第38話 襖一枚下の闇

 一頻ひとしきり笑った後、居住まいを正した信乃が寿太郎じゅたろうに向き直る。


「ですが、私は最初から売るための贋作を描いていたんですよ」


 寿太郎は喉の奥がぎゅっと締まるのを感じたが、無理矢理に言葉を絞り出した。


「そんなの……そんなの言わなきゃ分からないだろ。日本画なら流派とか弟子の作品とか、何とでも言えば……!」


 曖昧な表情を浮かべて首を振る信乃しのの腕を寿太郎は掴んだ。


「なあ先生、諦めないでくれよ」

「諦めるもなにも。君は絵を手に入れたのに、なぜまだ私に構うのですか」

「先生が俺を助けてくれたからに決まってるだろ」

「――君は、私をたすけることで過去の行いを正当化したかった。違いますか」


 寿太郎は目を見開いた。

 信乃を助けることで自分を認めて欲しい、そんな気持ちが無かったか。


 一月前、軍で上司を殴った時と自分は何一つ変わっていなかった。

 あの時、同僚は上司に一切反論しなかった。今思えば同僚には何らかの見返りがあったのだろう。なのに自分は状況を見極めもせず闇雲に首を突っ込んだ。後で同僚が受けるであろう仕打ちに想像を巡らせられなかった。


 寿太郎の父が怒ったのは雑な商売でも偏った正義感でもなく、恣意的で衝動的な行動そのものだ。


 中途半端に手を取って肝心な時に手を離すのなら、最初から深入りするべきではないのだ。

 信乃は寿太郎の手を振り払わなかったが、考えるほどに指先から力が抜けてぽとりと畳に落ちた。


「ごめん俺、いつも思いつきで行動してしまって。親父にも言われてたのに、でもやっぱり気になって」


「でも、その思いつきこそが私を扶けてくれました。それが君の良いところなんでしょう」


 信乃は袂から十円札の入った封筒を出して振る。お節介の結果を目の前にぶら下げられて寿太郎は両手で顔を覆った。恐る恐る指の隙間から覗いてみると、信乃は笑いを噛み殺していた。


「先生、俺を試したな!」

「すみません。君がどこまで本気なのか知りたかっただけです。どうせ君は最後まで首を突っ込む気でしょうし」


 寿太郎がむっとして口を尖らせると「俺だって誰でも助けるわけじゃない」と控えめに反論する。


 信乃は長い睫毛まつげを震わせながら人差し指で目尻を拭って言った。


「では、反省はここまでにしましょう。他に聞きたいことはありませんか」


 信乃の言う通り、これ以上反省をしたところで過去の何が変わるわけでもない。何度も思い出して傷つくのは自分だけで、過去の誰をも助ける事はできない。


 寿太郎は自分に言い聞かせるように頷いてから、まだ気になっていたことを訊ねた。

「――そういや質屋にはいつも先生が行ってたのか?」


「いえ、取引は義母ははが全て一人で行っていました。あの日だけはたまたま色々な事情が重なって私が出向いたんです。しかし生憎と質屋は閉まっていて、思いがけず空いた時間が嬉しくて公園の散策をしていたという訳です」


 寿太郎は退屈し始めた子犬を信乃から引き受けると、その前脚を持ち上げた。


「ハイ、先生にお節介を止められないカステラ君から質問があります」

「何ですかその小芝居は」


 友軍が子犬では心許ないが無いよりはマシと寿太郎は深呼吸をした。


「前にも聞いたけどさ、先生はそんなにしてまでこの家を守りたいのか?」


 開放的なはずの部屋が途端に息苦しくなった気がしたが寿太郎は静かに返事を待った。恐る恐るカステラの後ろから顔を出すと、信乃は存外落ち着いた表情で座卓の上の画仙紙に手を這わせた。


「そう……ですね。この家も父母の生きていた頃とは随分と様変わりしてしまいました。結局、朽ちて食い散らかされ洞ろになった大木を後生大事に守っていた私も、とうの昔に朽ちていたわけです」


 信乃の言い回しに寿太郎は頭を掻くと、指先をくるりと回して言った。


「先生が守りたいものの中に思い出も入ってるってことだよな。この家で作った先生の思い出ってなに。離れで一日中、あいつらの為に絵を描き続けることがこの先、先生の思い出になるのか」


 信乃は卓上に散らばった画仙紙を丁寧に重ね、その上に古ぼけた図案帳を乗せて重しにした。 


「跡継ぎを放棄することは法律上許されていません。死ぬか北の地に行くかです。本当に嫌ならば逐電ちくでんを選ぶこともできた。ですが、私はそれすらも先送りにして選ばなかった。消去法ですらないんですよ」


 ――何もかも捨てればいい。


 寿太郎はぐっと下唇を噛みしめた。頼次には簡単に言えた言葉が信乃を前にすると喉元でつかえて出てこなかった。


「変えたくなくても、変わってしまうことだってある。でもそれだと手遅れになる」


 信乃が笑った。 

「君はまだ手遅れじゃないと思ってるんですね」


「だってまだ何も起こってないじゃないか。ぎりぎりまで粘って、それでも駄目ならまた他の手を考えればいい」


「今やるべきことをするですか。君と居るとこんな石部金吉いしべきんきちでも何かしなければという気になるから不思議です。取りあえず今日やるべきことは決まっていますから、それから片付けますよ」


