間様の聞こえがよくて、学費が掛からなかったから許されたわけか。


 学校さえ出しておけば、一時でも仕事があれば、余所様に言い訳が立つ。


「そんなに苦労して見つけた仕事をなんで辞めたんだ?」


「元からそういう約束だったんだよ。義兄にいさんは今年の春に年季が明けたから予定通り退任した」


 外に出るようになれば行動範囲が増える。余計な知恵を付ける前にあらかじめ年限で区切っておく。

 辞めた理由も身体が弱いからなどと近所に噂を流しておけば同情も買える。更に病気を理由に結婚をさせなければ、頼次の子が跡継ぎになって一石二鳥。


 八重子にとって信乃が入れる毎月の給与よりも家の秘密を守ることの方が重要だったのだ。

 何とも言えない気持ち悪さが沸き起こってきて、寿太郎は胃の辺りを押さえて気を落ち着かせた。


 それにしてもだ。

 どうして八重子のような女に今でも従っているのか。成人して家督を継いだ今は何もかも自由なはずだ。


 長年の刷り込みもあるのだろうが、寿太郎が思うに信乃のあの性格も禍しているのだろう。


 ――先生、変なところで意固地だもんなあ。こんな場所に何年もなんて我慢強いどころじゃない。というかトイレとかはどうしてたんだ。


 寿太郎は先ほど隣の小部屋で見た鍵付きの小さな扉を思い出した。

 目眩がした。


 確かに頼次の父は運が悪かったかもしれない。相次ぐ戦禍で経済は乱高下し、多くの会社は倒産の憂き目に遭った。


 元夫を助けたい八重子の気持ちは分からなくもない。

 だが、人を利用して浮き上がろうとした八重子の行動は理解しがたい。生きるためとはいえ八重子が取った手段には理屈も道理も無く、自分の都合で人を振り回しただけだ。


「金目当ての再婚か。そんなこったろうと思ったけど」


 ありふれているが尤も納得できる理由だ。

 知りたい理解したいという気持ちで聞いたものの、言葉が続かず黙り込んだ寿太郎に頼次はせせら笑った。


「どうした。義兄にいさんのことを聞きたかったんだろ?」


 この手の話は欧州貴族の間でも腐るほどある。寿太郎にとってそれらは顧客の機嫌を取るために聞く娯楽程度のものだった。


 しかし、見知っている人間にそれらが降りかかっている今、人ごとなどと流せるはずもなく、それは痛みにも似た実感を伴ってくる。

 寿太郎はずきんずきんと早く脈打つこめかみを手の平で押さえた。


「――俺、自分が思ってたより先生のこと大事だったわ」


 頼次はまさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「お前、変わってるな。この際だ、聞きたいことは聞いていけよ。一つくらいは答えてやるよ」


「一つってケチくせえな。んじゃ、マダムはいつ白茲はくじと知り合ったんだ?」


「母が離婚して直ぐの頃、紹介したい人がいると言って知らない男が長屋にやってきたんだよ。それからしばらくして、母と一緒にこの屋敷に移ってきた」


「その紹介した男って須長すながじゃないのか?」

「僕も小さかったしな。須長さんかどうかなんて細かいことは覚えてない。覚えてるのは最初に義兄さんを紹介された時くらいかな」


「何!? その話もっと詳しく」

 寿太郎が頼次の肩を揺さぶると頼次は寿太郎の顔を手の平で押し退けた。


「あーもう、うざい男だな。急いでるんじゃないのかよ!」


「そうだった。頼次、物はついでだ。東城屋敷に電話して若溪ルオシーに須長の質屋に今すぐ来いって伝えてくれないか」


「ついでで人を使うなよ。誰だよそれ」

 頼次は格子戸の鍵を和箪笥わだんすの引き出しに放り込むと、代わりに鉛筆とチラシの紙束を取り出して座卓に置いた。


「お前が忍び込んだ屋敷にいた中国人のお姉ちゃん」


「忍び込んでなんかない。門の前で捕まったんだよ。それにどうして僕があんな凶暴な女に連絡しなきゃならないんだよ」


 頼次は顔を真っ赤にして言い返したが、寿太郎は気にせずチラシの裏に電話番号を書いて頼次に渡すと子犬を入れた背嚢リュックを背負って立ち上がった。


「あ、もう一つ伝言だ。皓宇ハオユーって奴に賭場の名前と場所を聞いておいてくれ」


「はおゆーって……ああもう誰でもいい。いや待て、聞いてその後はどうするんだ」


 頼次は急いで紙束に名前を書き付けると、今にも飛び出て行きそうな寿太郎を引き留めた。


「先に質屋に行ってるから、聞いたら俺に教えろ」

「質屋の電話番号は母さんしか知らないぞ」

「場所なら知ってるだろ。走って来い!」


 言うだけ言って寿太郎はカステラと共に玄関へ向かった。門から出ると塀の側に置いていたはずの自転車が無くなっていた。


「ええっ、信乃先生、俺の自転車に乗って行っちまったのかよ!」


 仕方なく寿太郎は革靴の紐をしっかりと結び直し、背中の子犬を後ろ手に撫でる。

「カステラ、ちょっとばかし走るけど大人しくしてろよ」


 寿太郎が走り出そうとした時、門の中から「異人さーん」と呼ぶ声がした。振り返るとキヌが手を振りながらよたよたと玄関から出てきた。


「良かった間に合いましたわ。あら、旦那様はどちらに?」

「信乃先生なら先に用事で出掛けたけど、どうかしたのか」


 キヌは息を整えながら、麻紐で縛られた油紙の包みを寿太郎に手渡した。


「これは大奥様が生前集めていた大旦那様の事について書かれた新聞記事です。アタシは読めないので全部持って来ましたが、何かのお役に立ちますかねえ」


 寿太郎は後で過去の事件とやらを調べに行くつもりだったが、正直あの堅苦しくて辛気くさい図書館には二度と行きたくないと思っていたところだ。


「大助かりだよ! キヌさんありがとう」

「信乃坊ちゃんをよろしくお願いいたします」


 深々と頭を下げたキヌに、寿太郎は背嚢リュックのポケットに包みを突っ込むと、大きく手を振って走り出した。

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