「ああ、さっきの用事ってやつ? 質屋に金を返しに行くのなら俺も付いていくよ」


「その質屋は明後日に若溪ルオシーさんが捜索する須長洋行商の子会社――皓宇ハオユーさんの会社ですよ」


「なんだって。先生は今までそんなこと一言も……あ!」

「そりゃ言いませんよ。言えば白状したも同然ですし」


 寿太郎は信乃が若溪に質問した内容を思い出した。信乃は須長が必ず電報を使っていたとは言ったが、何のためにかは言わず、直ぐに話題を逸らした。あまりに自然に皓宇の話へと流れたので、寿太郎も信乃の誘導に気付かなかったのだ。


「恐らく若溪さんの部下が義母ははを須長さんの質屋で見つけ、翁はうちの台所事情に気づいたのでしょう。そんな時に横濱で誰も知らないはずの白茲の作品が見つかった。そこから贋作家の見当が付いたのでしょう」


「だから翁は信乃先生にパトロンの話を持ちかけたのか!」


 翁が現在の技量の程も分からないのに信乃にいきなりパトロンの話を持ちかけたことを、その時の寿太郎はいまいち納得しきれていなかった。だが、この説明なら合点がいく。


「翁は贋作の出所に心当たりがあったから若溪ルオシーに深山家も見張らせてたのか」


「そういえば、ファン家の車を初めて見たのは瑞雲と白鹿の贋作が見つかった後でした。それ以前に質に入れていた白茲はくじの絵は半分本物ですから、しかるべき手続きさえしていれば税関で引っかからなかったのでしょう」


「半分ってどういう意味だ?」

 寿太郎は首を傾げた。


「晩年の父は手の震えが酷くてほとんど私が描いていましたから、真作とはいえ半分ですね」


 寿太郎は陽気で風変わりな職員の顔を思い出した。

「それを見分けたあの税関職員さんは優秀だな」

 贋作もあの風変わりな職員でなければ見つからなかったかもしれない。


 思えば信乃との出会いは本当に偶然だった。


 上野で信乃と会った日に質屋が閉まっていたのは、池で水死体が上がった件で須長の事務所に警察からの聴取があったのと、皓宇ハオユーが横濱に逃げたからだ。


 死んだ計算掛けいさんがかりの男には申し訳ないが、奇跡的な巡り合わせを運んでくれた皓宇には感謝するべきかもしれない。


 分からないながらも、寿太郎にもようやく朧げに事の輪郭が見えて始めてきた。まるで濡れた和紙を一枚ずつ剥いでいくように白茲の絵の発見、翁の執念と黄家の確執、深山家の内情へと近づいている気がする。


 まだまだ虫食いだらけだが、それでも少しずつほどいていけば絡み合った糸もいつか取れるはずだ。


「十円の返済なんだけどさ。若溪ルオシーが事務所に押し込んだら質草も返ってくるだろうし、その時でいいんじゃないかな」


 寿太郎があっけらかんと言うと信乃は首を振った。

「十円は借りた金の一部です。横濱に行った日の前日、義母は大金を借りてきたんです。八十円もですよ。しかもうちの土地権利証を担保にしてね。もう可笑しいったらありゃしないでしょう」


「それ全然笑えないって先生!」


 寿太郎たちが横濱税関に行った朝、信乃は以前の勤め先である尋常小学校に出掛けていた。信乃は弁済に充当するため、最後の給与を受け取りに行っていたのだろう。


「それにしても、どうしてマダムはいきなり八十円も借りたんだ」


「分かりません。頼次が管理していた出納帳には毎月十円が払い出されていました。でも、こんなに纏まったお金を借りたのは今回が初めてのようです。特に金遣いの荒い人ではないのですし、何かを買った形跡もない」


 寿太郎が見た限り、八重子は着物や髪型も地味だ。自分の為に使っているわけではないのだろう。


「分からないなら、本人に直接尋ねればいいだろ」

「それはちょっと……」


 寿太郎は渋る信乃を立ち上がらせて背中を押した。

「俺たちにはまだ解決しなきゃいけないことが沢山あるんだ。屏風絵だって探さなきゃいけないし。聞いて分かることなら聞けばいいんだよ、な」


 その時、背後でガリガリと引っ掻くような音がして寿太郎ははっと振り向いた。


 引き綱リードを引きずったままの子犬が、むにゃむにゃと寝惚けながら奥の襖を前脚で引っ掻いている。


「カステラそっちはトイレじゃない! ああ、人の家のふすま紙を剥がしちゃだめだろ」


 寿太郎は鮮やかな下紙が見えてしまっている襖紙を慌てて貼り直そうとしたが、一向に元に戻らず、仕方なく剥がれたままにした。


「さすが元武家屋敷、結構いい紙を使ってるんだな。仕方ない。先生に謝って後で貼り直すか。ほら行くぞ」


 寿太郎はカステラを小脇に抱え、慌てて濡れ縁から庭の植込みに子犬を下ろす。カステラの小用が済みほっとして振り向くと、渡り廊下から信乃がこちらを伺っていた。


「人を部屋から追い出しておいて、そんな所で何をしているんですか」

「自然が呼んでたんで――って、俺じゃないって。カステラだよ、カステラ!」


 寿太郎は背中に冷たい視線を感じながら、庭で遊びたそうにしている子犬を拾いあげ持ち上げる。


 信乃は額を手で押さえて片手を振った。

「わかりましたから、カステラ君を早く上げ……待って、脚を拭いてからです!」

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